あれから一週間が経った。まだ真純は学校に現れない。ホームルームで須川先生は体調が悪化して寝込んでいるようだと話していたが、教室で殆ど空気のように気配を消していた真純の話に、俺以外の殆どが無反応だった。やはり、大きな病気の初期症状なのだろうか。病院に行ったと話してはいたが、あの後から詳しい話は聞けていなかった。心配して送ってみたメッセージも既読はつくが返事は来ない。それほど悪化してしまったのだろうか。俺の心配は宙ぶらりんのまま、喧騒の中に浮いている。毎週楽しみだった英語の授業は、今日も退屈な一時間になりそうだった。
「やぁ、今日も暑いね」
いつものようにアイスを手土産に神社に着くと、待ち構えていたとばかりに現れる。暑いと言った張本人は、涼しげな顔で汗一つかいていない。アイスを溶かすまいと早足でコンビニから階段までダッシュした俺はへの字口でアイスを突き出した。
「たまにはアンタが行っても良いんじゃないか?」
「だって、恵大が来るのいつだか分からないもん」
「だから連絡先を教えろって」
「えー。僕の連絡先は高いよって言ったじゃん」
くすくすと笑いながらかわされる。すれ違ったら嫌だからと、何度か連絡先を尋ねたが、毎度こんな調子で適当にあしらわれる。いつだかテレビで見た芸能人先輩後輩同士が連絡先教えて、嫌だ、のやり取りをしているようだ。
「それより今日は……あれ?ここ、汚れてるよ」
そう言われてワイシャツの裾を見ると、茶色いシミがついていた。
「あー、もしかしたら焼きそばパンのソースかも」
「焼きそばパン?あ、お昼に?」
「そう。食べてる時、クラスのやつがふざけててぶっかったんだよ」
今日は母さんが朝早く出掛けるからと言ってお昼代を渡された。その金で昼は購買で菓子パン二つと惣菜パン二つを買ったのだ。それを教室で森田達と食べている時、クラスメイトがふざけて一人を追い回し、その逃げていたやつが俺の椅子にぶつかったのだ。
「パンは死守できたけど、少しこぼしたからな」
「ふぅん」
そんなことあるんだ、と物珍しそうにソースのシミを見られる。
「そっちは進学校だろうし、俺の学校とは違って落ち着きない奴なんていなさそうだよな」
「……どうかなぁ」
「なんだその返事。てか、そもそも購買部でパンも買わなさそう」
そう言いながらコンビニで買い物する姿も思い浮かばない。こいつ、さてはコンビニで買い物もできないお坊ちゃんか?
「それって僕のイメージ?」
「まぁ半分はな。学食でオムライスとか食べてそう」
というか偏食強め。と付け加えてやるとジト目を向けられた。
「学食ならカレー一択でしょ」
「うわ、似合わねぇ」
「それ、どう言う意味?」
膨れながら怒り、俺と一緒になってケラケラと笑う。その表情がくるくると変わるのが見ていて楽しくて、飽きない。こいつと話すと、真純と再開した時と同じ高揚感を感じ、ふわふわとした熱が身体の中で上がっていく。その熱に、煩わしいどころか心地良さを感じてしまう。どういう訳か、日中ずっと心配していた真純の体調もほんの一瞬、頭からすっぽりと消えていて、俺の目の前で笑う人物でいっぱいになっていた。
だが、ふと神社の入り口に建つ鳥居が目に入ると頭の中に幼い真純が現れた。そう言えば、あいつもカレーが大好きで、給食のおかわりは絶対に一番だったのを思い出す。懐かしさに笑が自然と溢れ、それと同時に忘れかけたあいつの体調を案じた。そのままじっと鳥居に視線を向けていると「どうかした?」と、顔を覗き込まれた。
「おわっ!」
急な近距離に俺は背中を仰け反り、その場に尻餅をつく。足元が玉砂利だったおかげで大して汚れはしなかったが、尻や手に食い込む石が痛かった。
「ねぇ、あっちの木陰行こうか。ここより涼しいよ」
「そ……そうだな」
暑さでぼうっとしたのだろうと思われ、今いる木陰から御神木だろう木の下へと手を引かれる。冷たくて気持ちのいい体温の手のひらが、手汗の滲む俺の手を握るので、申し訳なさと気恥ずかしさで余計に暑さを感じてしまった。
「それで。僕と話してるのに何か心配事?」
「……ちょっとな」
「ふぅん」
含みのある返事が気になったが、この話し方は今に始まった訳じゃない。ただ、いつもと様子は違う。じっと俺の目を見て、その視線を逸らそうとしないのに違和感を覚えた。
「……幼馴染がいるんだよ。子どものころ、ここでよく遊んだやつが」
視線は全くぶれない。その眼力にごくりと唾を読み込んで、俺は続けた。
「でもそいつ引越しして、田舎に行ったんだけど高校進学に合わせて戻ってきて、入学式で再会したんだ」
段々と向けられる視線に不気味さを感じ始めた。冷たい空気が再び俺達の間を抜けていく。
「ま、また会えたのすげー嬉しくてさ。でも、こっちに帰って来てからの様子は、なんかおかしい気がして。それに、最近ずっと体調も崩しがちで、学校も休んで寝込んでるんだ」
「へぇ……。それは確かに心配だね」
共感していないのがわかる、感情のない乾いた声だった。
「……知らない俺の友達なんて興味ないだろ」
「そんなことないよ。なんで戻る予定があったのに引越ししたのかなあとか、色々と気になったし。あ、でもあれだよね、家庭の事情ってやつだ?」
そんな事、気にしてどうするのだろうか。知り合いでもない人の事情に興味津々なこいつは、俺が知り合ってからの様子となんだか違う。話すべきではないと思っているのに、俺は馬鹿正直に首を振った。
「……あいつの母さんが体調崩して、田舎でゆっくりするのに着いってったって聞いてる」
「へぇ、お母さん病気?」
その質問に木々がうるさいぐらいに揺れた。
「いや、なんの病気かどうかはきいてないけど……つか、めちゃくちゃ聞くじゃん。どうした、急に」
急に心臓部が締め付けられる。背中から冷たい何かが這い上がってくる気がして全身に鳥肌が立った。
「だって、真純のお母さんって……一応、僕の母さんでもあるからさ」
「…………は?」
心臓がばくんと跳ねた。全身がさっきよりも熱くなるぐらい鼓動が早くなる同時に冷や汗がどっと溢れた。全身が急激に冷えていき、一瞬視界が青白く見えた。そもそも、俺はあいつの両親が離婚した話なんて聞いていない。いや、そんな話、あの真純が外に言いふらす訳がない。消えていた冷静さが戻り、文字通り頭を抱える。何かがおかしい気がした。心臓の音が耳の奥で響き始め、上手く思考がまとまらない。でも、なんでおばさんが体調を崩した話を知らないのだろうか。自分の親の話だというのに。というか、真純に双子の兄弟がいたとは聞いたことに驚きだ、幼い頃隣のクラスにいたのだろうか。いや、そんなはずはない。というか、そこじゃない……。
「なんで、俺……真純の名前……」
話したことのない名前を口にされたと、そこで気が付いた。すると、可純は静かに微笑んで言った。
「大事な弟の名前、忘れる兄がどこにいるのさ?」
そう言ってくすりと笑った可純の姿は、目の前からパッと消えていた。
気がつくと、俺は無我夢中で走っていた。どうやって神社から飛び出したのか分からない。とにかくあそこから離れなければと必死だった。心臓はさっきよりも激しく、煩く鳴り響く。呼吸は乱れ、吸い込む空気で口が乾いた。下り坂を一気に駆け下りて平坦な道になると、足を緩めた。胃液が逆流し、道の端で咳き込んだ。吐くものは何も出ず、嫌な違和感が喉を駆け回る。じりじりと暑い陽射しが眩しい。このままここでへたり込んでも倒れてしまいそうだ。なんとか立ち上がったが足がもつれ、勢い余ってその場に転んだ。肌が出ていた肘を擦り、血が滲む。だが、そんなことよりも嫌な予感がずっと俺の身体中を突いて回る
真純に兄が居たなんて、初耳だ。
ただ単に、兄がいることを聞いたのが相当昔だったのかもしれない。真純とは小学生に上がる前に知り合ったのだ、その可能性は大いにある。たまたまタイミングが合わなくて、姿を見たことがないのは偶然だったのかもしれない。或いは、別の場所に住んでいたり、年が離れていたり、考えられることは沢山ある。そう、沢山あるにらあるのだが、それを今から神社に戻ってアイツに確かめるのは無理だ。なにより、足がそっちへ向きそうにない。本能で避けるべきだと反応する。
そして俺は気がついた。
真純が、とっくに神社にいるあの男の存在に気が付いていたのだと。
気が付いていたのに、何も言ってくれなかったのか。喉元にまで怒りが込み上げる。しかし、直ぐに言えなかった事情があったかもしれないと思った。教室と神社の前すら通ることを拒否したあの様子は、何かまた別の障壁があったのではないだろうか。
俺は呼吸を整え、やっと見えてきた自宅へと駆け込んだ。靴を雑に脱ぎ捨て、真っ先に台所の冷蔵庫を開け、母さんが作りおいてくれた麦茶を引っ張り出してグラスに注ぐ。慌てたせいで、何滴か水滴が足やカウンターに飛び散ったが、気にせず一気に飲み干した。胸の辺りがスッとした。だが、疑問と不安は消えずに残る。背中がぞわりとして、背筋が伸びた。母さんはパートからまだ帰って来ていない。そんな家に空調はついていないが、いつも蒸し暑く感じる室温がやけに涼しい。
その時、誰も居ない家の中で小さなくすりという笑い声が聞こえた。ひたり、という足音も微かに聞こえる。台所の入り口、リビングのドアの方からだった。目を見開いたまま、俺はその場から動けなくなった。心臓は煩く動くのに、足は固まって一ミリも動かせない。嫌な汗がまた身体中から滲み出す。吸ってはいけないと思って、息も止めた。目だけが、落ち着きなくきょろきょろと動く。ドアの方には人影はいない。だけど、さっきの声と音は絶対に空耳ではないと断言できる。俺はゴクリと唾を飲み込んだ。頭の中はついさっきまで楽しく話していた相手の顔でいっぱいだった。会うのが楽しみで仕方なかった相手なのに。会えない時は次に会える日を待ち侘びて、どのアイスを持って行こうかと考えてばかりいた。なのに。どうしてこんな事になっているのだろうか。頭の中はぐちゃぐちゃで、想像したくない事ばかり浮かび上がる。この訳の分からない状況に戸惑うばかりだ。
「……なんで……」
俺は思わず口に出していた。すると、やはりその場にいるはずのない声が俺の疑問にさらりと答えた。
「この世に未練しかないからだよ」
静かな声だったがはっきりと聞こえた。可純の姿はやはり見えない。想像したくない事と、それによる恐怖が一気に込み上げる。その時だった。ガチャン、と家の鍵が開く音がした。その音と同時に、俺の周りを纏っていた空気が波が引いていくように変わる。
「あっつー!やだ、恵大いたの?冷房ぐらいつけなさいよ溶けちゃうわよ」
「……母さん、おかえり……」
「ただいま。ほら、冷房冷房っ」
張り詰めていた空気が変わり、肩まで入れていた力がどっと抜ける。その場にへたり込んだ俺を見て母さんは「ちょっと、水分ちゃんと摂ってる?」と慌てて駆け寄って来た。
その時、ふと気がついた。俺は確かに慌て家に帰宅し、施錠などしていなかったことを。
「やぁ、今日も暑いね」
いつものようにアイスを手土産に神社に着くと、待ち構えていたとばかりに現れる。暑いと言った張本人は、涼しげな顔で汗一つかいていない。アイスを溶かすまいと早足でコンビニから階段までダッシュした俺はへの字口でアイスを突き出した。
「たまにはアンタが行っても良いんじゃないか?」
「だって、恵大が来るのいつだか分からないもん」
「だから連絡先を教えろって」
「えー。僕の連絡先は高いよって言ったじゃん」
くすくすと笑いながらかわされる。すれ違ったら嫌だからと、何度か連絡先を尋ねたが、毎度こんな調子で適当にあしらわれる。いつだかテレビで見た芸能人先輩後輩同士が連絡先教えて、嫌だ、のやり取りをしているようだ。
「それより今日は……あれ?ここ、汚れてるよ」
そう言われてワイシャツの裾を見ると、茶色いシミがついていた。
「あー、もしかしたら焼きそばパンのソースかも」
「焼きそばパン?あ、お昼に?」
「そう。食べてる時、クラスのやつがふざけててぶっかったんだよ」
今日は母さんが朝早く出掛けるからと言ってお昼代を渡された。その金で昼は購買で菓子パン二つと惣菜パン二つを買ったのだ。それを教室で森田達と食べている時、クラスメイトがふざけて一人を追い回し、その逃げていたやつが俺の椅子にぶつかったのだ。
「パンは死守できたけど、少しこぼしたからな」
「ふぅん」
そんなことあるんだ、と物珍しそうにソースのシミを見られる。
「そっちは進学校だろうし、俺の学校とは違って落ち着きない奴なんていなさそうだよな」
「……どうかなぁ」
「なんだその返事。てか、そもそも購買部でパンも買わなさそう」
そう言いながらコンビニで買い物する姿も思い浮かばない。こいつ、さてはコンビニで買い物もできないお坊ちゃんか?
「それって僕のイメージ?」
「まぁ半分はな。学食でオムライスとか食べてそう」
というか偏食強め。と付け加えてやるとジト目を向けられた。
「学食ならカレー一択でしょ」
「うわ、似合わねぇ」
「それ、どう言う意味?」
膨れながら怒り、俺と一緒になってケラケラと笑う。その表情がくるくると変わるのが見ていて楽しくて、飽きない。こいつと話すと、真純と再開した時と同じ高揚感を感じ、ふわふわとした熱が身体の中で上がっていく。その熱に、煩わしいどころか心地良さを感じてしまう。どういう訳か、日中ずっと心配していた真純の体調もほんの一瞬、頭からすっぽりと消えていて、俺の目の前で笑う人物でいっぱいになっていた。
だが、ふと神社の入り口に建つ鳥居が目に入ると頭の中に幼い真純が現れた。そう言えば、あいつもカレーが大好きで、給食のおかわりは絶対に一番だったのを思い出す。懐かしさに笑が自然と溢れ、それと同時に忘れかけたあいつの体調を案じた。そのままじっと鳥居に視線を向けていると「どうかした?」と、顔を覗き込まれた。
「おわっ!」
急な近距離に俺は背中を仰け反り、その場に尻餅をつく。足元が玉砂利だったおかげで大して汚れはしなかったが、尻や手に食い込む石が痛かった。
「ねぇ、あっちの木陰行こうか。ここより涼しいよ」
「そ……そうだな」
暑さでぼうっとしたのだろうと思われ、今いる木陰から御神木だろう木の下へと手を引かれる。冷たくて気持ちのいい体温の手のひらが、手汗の滲む俺の手を握るので、申し訳なさと気恥ずかしさで余計に暑さを感じてしまった。
「それで。僕と話してるのに何か心配事?」
「……ちょっとな」
「ふぅん」
含みのある返事が気になったが、この話し方は今に始まった訳じゃない。ただ、いつもと様子は違う。じっと俺の目を見て、その視線を逸らそうとしないのに違和感を覚えた。
「……幼馴染がいるんだよ。子どものころ、ここでよく遊んだやつが」
視線は全くぶれない。その眼力にごくりと唾を読み込んで、俺は続けた。
「でもそいつ引越しして、田舎に行ったんだけど高校進学に合わせて戻ってきて、入学式で再会したんだ」
段々と向けられる視線に不気味さを感じ始めた。冷たい空気が再び俺達の間を抜けていく。
「ま、また会えたのすげー嬉しくてさ。でも、こっちに帰って来てからの様子は、なんかおかしい気がして。それに、最近ずっと体調も崩しがちで、学校も休んで寝込んでるんだ」
「へぇ……。それは確かに心配だね」
共感していないのがわかる、感情のない乾いた声だった。
「……知らない俺の友達なんて興味ないだろ」
「そんなことないよ。なんで戻る予定があったのに引越ししたのかなあとか、色々と気になったし。あ、でもあれだよね、家庭の事情ってやつだ?」
そんな事、気にしてどうするのだろうか。知り合いでもない人の事情に興味津々なこいつは、俺が知り合ってからの様子となんだか違う。話すべきではないと思っているのに、俺は馬鹿正直に首を振った。
「……あいつの母さんが体調崩して、田舎でゆっくりするのに着いってったって聞いてる」
「へぇ、お母さん病気?」
その質問に木々がうるさいぐらいに揺れた。
「いや、なんの病気かどうかはきいてないけど……つか、めちゃくちゃ聞くじゃん。どうした、急に」
急に心臓部が締め付けられる。背中から冷たい何かが這い上がってくる気がして全身に鳥肌が立った。
「だって、真純のお母さんって……一応、僕の母さんでもあるからさ」
「…………は?」
心臓がばくんと跳ねた。全身がさっきよりも熱くなるぐらい鼓動が早くなる同時に冷や汗がどっと溢れた。全身が急激に冷えていき、一瞬視界が青白く見えた。そもそも、俺はあいつの両親が離婚した話なんて聞いていない。いや、そんな話、あの真純が外に言いふらす訳がない。消えていた冷静さが戻り、文字通り頭を抱える。何かがおかしい気がした。心臓の音が耳の奥で響き始め、上手く思考がまとまらない。でも、なんでおばさんが体調を崩した話を知らないのだろうか。自分の親の話だというのに。というか、真純に双子の兄弟がいたとは聞いたことに驚きだ、幼い頃隣のクラスにいたのだろうか。いや、そんなはずはない。というか、そこじゃない……。
「なんで、俺……真純の名前……」
話したことのない名前を口にされたと、そこで気が付いた。すると、可純は静かに微笑んで言った。
「大事な弟の名前、忘れる兄がどこにいるのさ?」
そう言ってくすりと笑った可純の姿は、目の前からパッと消えていた。
気がつくと、俺は無我夢中で走っていた。どうやって神社から飛び出したのか分からない。とにかくあそこから離れなければと必死だった。心臓はさっきよりも激しく、煩く鳴り響く。呼吸は乱れ、吸い込む空気で口が乾いた。下り坂を一気に駆け下りて平坦な道になると、足を緩めた。胃液が逆流し、道の端で咳き込んだ。吐くものは何も出ず、嫌な違和感が喉を駆け回る。じりじりと暑い陽射しが眩しい。このままここでへたり込んでも倒れてしまいそうだ。なんとか立ち上がったが足がもつれ、勢い余ってその場に転んだ。肌が出ていた肘を擦り、血が滲む。だが、そんなことよりも嫌な予感がずっと俺の身体中を突いて回る
真純に兄が居たなんて、初耳だ。
ただ単に、兄がいることを聞いたのが相当昔だったのかもしれない。真純とは小学生に上がる前に知り合ったのだ、その可能性は大いにある。たまたまタイミングが合わなくて、姿を見たことがないのは偶然だったのかもしれない。或いは、別の場所に住んでいたり、年が離れていたり、考えられることは沢山ある。そう、沢山あるにらあるのだが、それを今から神社に戻ってアイツに確かめるのは無理だ。なにより、足がそっちへ向きそうにない。本能で避けるべきだと反応する。
そして俺は気がついた。
真純が、とっくに神社にいるあの男の存在に気が付いていたのだと。
気が付いていたのに、何も言ってくれなかったのか。喉元にまで怒りが込み上げる。しかし、直ぐに言えなかった事情があったかもしれないと思った。教室と神社の前すら通ることを拒否したあの様子は、何かまた別の障壁があったのではないだろうか。
俺は呼吸を整え、やっと見えてきた自宅へと駆け込んだ。靴を雑に脱ぎ捨て、真っ先に台所の冷蔵庫を開け、母さんが作りおいてくれた麦茶を引っ張り出してグラスに注ぐ。慌てたせいで、何滴か水滴が足やカウンターに飛び散ったが、気にせず一気に飲み干した。胸の辺りがスッとした。だが、疑問と不安は消えずに残る。背中がぞわりとして、背筋が伸びた。母さんはパートからまだ帰って来ていない。そんな家に空調はついていないが、いつも蒸し暑く感じる室温がやけに涼しい。
その時、誰も居ない家の中で小さなくすりという笑い声が聞こえた。ひたり、という足音も微かに聞こえる。台所の入り口、リビングのドアの方からだった。目を見開いたまま、俺はその場から動けなくなった。心臓は煩く動くのに、足は固まって一ミリも動かせない。嫌な汗がまた身体中から滲み出す。吸ってはいけないと思って、息も止めた。目だけが、落ち着きなくきょろきょろと動く。ドアの方には人影はいない。だけど、さっきの声と音は絶対に空耳ではないと断言できる。俺はゴクリと唾を飲み込んだ。頭の中はついさっきまで楽しく話していた相手の顔でいっぱいだった。会うのが楽しみで仕方なかった相手なのに。会えない時は次に会える日を待ち侘びて、どのアイスを持って行こうかと考えてばかりいた。なのに。どうしてこんな事になっているのだろうか。頭の中はぐちゃぐちゃで、想像したくない事ばかり浮かび上がる。この訳の分からない状況に戸惑うばかりだ。
「……なんで……」
俺は思わず口に出していた。すると、やはりその場にいるはずのない声が俺の疑問にさらりと答えた。
「この世に未練しかないからだよ」
静かな声だったがはっきりと聞こえた。可純の姿はやはり見えない。想像したくない事と、それによる恐怖が一気に込み上げる。その時だった。ガチャン、と家の鍵が開く音がした。その音と同時に、俺の周りを纏っていた空気が波が引いていくように変わる。
「あっつー!やだ、恵大いたの?冷房ぐらいつけなさいよ溶けちゃうわよ」
「……母さん、おかえり……」
「ただいま。ほら、冷房冷房っ」
張り詰めていた空気が変わり、肩まで入れていた力がどっと抜ける。その場にへたり込んだ俺を見て母さんは「ちょっと、水分ちゃんと摂ってる?」と慌てて駆け寄って来た。
その時、ふと気がついた。俺は確かに慌て家に帰宅し、施錠などしていなかったことを。



