雨上がりの放課後、帰宅中にふと思い立って芦沢神社に出向いた。勿論、一人で。迷いなくコンビニに立ち寄った自分に苦笑いしそうなのを堪えた。
「やっと来たね。待ちくたびれたよ」
あの男は相変わらず芦沢神社に足を踏み入れるとどこからともなく現れた。湿った砂利道は歩くたびに煩いはずなのに、その音がしない方から声がした。男は俺の顔を見て直ぐに、手に持っていたビニール袋へ視線を移した。
「ふふふ。約束もちゃんと覚えてくれてたんだ」
「俺が、食いたかったんだよ。それにどうせ一つだと寄越せって煩いだろ」
「へぇ、一つしかなかったらくれたんだ?」
「……素直に礼を言え」
「ふふふ、ありがとうございまぁす」
ふざけた礼を言うと、前回と同じソーダ味の氷菓をビニールから取り出した。
それから俺たちは神社の隅に設置されているベンチへ移動し、並んでアイスを食べた。隣で氷に齧り付く小さな音が俺の耳にも入る。他に聞こえるのはいつも通り風の音と、その風によって揺れる木々の音だけだ。ここはいつ来ても静かで、この男以外人がいない。
「なぁ、どんな仕事なんだ?」
「仕事?」
男はアイスを咥えたまま不思議そうに首を傾げた。
「アルバイトなんだろ、ここの」
「そんな話したっけ?」
男はケラケラと笑う。まあ、確かにアルバイトと勝手に決めつけていたのは俺だけれど。
「ちょっとやる事があるだけだよ」
男が静かに答えた。一瞬、ひやりと冷たい風が吹き、雨上がりで蒸した空気が流されていく。その気持ち良さに思わず目を瞑った。しゃく、とアイスをひと齧りすると、甘酸っぱいソーダがゆっくり舌の上で溶けていった。
「……あ、草むしり?」
「僕が汗水流すタイプに見える?」
言われて直ぐに首を振ると男は「無礼者だね」と、わざとらしく頬を膨らませた。
「僕ね、欲しい物があるんだ。そのためにここに居るの」
「なんだ、やっぱバイトじゃん」
俺がそう言って笑うと、男はジト目を向ける。
「まぁ、そういう事にしておけば良いさ」
若干不貞腐れたように見え、その子どもっぽさにまた笑った。まぁ、今の時代何がお金に変わるかなんて分りゃしない。もしかしたら芦沢神社の紹介動画を作っていたりとか、俺が知らないところで活動をしているクリエイターなのかも。
「何か手伝うこと、あるか?」
この時間にここに来れば必ずいるということは、たぶん毎日通っているのだろう。今ですら蒸し暑いのに、これから思い切り太陽が本気を出す季節だ。神社を掃除するにしろ、動画を作るにしろ、少なくとも一人で作業するよりマシかと思った。
「んー」
男は考える素振りを見せる。やっぱり。思っていた通り、一人じゃ簡単にできないような事をしているんじゃないだろうか。
「次はカップのアイスがいいなぁ。かき氷の、真ん中にバニラアイス入ってるやつとかさ」
「……モナカのアイスはどうしたよ」
「あはは、覚えてたんだ?うん、モナカアイスもあり!」
というかパシリかよ。そう言いかけて飲み込んだ俺の口からは大きな溜息が漏れた。せっかく手伝ってやろうと思ったのに。
「君、優しいよね」
「……その優しさをまさに踏み躙ろうとしてるくせに」
「えぇ、そんな薄情なやついる?」
わざとらしく大袈裟な言い方をされ、俺は呆れて目を逸らした。くすくすと楽しそうな笑い声に再び溜息が漏れる。
「ふふふ、ありがとう。でも手伝いは大丈夫」
少し寂しそうに男は言う。
「そうだ、この前の約束守らないとね。君とは良い友達でいたいし」
「約束?」
なんの事かピンときていない俺が繰り返すと、男はまた静かに笑う。
「名前、知らないと不便でしょ?」
今更何を、と喉まで出かけたことを飲み込む。この男のことだ、文句の一つを言えばその分へそを曲げる。
「僕の名前はね……」
男が口を開くと同時に木々が揺れ、冷たい風が強く吹いた。俺の耳に届いたこいつの名前は、特段珍しい名前ではなかったのに、どうしてかその名前を聞いた途端、ほんの少しだけ胸が苦しくなった。
あれから二週間が経った。テレビのニュースでようやく梅雨明けが宣言されたが、先週あたりからどんよりとした分厚い雲よりも、焼け付くような太陽の方が顔を出している気がする。
俺はあれから週に二回ほど芦沢神社に顔を出すようになった。しかし、アルバイトをしていない俺の小遣いにも限度はあるため、毎回お土産を持って行く余裕はない。そこはすんなりと納得したようで、別に文句を言われることはなかったが、時々「カバンの中に入っている教科書を見せて」と言われた。
「毎度思うんだけどさ……見たって、そっちの学校とだいたい同じだろ」
数学の教科書を手渡しながらずっと思っていたことを言った。確かに使う教科書は学校によって違うことがある。住んでいる地域で指定されていたり、学校のレベルによっても異なるはずだ。放課後、同じ時間にこの芦沢神社に足を運んでいるところを見れば、住んでいる地域は同じだろうし、違うと言えば制服だ。俺の通う学校よりも学力レベルが高いのは間違いない。
「どうかなぁ。ちゃんと見比べたこと無いし」
そりゃ、お前のような進学校に通ってるようなやつが見る教科書とは違うだろうに。
「ちなみにこれ、分かるか?」
俺はどさくさに紛れて明後日までの課題で出されている課題のページを指した。あわよくば教えてくれたら嬉しいな、ぐらいのテンションだったが、返ってきた返事は「え……恵大、分からないの?」という天然を超えて嫌味しか詰まっていない返事だった。
「もういい、アンタには教わらない」
俺は教科書を取り上げようとしたが、それを上手くかわされた。
「対価があれば教えてあげなくも無いよ?」
教科書を揺らしながら悪戯っぽく笑う。だが、はいそうですかと素直に従う俺ではない。
「俺はいつだって対価ばっかり渡している気がするんだが?」
前回はちゃんとモナカのアイスを持ってきた。小遣いケチって半分こだったけれど。
「えー、そうだっけ?」
「とぼけんな」
教科書を取り上げてリュックに仕舞い込む。俺の態度を横目にクスクスと笑うのを見て、何が何でもこの課題は自力でやると決めた。
「すみません、うがいしてきても良いですか?」
現代文の授業中、教室で滅多に自分から発言をしない真純が手をあげた。もう片方の手は口元を押さえている。さっきから先生の声の他に、真純の咳が何度も耳に入っていた。教壇に立っていた担任の須川先生は「どうぞ」とすんなり許可を出す。その顔は明らかに心配そうだ。数週間前から出始めた真純の咳は、一向に良くならない。「誰か一緒に」と、先生が言いかけた時、俺が手を挙げるより先に真純は「大丈夫です、すぐ戻ります」と早口に答え教室を出て行った。同時に廊下から酷い咳き込みが聞こえたが、それが水道のある方へと遠のいていくのが聞こえ、先生はもう一度黒板に向き直る。教室の集中力が一気に溶け出していくのを感じた。
「病院、行けって言っただろ」
放課後、真純が教室を出たところを追いかけて俺はその背中に声をかけた。真純は再び苦しそうに咳をし、首を振る。
「行ったよ……たぶん風邪だって言われた」
「たぶんて?」
曖昧に答える真純の隣に並び、聞き返した。
「こんなに咳が出るのに、喉が痛くないんだ。ちゃんと診てもらったけど、腫れてないんだって」
それを聞いてピンと来た。
「喘息とか?」
幼い頃、そういう症状が自分にあったことを思い出した。今は落ち着いて殆ど問題がないが、吸入薬が手放せない時期があった。
「それも一理あるかもって、恵大が前に使ってたようなやつ貰ったんだけど、全く何も変わらない」
真純はまた咳をする。
「……変な風邪だな」
薬が合っていないだけだろう、と俺は呑気に思った。梅雨明けもあったし、やはり季節の変わり目が真純の体調をおかしくしている気がする。俺も雨上がりは頭痛だってするし、身体が怠くなる。
「これ、俺が思うに風邪じゃないと思う……」
「え?」
階段の途中で真純が足を止めた。それから少し黙って俺を見る。じわっと、蒸した生暖かい風が腕や首を撫でた。
「なぁ、恵大。変なこと、聞いていい?」
「変なこと?」
そう前置きをしたくせに真純は何かを言い淀む。
「……最近変わったこと、なかったか?」
「変わったこと?」
聞かれた俺は最近の出来事を振り返る。大したことは何も起きていないはずだ。なんでそんなことを聞いてくるのだろう。だが、真純はふざけている様子は一切ない。それどころか物凄く不安そうな顔に見える。再び生温い空気がべったりと俺と真純の間を通り過ぎた。今度はさっきよりも強い。誰かが開けた窓から湿気を帯びた風が入り込んだのだろうか。俺は真純を見ながら首を振る。
「……本当に?」
訝しげに真純は俺の顔を覗き込んだ。小さな咳がまた漏れる。
「本当に。お前のその風邪が治らないぐらいだよ」
不思議なことは確かにそれぐらいだと思った。
「……なら、大丈夫」
「大丈夫って、何が」
気になって尋ねるが、真純ははっきりと答えようとはしない。
「おい、聞いてんのか」
「……聞こえてる。でも、恵大に言っても仕方がないから」
「……はぁ?」
なんだか勘に触る言い方だ。そう思ったが、すぐに真純が喉からヒューヒューという苦しそうな呼吸音を出しているのが聞こえ、俺との会話を早々に終わらせようとしているのが分かった。
「じゃあ、一つ」
真純が言いかけてまた咳き込んだ。身体が大きく揺れ、咄嗟に手すりを掴んだのを見て俺は駆け寄った。
「大丈夫か?」
咳の合間に小さな声で「水」と言ったのが聞こえ、慌てて真純の鞄から見えていた飲みかけのペットボトルを取り出した。キャップを開けて手渡すが、咳の振動で腕が震え、水が少し床に飛び散った。
「いい、俺が拭く。水飲んで」
入学式につっこんでそのままにしていたポケットティッシュを取り出して床を拭く。頭上で「ごめん」と謝る声が聞こえた。
「それで……さっき何を言いかけた?」
水を飲んで落ち着いた真純に俺が再び尋ねると、真純は目を逸らしながら申し訳なさそうに言った。
「……芦沢神社、行くの……やめないか?」
「……神社?なんで」
ふと、あの男の顔が脳裏に浮かぶ。あそこへ誘うといつも適当に誤魔化して断るくせに今更自分から話題にするのか。意味がわからず、俺が文句を言いかけようとしてその言葉を飲んだ。
というか、俺があそこに通っていることを真純が何で知っているんだ……?
ハッとして顔を上げると、真純の表情が歪んだように見えた。
「……いや、ううん。大丈夫。今の、忘れて」
「ちょっと待て。俺、いつお前に……」
「身体、しんどいから。先に帰るね」
「え……あっ、おい!」
真純はそう言うだけ言って、足早に階段を降りていく。離れていく足音と共に真純の咳が聞こえる。追いかけようとしたが、足が動かなかった。妙に肩の上がずん、と重く感じる。梅雨明けの宣言を聞いたはずだったのに、直ぐそばの窓から見えた天気がどんよりと暗い。気圧の変化に敏感だったことはないのにそれをたった今、感じ取ったのだろうか。真純の纏う空気にも似たようなものがあったせいかもしれない。
次の日、真純は学校に現れなかった。
「やっと来たね。待ちくたびれたよ」
あの男は相変わらず芦沢神社に足を踏み入れるとどこからともなく現れた。湿った砂利道は歩くたびに煩いはずなのに、その音がしない方から声がした。男は俺の顔を見て直ぐに、手に持っていたビニール袋へ視線を移した。
「ふふふ。約束もちゃんと覚えてくれてたんだ」
「俺が、食いたかったんだよ。それにどうせ一つだと寄越せって煩いだろ」
「へぇ、一つしかなかったらくれたんだ?」
「……素直に礼を言え」
「ふふふ、ありがとうございまぁす」
ふざけた礼を言うと、前回と同じソーダ味の氷菓をビニールから取り出した。
それから俺たちは神社の隅に設置されているベンチへ移動し、並んでアイスを食べた。隣で氷に齧り付く小さな音が俺の耳にも入る。他に聞こえるのはいつも通り風の音と、その風によって揺れる木々の音だけだ。ここはいつ来ても静かで、この男以外人がいない。
「なぁ、どんな仕事なんだ?」
「仕事?」
男はアイスを咥えたまま不思議そうに首を傾げた。
「アルバイトなんだろ、ここの」
「そんな話したっけ?」
男はケラケラと笑う。まあ、確かにアルバイトと勝手に決めつけていたのは俺だけれど。
「ちょっとやる事があるだけだよ」
男が静かに答えた。一瞬、ひやりと冷たい風が吹き、雨上がりで蒸した空気が流されていく。その気持ち良さに思わず目を瞑った。しゃく、とアイスをひと齧りすると、甘酸っぱいソーダがゆっくり舌の上で溶けていった。
「……あ、草むしり?」
「僕が汗水流すタイプに見える?」
言われて直ぐに首を振ると男は「無礼者だね」と、わざとらしく頬を膨らませた。
「僕ね、欲しい物があるんだ。そのためにここに居るの」
「なんだ、やっぱバイトじゃん」
俺がそう言って笑うと、男はジト目を向ける。
「まぁ、そういう事にしておけば良いさ」
若干不貞腐れたように見え、その子どもっぽさにまた笑った。まぁ、今の時代何がお金に変わるかなんて分りゃしない。もしかしたら芦沢神社の紹介動画を作っていたりとか、俺が知らないところで活動をしているクリエイターなのかも。
「何か手伝うこと、あるか?」
この時間にここに来れば必ずいるということは、たぶん毎日通っているのだろう。今ですら蒸し暑いのに、これから思い切り太陽が本気を出す季節だ。神社を掃除するにしろ、動画を作るにしろ、少なくとも一人で作業するよりマシかと思った。
「んー」
男は考える素振りを見せる。やっぱり。思っていた通り、一人じゃ簡単にできないような事をしているんじゃないだろうか。
「次はカップのアイスがいいなぁ。かき氷の、真ん中にバニラアイス入ってるやつとかさ」
「……モナカのアイスはどうしたよ」
「あはは、覚えてたんだ?うん、モナカアイスもあり!」
というかパシリかよ。そう言いかけて飲み込んだ俺の口からは大きな溜息が漏れた。せっかく手伝ってやろうと思ったのに。
「君、優しいよね」
「……その優しさをまさに踏み躙ろうとしてるくせに」
「えぇ、そんな薄情なやついる?」
わざとらしく大袈裟な言い方をされ、俺は呆れて目を逸らした。くすくすと楽しそうな笑い声に再び溜息が漏れる。
「ふふふ、ありがとう。でも手伝いは大丈夫」
少し寂しそうに男は言う。
「そうだ、この前の約束守らないとね。君とは良い友達でいたいし」
「約束?」
なんの事かピンときていない俺が繰り返すと、男はまた静かに笑う。
「名前、知らないと不便でしょ?」
今更何を、と喉まで出かけたことを飲み込む。この男のことだ、文句の一つを言えばその分へそを曲げる。
「僕の名前はね……」
男が口を開くと同時に木々が揺れ、冷たい風が強く吹いた。俺の耳に届いたこいつの名前は、特段珍しい名前ではなかったのに、どうしてかその名前を聞いた途端、ほんの少しだけ胸が苦しくなった。
あれから二週間が経った。テレビのニュースでようやく梅雨明けが宣言されたが、先週あたりからどんよりとした分厚い雲よりも、焼け付くような太陽の方が顔を出している気がする。
俺はあれから週に二回ほど芦沢神社に顔を出すようになった。しかし、アルバイトをしていない俺の小遣いにも限度はあるため、毎回お土産を持って行く余裕はない。そこはすんなりと納得したようで、別に文句を言われることはなかったが、時々「カバンの中に入っている教科書を見せて」と言われた。
「毎度思うんだけどさ……見たって、そっちの学校とだいたい同じだろ」
数学の教科書を手渡しながらずっと思っていたことを言った。確かに使う教科書は学校によって違うことがある。住んでいる地域で指定されていたり、学校のレベルによっても異なるはずだ。放課後、同じ時間にこの芦沢神社に足を運んでいるところを見れば、住んでいる地域は同じだろうし、違うと言えば制服だ。俺の通う学校よりも学力レベルが高いのは間違いない。
「どうかなぁ。ちゃんと見比べたこと無いし」
そりゃ、お前のような進学校に通ってるようなやつが見る教科書とは違うだろうに。
「ちなみにこれ、分かるか?」
俺はどさくさに紛れて明後日までの課題で出されている課題のページを指した。あわよくば教えてくれたら嬉しいな、ぐらいのテンションだったが、返ってきた返事は「え……恵大、分からないの?」という天然を超えて嫌味しか詰まっていない返事だった。
「もういい、アンタには教わらない」
俺は教科書を取り上げようとしたが、それを上手くかわされた。
「対価があれば教えてあげなくも無いよ?」
教科書を揺らしながら悪戯っぽく笑う。だが、はいそうですかと素直に従う俺ではない。
「俺はいつだって対価ばっかり渡している気がするんだが?」
前回はちゃんとモナカのアイスを持ってきた。小遣いケチって半分こだったけれど。
「えー、そうだっけ?」
「とぼけんな」
教科書を取り上げてリュックに仕舞い込む。俺の態度を横目にクスクスと笑うのを見て、何が何でもこの課題は自力でやると決めた。
「すみません、うがいしてきても良いですか?」
現代文の授業中、教室で滅多に自分から発言をしない真純が手をあげた。もう片方の手は口元を押さえている。さっきから先生の声の他に、真純の咳が何度も耳に入っていた。教壇に立っていた担任の須川先生は「どうぞ」とすんなり許可を出す。その顔は明らかに心配そうだ。数週間前から出始めた真純の咳は、一向に良くならない。「誰か一緒に」と、先生が言いかけた時、俺が手を挙げるより先に真純は「大丈夫です、すぐ戻ります」と早口に答え教室を出て行った。同時に廊下から酷い咳き込みが聞こえたが、それが水道のある方へと遠のいていくのが聞こえ、先生はもう一度黒板に向き直る。教室の集中力が一気に溶け出していくのを感じた。
「病院、行けって言っただろ」
放課後、真純が教室を出たところを追いかけて俺はその背中に声をかけた。真純は再び苦しそうに咳をし、首を振る。
「行ったよ……たぶん風邪だって言われた」
「たぶんて?」
曖昧に答える真純の隣に並び、聞き返した。
「こんなに咳が出るのに、喉が痛くないんだ。ちゃんと診てもらったけど、腫れてないんだって」
それを聞いてピンと来た。
「喘息とか?」
幼い頃、そういう症状が自分にあったことを思い出した。今は落ち着いて殆ど問題がないが、吸入薬が手放せない時期があった。
「それも一理あるかもって、恵大が前に使ってたようなやつ貰ったんだけど、全く何も変わらない」
真純はまた咳をする。
「……変な風邪だな」
薬が合っていないだけだろう、と俺は呑気に思った。梅雨明けもあったし、やはり季節の変わり目が真純の体調をおかしくしている気がする。俺も雨上がりは頭痛だってするし、身体が怠くなる。
「これ、俺が思うに風邪じゃないと思う……」
「え?」
階段の途中で真純が足を止めた。それから少し黙って俺を見る。じわっと、蒸した生暖かい風が腕や首を撫でた。
「なぁ、恵大。変なこと、聞いていい?」
「変なこと?」
そう前置きをしたくせに真純は何かを言い淀む。
「……最近変わったこと、なかったか?」
「変わったこと?」
聞かれた俺は最近の出来事を振り返る。大したことは何も起きていないはずだ。なんでそんなことを聞いてくるのだろう。だが、真純はふざけている様子は一切ない。それどころか物凄く不安そうな顔に見える。再び生温い空気がべったりと俺と真純の間を通り過ぎた。今度はさっきよりも強い。誰かが開けた窓から湿気を帯びた風が入り込んだのだろうか。俺は真純を見ながら首を振る。
「……本当に?」
訝しげに真純は俺の顔を覗き込んだ。小さな咳がまた漏れる。
「本当に。お前のその風邪が治らないぐらいだよ」
不思議なことは確かにそれぐらいだと思った。
「……なら、大丈夫」
「大丈夫って、何が」
気になって尋ねるが、真純ははっきりと答えようとはしない。
「おい、聞いてんのか」
「……聞こえてる。でも、恵大に言っても仕方がないから」
「……はぁ?」
なんだか勘に触る言い方だ。そう思ったが、すぐに真純が喉からヒューヒューという苦しそうな呼吸音を出しているのが聞こえ、俺との会話を早々に終わらせようとしているのが分かった。
「じゃあ、一つ」
真純が言いかけてまた咳き込んだ。身体が大きく揺れ、咄嗟に手すりを掴んだのを見て俺は駆け寄った。
「大丈夫か?」
咳の合間に小さな声で「水」と言ったのが聞こえ、慌てて真純の鞄から見えていた飲みかけのペットボトルを取り出した。キャップを開けて手渡すが、咳の振動で腕が震え、水が少し床に飛び散った。
「いい、俺が拭く。水飲んで」
入学式につっこんでそのままにしていたポケットティッシュを取り出して床を拭く。頭上で「ごめん」と謝る声が聞こえた。
「それで……さっき何を言いかけた?」
水を飲んで落ち着いた真純に俺が再び尋ねると、真純は目を逸らしながら申し訳なさそうに言った。
「……芦沢神社、行くの……やめないか?」
「……神社?なんで」
ふと、あの男の顔が脳裏に浮かぶ。あそこへ誘うといつも適当に誤魔化して断るくせに今更自分から話題にするのか。意味がわからず、俺が文句を言いかけようとしてその言葉を飲んだ。
というか、俺があそこに通っていることを真純が何で知っているんだ……?
ハッとして顔を上げると、真純の表情が歪んだように見えた。
「……いや、ううん。大丈夫。今の、忘れて」
「ちょっと待て。俺、いつお前に……」
「身体、しんどいから。先に帰るね」
「え……あっ、おい!」
真純はそう言うだけ言って、足早に階段を降りていく。離れていく足音と共に真純の咳が聞こえる。追いかけようとしたが、足が動かなかった。妙に肩の上がずん、と重く感じる。梅雨明けの宣言を聞いたはずだったのに、直ぐそばの窓から見えた天気がどんよりと暗い。気圧の変化に敏感だったことはないのにそれをたった今、感じ取ったのだろうか。真純の纏う空気にも似たようなものがあったせいかもしれない。
次の日、真純は学校に現れなかった。



