「なぁ、今日の課題できたか?」
視聴覚室へ移動中、俺は真純に声を掛けた。先週末に出された英語の課題にどうしても分からない設問があった。だいぶ時間をかけて解いたつもりだったが、全く自信がなかった。
「……分からなかった?」
「最後だけな」
「あー……確かに今回のはややこしい問題だったかも」
そう答えながら真純は手に持っていたクリアファイルから課題のプリントを一枚取り出した。横から覗くと、びっしりと解答欄が埋まっている。なにがややこしい問題だっつーの。
「この前のノートちゃんと取ってる?」
「当たり前だろ。あの席で寝れるかよ」
毎度出される課題の難問を解いているのは基本的に真純だけだ。そのせいで、授業中も当てられることが多い。真後ろに真純が座っている俺は、完全に先生の視界の中な訳で。サボるどころか英語の授業は真面目に聞くようになり、成績も右肩上がりだ。まぁ、それでも解けないものは解けないのだが。
「じゃあ、恵大なら解けるよ」
「解けなかったんだけど」
お前とは頭の作りが違うんだってば、と喉元から飛び出していきそうな言葉を飲み込むと、真純は小さな溜息を吐き、今度はノートを開き出した。
「この前、先生が文法の組み方を簡単にまとめてくれただろ」
真純は該当ページを指差した。
「これ見れば一発」
ノートを俺に押し付け、それを見て時間までに解けと言った。
「一発でわかるかっつーの」
「分かるよ。恵大はなんだかんだ要領良いし」
「なんだかんだって……。真純が教えてくれたって良いだろ」
それこそその方が一発だ。しかし、真純は首を振った。
「俺が教えたら恵大のためにならない」
「うーわ、真面目か」
冗談っぽく言い返しながら、俺はノートを受け取った。これ以上ごねてまた話せなくなるのだけは避けたい。ノートを借りれただけでも感謝して、足早に視聴覚室へ向かう。すると、後ろから「恵大もだいぶ真面目だな」と笑いながら嫌味をぶつけられた。
帰りのホームルームが終わり、一斉に座席の引く音が教室に響く。部活の先輩の機嫌を損ねないよう、早々に教室から出て行くクラスメイトを眺めながら俺はのんびりと帰り支度を始めた。
「じゃあな、恵大」
「おう」
声をかけてきた森田に軽く手を振ると、星野も連れ立って出て行った。以前なら森田や星野と昇降口に向かうことの方が多かったが、今は森田が部活、星野もアルバイトで放課後はバラバラだ。陸上部に入った森田に関しては、休憩中にマネージャーと話すのが楽しみらしく、中学で身に付けた不真面目を捨てた。人間、恋をするとこうも変わるのか、と星野と二人で驚いたが、そんな星野もバイト先で彼女ができたらしい。相手が他校の女の子のようで、最近は授業の合間はほとんどスマホを手放さない。まぁ、半分は森田が羨ましそうにするのが面白くてやっている気がするが。とにかく、二人からその手の話を聞くのは既にうんざりしていたので、今日みたいに一人の方が気楽だったりする。
身支度を終えると、俺が椅子から立ち上がるのと同時に真純が立ち上がった。無意識にそっちを見た俺と目が合って、真純が気不味そうな顔をする。
「……帰る……の?」
「え、あ、うん。バイトも何もないし」
辿々しく聞かれたせいか、自分の返事もぎこちない。まだ他にも話し込んでいるクラスメイトも多数いて、その視線も気になった。
「……そう。じゃあ」
俺の返事を聞くなり、真純はそう言って目の前を通り過ぎて行こうとした。
「ちょっ、普通そこは一緒に帰るだろっ」
俺は机を挟んだ目の前で真純の手を取った。真純が身体をびくつかせ、目を見開いて俺を見る。そんなに驚く事かと言いかけたが、再会してからの真純はこれが常だ。分かっていたはずなのに、咄嗟に手が出てしまった。
「……悪い」
俺が手を引っ込めると、真純は黙って首を横に振る。手汗がどっと噴き出して、急に心臓の音が耳の奥から聞こえ始めた。
「帰る……か?」
恐る恐る尋ねると、真純は黙ったまま頷く。その返事にホッとして、思わず息が漏れた。ばくばくと音を立てていた俺の心臓がようやく鎮まり始める。ハッとして周りを見たが、クラスの喧騒は相変わらずで、俺たちのやりとりになど誰も目もくれていなかった。
「さっきは、ごめん……」
「え?いや、俺が急に掴んだし」
校門を出たところで真純がようやく口を開いた。俺が気にしていないと答えると、張り詰めていた緊張が解けたのか「あー」と少し重そうな声を出しながら息を吐いた。
「……あそこ、苦手なんだ」
「苦手?」
「そう、教室」
「……そっか」
そんなことはとっくに分かっていたが、話に乗っかるように返事をした。真純は入学してから今の今まで、誰が相手でも教室にいる時は必要最低限の会話や交流しかしない。それは俺も先生も例外ではなかった。向こうの学校でやはり何かあったのだろうか。少しでも真純の助けになれるのなら、事情を聞きたいとも思っているのだけど……。
「……いや、ちょっと違うというか」
「え?」
今日イチ、というかここ最近で一番間抜けな声が出た。すると、俺の考えていた事が分かったのか、真純が溜息を吐いた。
「恵大さ……俺が引越し先でイジメに遭ったとか思ってるだろ?」
「え、違うの?」
「全然無い。むちゃくちゃ良いヤツらしか居なかった。今だって別に、クラスメイトから何かされたことはない」
そう言い切る真純の声に嘘はなく、俺は内心ホッとする。
「じゃあ、なんで」
真純は再び黙り込む。何を言い渋っているのかは分からないが、クラスメイトに不満がなければ何故あんなにもおどおどとしているのだろうか。思えば真純は休み時間にも教室にいることが少ない。授業の合間の中休みですら、必ずと言って席を立つ。昼休みに関しては教室で昼食を摂る姿を見たことがなかった。
「……ごめん、もう少し待って」
「え?」
「恵大にはちゃんと、話すから」
「お、おぅ?」
俺と真純の間に気不味い空気がまた流れる。何か口を開こうと思うのだが、話題が全く思いつかない。黙ったまま俺の少し先を歩く真純の背中を見た。以前はもっとしゃんと立っていた気がする。背中がぐっと丸まって、猫背が後ろから見ても分かるようになっていた。
「真純」
「……なに?」
「えっと……あっ」
呼び止めたは良いものの、結局何を話して良いか分からない俺の視界の先にコンビニが見えた。
「そうだ、英語!」
「は?」
「真純のおかげで課題、できたし……お礼に何か奢らせてくれる?」
俺は反対側の歩道の先に見えるコンビニを指差した。
「別にいいって」
真純は首を振って呆れ気味に答える。だが、俺も言い出した手前、引き下がれない。
「そう言うけど俺の気が済まないし……あ、そうだ。アイス!どう?今日暑いし!」
「アイス……」
目線が下を向いていた真純の顔がゆっくり上がり、先に見えるコンビニを見つめた。
「ほら、昔からソーダのやつ好きだろ?別のやつでも全然良いけどさ。あ、半分こできるコーヒーのあれとかどう?どっちも芦沢神社でよく食べたよな」
懐かしさが込み上げ、自然と笑みが溢れる。ソーダ味に飽きたからこっちにしようぜ、と言って割り勘して買ったアイス。毎回俺が開けられなくて、真純が仕方ないなと開けてくれたのも懐かしい。石の階段のところに座ってまた二人で話しながら……なんて思っていると、真純が足を止めた。
「……真純?」
「……ごめん、やっぱり……いい」
「え?」
振り向くと、真純は下を向いて俺から顔を隠すように立っていた。
「もしかして具合悪かったか?」
だとしたら教室の反応も納得できる。しかし、真純はまた首を振って否定した。
「……そうじゃなくて」
「アイスじゃなくても飲み物でも良いよ。ほら、芦沢神社で休んでから帰れば……」
真純はビクッと身体を跳ねさせた。それは明らかに『芦沢神社』という単語に反応している気がした。
「……真純、神社で何か」
「な、なんでもない……。と、とにかく、大丈夫だから!じゃあね」
真純は強くそう言うと、俺を追い越して足速にコンビニを通り過ぎる。慌てて真純の名前を呼んだが、真純は俺の声に振り返ることなくずんずんと進んで行き、先日曲がった遠回りの道へ折れて姿が見えなくなってしまった。
急なことで立ち尽くし、ハッとした時には真純はさっさと視界から消えていた。結局、暑さに耐えかねた俺は、一人でコンビニに入りソーダ味のアイスを買った。それも一本で良いのに、二本も。最初は無意識に手に取っていて、気が付いて一本戻した。しかし、ふと芦沢神社で出会ったあの男が脳裏に浮かび、もう一度商品を手に取った。
買ったアイスをレジでビニール袋に入れてもらい外へ出た。すぐに一本目の袋を開け、ゴミを捨てた。一口齧ると、その冷たさに肩が一瞬上がる。甘くてさっぱりとしたソーダ味が口の中で広がった。少しだけ足取りが軽くなった気がする。足は芦沢神社へ向かい、立ち止まることなく石階段を上っていた。
階段の途中、俺はその場に座り込んだ。誰も来る気配がしなかったし、風通りも良い。何より、アイスを咥えていてもこの暑い中上る階段ほどしんどいものはなかった。
「あー」
気の抜けるような声を出し、木のトンネルが広がった頭上を見上げた。溶けかけたアイスをぼんやりと口に運ぶ。虫や鳥の鳴く音が聞こえ、少し早い夏を感じていた。
「わぁ、今日はお土産付き?」
突然、耳元で声がして俺は身体をびくつかせながらその声のした方を見た。
「あはは、ごめんね。驚いた?」
「おまっ……!」
そこでケラケラと楽しそうに笑っていたのは、先日この芦沢神社で出会った男だった。俺が眉を寄せ舌打ちをすると、男はより一層笑い出し、目尻に浮かんだ涙を拭って「ツボった、あはは!どうしよう、止まらない!」と一人で随分と楽しそうだ。
「笑いすぎだろ」
「ふふふ、ごめんってば。お詫びに僕がそのアイス貰ってあげるから」
「あのな……。この場合、お詫びをもらうのは俺だろ」
「まあまあ。硬いこと言わないの」
そう言って図々しく手を出す。俺は大きな溜息を吐くと、渋々ビニール袋を手渡した。
「わぁ、本当にくれた」
「……要らないなら俺が食う」
「そんなこと言ってないでしょ」
にこりと笑い、男は俺の横に腰掛けるとハミングをしながらアイスを袋から取り出す。強奪男から奏られた鼻歌は数年前に流行った夏の曲で、幼い頃に歌番組で二人組の男性ユニットが歌っていた映像が頭に浮かぶ。
「いただきまーす」
男は嬉しそうに少し溶けかけたアイスを頬張った。
「あー美味しいっ!この久しぶりに喉に冷たいのが通る感じ、たまらないなぁ」
「……食リポ下手かよ」
「だって、本当に久々だったし。誰も来てくれないから」
「なら、自分で買いに行けば良いだろ」
「えー。なんで僕が。お金ないもん」
「むしろ何で人任せだよ」
俺のツッコミに男は楽しそうに笑う。おかしなことを言うやつやだと思った。アイスも溶けない距離にコンビニがあるのだから、食べたいなら自分で買いに行けば良いだろうに。
俺はアイスの最後の一口を頬張り、はずれと書かれた棒を見つめた。
「あ、はずれだ」
「どうせアンタのもはずれだよ」
「まだ見えてませーん」
まだアイスから棒が見えていないのを見せつけ、男がふざけて答えた。
「……いちいち腹立つな」
「ふふふ。それで、今日は何のお願いに来たの?」
「別に。ただ立ち寄っただけだよ」
「じゃあ、僕に会いに来たんだ?」
「……なんでそうなるんだよ」
「だって、自分で食べるなら同じアイス二本も買わないよ」
図星を突かれた俺は黙り込む。無意識にアイスケースから取り出したとはいえ、頭に浮かんだのはこの男の顔。会いに来たと言っても嘘ではない。
「僕なら二つ目はチョコモナカアイスが良いし」
「それは自分で買って来い」
俺は溜息を再び吐いた。
「本当は、友達とここで食べたかったんだよ」
「友達?つまり……僕ってことで良いよね?」
「良くねぇよ」
勝手に何言ってるんだ、と突っ込みを入れると、男は嬉しそうに大きな口でアイスを頬張った。
「あ、はずれだ」
棒をまじまじと見つめながら男が言った。
「だから言っただろ」
あれはそう簡単に当たらない。俺も食べるたびにはずれを引くのだから、易々と当てられても困る。
「ねぇ、当たるまで食べない?」
「……腹壊すぞ」
どんな罰ゲームだよ、と付け加えると男はくすくすと笑った。
「そうじゃなくてさ。このアイス、友達と食べたかったんでしょ?」
「はあ?」
何を言い出すと思えば。確かに真純とここに来れたら良いとは思ったけれど……。別にどうしても必死になることではないだろう。それに、真純がこの神社を遠ざけているのは確実だ。無理強いもしたくはない。
「ねぇ。それ、僕で良いじゃん。当たるまで付き合うし」
「俺は別にアイスの当たりを出したいとかじゃなくて」
「僕、退屈なんだ」
「……は?」
アルバイトに退屈も何もないだろうが。と言いかけたが、少しだけ寂しそうに笑う男の顔を見て俺は出かかった言葉を飲み込んだ。
「時々で良いから」
懇願するようなその目に吸い込まれそうになる。ふわりと風が吹いて、頭上で木々の葉が擦れ合う音が響いた。緑の香りが鼻を抜ける。
「……分かった」
俺は自然とそう答えていた。何に腑に落ちたのかはわからない。そう答えなくてはいけないと思ってしまった。
「やったぁ」
男は嬉しそうに目を細めて微笑んだ。腹の底がじわりと熱くなる。そこでやっと気が付いた。
「なぁ、名前なんていうの?」
こんなにも話し込んでおいてこの男の名前を俺は知らなかった。
「あれ、まだ言ってなかったっけ」
とぼけたように男は答えた。また風が吹いた。今度は木々を揺らすほどの強い風ではなく、俺の腕を軽く掠める程度の冷たい風だった。肌に滲んでいた汗を乾かすには遠い風だったが、エアコンの風のように冷たく、さっぱりとしている。
「じゃあ、次に来た時に教えてあげる」
悪戯っぽく笑いながら勿体ぶる男に、カチンと小さな苛立ちが積み上がる。
「名前ぐらいさっさと言えよ」
「でもそれは君も同じでしょ。昔から言うよね、名乗るならまず自分からって」
そう言われてみれば自分も名乗っていないことに気が付いた。だが、そう言い返されると癪で名乗る気が失せた。
「……なら俺も次に会った時に教える」
「ふふふ。次の約束できちゃったね」
嬉しそうに笑う男の顔にどきりとし、俺は気付かれないようゆっくりと視線を逸らした。
「別に……。気まぐれでしか来ないと思うけど」
「いいよ、君の気まぐれで。僕はいつでも待っているから」
また木々の揺れる音が響く。今度は自分の身体の中心も同じようなざわつきを感じた。どくんと胸が音を立てる。アイスで潤った喉をゴクリと鳴らした。
神社でアイスを食べてからニ週間が経つと、少し遅れた梅雨がやって来た。窓を打ち付ける雨音が、教室の中にまで響いる。相変わらず真純は教室ではなかなか喋ってはくれないが、この空間が苦手だと聞いてからは挨拶までにして、これまで通り英語の授業の合間に話すようにしている。話題も学校の課題や昨日見たテレビ、話題の動画ぐらいだ。芦沢神社に対するあの反応はずっと気になっているが、聞き出せる雰囲気ではないぐらい俺も空気は読める。それに、最近は梅雨入りのせいで寒暖差も激しく、真純はしんどそうだ。先週明けから少しずつ咳込むようになり、それがなかなか治まる様子がなかった。
「病院、行ったらどうだ?」
視聴覚室に移動する際、廊下で咳込む真純の背中に声を掛けた。真純は咳込みながら振り向くと、首を振る。
「大したことないよ。こういうの、すぐ治るじゃん」
そうは言うがもう一週間は経っている。一向に良くなる気配はない。
「長引くと面倒だろ」
「大丈夫だってば……喉の痛みとかはないからもう少しで治ると思う。それより、今回のプリント、少し難しかったよね」
この話を長く続けたくないらしい真純は、そう答えながら課題の話を振ってきた。俺は溜息を吐いてから頷く。
「真純が解けないのに俺が解けると思う?早くその咳治して勉強会やろうよ。来月には期末テストだし……あ、ついでに数学も教えてほしいんだけどさ」
「……恵大の成績のために早く治すよ」
真純は静かに笑ってまた咳き込んだ。
視聴覚室へ移動中、俺は真純に声を掛けた。先週末に出された英語の課題にどうしても分からない設問があった。だいぶ時間をかけて解いたつもりだったが、全く自信がなかった。
「……分からなかった?」
「最後だけな」
「あー……確かに今回のはややこしい問題だったかも」
そう答えながら真純は手に持っていたクリアファイルから課題のプリントを一枚取り出した。横から覗くと、びっしりと解答欄が埋まっている。なにがややこしい問題だっつーの。
「この前のノートちゃんと取ってる?」
「当たり前だろ。あの席で寝れるかよ」
毎度出される課題の難問を解いているのは基本的に真純だけだ。そのせいで、授業中も当てられることが多い。真後ろに真純が座っている俺は、完全に先生の視界の中な訳で。サボるどころか英語の授業は真面目に聞くようになり、成績も右肩上がりだ。まぁ、それでも解けないものは解けないのだが。
「じゃあ、恵大なら解けるよ」
「解けなかったんだけど」
お前とは頭の作りが違うんだってば、と喉元から飛び出していきそうな言葉を飲み込むと、真純は小さな溜息を吐き、今度はノートを開き出した。
「この前、先生が文法の組み方を簡単にまとめてくれただろ」
真純は該当ページを指差した。
「これ見れば一発」
ノートを俺に押し付け、それを見て時間までに解けと言った。
「一発でわかるかっつーの」
「分かるよ。恵大はなんだかんだ要領良いし」
「なんだかんだって……。真純が教えてくれたって良いだろ」
それこそその方が一発だ。しかし、真純は首を振った。
「俺が教えたら恵大のためにならない」
「うーわ、真面目か」
冗談っぽく言い返しながら、俺はノートを受け取った。これ以上ごねてまた話せなくなるのだけは避けたい。ノートを借りれただけでも感謝して、足早に視聴覚室へ向かう。すると、後ろから「恵大もだいぶ真面目だな」と笑いながら嫌味をぶつけられた。
帰りのホームルームが終わり、一斉に座席の引く音が教室に響く。部活の先輩の機嫌を損ねないよう、早々に教室から出て行くクラスメイトを眺めながら俺はのんびりと帰り支度を始めた。
「じゃあな、恵大」
「おう」
声をかけてきた森田に軽く手を振ると、星野も連れ立って出て行った。以前なら森田や星野と昇降口に向かうことの方が多かったが、今は森田が部活、星野もアルバイトで放課後はバラバラだ。陸上部に入った森田に関しては、休憩中にマネージャーと話すのが楽しみらしく、中学で身に付けた不真面目を捨てた。人間、恋をするとこうも変わるのか、と星野と二人で驚いたが、そんな星野もバイト先で彼女ができたらしい。相手が他校の女の子のようで、最近は授業の合間はほとんどスマホを手放さない。まぁ、半分は森田が羨ましそうにするのが面白くてやっている気がするが。とにかく、二人からその手の話を聞くのは既にうんざりしていたので、今日みたいに一人の方が気楽だったりする。
身支度を終えると、俺が椅子から立ち上がるのと同時に真純が立ち上がった。無意識にそっちを見た俺と目が合って、真純が気不味そうな顔をする。
「……帰る……の?」
「え、あ、うん。バイトも何もないし」
辿々しく聞かれたせいか、自分の返事もぎこちない。まだ他にも話し込んでいるクラスメイトも多数いて、その視線も気になった。
「……そう。じゃあ」
俺の返事を聞くなり、真純はそう言って目の前を通り過ぎて行こうとした。
「ちょっ、普通そこは一緒に帰るだろっ」
俺は机を挟んだ目の前で真純の手を取った。真純が身体をびくつかせ、目を見開いて俺を見る。そんなに驚く事かと言いかけたが、再会してからの真純はこれが常だ。分かっていたはずなのに、咄嗟に手が出てしまった。
「……悪い」
俺が手を引っ込めると、真純は黙って首を横に振る。手汗がどっと噴き出して、急に心臓の音が耳の奥から聞こえ始めた。
「帰る……か?」
恐る恐る尋ねると、真純は黙ったまま頷く。その返事にホッとして、思わず息が漏れた。ばくばくと音を立てていた俺の心臓がようやく鎮まり始める。ハッとして周りを見たが、クラスの喧騒は相変わらずで、俺たちのやりとりになど誰も目もくれていなかった。
「さっきは、ごめん……」
「え?いや、俺が急に掴んだし」
校門を出たところで真純がようやく口を開いた。俺が気にしていないと答えると、張り詰めていた緊張が解けたのか「あー」と少し重そうな声を出しながら息を吐いた。
「……あそこ、苦手なんだ」
「苦手?」
「そう、教室」
「……そっか」
そんなことはとっくに分かっていたが、話に乗っかるように返事をした。真純は入学してから今の今まで、誰が相手でも教室にいる時は必要最低限の会話や交流しかしない。それは俺も先生も例外ではなかった。向こうの学校でやはり何かあったのだろうか。少しでも真純の助けになれるのなら、事情を聞きたいとも思っているのだけど……。
「……いや、ちょっと違うというか」
「え?」
今日イチ、というかここ最近で一番間抜けな声が出た。すると、俺の考えていた事が分かったのか、真純が溜息を吐いた。
「恵大さ……俺が引越し先でイジメに遭ったとか思ってるだろ?」
「え、違うの?」
「全然無い。むちゃくちゃ良いヤツらしか居なかった。今だって別に、クラスメイトから何かされたことはない」
そう言い切る真純の声に嘘はなく、俺は内心ホッとする。
「じゃあ、なんで」
真純は再び黙り込む。何を言い渋っているのかは分からないが、クラスメイトに不満がなければ何故あんなにもおどおどとしているのだろうか。思えば真純は休み時間にも教室にいることが少ない。授業の合間の中休みですら、必ずと言って席を立つ。昼休みに関しては教室で昼食を摂る姿を見たことがなかった。
「……ごめん、もう少し待って」
「え?」
「恵大にはちゃんと、話すから」
「お、おぅ?」
俺と真純の間に気不味い空気がまた流れる。何か口を開こうと思うのだが、話題が全く思いつかない。黙ったまま俺の少し先を歩く真純の背中を見た。以前はもっとしゃんと立っていた気がする。背中がぐっと丸まって、猫背が後ろから見ても分かるようになっていた。
「真純」
「……なに?」
「えっと……あっ」
呼び止めたは良いものの、結局何を話して良いか分からない俺の視界の先にコンビニが見えた。
「そうだ、英語!」
「は?」
「真純のおかげで課題、できたし……お礼に何か奢らせてくれる?」
俺は反対側の歩道の先に見えるコンビニを指差した。
「別にいいって」
真純は首を振って呆れ気味に答える。だが、俺も言い出した手前、引き下がれない。
「そう言うけど俺の気が済まないし……あ、そうだ。アイス!どう?今日暑いし!」
「アイス……」
目線が下を向いていた真純の顔がゆっくり上がり、先に見えるコンビニを見つめた。
「ほら、昔からソーダのやつ好きだろ?別のやつでも全然良いけどさ。あ、半分こできるコーヒーのあれとかどう?どっちも芦沢神社でよく食べたよな」
懐かしさが込み上げ、自然と笑みが溢れる。ソーダ味に飽きたからこっちにしようぜ、と言って割り勘して買ったアイス。毎回俺が開けられなくて、真純が仕方ないなと開けてくれたのも懐かしい。石の階段のところに座ってまた二人で話しながら……なんて思っていると、真純が足を止めた。
「……真純?」
「……ごめん、やっぱり……いい」
「え?」
振り向くと、真純は下を向いて俺から顔を隠すように立っていた。
「もしかして具合悪かったか?」
だとしたら教室の反応も納得できる。しかし、真純はまた首を振って否定した。
「……そうじゃなくて」
「アイスじゃなくても飲み物でも良いよ。ほら、芦沢神社で休んでから帰れば……」
真純はビクッと身体を跳ねさせた。それは明らかに『芦沢神社』という単語に反応している気がした。
「……真純、神社で何か」
「な、なんでもない……。と、とにかく、大丈夫だから!じゃあね」
真純は強くそう言うと、俺を追い越して足速にコンビニを通り過ぎる。慌てて真純の名前を呼んだが、真純は俺の声に振り返ることなくずんずんと進んで行き、先日曲がった遠回りの道へ折れて姿が見えなくなってしまった。
急なことで立ち尽くし、ハッとした時には真純はさっさと視界から消えていた。結局、暑さに耐えかねた俺は、一人でコンビニに入りソーダ味のアイスを買った。それも一本で良いのに、二本も。最初は無意識に手に取っていて、気が付いて一本戻した。しかし、ふと芦沢神社で出会ったあの男が脳裏に浮かび、もう一度商品を手に取った。
買ったアイスをレジでビニール袋に入れてもらい外へ出た。すぐに一本目の袋を開け、ゴミを捨てた。一口齧ると、その冷たさに肩が一瞬上がる。甘くてさっぱりとしたソーダ味が口の中で広がった。少しだけ足取りが軽くなった気がする。足は芦沢神社へ向かい、立ち止まることなく石階段を上っていた。
階段の途中、俺はその場に座り込んだ。誰も来る気配がしなかったし、風通りも良い。何より、アイスを咥えていてもこの暑い中上る階段ほどしんどいものはなかった。
「あー」
気の抜けるような声を出し、木のトンネルが広がった頭上を見上げた。溶けかけたアイスをぼんやりと口に運ぶ。虫や鳥の鳴く音が聞こえ、少し早い夏を感じていた。
「わぁ、今日はお土産付き?」
突然、耳元で声がして俺は身体をびくつかせながらその声のした方を見た。
「あはは、ごめんね。驚いた?」
「おまっ……!」
そこでケラケラと楽しそうに笑っていたのは、先日この芦沢神社で出会った男だった。俺が眉を寄せ舌打ちをすると、男はより一層笑い出し、目尻に浮かんだ涙を拭って「ツボった、あはは!どうしよう、止まらない!」と一人で随分と楽しそうだ。
「笑いすぎだろ」
「ふふふ、ごめんってば。お詫びに僕がそのアイス貰ってあげるから」
「あのな……。この場合、お詫びをもらうのは俺だろ」
「まあまあ。硬いこと言わないの」
そう言って図々しく手を出す。俺は大きな溜息を吐くと、渋々ビニール袋を手渡した。
「わぁ、本当にくれた」
「……要らないなら俺が食う」
「そんなこと言ってないでしょ」
にこりと笑い、男は俺の横に腰掛けるとハミングをしながらアイスを袋から取り出す。強奪男から奏られた鼻歌は数年前に流行った夏の曲で、幼い頃に歌番組で二人組の男性ユニットが歌っていた映像が頭に浮かぶ。
「いただきまーす」
男は嬉しそうに少し溶けかけたアイスを頬張った。
「あー美味しいっ!この久しぶりに喉に冷たいのが通る感じ、たまらないなぁ」
「……食リポ下手かよ」
「だって、本当に久々だったし。誰も来てくれないから」
「なら、自分で買いに行けば良いだろ」
「えー。なんで僕が。お金ないもん」
「むしろ何で人任せだよ」
俺のツッコミに男は楽しそうに笑う。おかしなことを言うやつやだと思った。アイスも溶けない距離にコンビニがあるのだから、食べたいなら自分で買いに行けば良いだろうに。
俺はアイスの最後の一口を頬張り、はずれと書かれた棒を見つめた。
「あ、はずれだ」
「どうせアンタのもはずれだよ」
「まだ見えてませーん」
まだアイスから棒が見えていないのを見せつけ、男がふざけて答えた。
「……いちいち腹立つな」
「ふふふ。それで、今日は何のお願いに来たの?」
「別に。ただ立ち寄っただけだよ」
「じゃあ、僕に会いに来たんだ?」
「……なんでそうなるんだよ」
「だって、自分で食べるなら同じアイス二本も買わないよ」
図星を突かれた俺は黙り込む。無意識にアイスケースから取り出したとはいえ、頭に浮かんだのはこの男の顔。会いに来たと言っても嘘ではない。
「僕なら二つ目はチョコモナカアイスが良いし」
「それは自分で買って来い」
俺は溜息を再び吐いた。
「本当は、友達とここで食べたかったんだよ」
「友達?つまり……僕ってことで良いよね?」
「良くねぇよ」
勝手に何言ってるんだ、と突っ込みを入れると、男は嬉しそうに大きな口でアイスを頬張った。
「あ、はずれだ」
棒をまじまじと見つめながら男が言った。
「だから言っただろ」
あれはそう簡単に当たらない。俺も食べるたびにはずれを引くのだから、易々と当てられても困る。
「ねぇ、当たるまで食べない?」
「……腹壊すぞ」
どんな罰ゲームだよ、と付け加えると男はくすくすと笑った。
「そうじゃなくてさ。このアイス、友達と食べたかったんでしょ?」
「はあ?」
何を言い出すと思えば。確かに真純とここに来れたら良いとは思ったけれど……。別にどうしても必死になることではないだろう。それに、真純がこの神社を遠ざけているのは確実だ。無理強いもしたくはない。
「ねぇ。それ、僕で良いじゃん。当たるまで付き合うし」
「俺は別にアイスの当たりを出したいとかじゃなくて」
「僕、退屈なんだ」
「……は?」
アルバイトに退屈も何もないだろうが。と言いかけたが、少しだけ寂しそうに笑う男の顔を見て俺は出かかった言葉を飲み込んだ。
「時々で良いから」
懇願するようなその目に吸い込まれそうになる。ふわりと風が吹いて、頭上で木々の葉が擦れ合う音が響いた。緑の香りが鼻を抜ける。
「……分かった」
俺は自然とそう答えていた。何に腑に落ちたのかはわからない。そう答えなくてはいけないと思ってしまった。
「やったぁ」
男は嬉しそうに目を細めて微笑んだ。腹の底がじわりと熱くなる。そこでやっと気が付いた。
「なぁ、名前なんていうの?」
こんなにも話し込んでおいてこの男の名前を俺は知らなかった。
「あれ、まだ言ってなかったっけ」
とぼけたように男は答えた。また風が吹いた。今度は木々を揺らすほどの強い風ではなく、俺の腕を軽く掠める程度の冷たい風だった。肌に滲んでいた汗を乾かすには遠い風だったが、エアコンの風のように冷たく、さっぱりとしている。
「じゃあ、次に来た時に教えてあげる」
悪戯っぽく笑いながら勿体ぶる男に、カチンと小さな苛立ちが積み上がる。
「名前ぐらいさっさと言えよ」
「でもそれは君も同じでしょ。昔から言うよね、名乗るならまず自分からって」
そう言われてみれば自分も名乗っていないことに気が付いた。だが、そう言い返されると癪で名乗る気が失せた。
「……なら俺も次に会った時に教える」
「ふふふ。次の約束できちゃったね」
嬉しそうに笑う男の顔にどきりとし、俺は気付かれないようゆっくりと視線を逸らした。
「別に……。気まぐれでしか来ないと思うけど」
「いいよ、君の気まぐれで。僕はいつでも待っているから」
また木々の揺れる音が響く。今度は自分の身体の中心も同じようなざわつきを感じた。どくんと胸が音を立てる。アイスで潤った喉をゴクリと鳴らした。
神社でアイスを食べてからニ週間が経つと、少し遅れた梅雨がやって来た。窓を打ち付ける雨音が、教室の中にまで響いる。相変わらず真純は教室ではなかなか喋ってはくれないが、この空間が苦手だと聞いてからは挨拶までにして、これまで通り英語の授業の合間に話すようにしている。話題も学校の課題や昨日見たテレビ、話題の動画ぐらいだ。芦沢神社に対するあの反応はずっと気になっているが、聞き出せる雰囲気ではないぐらい俺も空気は読める。それに、最近は梅雨入りのせいで寒暖差も激しく、真純はしんどそうだ。先週明けから少しずつ咳込むようになり、それがなかなか治まる様子がなかった。
「病院、行ったらどうだ?」
視聴覚室に移動する際、廊下で咳込む真純の背中に声を掛けた。真純は咳込みながら振り向くと、首を振る。
「大したことないよ。こういうの、すぐ治るじゃん」
そうは言うがもう一週間は経っている。一向に良くなる気配はない。
「長引くと面倒だろ」
「大丈夫だってば……喉の痛みとかはないからもう少しで治ると思う。それより、今回のプリント、少し難しかったよね」
この話を長く続けたくないらしい真純は、そう答えながら課題の話を振ってきた。俺は溜息を吐いてから頷く。
「真純が解けないのに俺が解けると思う?早くその咳治して勉強会やろうよ。来月には期末テストだし……あ、ついでに数学も教えてほしいんだけどさ」
「……恵大の成績のために早く治すよ」
真純は静かに笑ってまた咳き込んだ。



