五月の蒸暑い日だった。今年は早くから気温が上昇し、四月末からすでに夏日があった。連休に入るとその勢いは増し、まだ入ってもいない梅雨明けを感じさせるような陽気が続いていた。学校にもだいぶ慣れ、教室以外では真純も話してくれる回数が徐々に増えていた。今日は以前から読んでいる漫画の発売日だったため、俺は学校帰りに駅前の書店に立ち寄った。会計を済ませ、リュック仕舞い込もうとした時だった。
「わっ」
下ろしかけたリュックに誰かがぶつかった。
「あ、すみませ……真純?」
焦った俺が謝りながら相手の顔を見上げると、そこに立っていたのは真純だった。二人して書店の出入り口で黙り込む。同じ制服の学生が黙ったまま動かないため、店員や他の客からの視線が少しずつ自分達に向き始める。それに痺れを切らし、先に口を開いたのは真純だった。
「…………それ」
「あぁ、これ」
真純は俺の手に持っていた漫画を指差した。
「今日新刊の発売日だったから」
「……俺も、買いに来た」
真純の返答に俺の顔が緩む。店員達からの視線が徐々に別に散っていくのを感じた。
「そういえば、この漫画教えてくれたの真純だったな」
「そう、だっけ」
真純は首を傾げたが、俺は「忘れたのかよ」と笑って答えた。俺が小学生低学年で漫画を読み始めた頃、真純は既にたくさんの漫画を知っていて、俺ならこれにハマるはずだ、と教えてくれたのがこの漫画だった。週刊誌に掲載されているこの作品は、当日も大人気だったが、今も連載中の超人気漫画だ。
「買って来いよ。俺、ここで待ってるから。一緒に帰ろうぜ」
「別に待たなくても……」
「いいから。そうじゃないと、おまえ英語の時しか話してくれないし」
な?と念を押すと、真純は何か言いたげだったが、俺が退かないと分かるとすぐに渋々頷いて「……分かった」と答えた。
「へぇ、生物部なんてあるんだ。こっちにはなかったな」
「珍しいよな。桐ヶ峰にはなかったけど」
帰り道、一緒に帰ろうと誘ったものの、話題が浮かばず適当に中学の部活を尋ねると、真純は生物部に所属していた。
「なに育ててたの?」
頭の中にウサギやニワトリが浮かび上がるが、中学で飼育している学校の方が珍しいだろう。すると、俺の考えている事を見抜いた真純が被せるように「ウサギとニワトリじゃないよ」と答えた。
「熱帯魚とウーパールーパー。理科の先生の趣味だよ。活動も餌やりと水槽の掃除、あと観察日誌をつけるだけだったな」
「ふぅん。それ、めちゃくちゃ暇じゃね?」
「そう、めっちゃ暇」
真純の声はが弾む。長い前髪で表情がはっきり見えないが、その声だけで笑っているのが分かった。
「部員は俺入れても七人だったし、必ず行かないといけないのも週一の当番曜日だけで楽だったよ。土日は近所に住む先生が水槽を持って帰ったりしてたから」
大変だったのはウーパールーパーの餌やりぐらいだったらしい。時々イトミミズをあげたようで、それだけは何度やっても全然慣れなかったと言っていた。
「へぇ。俺はてっきり、サッカー部に入ったんだと思ってたよ。ほら、小学生の時はクラブチームに入ってたじゃん?」
「あぁ……そういえば、そうだったな」
歯切れの悪い返事が返される。クラブチームの青いユニフォームを着て、自転車で練習に向かう真純は今でも記憶に残っていた。
「……サッカーは辞めたんだ」
「もしかして怪我、とか?」
恐る恐る俺が尋ねると、真純は首を横に振った。
「別に……。そういう訳じゃない。単にやる機会がなくなったんだ。引越しが……母さんが具合悪くなったからだったし」
「……そっか」
真純の声色が変わった気がし、なんとなくこれ以上踏み込んではいけない気がした。変に緊張感のある空気が纏わりつき、俺が話題を変えようとあれこれ考えていると、真純が急に足を止めた。視線の先には芦沢神社の石階段が見え始めている。春先は石階段を覆う桜の木が満開だったが、今は鮮やかな緑でいっぱいだ。風で木々の葉が擦れ、耳障りのいい音が鳴っている。
「そういえば、よくあの階段に座ってアイス食べたよな」
夏は涼しくて快適だったことを思い出し、話題を振る。ひやりと冷たい石段に腰掛けて、一番安いソーダー味の氷菓を並んで食べたのはもう何年も前の話だ。当たりが出るか出ないかを楽しみにしていたのがむず痒くて懐かしい。しかし、真純はその話題には触れず、その場に立ったまま挙動不審な動きを見せた。
「真純、どうかしたか?」
「……俺……こっち、だから」
そう言ってすぐ左の道に入って行こうとした。
「え?」
母さんから聞いた話では、家を空けていたのは真純とその母親で、父親は仕事の都合でこちらに一人残って暮らしていたらしい。ただ、これはあくまでも母さんが近所で聞いた話だ。でもそこに戻って来たとなるなら、帰り道はまだ俺と同じはずだ。左の道に逸れてしまうと、かなりの遠回りになる。こんな暑い日にわざわざ遠回りなんて、考えるだけで汗が滲み出てきた。
真純は俺の顔を見て目を逸らした。多分、俺が聞きたい事を悟ったのだろう。
「…………よ、用事、思い出して」
左の道に入っても続くのはただの住宅街だ。店もコンビニぐらいしかない。コンビニは俺と真純の家の近くにもあるのだが……。
「……そっか。分かった」
逸らされた視線があまりにも色んなところに向けられるため、嘘なのは直ぐに分かったが、様子がいきなり変わった方が気になって俺は納得した振りをした。
「じゃあな、気をつけて帰れよ」
「う、うん……。また、学校で」
早口になった真純は、それだけ言うと走って住宅街の方へ向かって行った。残された俺は、目に留まった芦沢神社へ自然と足を進めていた。石段の下から階段を見上げると、木々が重なってトンネルのような道が出来上がっていた。一面緑の天井が陽の光を抑え込み、涼しい風が吹いている。深呼吸をすると湿った土の匂いに混じり、青々とした葉の匂いが鼻を抜けた。真純が引越してからここに立ち寄る回数は減ったものの、正月の初詣や夏祭りには足を運んでいた。だが、この時期のこの香りは本当に久しぶりで妙に胸の辺りがざわついた。
石段を上り、鳥居の前で大きく伸びをする。草や木々に囲まれたこの神社は、行事がない時期はがらんとしていて山の中に迷い込んだような感覚になる。子どもの頃はそれがすごくワクワクして、よく遊びに来たことを思い出した。同時に近所住んでいる神主によく怒られたのも思い出し、思わず苦笑いが浮かんだ。
俺は真っ直ぐ手水舎に向かった。それこそ、折角来たのにお参りをしないなんてと、近所の神主が現れたら小言を言われそうだと思った。頭の片隅にあった作法で手を清め、拝殿へ向かう。足元の砂利を見ると、つい平たい石を探してしまうのは幼い頃の遊びが身に染みているのだろう。芦沢神社の裏には小さな川があり、よく真純と石を投げて何回跳ねさせれるかを競って遊んでいた。神様の物を勝手に持ち出して!と、見つかるたびに大人に怒られたのも今では笑い話だ。見れば見るほどただの砂利、石だというのに。口元が緩み、唇の端を軽く噛む。誰かが突然来たら不審がられると思い、俺は手早く財布から五円玉を取り出すと、賽銭箱に投げて手を合わせた。頭の中にはぼんやりと真純が浮かび、また一緒に帰れたら……なんて考えていた時だった。
「受験生?」
「えっ」
突然背後から声がし、びくりと身体が跳ねた。ひやりとした涼しい風が吹き抜け、振り向くとそこには一人の男がいた。男といっても、年は俺と変わりなさそうで、ワイシャツにスラックスを履いている彼は、栗色の髪に高めの身長で綺麗な顔立ちをしていた。多分、近所の学校に通う高校生だろう。桐ヶ峰にこんなイケメンがいたら、まず騒がれている。
「ごめん、大事なお参りの途中だったよね」
「あ、いや。ただ立ち寄っただけだから。受験もまだ先だし……」
「じゃあ、恋のお願い?」
イケメンがくすくすと笑って言った。その揶揄うような言い方にカチンとくる。
「……は?」
「だって君みたいな高校生が、学校帰りにこんなところに来て神頼みなんてねぇ?新しい学校で意中の子がいたからお近づきになりたいですってやつじゃないのかい?」
にやにやと楽しそうに喋るやつだと思ったが、それ以上にその話し方にイライラが止まらない。
「そういうアンタも見たところ高校生だろ。ていうか、別にそういうお願いで寄った訳じゃねぇし……。あと、神頼みする前に自分で連絡先の交換ぐらいできるっつーの」
まだ突っ込みたいところがあるが、俺が言い返すとニコニコと嬉しそうなのがまた余計に腹が立って続きを言うのをやめた。
「えー、そうかな。連絡先交換って結構ハードル高いよ?」
「いや、相手のSNSアカウントとか見つけたらDM送れば良いんじゃないのか」
知らんけど。やろうと思ったことはないが、森田がクラスの女子と連絡取れたと騒いでいた際、聞いてもいないのにペラペラとこの方法を話していた。だからあながち間違いではないはずだ。
「ふぅん……。そういう感じなんだ」
噛み締めるような返事に、俺は呆れながら拝殿の階段を降りた。面倒なやつに会ったかもしれない。もしかして、こいつこそ自分の恋愛祈願のために来ていたんじゃ……。だとしたら厄介なアドバイスをしてしまったような気がする。さっさと帰って新刊を楽しんだ方が良さそうだ。
「え、もう帰るの?」
「まぁな」
用も殆どないし。なにより、関わったのが間違いだろう面倒なこいつから離れたかったし、なんとなくこの場から離れた方が良いと思った。
「ここが涼しいとはいえ、長時間外にいるのはしんどいしな」
適当に理由を言った。まだ五月だと思っていても、最近は暑すぎて熱中症警戒アラートも出ているぐらいだ。小学生だって外で遊べる日が限られている。
「そっかぁ」
男はハの字に眉を寄せ、困ったように笑う。
「……アンタは帰らないのか?」
「あー……うん。ちょっとやる事があるからね」
そう言って拝殿の奥へ視線を向ける。そこには授与所があった。ここのアルバイトか何かなのだろうか。
「また来るかい?」
「また?」
俺が怪訝な声を出すと、男はニヤリと笑う。
「恋のお願いは何回も通わないと」
「だから違うって言ってんだろ」
俺の返答にクスクスと笑う。どうも調子が狂って仕方ない。
「僕、この時間にここに居ることが多いからさ。また来てよ」
「いやなんで俺が……」
「良いじゃん、話相手ぐらい。ここ、夏祭りや大晦日以外に殆ど人が来ないんだから」
正直面倒くさい。だいたい、アルバイトが話し相手を欲しがってどうするのだ。仕事をしろ、仕事を。そう口に出して言えないあたり、なんとなく絆されている気がして返事より先に溜息が出た。
「……まぁ、たまになら別に」
「ありがとう!毎日なんて嬉しいよ」
「いや、毎日なんて言ってねぇ」
「ふふふ、冗談だよ。それじゃ、またね」
一瞬でも良いと答えた自分を恨む。ただ、この男が本当に嬉しそうな顔をしたため、それ以上噛み付くのはやめた。
帰宅してからも頭の中には芦沢神社で出会った男が頭から離れなかった。せっかく買ってきた新刊も、読んでいる途中で集中が何度も途切れる始末。今日は読むのをやめて潔く机に漫画を置いた。スマホを片手にベッドに寝転がり、息をするようにSNSのアプリを開く。アプリのDM画面に切り替わるアイコンを目にし、またあの男が頭の中に浮かび上がった。不思議な雰囲気を持ち、初対面なはずなのに妙に懐かしい気がした。芦沢神社に数年ぶりに足を踏み入れたからだろうか。
ふと、本棚の上段に飾ってある写真立てをじっと見た。その写真は真純と神社で遊んでいた時、たまたまフィルムが余っていたからとカメラを持って俺を迎えに来た母さんが撮ったものだ。写真の俺と真純はキラキラのカードを二人でカメラに向けて持ち、ふざけた顔をしている。同時に、幼い記憶がパッと脳内に流れ出す。それは、誰もいない芦沢神社の鳥居の前で流行りのカードゲームを真純と広げた記憶だった。ルールもあまり理解していないのに、キラキラと輝くカードを自慢し合っては、攻撃力はこっちが高いだの、守備力が高いからそれは効かないだの言い合った。今思えばそれの何が楽しいのか不思議だったし、学校に行けばルールを理解して遊んでいる奴らがいたのだから教えて貰えば良かったとも思う。それに、確かあの時に持っていたカードの枚数は正規ルールで遊ぶには少なかったし、真純の持っているのはやたらキラキラカードが多かった。強いカードを出すためには何枚か犠牲になるカードも必要だったし、ルールに則って遊ぶのは難しかった気がする。だからこそ、当時の俺たちは自分達の遊び方に夢中だった。暗くなるまで神社でカードを広げ、それに飽きたら神社を覆う草木で虫取りをし、近くの川で石投げをした。そうやって思いつく限りの色んな遊びをして、夕焼けチャイムが鳴る頃に仕事帰りの母さんに声を掛けられて解散、ということがよくあった。今日の神社の様子を見る限り、俺や真純のような子どもはもういないのだろう。
その代わり、変な高校生を一人見つけたけどな……。
面倒なやり取りを思い出すと、肩のあたりがずしんと重く感じた。また会おうと言われたが、そういえば名前を聞きそびれた事を思い出す。これは律儀に会いに行くべきか、そのまま無視しておくべきか……。いや、芦沢神社に出入りする人間だ。行かないままばったり近所で会った時の方が面倒くさそうだ。
「また真純も誘ってみるか……」
アイス食べに行こうぜ、という誘いなら乗ってくれるだろうか。ていうか、あいつはなんであそこから遠回りで帰ると言い出したんだ?様子も教室にいる時みたいにおどおどしていたし……。
くわっと大きな欠伸が漏れ出てきた。急激な睡魔が押し寄せて俺の瞼を閉じりにかかる。抵抗するもなにも、今日は課題も特にない。明日の準備は出る前にしても間に合うだろう。俺はもう一度大きな欠伸をすると、考えるのをやめて部屋の照明をリモコンで切った。
「わっ」
下ろしかけたリュックに誰かがぶつかった。
「あ、すみませ……真純?」
焦った俺が謝りながら相手の顔を見上げると、そこに立っていたのは真純だった。二人して書店の出入り口で黙り込む。同じ制服の学生が黙ったまま動かないため、店員や他の客からの視線が少しずつ自分達に向き始める。それに痺れを切らし、先に口を開いたのは真純だった。
「…………それ」
「あぁ、これ」
真純は俺の手に持っていた漫画を指差した。
「今日新刊の発売日だったから」
「……俺も、買いに来た」
真純の返答に俺の顔が緩む。店員達からの視線が徐々に別に散っていくのを感じた。
「そういえば、この漫画教えてくれたの真純だったな」
「そう、だっけ」
真純は首を傾げたが、俺は「忘れたのかよ」と笑って答えた。俺が小学生低学年で漫画を読み始めた頃、真純は既にたくさんの漫画を知っていて、俺ならこれにハマるはずだ、と教えてくれたのがこの漫画だった。週刊誌に掲載されているこの作品は、当日も大人気だったが、今も連載中の超人気漫画だ。
「買って来いよ。俺、ここで待ってるから。一緒に帰ろうぜ」
「別に待たなくても……」
「いいから。そうじゃないと、おまえ英語の時しか話してくれないし」
な?と念を押すと、真純は何か言いたげだったが、俺が退かないと分かるとすぐに渋々頷いて「……分かった」と答えた。
「へぇ、生物部なんてあるんだ。こっちにはなかったな」
「珍しいよな。桐ヶ峰にはなかったけど」
帰り道、一緒に帰ろうと誘ったものの、話題が浮かばず適当に中学の部活を尋ねると、真純は生物部に所属していた。
「なに育ててたの?」
頭の中にウサギやニワトリが浮かび上がるが、中学で飼育している学校の方が珍しいだろう。すると、俺の考えている事を見抜いた真純が被せるように「ウサギとニワトリじゃないよ」と答えた。
「熱帯魚とウーパールーパー。理科の先生の趣味だよ。活動も餌やりと水槽の掃除、あと観察日誌をつけるだけだったな」
「ふぅん。それ、めちゃくちゃ暇じゃね?」
「そう、めっちゃ暇」
真純の声はが弾む。長い前髪で表情がはっきり見えないが、その声だけで笑っているのが分かった。
「部員は俺入れても七人だったし、必ず行かないといけないのも週一の当番曜日だけで楽だったよ。土日は近所に住む先生が水槽を持って帰ったりしてたから」
大変だったのはウーパールーパーの餌やりぐらいだったらしい。時々イトミミズをあげたようで、それだけは何度やっても全然慣れなかったと言っていた。
「へぇ。俺はてっきり、サッカー部に入ったんだと思ってたよ。ほら、小学生の時はクラブチームに入ってたじゃん?」
「あぁ……そういえば、そうだったな」
歯切れの悪い返事が返される。クラブチームの青いユニフォームを着て、自転車で練習に向かう真純は今でも記憶に残っていた。
「……サッカーは辞めたんだ」
「もしかして怪我、とか?」
恐る恐る俺が尋ねると、真純は首を横に振った。
「別に……。そういう訳じゃない。単にやる機会がなくなったんだ。引越しが……母さんが具合悪くなったからだったし」
「……そっか」
真純の声色が変わった気がし、なんとなくこれ以上踏み込んではいけない気がした。変に緊張感のある空気が纏わりつき、俺が話題を変えようとあれこれ考えていると、真純が急に足を止めた。視線の先には芦沢神社の石階段が見え始めている。春先は石階段を覆う桜の木が満開だったが、今は鮮やかな緑でいっぱいだ。風で木々の葉が擦れ、耳障りのいい音が鳴っている。
「そういえば、よくあの階段に座ってアイス食べたよな」
夏は涼しくて快適だったことを思い出し、話題を振る。ひやりと冷たい石段に腰掛けて、一番安いソーダー味の氷菓を並んで食べたのはもう何年も前の話だ。当たりが出るか出ないかを楽しみにしていたのがむず痒くて懐かしい。しかし、真純はその話題には触れず、その場に立ったまま挙動不審な動きを見せた。
「真純、どうかしたか?」
「……俺……こっち、だから」
そう言ってすぐ左の道に入って行こうとした。
「え?」
母さんから聞いた話では、家を空けていたのは真純とその母親で、父親は仕事の都合でこちらに一人残って暮らしていたらしい。ただ、これはあくまでも母さんが近所で聞いた話だ。でもそこに戻って来たとなるなら、帰り道はまだ俺と同じはずだ。左の道に逸れてしまうと、かなりの遠回りになる。こんな暑い日にわざわざ遠回りなんて、考えるだけで汗が滲み出てきた。
真純は俺の顔を見て目を逸らした。多分、俺が聞きたい事を悟ったのだろう。
「…………よ、用事、思い出して」
左の道に入っても続くのはただの住宅街だ。店もコンビニぐらいしかない。コンビニは俺と真純の家の近くにもあるのだが……。
「……そっか。分かった」
逸らされた視線があまりにも色んなところに向けられるため、嘘なのは直ぐに分かったが、様子がいきなり変わった方が気になって俺は納得した振りをした。
「じゃあな、気をつけて帰れよ」
「う、うん……。また、学校で」
早口になった真純は、それだけ言うと走って住宅街の方へ向かって行った。残された俺は、目に留まった芦沢神社へ自然と足を進めていた。石段の下から階段を見上げると、木々が重なってトンネルのような道が出来上がっていた。一面緑の天井が陽の光を抑え込み、涼しい風が吹いている。深呼吸をすると湿った土の匂いに混じり、青々とした葉の匂いが鼻を抜けた。真純が引越してからここに立ち寄る回数は減ったものの、正月の初詣や夏祭りには足を運んでいた。だが、この時期のこの香りは本当に久しぶりで妙に胸の辺りがざわついた。
石段を上り、鳥居の前で大きく伸びをする。草や木々に囲まれたこの神社は、行事がない時期はがらんとしていて山の中に迷い込んだような感覚になる。子どもの頃はそれがすごくワクワクして、よく遊びに来たことを思い出した。同時に近所住んでいる神主によく怒られたのも思い出し、思わず苦笑いが浮かんだ。
俺は真っ直ぐ手水舎に向かった。それこそ、折角来たのにお参りをしないなんてと、近所の神主が現れたら小言を言われそうだと思った。頭の片隅にあった作法で手を清め、拝殿へ向かう。足元の砂利を見ると、つい平たい石を探してしまうのは幼い頃の遊びが身に染みているのだろう。芦沢神社の裏には小さな川があり、よく真純と石を投げて何回跳ねさせれるかを競って遊んでいた。神様の物を勝手に持ち出して!と、見つかるたびに大人に怒られたのも今では笑い話だ。見れば見るほどただの砂利、石だというのに。口元が緩み、唇の端を軽く噛む。誰かが突然来たら不審がられると思い、俺は手早く財布から五円玉を取り出すと、賽銭箱に投げて手を合わせた。頭の中にはぼんやりと真純が浮かび、また一緒に帰れたら……なんて考えていた時だった。
「受験生?」
「えっ」
突然背後から声がし、びくりと身体が跳ねた。ひやりとした涼しい風が吹き抜け、振り向くとそこには一人の男がいた。男といっても、年は俺と変わりなさそうで、ワイシャツにスラックスを履いている彼は、栗色の髪に高めの身長で綺麗な顔立ちをしていた。多分、近所の学校に通う高校生だろう。桐ヶ峰にこんなイケメンがいたら、まず騒がれている。
「ごめん、大事なお参りの途中だったよね」
「あ、いや。ただ立ち寄っただけだから。受験もまだ先だし……」
「じゃあ、恋のお願い?」
イケメンがくすくすと笑って言った。その揶揄うような言い方にカチンとくる。
「……は?」
「だって君みたいな高校生が、学校帰りにこんなところに来て神頼みなんてねぇ?新しい学校で意中の子がいたからお近づきになりたいですってやつじゃないのかい?」
にやにやと楽しそうに喋るやつだと思ったが、それ以上にその話し方にイライラが止まらない。
「そういうアンタも見たところ高校生だろ。ていうか、別にそういうお願いで寄った訳じゃねぇし……。あと、神頼みする前に自分で連絡先の交換ぐらいできるっつーの」
まだ突っ込みたいところがあるが、俺が言い返すとニコニコと嬉しそうなのがまた余計に腹が立って続きを言うのをやめた。
「えー、そうかな。連絡先交換って結構ハードル高いよ?」
「いや、相手のSNSアカウントとか見つけたらDM送れば良いんじゃないのか」
知らんけど。やろうと思ったことはないが、森田がクラスの女子と連絡取れたと騒いでいた際、聞いてもいないのにペラペラとこの方法を話していた。だからあながち間違いではないはずだ。
「ふぅん……。そういう感じなんだ」
噛み締めるような返事に、俺は呆れながら拝殿の階段を降りた。面倒なやつに会ったかもしれない。もしかして、こいつこそ自分の恋愛祈願のために来ていたんじゃ……。だとしたら厄介なアドバイスをしてしまったような気がする。さっさと帰って新刊を楽しんだ方が良さそうだ。
「え、もう帰るの?」
「まぁな」
用も殆どないし。なにより、関わったのが間違いだろう面倒なこいつから離れたかったし、なんとなくこの場から離れた方が良いと思った。
「ここが涼しいとはいえ、長時間外にいるのはしんどいしな」
適当に理由を言った。まだ五月だと思っていても、最近は暑すぎて熱中症警戒アラートも出ているぐらいだ。小学生だって外で遊べる日が限られている。
「そっかぁ」
男はハの字に眉を寄せ、困ったように笑う。
「……アンタは帰らないのか?」
「あー……うん。ちょっとやる事があるからね」
そう言って拝殿の奥へ視線を向ける。そこには授与所があった。ここのアルバイトか何かなのだろうか。
「また来るかい?」
「また?」
俺が怪訝な声を出すと、男はニヤリと笑う。
「恋のお願いは何回も通わないと」
「だから違うって言ってんだろ」
俺の返答にクスクスと笑う。どうも調子が狂って仕方ない。
「僕、この時間にここに居ることが多いからさ。また来てよ」
「いやなんで俺が……」
「良いじゃん、話相手ぐらい。ここ、夏祭りや大晦日以外に殆ど人が来ないんだから」
正直面倒くさい。だいたい、アルバイトが話し相手を欲しがってどうするのだ。仕事をしろ、仕事を。そう口に出して言えないあたり、なんとなく絆されている気がして返事より先に溜息が出た。
「……まぁ、たまになら別に」
「ありがとう!毎日なんて嬉しいよ」
「いや、毎日なんて言ってねぇ」
「ふふふ、冗談だよ。それじゃ、またね」
一瞬でも良いと答えた自分を恨む。ただ、この男が本当に嬉しそうな顔をしたため、それ以上噛み付くのはやめた。
帰宅してからも頭の中には芦沢神社で出会った男が頭から離れなかった。せっかく買ってきた新刊も、読んでいる途中で集中が何度も途切れる始末。今日は読むのをやめて潔く机に漫画を置いた。スマホを片手にベッドに寝転がり、息をするようにSNSのアプリを開く。アプリのDM画面に切り替わるアイコンを目にし、またあの男が頭の中に浮かび上がった。不思議な雰囲気を持ち、初対面なはずなのに妙に懐かしい気がした。芦沢神社に数年ぶりに足を踏み入れたからだろうか。
ふと、本棚の上段に飾ってある写真立てをじっと見た。その写真は真純と神社で遊んでいた時、たまたまフィルムが余っていたからとカメラを持って俺を迎えに来た母さんが撮ったものだ。写真の俺と真純はキラキラのカードを二人でカメラに向けて持ち、ふざけた顔をしている。同時に、幼い記憶がパッと脳内に流れ出す。それは、誰もいない芦沢神社の鳥居の前で流行りのカードゲームを真純と広げた記憶だった。ルールもあまり理解していないのに、キラキラと輝くカードを自慢し合っては、攻撃力はこっちが高いだの、守備力が高いからそれは効かないだの言い合った。今思えばそれの何が楽しいのか不思議だったし、学校に行けばルールを理解して遊んでいる奴らがいたのだから教えて貰えば良かったとも思う。それに、確かあの時に持っていたカードの枚数は正規ルールで遊ぶには少なかったし、真純の持っているのはやたらキラキラカードが多かった。強いカードを出すためには何枚か犠牲になるカードも必要だったし、ルールに則って遊ぶのは難しかった気がする。だからこそ、当時の俺たちは自分達の遊び方に夢中だった。暗くなるまで神社でカードを広げ、それに飽きたら神社を覆う草木で虫取りをし、近くの川で石投げをした。そうやって思いつく限りの色んな遊びをして、夕焼けチャイムが鳴る頃に仕事帰りの母さんに声を掛けられて解散、ということがよくあった。今日の神社の様子を見る限り、俺や真純のような子どもはもういないのだろう。
その代わり、変な高校生を一人見つけたけどな……。
面倒なやり取りを思い出すと、肩のあたりがずしんと重く感じた。また会おうと言われたが、そういえば名前を聞きそびれた事を思い出す。これは律儀に会いに行くべきか、そのまま無視しておくべきか……。いや、芦沢神社に出入りする人間だ。行かないままばったり近所で会った時の方が面倒くさそうだ。
「また真純も誘ってみるか……」
アイス食べに行こうぜ、という誘いなら乗ってくれるだろうか。ていうか、あいつはなんであそこから遠回りで帰ると言い出したんだ?様子も教室にいる時みたいにおどおどしていたし……。
くわっと大きな欠伸が漏れ出てきた。急激な睡魔が押し寄せて俺の瞼を閉じりにかかる。抵抗するもなにも、今日は課題も特にない。明日の準備は出る前にしても間に合うだろう。俺はもう一度大きな欠伸をすると、考えるのをやめて部屋の照明をリモコンで切った。



