部屋の外から母さんの声がし、俺は重い瞼を開いた。季節は春だというのに、朝はまだ寒くて毛布が手放せない。枕元に置いていたスマートフォンを手繰り寄せると、午前七時を数分過ぎており、アラームのスヌーズ機能が無意識に消された後だった。母さんが部屋へ入ってくる前に返事をし、重い身体を起こす。大きな欠伸をしながら、ベッドを抜け出すと恵大はクローゼットを開けた。母さんが昨日のうちにアイロンを掛けてくれたワイシャツが自分の出番を今か今かと待っている。今日は高校の入学式。受験を終え、昨日までの春休みは我慢していたゲームや同級生との遊びに明け暮れた。習慣化された夜更かしのせいで昨晩も目が冴え、ほとんど寝ていない気がする。既に春休みが恋しいが、今日という新しいスタートを迎える日に、遅刻は流石に避けたい。頭を掻きながらワイシャツを取り出すと、俺は再び欠伸をしながら着替え始めた。
母さんと並んで歩くのは久しぶりだった。つい最近まで顔を合わせるのが心底嫌で仕方なかったのだが、高校受験が終わると同時にその強い嫌悪感がぱったりと消えた。かと言って、急に色々と話せる程距離は戻せていない。特に中学二年生からは何か言えば舌打ちが返ってきたため、母さんも話し掛けることに多少の遠慮が見えていたが、今日はそうでもないらしい。幼い頃、俺が友達とよく遊んでいた芦沢神社を横切ると母さんはそれを横目に口を開いた。
「晴れて良かったわね。絶好の入学式日和だわ」
母さんの弾む声に、俺の眉がぴくりと動く。
「……あんまりはしゃぐなよ。中学からの同級生、割といるんだから」
進学した桐ヶ峰高等学校は、自宅最寄駅から一駅先にある。学力も高くもなく低くもない、ごくごく一般的な公立校のため、同じ中学出身の同級生が多かった。つまり、人目は多い。親がはしゃいでいる所を同級生には特に見られたくなかった。
「意味わからないんだけど」
「だからさぁ」
何度も説明しなければ分からないのか、と苛立ちが増したが、そういうわけではないらしい。
「あのねぇ。息子の晴れの日にはしゃがない親なんていないでしょ」
息子に嗜められた母は口をへの字に曲げて言い返す。通りで、と言いかけて俺は口を噤んだ。先月末のうちにクリーニングに出していたフォーマルスーツのカバーを、昨晩上機嫌で外しているのを見かけたし、今朝は早くから慌ただしく家を出て、俺に指定した出発ギリギリの時刻に戻って来た。どうやら美容院でヘアセットを仕上げてもらったらしい。そうやって時間をかけて準備していたのを目の当たりにしていたのもあり、これ以上強くは言えない。
「……はいはい。じゃあ、学校着いたら即別行動な」
「だめ。校門のところでツーショット撮るまで帰らないからね」
「ハァ?無理。勘弁してよ」
「勘弁してあげてるわよ。たった一枚よ」
「その一枚が、めちゃくちゃ嫌なんだけど」
恥ずかしいのと面倒くさいのと、どんな顔をしてレンズに視線を向ければ良いのかと、頭の中に言いたい事が山のように浮かぶ。何よりも、今日は父さんがどうしても抜け出せない仕事で欠席だというのに、誰にカメラマンを頼むというのだ。
「あのね、あなたの高校の入学式は人生でたった一日しかないの!今日は大事な日なの。わかる?」
「別に……ただの入学式だろ」
「人生に、一度きりの!でしょ」
強めに言い直す母さんの勢いは激しく、今日は絶対に退きそうにないことを悟った俺は、肩を落としながら溜息を吐くと「分かりました」と、力無く答えた。
学校へ着くと、校門の前に多くの親子が代わる代わる写真を撮っていた。校門を入って直ぐに桜の木が植えられているため、写真映えもするのだろう。ここのところ天気は曇りがちで咲くに咲けなかった桜が今日という日に精を出していた。俺は母さんの「ほら、みんなやっているじゃない」の一言にそっけないな返事を返すと、渋々写真を撮った。満足した母さんに連れられ、校門の中へ入ると、「新入生はこちら」と書かれたプレートを持った生徒が立っていた。その腕には生徒会と書かれた腕章が付いている。保護者はどうやら体育館へ直接向かうらしい。
「じゃあ、しっかりね」
「はいはい」
嬉しそうにスマホの写真を眺める母さんに、俺は溜息を吐く。同時に中学の入学式に入場の際に目が合って手を振られたのを思い出した。お願いだからこれ以上、浮かれないで欲しい。そう願いながら母さんと別れると、プレートの案内に従って昇降口へと向かった。体育館からも見える昇降口の前には、大きなパーテーションが出されていて、新入生のクラス割りが貼り出されていた。俺は新品の制服に身を包んだ同級生の中に混じり、自分の名前を探した。こういう時、小鳥遊恵大という名前は目立って探しやすい。すぐに自分のクラスが三組だと分かり、なんとなく同じ中学から進学した見知った名前を探した。特に仲の良かった間柄ではないが、知った顔がクラスに居るのと居ないのとでは心持ちも違うだろう。三組の名簿を上から順に追っていくと、俺はとある名前で視線を止めた。見間違いかと思い、別のクラスの名簿に視線を動かすが、直ぐ様また自分のクラス名簿へ目を向ける。一瞬で腹のあたりがじわりと熱くなった。その名前を目にするのは久々で、また会えると思うと思わず頬が緩みかけた。俺がクラス名簿の中で見つけた不破真純という同級生の名前は、同姓同名の他人でなければ、数年前に急に転校して音信不通になった幼馴染の名前だった。
一年生のクラスは三階建ての校舎の最上階にあった。階段で息切れをするのも気せず、とにかく足早に教室へ向かった。昨晩までは新しい環境に慣れるまでは大人しくしておこうとか、先ずは同じ中学出身のクラスメイトと連めば良いだとか、クラスに馴染めるまでは目立つことなく過ごしていようと考えていたはずだった。俺はは最後の二段を一気に上がり、息を整えてから教室へ向かう。頭の中で数回、真純の名前を呼ぶシュミレーションをした。緊張と興奮で鼻の穴が膨らむ。にやける顔をほんの少しだけ下げると、教室のドアに手をかけた。ドアを開け、瞬時に教室を見渡す。黒板には席順の書かれた模造紙が貼り出されていた。自分の名前が教卓前の席に書かれているのを確認すると、幼馴染の名前を探した。不破という名字は窓際列の一番前に書かれており、その席へ視線を向けた。
……居た!
身体中が急に熱くなり、俺はゆっくりと息を吸い込んだ。
「……真純っ!」
さっきまではしゃぐなと母さんを嗜めていた自分を棚に上げて、弾んだ声で幼馴染の名前を呼び、自席を通り過ぎて彼の席へと駆け寄った。
「…………え、恵大?」
真純と呼ばれた男子生徒が恐る恐る顔を上げ、重そうな前髪の隙間から俺の顔を見上げた。
「久しぶりだな、何年振りだ?ていうか、こっちに戻って来たんだな!」
「……あ、まぁ……ちょっと前に」
「なんだよ、教えてくれれば良かったのに」
「……ごめん」
「いや、引越しとか忙しかったんだろ?別に良いって。また会えたしさ」
嬉しそうに答える俺に対し、真純は気不味そうに下を向いて頷いた。その様子に恵大は眉を顰めた。
「……もしかして、体調悪いのか?」
確かにここ最近は曇りや雨が続いていた。桜も咲くのを躊躇したぐらいに天候と気温差が激しく、体調を崩してもおかしくはない。しかし、真純は首を振った。
「ならどうした?」
真純の顔を覗き込むと、真澄は直ぐに顔を背けた。
「……別に、なんでもない」
真純は小さな声で答えた。その声は若干震えており、だんだんと尻切れのように小さくなっていく。何に怯えているのかはわからないが、目だけはキョロキョロと教室中を気にしているようで、俺とは目が一度も合わない。その仕草や態度が記憶の中の真純とは噛み合わない気がして、もやっとした収まりの悪い何かが渦を巻いた。
「あー……まぁ、緊張するよな。あ、俺は真純が居てめちゃくちゃホッとしたけど」
「……そうなんだ」
ボソリと答える真純は、これ以上俺との会話を望んでいないように見えた。
「あの、さ」
再び声を掛けようとするのと同時に、チャイムが響いた。騒がしい教室に一瞬の静寂が広がると、前のドアから担任だろう教師が入って来た。
「みんな、席に着いて。これから入学式の流れを説明するから」
彼女の声に、立ち歩いていた生徒達が座席へと移動する。椅子の引く音が響く中、俺は真純に「また後でな」と耳打ちすると、慌ただしく席に着いた。
入学式は滞りなく終わった。よく知らない来賓挨拶は眠くて仕方がなかったが、それを乗り越えて教室に戻ると、ホームルームは担任の須川美桜の自己紹介だけで呆気なく終わった。現代文の担当教諭らしく、明後日から開始となる授業が楽しみだと言っていた。明日はまだオリエンテーションが続き、教科書の配布や学校内案内や施設利用についての話があるらしい。授業より気が楽な分、ホームルーム中の空気はゆったりとしていた。俺は須川先生の話を聞きながら、視線だけ真純へ向けた。長い髪で覆われたせいで顔は全く窺えないが、下を向いてただ時間が過ぎるのを待っているのが見て取れた。
須川先生の話が一通り終わると、その日は下校となった。もう一度真澄に声を掛けようと思っていたが、真純はホームルームが終わるとそそくさと教室を出て行ってしまった。
校門の外で待っているだろう母さんと合流すると、遅めの昼食を摂りに出かけた。駅前のファミレスに腰を落ち着けると、俺は母さんに言われてクラス名簿を見せた。俺と同様に同じ中学から進学したクラスメイトの名前を見つけると、安心したような顔を見せる。だが、やはり同じところで引っかかったのだろう。
「ねぇ、この不破真純って、真純くん?」
母さんの問いに黙って頷き、先程ドリンクバーから持ってきたコーラに口を付けた。
「最近戻って来たらしいよ」
「話せたんだ?」
「まぁ……本当に少しだけど」
「そう」
母さんが難しい顔をして名簿をテーブルに置いた。手元にあったコーヒーを口に付け、一息付くと少し間を置いてから再び口を開く。
「元気そうだった?」
「元気っつーか……なんか、変わったというか……まぁ、緊張かな。落ち着かない感じだった」
俺は見たままを伝えた。とにかく説明が難しい、と思った。以前、と言っても六年以上前の話になるが、真純はもっと活発でハキハキとした物言いをしていたように思える。まぁ、久々に帰って来た地元だし、緊張するのは仕方がない。母さんは俺の返答に何か言いたげな顔をしていたが、丁度注文していたドリアが自分の前に運ばれて来たため、何も言わなかった。俺のハンバーグステーキもその後すぐにやって来て、真純の話は一旦これでお終いになった。
だが、真純は次の日もずっと何かに怯えているような様子だった。ホームルームで自己紹介が回ってきても、恐る恐る立ち上がり、小さな震えた声で名前を言った。相変わらず重そうで長い髪の毛で表情は隠れていて、真純が話している時だけ周りの空気がしんと冷たくなるのを感じた。
次の日も、その次の日も。入学式から二週間が経ち、クラスの雰囲気から緊張が徐々に解れていっても、真純だけは緊張を解かず、周囲を気にして何かに怯えた様子だった。その間、昼休みに一緒に弁当を食べようと何度か声を掛けてみたが、おどおどした態度はそう簡単には変わらず、返答もしないまま振り返りもせずに教室を出て行ってしまった。
「恵大、もう放っておけよ」
「そうそう。ずっとビクビクしてるし、絶対絡んじゃダメなやつだろ」
同じ中学出身の森田と星野が呆れ気味に言った。
「まず絡んでもないだろ」
「だから、絡んじゃダメなんだってば」
俺の返事にケラケラと笑いながら星野が言い返す。一緒になって笑う森田にも腹が立った。真純の事を何も知らないくせに。そんな言葉が頭に浮かぶが、それは自分も同じだった。離れていた間にきっと何かがあったのだろう。でなければ、再会した真純を見て以前とは別人だ、なんて思わないはずだ。入学式で緊張していた、なんて理由を使える期間はもう過ぎている。クラスメイトの顔と名前は既に一致し始めていたし、授業も始まっていた。しかし、真純は終始周りの視線を気にしていて、一向に自らクラスメイトに声を掛ける事もない。伸びた前髪で顔も隠れたままだ。だが、俺の記憶が正しければ、以前の真純は顔が隠れるほど髪を伸ばしてはいなかったし、溌剌としていて、表情がくるくると変わるという表現がぴったり当てはまるようなやつだった。今の真純とは別人過ぎて、もしかしたら本当に別人だったのかもしれない。一瞬、そんな馬鹿げた事を考えたが、真純は入学式に俺の顔を見るとはっきりと俺の名前を口にした。つまり、人違いではなく、俺が以前から知っているはずの真純なのだ。
「まぁ、遅かれ早かれあいつは学校に来なくなるっしょ」
購買で買った菓子パンの袋を開けながら森田が言った。言わんとしていることはなんとなく分かる。だが、それを森田が分かったように言うのは全然腑に落ちないが。
幸いにも真純の話題はそれ以上広がらず、午後に控えていた学力確認テストの話に変わっていった。
「今日はまずテストの返却からね」
そう言って英語の担当教師の入江茉里奈は授業が始まるなり、順番にクラスメイトの名前を呼び始めた。先日の学力確認テストは、学力別のクラス分けを行うため英語と数学のみ行われた。今後、その二教科は担当教師が二人になり、学力別に教室を分けての授業になるらしい。入江先生に呼ばれ、俺のテストも返却された。結果は七十五点。春休みは勉強を投げ出して遊び倒したのに、まずまずの点数だと思う。まぁ、ほとんど勘で切り抜けた選択問題が功を奏したのだけど。今になって見返すと、あの時どうしてその答えを選んだのか分からないものもあった。答案用紙をざっと眺めていると、真純の名前が呼ばれた。真純がビクッと身体を反応させ、慌ただしく立ち上がった。背中を丸め、おどおどと答案用紙を受取りに行く様子が目立ち、教室の後ろの方でヒソヒソと話す声が聞こえた。だが、テストの点数に一喜一憂する騒ぎの声が大きかったのが幸いし、真純の耳には届かなかったのだろう。真純はテストを先生から受取るとその場で点数を確認することなく座席に戻った。
程なくして全員にテストが返却されると、入江先生は今度は別の用紙を順番に配布し始めた。その用紙は学力に応じて分けられたクラス分け表だった。教室はさっきよりも騒めきが強まる。
「用紙にも書いてある通り、次の授業から教室を二つに分けて授業をします。場所はこの教室と、視聴覚室。このクラス分けは期末テストの後にも見直しが入る予定です」
教室の移動があったら面倒だと思ったが、案の定視聴覚室のクラスだった。喜ばしいのは下のクラスではなかった事ぐらいだが、ついていけるのか不安が残る。名簿を見直すと、森田と星野とは別になってしまたが、真純は同じく視聴覚室で授業を受けるようだった。この時の俺は、来週の教室移動のタイミングで話せれば良いな、と呑気に考えていた。
英語の学力確認テストが返却されてから三日後。この間に数学のテストも返却された。結果は下のクラスで見事に森田と星野と同じクラスになったが、そこに真純はいなかった。確かに昔から頭は良いと思っていた。小学生が苦戦する九九は誰よりも早く覚えていたし、記憶が正しければ、塾や通信教育を受けているわけでもなかったはずだ。吸収力が凄かったのか、自宅学習がただ上手かったのか。当時の俺が勉強に興味のない小学生だったため、そんな話を深くした事はなかった。
今日は英語のクラス別授業初日だった。視聴覚室は二階にあった。授業に必要なものを持って教室を移動しようとすると、俺のすぐ目の前を真純が通り過ぎた。
「あ、真純。待てよ、俺も移動だから」
どうせ止まってくれないと思った。そのまま出て行ってしまったら、追いかけて行こうとも思っていたが、真純は教室の戸に手を掛けたまま、足を止めた。
「え……」
足を止めないに九割、止めてくれるに一割といったほぼ賭けにもならない賭けをしていたため、俺は驚いて目を丸くした。
「……行かないの?」
「え、あっ。ちょ、ちょっと待って」
慌てて教科書とノートを机の中から引っ張り出す。その拍子にペンケースを落とし、中身をぶち撒けた。
「うわっ」
「……大丈夫?」
真純は足元に転がったペンを一本拾うと、俺に差し出した。
「ああ、さんきゅ」
久々に話しかけられた事が嬉しくて、俺の頬が緩みかける。ペンを受け取り、奥歯を噛み締めて堪えたが、顔を上げた真純と視線がぶつかり目が泳いだ。
「恵大、お前何して……」
しゃがみ込んだ俺に星野が声をかけると、真純は肩をびくつかせた。
「なんでもないよ。俺、教室移動なんだわ。行こうぜ、真純」
真純の肩に手を置き、そのまま背中を押して星野を遮り教室を出る。その時、クラスメイトの視線が集まっていることに気がついたが、俺は特に気にしなかった。
「……良いの?」
「え?だってあいつ教室で授業だし」
真純は首を振った。
「そうじゃなくて……」
何を心配しているのか分からないが、真純は教室の方を振り向いた。さっきほどこちらを見ている人がいなかったようで、真純は黙って歩き出す。久々に真純と並んで歩くむず痒さに、俺はブレザーのポケットからスマホを取り出した。
「げ、あと三分でチャイム鳴るぞ」
「えっ」
表示された時刻を真純に見せ、「行くぞっ」の声で駆け出した。俺がもたついたせいで時間を食ったのは明らかだった。中学から思っていたが、空き時間が短過ぎる。教室移動がある生徒のことを考えてほしい。
「ま、待って!」
入学して初めて真純の大きな声を聞いた気がし、心臓が跳ねる。急ぐ足を緩め、階段の踊り場から俺を追いかける真純を待った。
「急げ!」
「い、急いでるってば!」
廊下長すぎ、という文句が上から降ってくる。それがなんだか面白くて、思わず吹き出すと「恵大のせいだからな」と言う文句も降ってきた。
「悪かったって」
「遅刻したら先生に謝るのはそっちね」
そう言って俺を追越し、真純が階段を駆け下りた。
「あ、おい!待ってやったのに!」
俺の声に真純が笑う声がした。幼い頃によく聞いた笑い声が懐かしくて、こめかみがきゅっと締まった。
視聴覚室にはギリギリに滑り込み、俺達は慌てて黒板に書かれた座席表を確認し、それぞれ着席した。席順は真純と前後になった。俺が前で、真純が後ろの席だった。真純は教室に入ると、さっきまでの砕けた表情は消え、自分を隠すように背中を丸めた。
「ギリギリセーフ。あと一分余裕だったな」
さっきの調子で声をかけてみるが、真純は聞こえるか聞こえないかの小さな声で返事をするだけだった。人前で話しているところを見られたくない事情でもあるのだろうか。
結局のところ、その後はまた全然話をしてくれなくなってしまったが、さっき久々に会話が続いたことが嬉しくて、大して気にならなかった。
その日を境に、英語の教室移動の時だけ真純は俺と話すようになった。相変わらず視聴覚室に入ると素っ気なく、人の目を気にする様子は変化がない。それでも、入学当初のビクビクと何かに怯えている様子を思い出すと、今の俺は数分だけでも話せるのが嬉しかった。それに、俺が辞書を忘れた時は後ろから黙って差し出してきたり、解けない問題を質問すれば教えてくれるようにもなった。同じ視聴覚室で授業を受けているクラスメイトもその光景には驚いているようだったが、俺以外が話しかけることはほとんどなかった。
母さんと並んで歩くのは久しぶりだった。つい最近まで顔を合わせるのが心底嫌で仕方なかったのだが、高校受験が終わると同時にその強い嫌悪感がぱったりと消えた。かと言って、急に色々と話せる程距離は戻せていない。特に中学二年生からは何か言えば舌打ちが返ってきたため、母さんも話し掛けることに多少の遠慮が見えていたが、今日はそうでもないらしい。幼い頃、俺が友達とよく遊んでいた芦沢神社を横切ると母さんはそれを横目に口を開いた。
「晴れて良かったわね。絶好の入学式日和だわ」
母さんの弾む声に、俺の眉がぴくりと動く。
「……あんまりはしゃぐなよ。中学からの同級生、割といるんだから」
進学した桐ヶ峰高等学校は、自宅最寄駅から一駅先にある。学力も高くもなく低くもない、ごくごく一般的な公立校のため、同じ中学出身の同級生が多かった。つまり、人目は多い。親がはしゃいでいる所を同級生には特に見られたくなかった。
「意味わからないんだけど」
「だからさぁ」
何度も説明しなければ分からないのか、と苛立ちが増したが、そういうわけではないらしい。
「あのねぇ。息子の晴れの日にはしゃがない親なんていないでしょ」
息子に嗜められた母は口をへの字に曲げて言い返す。通りで、と言いかけて俺は口を噤んだ。先月末のうちにクリーニングに出していたフォーマルスーツのカバーを、昨晩上機嫌で外しているのを見かけたし、今朝は早くから慌ただしく家を出て、俺に指定した出発ギリギリの時刻に戻って来た。どうやら美容院でヘアセットを仕上げてもらったらしい。そうやって時間をかけて準備していたのを目の当たりにしていたのもあり、これ以上強くは言えない。
「……はいはい。じゃあ、学校着いたら即別行動な」
「だめ。校門のところでツーショット撮るまで帰らないからね」
「ハァ?無理。勘弁してよ」
「勘弁してあげてるわよ。たった一枚よ」
「その一枚が、めちゃくちゃ嫌なんだけど」
恥ずかしいのと面倒くさいのと、どんな顔をしてレンズに視線を向ければ良いのかと、頭の中に言いたい事が山のように浮かぶ。何よりも、今日は父さんがどうしても抜け出せない仕事で欠席だというのに、誰にカメラマンを頼むというのだ。
「あのね、あなたの高校の入学式は人生でたった一日しかないの!今日は大事な日なの。わかる?」
「別に……ただの入学式だろ」
「人生に、一度きりの!でしょ」
強めに言い直す母さんの勢いは激しく、今日は絶対に退きそうにないことを悟った俺は、肩を落としながら溜息を吐くと「分かりました」と、力無く答えた。
学校へ着くと、校門の前に多くの親子が代わる代わる写真を撮っていた。校門を入って直ぐに桜の木が植えられているため、写真映えもするのだろう。ここのところ天気は曇りがちで咲くに咲けなかった桜が今日という日に精を出していた。俺は母さんの「ほら、みんなやっているじゃない」の一言にそっけないな返事を返すと、渋々写真を撮った。満足した母さんに連れられ、校門の中へ入ると、「新入生はこちら」と書かれたプレートを持った生徒が立っていた。その腕には生徒会と書かれた腕章が付いている。保護者はどうやら体育館へ直接向かうらしい。
「じゃあ、しっかりね」
「はいはい」
嬉しそうにスマホの写真を眺める母さんに、俺は溜息を吐く。同時に中学の入学式に入場の際に目が合って手を振られたのを思い出した。お願いだからこれ以上、浮かれないで欲しい。そう願いながら母さんと別れると、プレートの案内に従って昇降口へと向かった。体育館からも見える昇降口の前には、大きなパーテーションが出されていて、新入生のクラス割りが貼り出されていた。俺は新品の制服に身を包んだ同級生の中に混じり、自分の名前を探した。こういう時、小鳥遊恵大という名前は目立って探しやすい。すぐに自分のクラスが三組だと分かり、なんとなく同じ中学から進学した見知った名前を探した。特に仲の良かった間柄ではないが、知った顔がクラスに居るのと居ないのとでは心持ちも違うだろう。三組の名簿を上から順に追っていくと、俺はとある名前で視線を止めた。見間違いかと思い、別のクラスの名簿に視線を動かすが、直ぐ様また自分のクラス名簿へ目を向ける。一瞬で腹のあたりがじわりと熱くなった。その名前を目にするのは久々で、また会えると思うと思わず頬が緩みかけた。俺がクラス名簿の中で見つけた不破真純という同級生の名前は、同姓同名の他人でなければ、数年前に急に転校して音信不通になった幼馴染の名前だった。
一年生のクラスは三階建ての校舎の最上階にあった。階段で息切れをするのも気せず、とにかく足早に教室へ向かった。昨晩までは新しい環境に慣れるまでは大人しくしておこうとか、先ずは同じ中学出身のクラスメイトと連めば良いだとか、クラスに馴染めるまでは目立つことなく過ごしていようと考えていたはずだった。俺はは最後の二段を一気に上がり、息を整えてから教室へ向かう。頭の中で数回、真純の名前を呼ぶシュミレーションをした。緊張と興奮で鼻の穴が膨らむ。にやける顔をほんの少しだけ下げると、教室のドアに手をかけた。ドアを開け、瞬時に教室を見渡す。黒板には席順の書かれた模造紙が貼り出されていた。自分の名前が教卓前の席に書かれているのを確認すると、幼馴染の名前を探した。不破という名字は窓際列の一番前に書かれており、その席へ視線を向けた。
……居た!
身体中が急に熱くなり、俺はゆっくりと息を吸い込んだ。
「……真純っ!」
さっきまではしゃぐなと母さんを嗜めていた自分を棚に上げて、弾んだ声で幼馴染の名前を呼び、自席を通り過ぎて彼の席へと駆け寄った。
「…………え、恵大?」
真純と呼ばれた男子生徒が恐る恐る顔を上げ、重そうな前髪の隙間から俺の顔を見上げた。
「久しぶりだな、何年振りだ?ていうか、こっちに戻って来たんだな!」
「……あ、まぁ……ちょっと前に」
「なんだよ、教えてくれれば良かったのに」
「……ごめん」
「いや、引越しとか忙しかったんだろ?別に良いって。また会えたしさ」
嬉しそうに答える俺に対し、真純は気不味そうに下を向いて頷いた。その様子に恵大は眉を顰めた。
「……もしかして、体調悪いのか?」
確かにここ最近は曇りや雨が続いていた。桜も咲くのを躊躇したぐらいに天候と気温差が激しく、体調を崩してもおかしくはない。しかし、真純は首を振った。
「ならどうした?」
真純の顔を覗き込むと、真澄は直ぐに顔を背けた。
「……別に、なんでもない」
真純は小さな声で答えた。その声は若干震えており、だんだんと尻切れのように小さくなっていく。何に怯えているのかはわからないが、目だけはキョロキョロと教室中を気にしているようで、俺とは目が一度も合わない。その仕草や態度が記憶の中の真純とは噛み合わない気がして、もやっとした収まりの悪い何かが渦を巻いた。
「あー……まぁ、緊張するよな。あ、俺は真純が居てめちゃくちゃホッとしたけど」
「……そうなんだ」
ボソリと答える真純は、これ以上俺との会話を望んでいないように見えた。
「あの、さ」
再び声を掛けようとするのと同時に、チャイムが響いた。騒がしい教室に一瞬の静寂が広がると、前のドアから担任だろう教師が入って来た。
「みんな、席に着いて。これから入学式の流れを説明するから」
彼女の声に、立ち歩いていた生徒達が座席へと移動する。椅子の引く音が響く中、俺は真純に「また後でな」と耳打ちすると、慌ただしく席に着いた。
入学式は滞りなく終わった。よく知らない来賓挨拶は眠くて仕方がなかったが、それを乗り越えて教室に戻ると、ホームルームは担任の須川美桜の自己紹介だけで呆気なく終わった。現代文の担当教諭らしく、明後日から開始となる授業が楽しみだと言っていた。明日はまだオリエンテーションが続き、教科書の配布や学校内案内や施設利用についての話があるらしい。授業より気が楽な分、ホームルーム中の空気はゆったりとしていた。俺は須川先生の話を聞きながら、視線だけ真純へ向けた。長い髪で覆われたせいで顔は全く窺えないが、下を向いてただ時間が過ぎるのを待っているのが見て取れた。
須川先生の話が一通り終わると、その日は下校となった。もう一度真澄に声を掛けようと思っていたが、真純はホームルームが終わるとそそくさと教室を出て行ってしまった。
校門の外で待っているだろう母さんと合流すると、遅めの昼食を摂りに出かけた。駅前のファミレスに腰を落ち着けると、俺は母さんに言われてクラス名簿を見せた。俺と同様に同じ中学から進学したクラスメイトの名前を見つけると、安心したような顔を見せる。だが、やはり同じところで引っかかったのだろう。
「ねぇ、この不破真純って、真純くん?」
母さんの問いに黙って頷き、先程ドリンクバーから持ってきたコーラに口を付けた。
「最近戻って来たらしいよ」
「話せたんだ?」
「まぁ……本当に少しだけど」
「そう」
母さんが難しい顔をして名簿をテーブルに置いた。手元にあったコーヒーを口に付け、一息付くと少し間を置いてから再び口を開く。
「元気そうだった?」
「元気っつーか……なんか、変わったというか……まぁ、緊張かな。落ち着かない感じだった」
俺は見たままを伝えた。とにかく説明が難しい、と思った。以前、と言っても六年以上前の話になるが、真純はもっと活発でハキハキとした物言いをしていたように思える。まぁ、久々に帰って来た地元だし、緊張するのは仕方がない。母さんは俺の返答に何か言いたげな顔をしていたが、丁度注文していたドリアが自分の前に運ばれて来たため、何も言わなかった。俺のハンバーグステーキもその後すぐにやって来て、真純の話は一旦これでお終いになった。
だが、真純は次の日もずっと何かに怯えているような様子だった。ホームルームで自己紹介が回ってきても、恐る恐る立ち上がり、小さな震えた声で名前を言った。相変わらず重そうで長い髪の毛で表情は隠れていて、真純が話している時だけ周りの空気がしんと冷たくなるのを感じた。
次の日も、その次の日も。入学式から二週間が経ち、クラスの雰囲気から緊張が徐々に解れていっても、真純だけは緊張を解かず、周囲を気にして何かに怯えた様子だった。その間、昼休みに一緒に弁当を食べようと何度か声を掛けてみたが、おどおどした態度はそう簡単には変わらず、返答もしないまま振り返りもせずに教室を出て行ってしまった。
「恵大、もう放っておけよ」
「そうそう。ずっとビクビクしてるし、絶対絡んじゃダメなやつだろ」
同じ中学出身の森田と星野が呆れ気味に言った。
「まず絡んでもないだろ」
「だから、絡んじゃダメなんだってば」
俺の返事にケラケラと笑いながら星野が言い返す。一緒になって笑う森田にも腹が立った。真純の事を何も知らないくせに。そんな言葉が頭に浮かぶが、それは自分も同じだった。離れていた間にきっと何かがあったのだろう。でなければ、再会した真純を見て以前とは別人だ、なんて思わないはずだ。入学式で緊張していた、なんて理由を使える期間はもう過ぎている。クラスメイトの顔と名前は既に一致し始めていたし、授業も始まっていた。しかし、真純は終始周りの視線を気にしていて、一向に自らクラスメイトに声を掛ける事もない。伸びた前髪で顔も隠れたままだ。だが、俺の記憶が正しければ、以前の真純は顔が隠れるほど髪を伸ばしてはいなかったし、溌剌としていて、表情がくるくると変わるという表現がぴったり当てはまるようなやつだった。今の真純とは別人過ぎて、もしかしたら本当に別人だったのかもしれない。一瞬、そんな馬鹿げた事を考えたが、真純は入学式に俺の顔を見るとはっきりと俺の名前を口にした。つまり、人違いではなく、俺が以前から知っているはずの真純なのだ。
「まぁ、遅かれ早かれあいつは学校に来なくなるっしょ」
購買で買った菓子パンの袋を開けながら森田が言った。言わんとしていることはなんとなく分かる。だが、それを森田が分かったように言うのは全然腑に落ちないが。
幸いにも真純の話題はそれ以上広がらず、午後に控えていた学力確認テストの話に変わっていった。
「今日はまずテストの返却からね」
そう言って英語の担当教師の入江茉里奈は授業が始まるなり、順番にクラスメイトの名前を呼び始めた。先日の学力確認テストは、学力別のクラス分けを行うため英語と数学のみ行われた。今後、その二教科は担当教師が二人になり、学力別に教室を分けての授業になるらしい。入江先生に呼ばれ、俺のテストも返却された。結果は七十五点。春休みは勉強を投げ出して遊び倒したのに、まずまずの点数だと思う。まぁ、ほとんど勘で切り抜けた選択問題が功を奏したのだけど。今になって見返すと、あの時どうしてその答えを選んだのか分からないものもあった。答案用紙をざっと眺めていると、真純の名前が呼ばれた。真純がビクッと身体を反応させ、慌ただしく立ち上がった。背中を丸め、おどおどと答案用紙を受取りに行く様子が目立ち、教室の後ろの方でヒソヒソと話す声が聞こえた。だが、テストの点数に一喜一憂する騒ぎの声が大きかったのが幸いし、真純の耳には届かなかったのだろう。真純はテストを先生から受取るとその場で点数を確認することなく座席に戻った。
程なくして全員にテストが返却されると、入江先生は今度は別の用紙を順番に配布し始めた。その用紙は学力に応じて分けられたクラス分け表だった。教室はさっきよりも騒めきが強まる。
「用紙にも書いてある通り、次の授業から教室を二つに分けて授業をします。場所はこの教室と、視聴覚室。このクラス分けは期末テストの後にも見直しが入る予定です」
教室の移動があったら面倒だと思ったが、案の定視聴覚室のクラスだった。喜ばしいのは下のクラスではなかった事ぐらいだが、ついていけるのか不安が残る。名簿を見直すと、森田と星野とは別になってしまたが、真純は同じく視聴覚室で授業を受けるようだった。この時の俺は、来週の教室移動のタイミングで話せれば良いな、と呑気に考えていた。
英語の学力確認テストが返却されてから三日後。この間に数学のテストも返却された。結果は下のクラスで見事に森田と星野と同じクラスになったが、そこに真純はいなかった。確かに昔から頭は良いと思っていた。小学生が苦戦する九九は誰よりも早く覚えていたし、記憶が正しければ、塾や通信教育を受けているわけでもなかったはずだ。吸収力が凄かったのか、自宅学習がただ上手かったのか。当時の俺が勉強に興味のない小学生だったため、そんな話を深くした事はなかった。
今日は英語のクラス別授業初日だった。視聴覚室は二階にあった。授業に必要なものを持って教室を移動しようとすると、俺のすぐ目の前を真純が通り過ぎた。
「あ、真純。待てよ、俺も移動だから」
どうせ止まってくれないと思った。そのまま出て行ってしまったら、追いかけて行こうとも思っていたが、真純は教室の戸に手を掛けたまま、足を止めた。
「え……」
足を止めないに九割、止めてくれるに一割といったほぼ賭けにもならない賭けをしていたため、俺は驚いて目を丸くした。
「……行かないの?」
「え、あっ。ちょ、ちょっと待って」
慌てて教科書とノートを机の中から引っ張り出す。その拍子にペンケースを落とし、中身をぶち撒けた。
「うわっ」
「……大丈夫?」
真純は足元に転がったペンを一本拾うと、俺に差し出した。
「ああ、さんきゅ」
久々に話しかけられた事が嬉しくて、俺の頬が緩みかける。ペンを受け取り、奥歯を噛み締めて堪えたが、顔を上げた真純と視線がぶつかり目が泳いだ。
「恵大、お前何して……」
しゃがみ込んだ俺に星野が声をかけると、真純は肩をびくつかせた。
「なんでもないよ。俺、教室移動なんだわ。行こうぜ、真純」
真純の肩に手を置き、そのまま背中を押して星野を遮り教室を出る。その時、クラスメイトの視線が集まっていることに気がついたが、俺は特に気にしなかった。
「……良いの?」
「え?だってあいつ教室で授業だし」
真純は首を振った。
「そうじゃなくて……」
何を心配しているのか分からないが、真純は教室の方を振り向いた。さっきほどこちらを見ている人がいなかったようで、真純は黙って歩き出す。久々に真純と並んで歩くむず痒さに、俺はブレザーのポケットからスマホを取り出した。
「げ、あと三分でチャイム鳴るぞ」
「えっ」
表示された時刻を真純に見せ、「行くぞっ」の声で駆け出した。俺がもたついたせいで時間を食ったのは明らかだった。中学から思っていたが、空き時間が短過ぎる。教室移動がある生徒のことを考えてほしい。
「ま、待って!」
入学して初めて真純の大きな声を聞いた気がし、心臓が跳ねる。急ぐ足を緩め、階段の踊り場から俺を追いかける真純を待った。
「急げ!」
「い、急いでるってば!」
廊下長すぎ、という文句が上から降ってくる。それがなんだか面白くて、思わず吹き出すと「恵大のせいだからな」と言う文句も降ってきた。
「悪かったって」
「遅刻したら先生に謝るのはそっちね」
そう言って俺を追越し、真純が階段を駆け下りた。
「あ、おい!待ってやったのに!」
俺の声に真純が笑う声がした。幼い頃によく聞いた笑い声が懐かしくて、こめかみがきゅっと締まった。
視聴覚室にはギリギリに滑り込み、俺達は慌てて黒板に書かれた座席表を確認し、それぞれ着席した。席順は真純と前後になった。俺が前で、真純が後ろの席だった。真純は教室に入ると、さっきまでの砕けた表情は消え、自分を隠すように背中を丸めた。
「ギリギリセーフ。あと一分余裕だったな」
さっきの調子で声をかけてみるが、真純は聞こえるか聞こえないかの小さな声で返事をするだけだった。人前で話しているところを見られたくない事情でもあるのだろうか。
結局のところ、その後はまた全然話をしてくれなくなってしまったが、さっき久々に会話が続いたことが嬉しくて、大して気にならなかった。
その日を境に、英語の教室移動の時だけ真純は俺と話すようになった。相変わらず視聴覚室に入ると素っ気なく、人の目を気にする様子は変化がない。それでも、入学当初のビクビクと何かに怯えている様子を思い出すと、今の俺は数分だけでも話せるのが嬉しかった。それに、俺が辞書を忘れた時は後ろから黙って差し出してきたり、解けない問題を質問すれば教えてくれるようにもなった。同じ視聴覚室で授業を受けているクラスメイトもその光景には驚いているようだったが、俺以外が話しかけることはほとんどなかった。



