沈黙の鬼神は愛を語れない 〜心を翻訳する少女と、冷酷総帥の極上筆談婚姻〜

宗介たちが嵐のように去った後、柳生家の屋敷には、表面上はいつも通りの静寂が戻ってきた。
けれど、応接室のテーブルに残された、眞白様の圧倒的な魔力によって粉々に砕け散った磁器の破片が、先ほどの緊迫した空気を何よりも雄弁に物語っていた。

自室に戻った私は、ドクドクと未だに早く脈打つ胸を押さえながら、ベッドの端に腰掛けていた。

(本当に……凄まじい怒りだった……)

実家にいた頃、父親や紗香(さやか)が私に向けていたのは、ジトジトとした粘着質で、自己中心的な悪意の塊だった。それは私を精神的に摩耗させ、ただただ恐怖を植え付けるだけの黒い嵐だった。
けれど、先ほど眞白様が放ったのは、純然たる「私のための怒り」だ。
私の尊厳が傷つけられたことに、彼自身が傷つき、そして世界を敵に回してでも私を守ろうとしてくれた、猛烈なまでの愛の裏返し。

(嫌われるなんて、あるはずがないのに。あんなに愛されているのに、どうして眞白様はあんなに不安そうな顔をするのかしら)

不器用で、自分の力を恐れている、私の優しい旦那様。
彼の孤独の深さを知るたびに、私の心の中には、彼を丸ごと包み込んであげたいという、今までに抱いたことのない強い感情が芽生えていくのを感じていた。

やがて夜の帳(とばり)が下り、窓の外には美しい満月が浮かび上がった。
コンコン、と静かに扉がノックされ、斎藤(さいとう)さんが夕食の準備が整ったことを告げにやってきた。

食堂へ向かうと、そこには既に軍服から上質な漆黒の着物へと着替えた眞白様が座っていた。
いつも以上に隙のない佇まい。けれど、私が部屋に入った瞬間、彼の夜の海のような瞳が微かに揺れ、その頭上から、待ってましたとばかりに、ふわりと『淡い桜色の煙』が立ち上った。

(あ、ちょっと安心しているみたい……)

眞白様は無言のまま、私のために椅子を引いてくれた。
テーブルの上に並べられたのは、信じられないほど豪華で、けれど私の胃に優しそうな、出汁の効いた和食のフルコースだった。実家では冷え切った残り物しか与えられなかった私にとって、湯気が立ち上る温かい料理は、それだけで涙が出そうになるほど贅沢なものだ。

眞白様はすぐにノートを取り出し、サラサラと文字を書いた。

「今日の騒動で、食欲が落ちていないか心配だった。これはお前の体調に合わせて、料理長に特にお願いして作らせたものだ。口に合うと良いのだが」

「……っ、ありがとうございます! 眞白様、とっても美味しそうです!」

私が笑顔で箸を付けると、眞白様はそれを見つめながら、満足そうに小さく頷いた。
……が、彼の頭上の煙は、相変わらず私の心臓を直撃するような過保護な文字を、これでもかと紡ぎ出していた。

『愛おしい。お前が美味しそうに食べる姿を見るだけで、私の胸はこれ以上ないほどに満たされる。千歳家での飢えを、私がこれから一生をかけて償ってやろう。もっと肉をつけて、私好みの柔らかい身体になってくれ。……いや、今でも十分に柔らかく、抱き締めるたびに理性が融けてしまいそうなのだが』

「っ……ふぐっ、」

お吸い物を飲もうとした瞬間、脳内に流れ込んできた「私好みの柔らかい身体」という濃厚な本音に、私は思わず激しくむせてしまった。
ゲホゲホと咳き込む私に、眞白様は目に見えて大慌てし、ガタッと椅子を蹴立てて立ち上がると、すかさず私の背中を大きな手で優しく擦り始めた。

その手つきは、まるで壊れやすい硝子細工(ガラスざいく)を扱うかのように、驚くほど繊細で、温かい。

(もう……眞白様、そんな恥ずかしいことを考えているからですよ……!)

私は心の中で赤面しながら、彼の過保護な手を受け入れていた。
彼の無表情な顔と、頭上の『超特濃ピンク色の煙』のギャップは、本当に私の心臓に悪すぎる。

◇◇◇

波乱の一日が終わり、ついに夜の深い時間がやってきた。
お風呂を済ませ、薄いシルクの寝間着に着替えた私は、主寝室の大きなベッドの上で、緊張のあまり身を固くしていた。

昨夜も同じベッドで眠ったけれど、今夜は、昼間に見せられた眞白様の圧倒的な独占欲と、夕食時のあの「肉食獣のような本音」のせいで、意識せずにはいられない。

カチャリ、と静かに扉が開き、お風呂上がりの眞白様が入ってきた。
髪が少し濡れており、いつもより色気が増している。そして何より、寝室では彼はいつも、口元を覆う黒布を、少しだけ薄い、より通気性の良いものに替えている。それでも、彼の素顔は隠されたままだ。

眞白様はベッドの縁に腰掛けると、サイドテーブルのノートではなく、小さな手帳に文字を書いて私に見せた。

「紬。……今日の宗介の言葉は、すべて忘れるがいい。お前は出来損ないなどではない。柳生家の長老たちが何を言ってこようと、私は一切耳を貸すつもりはない」

彼の真っ直ぐな視線が私を射抜く。
「私は、お前以外の者を妻とするつもりはない。お前だけが、私の世界を静寂で満たしてくれる唯一の存在だ」

(眞白様……)

ノートの文字だけでも十分に胸が熱くなるのに、彼の頭上の煙は、もはや爆発寸前のマグマのように、狂おしいほどの情愛の文字を、ドクドクと湧き上がらせていた。

『本家の老人どもが、私の妻に別の女を宛がおうと画策していることは知っている。だが、そんなことをすれば、私は本当に本家をその手で滅ぼすだろう。私に必要なのは、目の前で今にも泣きそうな顔をして私を見つめている、この愛らしい少女だけだ。……ああ、お前を今すぐこの腕の中に閉じ込め、他の誰の目にも触れさせたくない』

その煙の文字が、視界を埋め尽くす。
その瞬間、私は確信した。この人は、言葉が出ない代わりに、心のすべてを使って私を愛してくれているのだと。

私は、ベッドの上に置かれていた眞白様の手帳をそっと取り上げ、彼の万年筆を借りて、自分の文字を書き記した。

『眞白様。私を貴方の妻にしてくださって、本当にありがとうございます。本家の人たちが何を言っても、私は眞白様のそばを離れません。貴方の不器用な優しさを、私が一番よく知っているから』

それを読んだ眞白様の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
彼の手帳に、私の歪な文字で書かれた、不器用な誓い。

「……っ」

眞白様は、ノートも万年筆もすべてシーツの上に放り出すと、もの凄い勢いで私をベッドの上へと押し倒した。

(ひゃあ……っ!?)

一瞬の浮遊感の後、私の視界は、眞白様の広い胸板と、夜の海のような瞳だけで満たされた。
両手首を、彼の大きな手のひらで優しく、けれど絶対に逃がさないという強い力でベッドに縫い付けられる。
見上げる彼の頭上からは、もはやピンク色を超えて、神々しいまでの『純金色の煙』が、部屋の天井を覆い尽くすように激しく渦巻いていた。

『限界だ。これ以上、紳士の振る舞いを続けるなど、聖人君子でも不可能だ。お前がそんな健気な言葉を紡ぐから、私はお前を完全に「壊して」しまいたくなる。……声を失った私の、この狂おしいほどの愛の熱さを、お前のその白い肌に、その鼓動に、永遠に刻みつけてやる――』

(眞白様……、本音が……本音が凄すぎて、私、どうにかなっちゃいそうです……っ)

眞白様は、自由になった片手で、ついに自分の口元を覆っていた薄い布へと手をかけた。
ゆっくりと、呪符の施された布が外されていく。

月の光に照らされて露わになったのは、神が天上の美をすべて注ぎ込んだかのような、 圧倒的に美しく、そしてどこか妖艶な、眞白様の本当の唇だった。
声を失ったはずの、その美しい唇が、微かに震えながら、私の耳元へと近づいてくる。

声は出ない。けれど、彼の唇が、私の耳たぶにそっと触れた瞬間――。
彼の胸の奥から、言葉にならない、けれど世界で一番熱い「愛の心音」が、私の異能を通して、脳内にダイレクトに響き渡った。

『――愛している、紬。お前を、誰にも渡さない』

「……ん……っ」

そのまま、彼の美しい唇が、私の唇を深く、深く、塞ぎ込んでいった。
白檀の香りと、彼の体温が、私のすべてを支配していく。
言葉のない世界の、どこまでも甘く、過保護で、危険な初夜の続きが、今、本当の意味で幕を開けようとしていた。