沈黙の鬼神は愛を語れない 〜心を翻訳する少女と、冷酷総帥の極上筆談婚姻〜

柳生家の屋敷に朝が来るたび、私は自分が「呼吸の仕方」をようやく思い出したかのような、不思議な開放感に包まれる。

かつての私にとって、朝は絶望の始まりだった。
実家の千歳家では、目が覚めた瞬間に壁越しに伝わってくる使用人たちの嫉妬、妹の紗香の冷酷な嘲笑、そして父親の強欲な計算が、ドス黒い文字の煙となって私の視界を埋め尽くしていたからだ。
他人の悪意を強制的に翻訳してしまう私の異能にとって、実家はまさに、逃げ場のない精神の牢獄だった。

けれど、今の私の隣には――。

(……温かい)

シーツ越しに伝わってくる、一定のリズムを刻む力強い心音。
私の腰を優しく、けれど独占するように抱き締めている、眞白様の腕。
ふわりと鼻先を掠める、彼独自の高貴な白檀(びゃくだん)の香りに、私は深く安堵のため息を吐いた。

昨夜、私たちは初めて主寝室で夜を共にした。
「防衛上の条件」という建前を使いながら、頭上の煙では「一週間前から抱き締めて眠るのを待ち望んでいた」と、とろけるような本音を溢れさせていた、愛おしい私の旦那様。

見上げると、口元を漆黒の布で覆った眞白様が、ゆっくりと目を覚ますところだった。
長い睫毛(まつ毛)が微かに震え、深い夜の海のような瞳が私を捉える。
その瞬間、彼の頭上からは、いつものように一点の曇りもない『純白の煙』が立ち上った。

(おはようございます、眞白様)

私が心の中で語りかけると、眞白様は無言のまま、私の額にそっと柔らかな唇を寄せた。布越しではあるけれど、そこにはどんな甘い言葉よりも深い慈しみがあった。

眞白様は枕元のノートを手に取ると、流麗な動作で文字を走らせる。

「よく眠れたか。夜中にうなされることもなかったようで、安心した」

「はい。眞白様の腕の中が、世界で一番、静かで温かいから……」

私の答えに、眞白様の頭上の煙が、ふわりと薄いピンク色に染まる。
彼は少しだけ照れたように視線を逸らすと、再びノートにペンを走らせた。

「……お前にそう言われると、私は自分の呪いすら、初めて肯定したくなる。声を失い、嘘をつけなくなったことが、お前と出会うための代償だったのだとしたら」

(眞白様……)

彼の「本音」が視えてしまう私には分かった。
眞白様は、その圧倒的な力と美貌の裏で、声を失った自分の存在を、ずっと「欠陥品」のように思って孤独に耐えてきたのだということが。

朝食を済ませた後、眞白様はいつになく真剣な表情で、私にある場所へ行こうと誘ってくれた。

「紬。お前には、私のすべてを知っておいてほしい。私がなぜ声を失ったのか、そして、なぜお前でなければならなかったのか。……屋敷の奥にある『静寂庫(せいじゃくこ)』へ案内しよう」

◇◇◇

柳生邸の最深部。
幾重もの強力な結界に守られた廊下の突き当たりに、その重厚な鉄の扉はあった。
眞白様が指先で印を結び、扉に触れると、鈍い音を立ててその禁忌の領域が開かれた。

室内は、天井まで届くほどの書架に埋め尽くされていた。
けれど、そこに並んでいるのは一般的な書籍ではない。すべてが古の魔術や呪言(じゅごん)を記した巻物や、柳生一族の血脈の記録だった。

眞白様は部屋の中央にある古い石碑の前で立ち止まると、私を隣に呼び寄せ、一冊の古びた手帳を開いて見せた。

「我が一族、柳生家は、古来より『言霊(ことだま)』を操る一族だ。放った言葉はそのまま現実を書き換える魔力となる。だが、私の代でその力は、あまりにも強くなりすぎた」

眞白様のノートの文字が、どこか哀しげに震える。

「私が五歳の時だ。父と母を亡くし、その悲しみのあまりに、私は初めて『叫び』を上げた。……その一言だけで、当時の柳生の本邸は跡形もなく砕け散り、周囲にいた護衛の半分が、私の言霊による衝撃で再起不能になった」

(……そんな……たった、一言で?)

驚愕する私に、眞白様は淡々と、けれど重い真実を綴り続ける。

「私の言葉は、愛する者も、守るべき者も、すべてを無差別に破壊する『凶器』へと成り果てた。だから、私は自ら声を封じた。口元を呪符の布で覆い、二度と誰をも傷つけないように。……それが、この『鬼神』と呼ばれる男の正体だ」

眞白様が口元の布に触れる。その頭上の『純白の煙』が、激しく、悲痛な色を帯びて波打った。

『私は、愛する者をこの声で壊すのが怖かった。だから、お前が現れるまで、私は誰のことも愛さないと決めていたのだ。だが……』

文字が、私の瞳に焼き付くように形成される。

『お前の異能――「心音の翻訳」だけが、私の声を必要とせず、私の魂に直接触れてくれた。お前だけが、私の凶器に怯えず、私の真実に微笑んでくれた。……紬。お前は私の、唯一の光なのだ』

(眞白様……!)

私はたまらず、眞白様の広い胸へと飛び込んだ。
彼がこれほどまでに深い絶望と、自制の中で生きてきたなんて。
最強の総帥、鬼神。そう呼ばれる彼の内側は、誰よりも優しく、誰よりも「愛すること」を恐れていた一人の青年だったのだ。

「眞白様、私は怖くありません。貴方の声が世界を壊すというのなら、私がそのすべてを翻訳して、美しい物語に変えてみせます。私のこの異能は、きっと、眞白様の寂しさを埋めるためにあったのだから」

私の言葉に、眞白様の大きな手が、私の背中を強く、強く抱き締めた。
嘘をつくことができない彼の心から、溢れんばかりの『情愛』と『救済』の文字が溢れ出し、純白の煙が、部屋全体を包み込むような温かい金色へと変わっていく。

けれど。
そんな二人の聖域を切り裂くように、斎藤さんが慌てた様子で静寂庫の入り口に現れた。

「旦那様! 申し訳ございません、特務軍本部より緊急の連絡が。……柳生本家の『監視役』を名乗る御仁(ごじん)が、門前に到着されたとのことです」

(監視役……?)

その言葉を聞いた瞬間、眞白様の瞳が、一瞬にして氷のような冷徹な輝きを取り戻した。
彼の頭上の煙が、先ほどまでの甘さを消し去り、鋭い『拒絶』の色を帯びる。

「……来たか。本家は、私が千歳家の娘を娶(めと)ったことが、よほど気に食わないらしいな」

眞白様は私を背後に隠すようにして立ち上がると、ノートに一言、こう書き記した。

「心配するな、紬。誰が来ようと、私がお前を『出来損ない』などと呼ばせることは二度とない。……私の妻を侮辱する者は、本家の人間であろうと、容赦はしない」

平穏だった新婚生活に、柳生一族という巨大な壁が立ちはだかろうとしていた。