小鳥のさえずりと、遮光カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝の光が、私の意識をゆっくりと浮上させた。
(……ん……っ)
まだ半分眠気に囚われた頭で、身体を動かそうとする。けれど、私の身体は、まるで行く手を阻むように心地よい重みと温もりに包まれていて、身動きが取れなかった。
微かに漂う、高貴な白檀(びゃくだん)の香りと、シーツの清潔な匂い。
その瞬間、昨夜の出来事が鮮明に脳裏に蘇り、私の目は一気に覚醒した。
(そうだ……私、昨夜から眞白(ましろ)様と同じベッドで……!)
恐る恐る視線を動かすと、すぐ目の前に、均整の取れた広い胸板があった。
私は今、柳生眞白という「沈黙の鬼神」と恐れられる男の腕の中に、すっぽりと収まった状態で朝を迎えていたのだ。彼の長い腕は私の腰を優しく、けれど容易には逃がさない強さで抱き締めている。
見上げると、寝ている時すら口元を薄い黒布で覆った眞白様の、彫刻のように美しい寝顔があった。長い睫毛(まつ毛)が影を落とし、いつも戦場で血を流している男とは思えないほど、その表情は穏やかだった。
そして、何よりも私の目を奪ったのは、彼の頭上にゆらゆらと漂う煙だった。
目覚める直前の無意識の領域。そこに浮かんでいたのは、一点の曇りもない、どこまでも澄み切った『純白の煙』。そこには何の文字も結ばれておらず、ただ私を包み込む温かいお日様のような気配だけが満ちていた。
(本当に……この人の心には、嘘も悪意も、何一つないんだ……)
実家にいた頃は、朝起きると同時に、使用人たちの陰口や家族の強欲な本音が、黒い文字の嵐となって私の脳内に流れ込んできていた。朝を迎えることが、私にとっては恐怖でしかなかったのだ。
それなのに、この腕の中は、不気味なほどに静かで、そして息が苦しくなるほどに優しい。
私がそんな感動に浸りながら彼の寝顔を見つめていると、眞白様の長い睫毛がピクリと動いた。
ゆっくりと開かれた夜の海のように深い瞳が、まっすぐに私を捉える。
「……っ」
至近距離で視線が交わり、私は思わず息を呑んだ。
寝起きでまだ少し潤んだ瞳が私を見た瞬間――彼の頭上の純白の煙が、まるで爆発でもしたかのように、一瞬にして鮮やかな大輪の薔薇色(ピンク色)へと染まった。
『――ッ!?』
眞白様は目に見えて動転し、ガバッと勢いよく上半身を起こした。
あまりの勢いに、私はシーツの上に転がりそうになる。
彼は口元の布を片手で強く押さえ、完全に私から顔を背けてしまった。わずかに見える耳の裏まで、真っ赤に染まっている。
(あ、またもの凄く照れてる……!)
無表情のまま、頭上の煙だけで大パニックを起こしている旦那様が、愛おしくてたまらない。
眞白様はサイドテーブルに置かれていた革表紙のノートと万年筆をひったくるような動作で手に取ると、凄まじい速度でペンを走らせた。
『おはよう、紬。……すまない、寝起き早々に見苦しいところを。腕が痺(しび)れたり、痛んだりはしていないか? お前があまりにも小さくて柔らかいものだから、無意識に力が強くなってしまっていたかもしれない』
差し出されたノートの文字を読み、私はぶんぶんと激しく首を振った。
「いいえ! とっても温かくて、生まれて初めて、こんなに安眠できました。どこも痛くありません!」
私が満面の笑みでそう答えると、彼の頭上のピンク色の煙が、さらに甘く、とろけるような形へと歪んだ。
『……反則だ。そんな無防備な笑顔を向けられたら、朝から理性を保てる自信がなくなる。今すぐその薄い唇を塞いで、再びベッドに引きずり込みたくなってしまうではないか。私は本当に、この可愛い妻に対してどこまで我慢ができるのだろうか』
「~~っっ!!」
ノートには一言も書かれていない「男としての本音」が、煙の文字となって私の脳内にダイレクトに突き刺さる。
今度は私の方が顔を真っ赤にする番だった。お互いに顔を赤くしたまま、しばらく沈黙の時間が流れる。言葉はないのに、部屋の中の空気の温度がどんどん上がっていくのが分かった。
コンコン、と絶妙なタイミングで扉が叩かれたのは、それから数分後のことだった。
「主(あるじ)、奥様。お目覚めでしょうか。朝食の準備が整っております」
斎藤(さいとう)さんの落ち着いた声に、私は救われたような気持ちで「はい、今参ります!」と応じた。
◇◇◇
爽やかな朝食を終えた後、眞白様は再びノートを取り出し、私にある提案をしてくれた。
『今日、特務軍の任務は休みだ。お前は千歳家から着の身着のままでやってきたのだろう。必要な身の回りの品や、お前が気に入るような服を買いに行きたい。……私と共に、街へ出かけないか?』
「お出かけ……デート、ですか?」
私が目を輝かせて問いかけると、眞白様は少しだけ気恥ずかしそうに目を逸らし、小さく頷いた。
実家にいた頃は、外出と言えば父親の交渉に連れ回され、相手の嘘を見破るためだけに狭い車内に閉じ込められるのが常だった。自分のために、ただ買い物を楽しむための外出なんて、人生で一度も経験したことがない。
「はい! 是非、ご一緒させてください!」
私は、特務軍の用意してくれた軽やかなラベンダー色のワンピースに着替え、眞白様と共に柳生家の高級送迎車へと乗り込んだ。
向かった先は、現代の魔術師や由緒正しき家系の一族が集う、東京・銀座の裏通りにある最高級魔導商業地区だった。
一歩足を踏み入れると、西洋のアンティーク調の建物が並び、行き交う人々は皆、上品で高価な魔導衣を纏っている。
車から降りる際、眞白様が自然な動作で私に手を差し伸べてくれた。
その手を握ると、彼は私の指を一本ずつ絡めるようにして、しっかりと手を繋いでくれた。恋人同士のような、熱い【恋人繋ぎ】。
(ひゃあ……っ)
心臓が跳ね上がる。けれど、眞白様は平然とした顔で前を歩き始めた。
……と思いきや、彼の頭上の煙は、やはり私の期待を裏切らない色をしていた。
『お前の手は、驚くほど細くて繊細だな。このままポケットに入れて、誰の目にも触れさせたくない。他の男どもが私の妻に不埒(ふらち)な視線を送る前に、我が家の結界の中に閉じ込めておくべきだったか』
(眞白様、独占欲が強すぎます……!)
無表情な「鬼神」の裏側で、これほどまでに過保護な思考が渦巻いているなんて、周囲の人間は夢にも思わないだろう。
私たちが高級なブティックに入ると、店員たちが一斉に最敬礼で私たちを迎えた。特務軍総帥の公式な奥方としての来店なのだから、当然の対応なのかもしれない。
「こちらからこちらまで、奥様に似合うお洋服をご用意いたしますね」
店員が差し出すドレスの数々を、私は目を輝かせて見つめた。どれも実家にいた頃には着ることを許されなかった、華やかで、けれど上品なお洋服ばかり。
私が一着の、淡い水色のシフォンドレスを手に取って眺めていると、背後から不意に、不愉快な「雑音」が耳に飛び込んできた。
「あら? そこにいるのは、千歳家の『出来損ない』の紬お姉様じゃない?」
(え……っ)
身体が強張る。振り返ると、そこには、数日前に応接室から逃げ出したはずの妹、千歳紗香(さやか)が立っていた。彼女の隣には、母親である千歳一族の夫人も一緒だ。
紗香の頭上からは、相変わらず私の神経を逆撫でするような、ドス黒い嫉妬の煙が立ち上っていた。
『なんでいるのよ!? 特務軍の総帥に拾われたからって、いい気になりやがって。どうせすぐに飽きられて捨てられるに決まっているわ。今日もその化け物の目で、私を覗いているのね!』
紗香はフンと鼻で笑うと、わざとらしく大きな声で店内に響くように言った。
「お母様、見てご覧なさい。千歳家を追い出された役立たずが、特務軍の権力を傘に着て、こんな高級なお店でお買い物をしておられるわ。身の程を知らないとは、まさにこのことですわね」
母親の方も、冷酷な目で私を蔑んでいる。
『気味が悪い娘め。千歳家の恥晒しが、早く消え失せろ』
かつての私なら、この二人の悪意に満ちた言葉と本音の文字に圧倒され、ただその場に蹲(うずくま)って泣くことしかできなかっただろう。
心音の翻訳という異能は、相手の悪意を何倍にも増幅して私の脳に送り込んでくるからだ。
私の視界が、恐怖で歪みそうになった――その、刹那。
私の前に、圧倒的な質量を持った「影」が滑り込んできた。
漆黒の軍服の背中。眞白様が、私の身体を完全に背後に隠すようにして、紗香たちの前に立ちはだかったのだ。
部屋全体の温度が、一瞬にして氷点下まで下がったかのような錯覚を覚える。
眞白様から放たれた、凄まじいまでの威圧感。
彼の口元の黒布の奥から覗く瞳は、まさに戦場で数多のあやかしを屠ってきた「鬼神」そのものの、冷徹な殺意を孕んでいた。
「ひっ……!?」
紗香と母親が、同時に短い悲鳴を上げて一歩後退る。
眞白様は無言のまま、懐から万年筆とノートを取り出すと、紙が破れんばかりの筆圧で文字を書き殴り、それを紗香たちの目の前に突きつけた。
『私の妻に対して、これ以上の侮辱は容赦しない。千歳家は先日の警告を忘れたようだな。国家反逆罪として、お前たちの魔術拠点を今すぐ特務軍の精鋭で包囲し、一族全員を地下牢へぶち込んでも良いのだぞ』
「そ、そんな……っ! 私たちはただ、姉妹の挨拶を……!」
紗香の顔から、一瞬にして血の気が引き、土気色に変わっていく。
特務軍総帥の言葉は、国家の法そのものだ。彼がその気になれば、千歳家など一瞬で塵(ちり)に帰すことができる。
さらに、私の瞳には、眞白様の頭上の煙が視えていた。
その煙は、紗香たちに対する冷徹な殺意と同時に、私に対する、狂おしいほどの過保護な愛で満ちていた。
『私の大切な紬を、二度と傷つけさせない。この者たちの薄汚い本音の文字が、紬の綺麗な瞳に映ること自体が許せない。今すぐその目を抉り、声を奪って、二度と紬に近づけないようにしてやる』
(ま、眞白様……! 本音の殺意が凄まじすぎます……!)
嘘をつけない彼の「本物の殺意」を、その異能で察知したのだろう。紗香と母親は、これ以上の滞在は本当に命に関わると理解し、ガタガタと震えながら、蜘蛛の子を散らすようにして店から逃げ出していった。
静寂が戻った店内で、眞白様はゆっくりと振り返った。
私を見る彼の瞳からは、先ほどまでの冷酷な光は綺麗に消え去り、そこにはただ、私の身を案じる優しい色だけがあった。
彼はノートを捲り、素早く文字を書く。
『怖い思いをさせてすまない、紬。大丈夫か? どこか、痛むところはないか?』
私は、彼の過保護な優しさに胸がいっぱいになり、ぎゅっと彼の軍服の裾を握りしめた。
「はい……! 眞白様が守ってくださったから、全然怖くありませんでした。私、凄く……幸せです」
私がそう言うと、眞白様の頭上の純白の煙は、再び、それはそれは綺麗な、とろけるような桜色へと染まり、ゆったりと私の身体を包み込むように広がっていった。
『……愛おしい。やはり、今夜こそは我慢をやめて、この可愛い妻を私の本当のものにしてしまおうか』
(ええっ!?)
ノートには『さあ、買い物の続きをしよう』と爽やかに書かれているのに、頭上の煙の本音は、どこまでも甘く、危険な肉食獣のそれだった。
不器用で、声を失った冷酷な総帥。
けれど、その仮面の裏にあるのは、世界で一番甘く、嘘偽りのない、極上の溺愛だった。
私たちの、甘すぎる筆談婚姻生活は、まだ始まったばかり――。
(……ん……っ)
まだ半分眠気に囚われた頭で、身体を動かそうとする。けれど、私の身体は、まるで行く手を阻むように心地よい重みと温もりに包まれていて、身動きが取れなかった。
微かに漂う、高貴な白檀(びゃくだん)の香りと、シーツの清潔な匂い。
その瞬間、昨夜の出来事が鮮明に脳裏に蘇り、私の目は一気に覚醒した。
(そうだ……私、昨夜から眞白(ましろ)様と同じベッドで……!)
恐る恐る視線を動かすと、すぐ目の前に、均整の取れた広い胸板があった。
私は今、柳生眞白という「沈黙の鬼神」と恐れられる男の腕の中に、すっぽりと収まった状態で朝を迎えていたのだ。彼の長い腕は私の腰を優しく、けれど容易には逃がさない強さで抱き締めている。
見上げると、寝ている時すら口元を薄い黒布で覆った眞白様の、彫刻のように美しい寝顔があった。長い睫毛(まつ毛)が影を落とし、いつも戦場で血を流している男とは思えないほど、その表情は穏やかだった。
そして、何よりも私の目を奪ったのは、彼の頭上にゆらゆらと漂う煙だった。
目覚める直前の無意識の領域。そこに浮かんでいたのは、一点の曇りもない、どこまでも澄み切った『純白の煙』。そこには何の文字も結ばれておらず、ただ私を包み込む温かいお日様のような気配だけが満ちていた。
(本当に……この人の心には、嘘も悪意も、何一つないんだ……)
実家にいた頃は、朝起きると同時に、使用人たちの陰口や家族の強欲な本音が、黒い文字の嵐となって私の脳内に流れ込んできていた。朝を迎えることが、私にとっては恐怖でしかなかったのだ。
それなのに、この腕の中は、不気味なほどに静かで、そして息が苦しくなるほどに優しい。
私がそんな感動に浸りながら彼の寝顔を見つめていると、眞白様の長い睫毛がピクリと動いた。
ゆっくりと開かれた夜の海のように深い瞳が、まっすぐに私を捉える。
「……っ」
至近距離で視線が交わり、私は思わず息を呑んだ。
寝起きでまだ少し潤んだ瞳が私を見た瞬間――彼の頭上の純白の煙が、まるで爆発でもしたかのように、一瞬にして鮮やかな大輪の薔薇色(ピンク色)へと染まった。
『――ッ!?』
眞白様は目に見えて動転し、ガバッと勢いよく上半身を起こした。
あまりの勢いに、私はシーツの上に転がりそうになる。
彼は口元の布を片手で強く押さえ、完全に私から顔を背けてしまった。わずかに見える耳の裏まで、真っ赤に染まっている。
(あ、またもの凄く照れてる……!)
無表情のまま、頭上の煙だけで大パニックを起こしている旦那様が、愛おしくてたまらない。
眞白様はサイドテーブルに置かれていた革表紙のノートと万年筆をひったくるような動作で手に取ると、凄まじい速度でペンを走らせた。
『おはよう、紬。……すまない、寝起き早々に見苦しいところを。腕が痺(しび)れたり、痛んだりはしていないか? お前があまりにも小さくて柔らかいものだから、無意識に力が強くなってしまっていたかもしれない』
差し出されたノートの文字を読み、私はぶんぶんと激しく首を振った。
「いいえ! とっても温かくて、生まれて初めて、こんなに安眠できました。どこも痛くありません!」
私が満面の笑みでそう答えると、彼の頭上のピンク色の煙が、さらに甘く、とろけるような形へと歪んだ。
『……反則だ。そんな無防備な笑顔を向けられたら、朝から理性を保てる自信がなくなる。今すぐその薄い唇を塞いで、再びベッドに引きずり込みたくなってしまうではないか。私は本当に、この可愛い妻に対してどこまで我慢ができるのだろうか』
「~~っっ!!」
ノートには一言も書かれていない「男としての本音」が、煙の文字となって私の脳内にダイレクトに突き刺さる。
今度は私の方が顔を真っ赤にする番だった。お互いに顔を赤くしたまま、しばらく沈黙の時間が流れる。言葉はないのに、部屋の中の空気の温度がどんどん上がっていくのが分かった。
コンコン、と絶妙なタイミングで扉が叩かれたのは、それから数分後のことだった。
「主(あるじ)、奥様。お目覚めでしょうか。朝食の準備が整っております」
斎藤(さいとう)さんの落ち着いた声に、私は救われたような気持ちで「はい、今参ります!」と応じた。
◇◇◇
爽やかな朝食を終えた後、眞白様は再びノートを取り出し、私にある提案をしてくれた。
『今日、特務軍の任務は休みだ。お前は千歳家から着の身着のままでやってきたのだろう。必要な身の回りの品や、お前が気に入るような服を買いに行きたい。……私と共に、街へ出かけないか?』
「お出かけ……デート、ですか?」
私が目を輝かせて問いかけると、眞白様は少しだけ気恥ずかしそうに目を逸らし、小さく頷いた。
実家にいた頃は、外出と言えば父親の交渉に連れ回され、相手の嘘を見破るためだけに狭い車内に閉じ込められるのが常だった。自分のために、ただ買い物を楽しむための外出なんて、人生で一度も経験したことがない。
「はい! 是非、ご一緒させてください!」
私は、特務軍の用意してくれた軽やかなラベンダー色のワンピースに着替え、眞白様と共に柳生家の高級送迎車へと乗り込んだ。
向かった先は、現代の魔術師や由緒正しき家系の一族が集う、東京・銀座の裏通りにある最高級魔導商業地区だった。
一歩足を踏み入れると、西洋のアンティーク調の建物が並び、行き交う人々は皆、上品で高価な魔導衣を纏っている。
車から降りる際、眞白様が自然な動作で私に手を差し伸べてくれた。
その手を握ると、彼は私の指を一本ずつ絡めるようにして、しっかりと手を繋いでくれた。恋人同士のような、熱い【恋人繋ぎ】。
(ひゃあ……っ)
心臓が跳ね上がる。けれど、眞白様は平然とした顔で前を歩き始めた。
……と思いきや、彼の頭上の煙は、やはり私の期待を裏切らない色をしていた。
『お前の手は、驚くほど細くて繊細だな。このままポケットに入れて、誰の目にも触れさせたくない。他の男どもが私の妻に不埒(ふらち)な視線を送る前に、我が家の結界の中に閉じ込めておくべきだったか』
(眞白様、独占欲が強すぎます……!)
無表情な「鬼神」の裏側で、これほどまでに過保護な思考が渦巻いているなんて、周囲の人間は夢にも思わないだろう。
私たちが高級なブティックに入ると、店員たちが一斉に最敬礼で私たちを迎えた。特務軍総帥の公式な奥方としての来店なのだから、当然の対応なのかもしれない。
「こちらからこちらまで、奥様に似合うお洋服をご用意いたしますね」
店員が差し出すドレスの数々を、私は目を輝かせて見つめた。どれも実家にいた頃には着ることを許されなかった、華やかで、けれど上品なお洋服ばかり。
私が一着の、淡い水色のシフォンドレスを手に取って眺めていると、背後から不意に、不愉快な「雑音」が耳に飛び込んできた。
「あら? そこにいるのは、千歳家の『出来損ない』の紬お姉様じゃない?」
(え……っ)
身体が強張る。振り返ると、そこには、数日前に応接室から逃げ出したはずの妹、千歳紗香(さやか)が立っていた。彼女の隣には、母親である千歳一族の夫人も一緒だ。
紗香の頭上からは、相変わらず私の神経を逆撫でするような、ドス黒い嫉妬の煙が立ち上っていた。
『なんでいるのよ!? 特務軍の総帥に拾われたからって、いい気になりやがって。どうせすぐに飽きられて捨てられるに決まっているわ。今日もその化け物の目で、私を覗いているのね!』
紗香はフンと鼻で笑うと、わざとらしく大きな声で店内に響くように言った。
「お母様、見てご覧なさい。千歳家を追い出された役立たずが、特務軍の権力を傘に着て、こんな高級なお店でお買い物をしておられるわ。身の程を知らないとは、まさにこのことですわね」
母親の方も、冷酷な目で私を蔑んでいる。
『気味が悪い娘め。千歳家の恥晒しが、早く消え失せろ』
かつての私なら、この二人の悪意に満ちた言葉と本音の文字に圧倒され、ただその場に蹲(うずくま)って泣くことしかできなかっただろう。
心音の翻訳という異能は、相手の悪意を何倍にも増幅して私の脳に送り込んでくるからだ。
私の視界が、恐怖で歪みそうになった――その、刹那。
私の前に、圧倒的な質量を持った「影」が滑り込んできた。
漆黒の軍服の背中。眞白様が、私の身体を完全に背後に隠すようにして、紗香たちの前に立ちはだかったのだ。
部屋全体の温度が、一瞬にして氷点下まで下がったかのような錯覚を覚える。
眞白様から放たれた、凄まじいまでの威圧感。
彼の口元の黒布の奥から覗く瞳は、まさに戦場で数多のあやかしを屠ってきた「鬼神」そのものの、冷徹な殺意を孕んでいた。
「ひっ……!?」
紗香と母親が、同時に短い悲鳴を上げて一歩後退る。
眞白様は無言のまま、懐から万年筆とノートを取り出すと、紙が破れんばかりの筆圧で文字を書き殴り、それを紗香たちの目の前に突きつけた。
『私の妻に対して、これ以上の侮辱は容赦しない。千歳家は先日の警告を忘れたようだな。国家反逆罪として、お前たちの魔術拠点を今すぐ特務軍の精鋭で包囲し、一族全員を地下牢へぶち込んでも良いのだぞ』
「そ、そんな……っ! 私たちはただ、姉妹の挨拶を……!」
紗香の顔から、一瞬にして血の気が引き、土気色に変わっていく。
特務軍総帥の言葉は、国家の法そのものだ。彼がその気になれば、千歳家など一瞬で塵(ちり)に帰すことができる。
さらに、私の瞳には、眞白様の頭上の煙が視えていた。
その煙は、紗香たちに対する冷徹な殺意と同時に、私に対する、狂おしいほどの過保護な愛で満ちていた。
『私の大切な紬を、二度と傷つけさせない。この者たちの薄汚い本音の文字が、紬の綺麗な瞳に映ること自体が許せない。今すぐその目を抉り、声を奪って、二度と紬に近づけないようにしてやる』
(ま、眞白様……! 本音の殺意が凄まじすぎます……!)
嘘をつけない彼の「本物の殺意」を、その異能で察知したのだろう。紗香と母親は、これ以上の滞在は本当に命に関わると理解し、ガタガタと震えながら、蜘蛛の子を散らすようにして店から逃げ出していった。
静寂が戻った店内で、眞白様はゆっくりと振り返った。
私を見る彼の瞳からは、先ほどまでの冷酷な光は綺麗に消え去り、そこにはただ、私の身を案じる優しい色だけがあった。
彼はノートを捲り、素早く文字を書く。
『怖い思いをさせてすまない、紬。大丈夫か? どこか、痛むところはないか?』
私は、彼の過保護な優しさに胸がいっぱいになり、ぎゅっと彼の軍服の裾を握りしめた。
「はい……! 眞白様が守ってくださったから、全然怖くありませんでした。私、凄く……幸せです」
私がそう言うと、眞白様の頭上の純白の煙は、再び、それはそれは綺麗な、とろけるような桜色へと染まり、ゆったりと私の身体を包み込むように広がっていった。
『……愛おしい。やはり、今夜こそは我慢をやめて、この可愛い妻を私の本当のものにしてしまおうか』
(ええっ!?)
ノートには『さあ、買い物の続きをしよう』と爽やかに書かれているのに、頭上の煙の本音は、どこまでも甘く、危険な肉食獣のそれだった。
不器用で、声を失った冷酷な総帥。
けれど、その仮面の裏にあるのは、世界で一番甘く、嘘偽りのない、極上の溺愛だった。
私たちの、甘すぎる筆談婚姻生活は、まだ始まったばかり――。

