夕食を終えた私たちは、斎藤さんの案内に従って、二階の奥にある主寝室へと移動した。
重厚な黒檀(こくたん)の扉が開かれた瞬間、私はその広さと、部屋に漂う清涼な空気に圧倒された。
白と深いネイビーを基調とした洗練されたインテリア。部屋の隅には、魔除けのための白磁の香炉が置かれ、微かに白檀(びゃくだん)に似た気品ある香りが漂っている。
そして部屋の中央には、大人三人でも余裕で寝られるほどの、仕立ての良いキングサイズのベッドが鎮座していた。シルクのように滑らかな光沢を放つ白いシーツが、夜の帳(とばり)の中で静かに光っている。
(あ、あのベッドに……二人で……)
心臓が、肋骨の裏側を壊さんばかりに激しく脈打ち始める。
実家にいた頃は、冷徹な家族からの視線に怯えて夜もまともに眠れなかったというのに、今は全く別の、甘く息苦しい緊張感で胸がいっぱいだった。
眞白様は無言のまま、部屋の片隅にあるローテーブルの前に進み、私にソファーに座るよう視線で促した。
私が恐る恐る腰を下ろすと、眞白様もまた、私の対面ではなく――あえてすぐ隣のソファーへと、流れるような動作で腰掛けた。
至近距離から、彼の男らしい体温と、微かな清涼感のある香りが伝わってくる。
彼が口元を覆う漆黒の布をそっと指先でなぞった。声を出すことができない彼の、それが無意識の癖なのだということに、私はこの一週間で気づいていた。
眞白様はノートを開き、万年筆の先を走らせる。
『驚かせてすまない。まずは、お前が少しでも安心してこの部屋で過ごせるよう、二人の間の【ルール】を決めよう。私の本音は常に視えてしまうのだろうが、文字にすることで、より明確な約束にしたい』
差し出されたノートの文字を見つめ、私は小さく頷いた。
「はい……。よろしくお願いいたします、眞白様」
眞白様は再びペンを執ると、美しい楷書で、第一のルールを書き記した。
『一、私の「本音」が強すぎて、お前が息苦しくなった時は、いつでも私を拒絶していい』
「え……?」
驚いて顔を上げると、眞白様の深い瞳がまっすぐに私を見つめていた。
彼の頭上からは、あの濁りのない『純白の煙』がゆらゆらと立ち上り、ノートの言葉を補填するように、切実な文字を紡ぎ出している。
『私は嘘をつけない。お前を愛おしいと思う気持ちも、抱きしめたいという欲も、すべてが加工されずにそのまま煙となってお前に視えてしまう。それが、傷つきやすいお前の心の負担になるのではないかと、私はそれが一番恐ろしい』
(そんな……! 負担だなんて、思ったこと、一度もありません!)
私は慌てて、眞白様の衣服の袖を、指先でキュッと掴んだ。
「眞白様、それは違います! 私は、貴方のその純白の煙に救われたんです。実家にいた時は、誰も彼もが笑顔の裏で私を呪う言葉を煮詰めていました。でも、貴方の煙だけは、私を一度も傷つけなかった。だから……拒絶なんて、絶対にしません」
一生懸命に言葉を紡ぐ私の姿を見て、眞白様の目が微かに見開かれた。
次の瞬間、彼の頭上の純白の煙が、ぶわっと一気に濃い薔薇色(ピンク色)へと染まり、激しく波打ち始めた。
『……健気(けなげ)すぎる。そんな風に真っ直ぐな瞳で言われたら、私の理性がどれほど危機に瀕するか、お前は分かっていない。今すぐにベッドに押し倒して、私の妻であることをその身体に刻み込んでしまいたくなる』
「――っ!?」
あまりにも生々しく情熱的な「本音の独占欲」が視覚化され、私は頭から湯気が出そうなほどに赤面した。掴んでいた袖から、慌てて手を離そうとする。
しかしそれよりも早く、眞白様の大きくて温かい手が、私の小さな手を優しく包み込んだ。
彼の手のひらは少し硬く、陰陽特務軍の総帥として数々の修羅場を潜り抜けてきた男の強さがあった。けれど、私を握る強さは、まるで壊れやすい宝物を扱うように、どこまでも繊細だった。
眞白様は、赤くなった煙を頭上に漂わせたまま、片手で器用に次のルールを書き足していく。
『二、千歳家の人間や、他の誰であっても、お前を「道具」として扱おうとする者の言葉はすべて無視しろ。お前は私の妻であり、ここではただの「紬」として、我が儘に生きていい』
その文字を読んだ瞬間、胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていった。
(ただの、紬として……我が儘に……)
生まれてから一度も、そんなことを許されたことはなかった。「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」「無能なんだから役に立ちなさい」と、常に条件付きの存在価値しか認められてこなかった私にとって、このルールは、魂を縛っていた鎖を解き放ってくれるような、聖なる言葉だった。
「ありがとう……ございます。眞白様。私、本当に……嬉しいです」
ポロポロと涙を零す私を、眞白様は困ったように見つめ、ハンカチを取り出して優しく目元を拭ってくれた。
そして、彼はノートの最後に、こう書き加えた。
『三、寝る時は、私の腕の中に収まること。これは結界の効力を最大にするための、防衛上の絶対条件だ』
「えっ……!?」
私は涙を引っ込めて、驚愕の声を上げた。
防衛上の条件、という言葉に嘘偽りはないのだろう。彼が嘘をつけない以上、それが事実であることは間違いない。
けれど、彼の頭上の煙は、別の「本音」をこれでもかと叫んでいた。
『結界のためというのは建前だ。本当はお前をこの腕に抱いて、その体温を四六時中感じていたい。お前の甘い香りに包まれながら眠る夜を、一週間前からずっと待ち望んでいた』
(た、建前って、自分で言っちゃってます……!)
言葉では極上の紳士を装いながら、頭上の煙では「理性と欲情のせめぎ合い」を完全に暴露してしまっている。この、どこか不器用で、けれど愛おしすぎる旦那様の性質に、私は恥ずかしさを通り越して、愛おしさが爆発しそうだった。
「分かりました……。私も、眞白様の結界の中なら、一番安心できます」
私が覚悟を決めてそう言うと、眞白様は満足そうに目を細め、万年筆を懐へと収めた。
部屋の主照明が落とされ、ベッドサイドの小さなランプだけが、室内を仄暗く照らす。
いよいよ、ベッドに入る瞬間がやってきた。
眞白様が先にベッドの左側に横たわり、私を右側のスペースへと手招きする。
私は緊張で全身をガチガチに強張らせながら、ゆっくりとシーツの中へと潜り込んだ。
上質な羽毛布団の温もり。そして、すぐ隣から伝わってくる、眞白様の圧倒的な存在感。
彼がゆっくりとこちらを向き、長い腕を伸ばしてきた。
ルール通り、私は彼の大きな胸の中へと収まる形になる。
私の背中に彼の腕が回され、優しく、けれどしっかりと引き寄せられた。
私の鼻腔が、彼のシャツから漂う、白檀の香りと男らしい匂いで満たされる。
(近い……っ、近すぎます……!)
顔を上げれば、彼の鎖骨のあたりがすぐ目の前にある。
恐る恐る視線を上に動かすと、暗闇の中でもはっきりと、彼の頭上の『純白の煙』が視えた。
その煙は、先ほどまでの激しいピンク色から、今はどこか、深く、深く静まり返った『純白の愛おしさ』へと変化していた。
文字が、ゆっくりと形作られていく。
『十九年間、よく生き延びてくれた。私の元へ来てくれて、ありがとう、紬。お前が私の声を必要としない妻で、本当に良かった』
その本音を読んだ瞬間、私の胸が激しく締め付けられた。
(眞白様……。貴方は、自分が声を失っていることを、ずっと孤独に思っていたのですね……)
言葉を失い、誰とも本当の意味で心を 通わせることができなかったかもしれない、鬼神と恐れられた総帥。
そして、他人の嘘の言葉に傷つき、心を閉ざしていた翻訳の少女。
私たちは、世界の片隅で傷ついた者同士だからこそ、こうして完璧に噛み合うことができたのだ。
「私の方こそ……」
私は、布団の中で、そっと眞白様の胸元に小さな手を添えた。
「私を見つけてくれて、ありがとうございました。眞白様」
暗闇の中、眞白様が私の髪を優しく撫でる。
言葉のない、けれど世界で最も贅沢な初夜の夜が、甘く、静かに更けていくのだった。
重厚な黒檀(こくたん)の扉が開かれた瞬間、私はその広さと、部屋に漂う清涼な空気に圧倒された。
白と深いネイビーを基調とした洗練されたインテリア。部屋の隅には、魔除けのための白磁の香炉が置かれ、微かに白檀(びゃくだん)に似た気品ある香りが漂っている。
そして部屋の中央には、大人三人でも余裕で寝られるほどの、仕立ての良いキングサイズのベッドが鎮座していた。シルクのように滑らかな光沢を放つ白いシーツが、夜の帳(とばり)の中で静かに光っている。
(あ、あのベッドに……二人で……)
心臓が、肋骨の裏側を壊さんばかりに激しく脈打ち始める。
実家にいた頃は、冷徹な家族からの視線に怯えて夜もまともに眠れなかったというのに、今は全く別の、甘く息苦しい緊張感で胸がいっぱいだった。
眞白様は無言のまま、部屋の片隅にあるローテーブルの前に進み、私にソファーに座るよう視線で促した。
私が恐る恐る腰を下ろすと、眞白様もまた、私の対面ではなく――あえてすぐ隣のソファーへと、流れるような動作で腰掛けた。
至近距離から、彼の男らしい体温と、微かな清涼感のある香りが伝わってくる。
彼が口元を覆う漆黒の布をそっと指先でなぞった。声を出すことができない彼の、それが無意識の癖なのだということに、私はこの一週間で気づいていた。
眞白様はノートを開き、万年筆の先を走らせる。
『驚かせてすまない。まずは、お前が少しでも安心してこの部屋で過ごせるよう、二人の間の【ルール】を決めよう。私の本音は常に視えてしまうのだろうが、文字にすることで、より明確な約束にしたい』
差し出されたノートの文字を見つめ、私は小さく頷いた。
「はい……。よろしくお願いいたします、眞白様」
眞白様は再びペンを執ると、美しい楷書で、第一のルールを書き記した。
『一、私の「本音」が強すぎて、お前が息苦しくなった時は、いつでも私を拒絶していい』
「え……?」
驚いて顔を上げると、眞白様の深い瞳がまっすぐに私を見つめていた。
彼の頭上からは、あの濁りのない『純白の煙』がゆらゆらと立ち上り、ノートの言葉を補填するように、切実な文字を紡ぎ出している。
『私は嘘をつけない。お前を愛おしいと思う気持ちも、抱きしめたいという欲も、すべてが加工されずにそのまま煙となってお前に視えてしまう。それが、傷つきやすいお前の心の負担になるのではないかと、私はそれが一番恐ろしい』
(そんな……! 負担だなんて、思ったこと、一度もありません!)
私は慌てて、眞白様の衣服の袖を、指先でキュッと掴んだ。
「眞白様、それは違います! 私は、貴方のその純白の煙に救われたんです。実家にいた時は、誰も彼もが笑顔の裏で私を呪う言葉を煮詰めていました。でも、貴方の煙だけは、私を一度も傷つけなかった。だから……拒絶なんて、絶対にしません」
一生懸命に言葉を紡ぐ私の姿を見て、眞白様の目が微かに見開かれた。
次の瞬間、彼の頭上の純白の煙が、ぶわっと一気に濃い薔薇色(ピンク色)へと染まり、激しく波打ち始めた。
『……健気(けなげ)すぎる。そんな風に真っ直ぐな瞳で言われたら、私の理性がどれほど危機に瀕するか、お前は分かっていない。今すぐにベッドに押し倒して、私の妻であることをその身体に刻み込んでしまいたくなる』
「――っ!?」
あまりにも生々しく情熱的な「本音の独占欲」が視覚化され、私は頭から湯気が出そうなほどに赤面した。掴んでいた袖から、慌てて手を離そうとする。
しかしそれよりも早く、眞白様の大きくて温かい手が、私の小さな手を優しく包み込んだ。
彼の手のひらは少し硬く、陰陽特務軍の総帥として数々の修羅場を潜り抜けてきた男の強さがあった。けれど、私を握る強さは、まるで壊れやすい宝物を扱うように、どこまでも繊細だった。
眞白様は、赤くなった煙を頭上に漂わせたまま、片手で器用に次のルールを書き足していく。
『二、千歳家の人間や、他の誰であっても、お前を「道具」として扱おうとする者の言葉はすべて無視しろ。お前は私の妻であり、ここではただの「紬」として、我が儘に生きていい』
その文字を読んだ瞬間、胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていった。
(ただの、紬として……我が儘に……)
生まれてから一度も、そんなことを許されたことはなかった。「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」「無能なんだから役に立ちなさい」と、常に条件付きの存在価値しか認められてこなかった私にとって、このルールは、魂を縛っていた鎖を解き放ってくれるような、聖なる言葉だった。
「ありがとう……ございます。眞白様。私、本当に……嬉しいです」
ポロポロと涙を零す私を、眞白様は困ったように見つめ、ハンカチを取り出して優しく目元を拭ってくれた。
そして、彼はノートの最後に、こう書き加えた。
『三、寝る時は、私の腕の中に収まること。これは結界の効力を最大にするための、防衛上の絶対条件だ』
「えっ……!?」
私は涙を引っ込めて、驚愕の声を上げた。
防衛上の条件、という言葉に嘘偽りはないのだろう。彼が嘘をつけない以上、それが事実であることは間違いない。
けれど、彼の頭上の煙は、別の「本音」をこれでもかと叫んでいた。
『結界のためというのは建前だ。本当はお前をこの腕に抱いて、その体温を四六時中感じていたい。お前の甘い香りに包まれながら眠る夜を、一週間前からずっと待ち望んでいた』
(た、建前って、自分で言っちゃってます……!)
言葉では極上の紳士を装いながら、頭上の煙では「理性と欲情のせめぎ合い」を完全に暴露してしまっている。この、どこか不器用で、けれど愛おしすぎる旦那様の性質に、私は恥ずかしさを通り越して、愛おしさが爆発しそうだった。
「分かりました……。私も、眞白様の結界の中なら、一番安心できます」
私が覚悟を決めてそう言うと、眞白様は満足そうに目を細め、万年筆を懐へと収めた。
部屋の主照明が落とされ、ベッドサイドの小さなランプだけが、室内を仄暗く照らす。
いよいよ、ベッドに入る瞬間がやってきた。
眞白様が先にベッドの左側に横たわり、私を右側のスペースへと手招きする。
私は緊張で全身をガチガチに強張らせながら、ゆっくりとシーツの中へと潜り込んだ。
上質な羽毛布団の温もり。そして、すぐ隣から伝わってくる、眞白様の圧倒的な存在感。
彼がゆっくりとこちらを向き、長い腕を伸ばしてきた。
ルール通り、私は彼の大きな胸の中へと収まる形になる。
私の背中に彼の腕が回され、優しく、けれどしっかりと引き寄せられた。
私の鼻腔が、彼のシャツから漂う、白檀の香りと男らしい匂いで満たされる。
(近い……っ、近すぎます……!)
顔を上げれば、彼の鎖骨のあたりがすぐ目の前にある。
恐る恐る視線を上に動かすと、暗闇の中でもはっきりと、彼の頭上の『純白の煙』が視えた。
その煙は、先ほどまでの激しいピンク色から、今はどこか、深く、深く静まり返った『純白の愛おしさ』へと変化していた。
文字が、ゆっくりと形作られていく。
『十九年間、よく生き延びてくれた。私の元へ来てくれて、ありがとう、紬。お前が私の声を必要としない妻で、本当に良かった』
その本音を読んだ瞬間、私の胸が激しく締め付けられた。
(眞白様……。貴方は、自分が声を失っていることを、ずっと孤独に思っていたのですね……)
言葉を失い、誰とも本当の意味で心を 通わせることができなかったかもしれない、鬼神と恐れられた総帥。
そして、他人の嘘の言葉に傷つき、心を閉ざしていた翻訳の少女。
私たちは、世界の片隅で傷ついた者同士だからこそ、こうして完璧に噛み合うことができたのだ。
「私の方こそ……」
私は、布団の中で、そっと眞白様の胸元に小さな手を添えた。
「私を見つけてくれて、ありがとうございました。眞白様」
暗闇の中、眞白様が私の髪を優しく撫でる。
言葉のない、けれど世界で最も贅沢な初夜の夜が、甘く、静かに更けていくのだった。

