沈黙の鬼神は愛を語れない 〜心を翻訳する少女と、冷酷総帥の極上筆談婚姻〜

夕暮れ時、柳生(やぎゅう)家の広大な敷地は、燃えるような茜色の光に包まれていた。
千歳(ちとせ)家を事実上破門され、柳生眞白(ましろ)様の妻となってから、早いもので一週間が経とうとしていた。

婚姻届はすでに提出され、私の名前は「千歳紬」から「柳生紬」へと変わった。
けれど、まだ自分の新しい苗字には慣れず、鏡に映る最高級の絹で仕立てられた美しい衣服を纏った自分を見るたびに、これが現実なのだろうかと、そっと自分の頬を抓(つね)ってみたくなる。

(本当に、夢じゃないんだ……)

静かだった。
この広大な邸宅には、私の脳を四六時中狂わせんばかりに襲っていた「人間の悪意の雑音」が、驚くほど一切存在しない。
実家では、どれほど自室の奥深くに引きこもっていても、壁越しに使用人たちの嫉妬や、家族のドス黒い強欲が、文字の煙となって視界を埋め尽くしていたのに。
この屋敷で働く斎藤(さいとう)さんをはじめとする使用人たちは、皆が眞白様を心から敬愛し、私に対しても純粋な歓迎と、温かい同情の念だけを向けてくれている。
ただそれだけのことが、私にとっては奇跡のように有り難く、毎晩ベッドに入るたびに涙が溢れそうになるほどだった。

「奥様、そろそろお夕食の時間でございます。旦那様がダイニングでお待ちかねですよ」

斎藤さんが、優しくドアをノックして声をかけてくれた。
「奥様」と呼ばれるたびに、胸の奥がキュッと擽(くすぐ)ったいような、気恥ずかしいような気持ちになる。

「はい、今参ります!」

私は手早く身なりを整えると、斎藤さんの案内で、重厚なマホガニーの扉が開かれたダイニングルームへと向かった。

長大なディナーテーブルの端。そこに、私の夫となった人が静かに座っていた。
軍服の上着を脱ぎ、上質な黒いシルクのシャツを纏った眞白様は、相変わらず口元を漆黒の布で完全に覆っている。
夕日に照らされた彼の横顔は、あまりにも美しく、そしてどこか触れてはならない神聖な芸術品のようだった。

私が部屋に入ると、眞白様はゆっくりとこちらに視線を巡らせた。
その瞬間、彼の頭上から、あの混じり気のない、美しい『純白の煙』がふわりと立ち上る。
そして、私を見るなり、その白煙がゆらゆらと淡い桜色(ピンク色)へと染まっていった。

『今日も綺麗だ。体調は完全に良いようだな。安心した』

(あ……っ)

口元は隠されていて、表情は氷のように冷徹なままなのに。頭上の煙が、私の姿を見たことへの純粋な喜びと、甘い賛辞をこれ以上ないほどストレートに告げてくる。
嘘を宿すことができない彼の呪い。それは、私にとって、世界で最も優しく熱い「告白」の連続だった。

顔がカッと熱くなるのを自覚しながら、私は彼の対面の席へと腰掛けた。
「は、はい……。お洋服も、とても動きやすくて素敵です。ありがとうございます、眞白様」

眞白様は満足そうに小さく頷くと、手元に置かれたいつもの革表紙のノートを開き、万年筆を走らせた。

『堅苦しい挨拶は不要だ。私の前では、もっと楽にしていてほしい。……それから、食事にしよう。お前の好きなものを用意させた』

運ばれてきた料理は、実家で出されていたような、見栄を張るためだけの豪華なフレンチとは違った。
私の疲弊した身体を労るように、出汁の香りが優しく漂う、丁寧に作られた最高級の日本料理。
一口運ぶたびに、心がじんわりと解けていくのが分かる。

食事の間、眞白様は一切の声を発しない。
けれど、カチャカチャという静かな食器の音の中に、不思議と気まずさはなかった。
なぜなら、彼が一口食べるごとに、私の料理を気遣うごとに、頭上の純白の煙が、心地よい波のようにゆったりと揺らめいていたからだ。

『美味しいか?』
『もっと食べるといい、まだ細すぎる』
『お前が笑うと、この部屋が明るくなるな』

ノートに書かれる文字だけでなく、煙が紡ぐ彼の「本音」が、絶え間なく私に届く。
言葉を持たない彼との時間は、世界中の誰と話すよりも、雄弁で、そして温かかった。

幸せな夕食の時間が終わり、お茶が運ばれてきた頃。
私は、今日ずっと胸の奥で燻(くすぶ)っていた、一つの「重大な問題」について、意を決して切り出すことにした。

(今日から、私は本当の意味で、この人の『妻』になるんだから……)

そう、今夜は、私たちの結婚が成立してから初めて迎える「初夜」なのだ。
実家との決別や手続きでバタバタしていたこの一週間は、別々の部屋で眠っていたけれど、斎藤さんから「本日より、お二人の荷物を主寝室へとまとめさせていただきました」と、昼間に笑顔で告げられていた。

つまり、今夜からは、あの恐ろしくも美しい「沈黙の鬼神」と同じベッドで眠ることになる。

(どうしよう……。私、男性と同じ部屋で寝たことなんてないのに。それに、眞白様は私のことを、本当はどう思っているんだろう……)

いくら煙が優しい文字を紡いでくれるとはいえ、彼にとってこの婚姻は、千歳家から私を救い出すための「契約」に近いものだったのかもしれない。
そんな私がいきなり、妻としての義務を果たすべきなのか、それとも――。

私の指先が、緊張で小さく震える。
頭の中でぐるぐると不埒な想像が渦巻き、顔がみるみるうちに耳の根元まで真っ赤になっていく。

そんな私の異変に、眞白様が気づかないはずがなかった。
彼は、お茶のカップを置くと、少しだけ不思議そうに片眉を上げた。
そして、彼の頭上の純白の煙が、ゆらりと形を変える。

『どうした? 急に顔を真っ赤にして。熱でもあるのか?』

「い、いえ! 熱なんてありません! ただ、その……」

私はパタパタと手で顔を仰ぎながら、消え入りそうな声で、核心を口にした。

「今夜から……主寝室が、一緒になると、斎藤さんから伺いまして……。あの、私、心の準備というか、その……眞白様にご迷惑をおかけしないかと……」

言い終えると同時に、恥ずかしさのあまり頭がどうにかなりそうだった。
これではまるで、私が初夜を意識して、ひとりで勝手に盛り上がっているみたいではないか。

私の言葉を聞いた眞白様は、一瞬、目を見開いたように静止した。
そして――彼の頭上の煙が、これまでにないほど激しく、爆発するように真っ赤(濃いピンク色)に染まった。

『――ッ!!』

(あ……!)

眞白様は、慌てたように口元を覆う布を片手で押さえ、ふいっと私から顔を背けた。
耳の、ほんの少し露出している肌の境界線が、真っ赤に染まっている。
無表情の仮面の裏で、彼は今、心臓が破裂しそうなほどに動転し、そして猛烈に照れていた。

サラサラサラッ!!!

もの凄まじい筆圧と速度で、万年筆がノートを引っ掻く音が響く。
差し出されたノートの手文字は、心なしかいつもより少しだけ震えていた。

『勘違いをさせてすまない。お前を急かすつもりは毛頭ない。今夜から部屋を共にするのは、あくまで千歳家や他の陰陽師の家系からの「刺客」や「呪詛」から、お前を物理的に私の結界内で守るためだ。お前が望まない肉体的な関係を、強要することは絶対にしない』

(守るため……)

ノートの文字を読み、私は少しだけホッとした。けれど、同時に、ほんの少しだけ胸の奥がチクリと痛んだ。
(やっぱり、私を庇護するための、お優しい『契約』なのかな……)

そう思った、次の瞬間だった。
眞白様はノートを次のページへと叩きつけるように捲ると、さらに大きな文字で、こう書き殴った。

『……それに、本音を言えば。私とて、聖人君子ではない。あんなにボロボロだったお前が、私の用意したドレスを纏って、こんなに愛らしく笑うようになったのだ。同じベッドに入って、理性を保てる自信が、私にはない』

「――ひゃんっ!?」

あまりにもストレートで情熱的な「男としての本音」に、私は変な悲鳴を上げてしまった。
さらに、彼の頭上の煙は、ノートの文字以上に熱く、どろどろとした甘い独占欲を紡ぎ出していた。

『本当は、今すぐにでも抱きしめて、誰の手も届かない場所に隠してしまいたい。お前を私の本物の妻にして、心も身体も、すべて私のものにしたいと……そう切望している。だが、怯えさせたくないのだ。お前が心から私を受け入れてくれるその日まで、私は絶対に手を挙げないと誓う』

(眞白……様……)

嘘をつけない彼の心から溢れ出る、狂おしいほどの情愛。
それは、私を道具としてではなく、一人の「愛されるべき女性」として、激しく求めてくれる熱量そのものだった。

眞白様は、真っ赤に染まった煙を頭上に揺らがせたまま、ふう、と深く大きなため息を(無音で)吐き出すと、少し落ち着きを取り戻したように、ノートに新たな文字を書き加えた。

『お前が安心してこの屋敷で暮らせるよう、私たちの間に、いくつかの【筆談のルール】を決めようと思う。これでお前の不安が少しでも和らぐなら、私はいくらでもルールに従おう』

冷酷と恐れられる特務軍の総帥が、私のために、どこまでも不器用で優しい「新婚のルール」を提案してくれようとしていた。