沈黙の鬼神は愛を語れない 〜心を翻訳する少女と、冷酷総帥の極上筆談婚姻〜

激しい雨の音が、世界を塗り潰していく。
冷たいアスファルトに這いつくばる私の体温は、容赦なく奪われ、指先ひとつ動かすこともままならなかった。
実家という名の地獄から逃げ出し、泥にまみれ、夜の東京の片隅で野垂れ死ぬ。それが、千歳家の出来損ないである私の、あまりにも惨めで相応しい結末なのだと、半ば諦めかけていた。

けれど――。
私の前に現れたその男は、私の世界に満ちていた「絶望」の定義を、根底から覆した。

男の頭上から立ち上る、その煙。
それは、私がこれまで十九年の人生で一度たりとも目にしたことがない、混じり気のない美しい『純白』だった。

(嘘……じゃない……?)

これまで見てきたすべての人間――私を道具として扱い、裏で化け物と罵っていた父親も、妹も、婚約者も。その誰もが、例外なくドス黒く歪んだ文字の煙を纏っていた。人間の心は醜悪で、利己的で、底なしの悪意に満ちている。それが私の世界のすべてだった。

しかし、この男の頭上にある白煙には、私を切り刻むような棘(とげ)が一切ない。
それどころか、そこには言葉すら形成されていなかった。ただ、春の陽だまりのように穏やかで、澄み切った無垢な白が、ゆらゆらと雨の中に溶けていくだけ。

(この人は……何を考えているの……?)

男は、口元を不気味なほど漆黒の布で固く覆っている。
その理由は分からない。けれど、布の隙間から覗くその瞳は、夜の海のように深く、そして酷く冷徹だった。
【陰陽特殊特務軍】の最高峰に君臨する者だけが纏う、漆黒の外套。肩にあしらわれた金色の階級章が、街頭の光を反射して怪しく煌めいている。
この男こそ、泣く子も黙ると噂される、特務軍の総帥――。

彼が、ゆっくりと私に向かって片膝を突いた。
泥に汚れることなど一顧だにせず、高級な革の軍靴がアスファルトを濡らす。

(来る……。殺される……?)

私は恐怖に身をすくめようとした。けれど、凍えきった身体は言うことを聞かない。
男は無言のまま、大きな手を私の体に伸ばしてきた。
また、あの痛みが来るのだと私は目を瞑(つむ)った。これまで触れてきたすべての手が、私に利用価値を求め、思い通りにならなければ暴力を振るうか、冷たく突き放してきたから。

だが、私の身体を包み込んだのは、想像を絶するほどの『優しさ』だった。

「――っ」

男は、泥まみれの私を、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、そっと両腕で抱き上げた。
信じられないほどに厚い胸板。そして、私の凍えきった肌へと伝わってくる、圧倒的な熱。
彼の漆黒の外套が私を覆い、容赦なく打ち付けていた冷たい雨の衝撃が、一瞬にして消え去った。

(温かい……。どうして……?)

必死に目を開け、男の顔を見上げる。
至近距離で見る彼の頭上には、やはりあの純白の煙が漂っている。
そして、私が彼の腕の中に収まった瞬間、その白煙がゆらりと形を変えた。文字が、紡がれていく。

『……小さい。凍えているな』

脳内に直接響くような、不思議な感覚。
それは、彼が口にした言葉ではない。彼の心から溢れ出た、純粋な『本音』の翻訳。
そこには、千歳家の人間がいつも抱いていたような「この女をどう利用してやろうか」という打算が、塵(ちり)一つほども含まれておらず、ただ純粋に、目の前で倒れている私を案じる意思だけが存在していた。

『もう大丈夫だ』

二つ目に形成されたその文字を見た瞬間、私の張り詰めていた心の糸が、ぷつりと切れた。
生まれて初めて、誰かに無条件で守られた。ただの「千歳紬」という一人の人間として、温もりを与えられた。
その安心感に身を委ねるように、私の視界は急速に暗転し、深い闇の中へと落ちていった。

◇◇◇

(……ここは、どこ……?)

次に目を覚ました時、私は見慣れない天井を見上げていた。
実家の自分の部屋にあるような、豪華絢爛だけれど冷徹な調度品は何一つない。白を基調とした、非常にシンプルで、けれど上質な家具が並ぶ、広々とした寝室だった。

私が横たわっているベッドは、驚くほど柔らかく、包み込まれるような心地よさがある。
身に纏っていた泥だらけのドレスは、いつの間にか肌触りの良い清潔な寝着へと替えられていた。

(私、助かったんだ……。あの特務軍の、人に……)

体を起こそうとすると、まだ少しだけ目眩(めまい)がした。
けれど、驚くべきことに、いつも私の脳を狂わせんばかりに襲ってきていた『人間の悪意の雑音』が、この部屋からは一切聞こえてこない。
実家にいた時は、壁越しであっても、使用人や家族の醜い本音が絶え間なく流れ込んできて、一瞬たりとも心が休まる時間はなかったのに。
ここは、不気味なほどに静かだった。

「失礼いたします」

静寂を破り、控えめなノックの音と共に、扉が開いた。
入ってきたのは、仕立ての良い衣服を纏った、初老の紳士だった。その佇まいから、この屋敷の執事であることが窺える。

(あ……)

私は条件反射で、彼の頭上を見た。
またあの黒い煙が、私を拒絶する文字を紡ぐのではないかと、身体が強張る。
しかし、その老執事の頭上から立ち上っていたのは、薄いグレーの、比較的穏やかな煙だった。

『お目覚めになられたか。お可哀想に、あんなにボロボロになって……。体調は戻られただろうか』

(あたたかい……。嫌悪、じゃない……)

老執事は、私に対して純粋な同情と心配の念を抱いていた。
私が千歳家の出来損ないであることも、心を覗く化け物であることも、彼は知らないからかもしれない。それでも、裏表のない純粋な気遣いに触れ、私の目頭が熱くなった。

「千歳紬様、お気分はいかがですか? 私は当主の眞白(ましろ)様に仕えております、執事の斎藤(さいとう)と申します。貴女様が倒れられてから、丸一日が経過しております」

「丸一日……。あの、助けていただいて、ありがとうございました。お洋服まで、お借りしてしまって……」

「いえ、着替えは女性の使用人に当たらせましたのでご安心を。……それから、主(あるじ)がお待ちです」

斎藤さんが一歩退くと、開かれた扉の向こうから、あの圧倒的な存在感が静かに室内に滑り込んできた。

【陰陽特殊特務軍】総帥、柳生眞白。
軍服の上着を脱ぎ、黒いシルクのシャツを纏った彼は、相変わらず口元を漆黒の布で完全に覆っていた。
彫刻のように整った容姿、切れ上がった涼やかな目元。
彼が部屋に入ってきただけで、室内の空気が一瞬にして張り詰める。その威圧感は、まさに「鬼神」と称されるに相応しい。

けれど、私の瞳が捉えたのは、やはり彼の頭上に浮かぶ、あの圧倒的な『純白の煙』だった。

眞白様は無言のまま、ベッドの脇に置かれた椅子へと腰掛けた。
声は、一切発せられない。
彼は懐から、一冊の美しい革表紙のノートと、一本の万年筆を取り出した。

(筆談……?)

サラサラと、流麗な動作でペンが走る。
差し出されたノートには、彼の容姿に違わぬ、非常に美しく力強い文字が躍っていた。

『体調はどうか。どこか痛むところはあるか』

私は慌てて首を振った。
「いえ、大丈夫です。斎藤様や皆様のおかげで、すっかり良くなりました」

眞白様は、私の言葉をじっと見つめるように聞いた後、再びノートにペンを走らせる。

『ならば、単刀直入に本題に入る。お前をこのまま、私の妻として迎え入れたい』

「……えっ?」

あまりにも突飛な言葉に、私の思考は完全にフリーズした。
妻。結婚。この、泣く子も黙る陰陽特務軍の総帥が、昨日今日拾ったばかりの、素性も分からない(実際には千歳家の娘だが)私を、妻にするという。

(どうして……? やっぱり、私の『異能』に気づいて、利用するために……?)

実家でのトラウマが、一瞬にして脳裏を過る。
私の価値は、相手の嘘を暴く道具としての価値だけ。この人も、私が千歳紬だと知っていて、その能力を特務軍の政治闘争やあやかし討伐に利用するために、手元に置こうとしているのではないか。

私の瞳に、隠しきれない怯えの色が走ったのを、眞白様は見逃さなかった。
彼は、私の怯えの理由を察したかのように、少しだけ目を細めると、再びノートに文字を書き込んだ。

『誤解するな。お前の「能力」を目当てにしているわけではない』

「え……?」

(どうして、私の能力のことを……?)

驚愕する私を余所に、眞白様の頭上の『純白の煙』が、激しく、けれど美しく波打ち始めた。
そこに紡がれた文字は、私のこれまでの人生の常識を、粉々に打ち砕くものだった。

『私は、声を失っている。呪いによって、生涯、言葉を発することができない。そして同時に、私の心には、一切の「嘘」や「偽り」を宿すことができない呪いがかかっている』

(嘘を……宿すことができない……?)

『つまり、私の心にあるものは、すべてが紛れもない「真実」だ。お前には、それが視えているのだろう?』

眞白様の冷徹な瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
その瞬間、私は理解した。
彼の頭上の煙が、なぜこれほどまでに濁りのない『純白』だったのか。
彼は、嘘をつくことができない。他人のように、笑顔の裏でドス黒い悪意を煮詰めることが、構造上不可能なのだ。
彼の心にあるものは、良くも悪くも、すべてが「本音」そのもの。

そして、眞白様のノートが次のページへと捲(めく)られる。

『千歳家がお前をどう扱ってきたか、調査は済んでいる。嘘にまみれたあの家で、お前がどれほどの苦痛を味わってきたかも、想像に難くない』

ペンの音が、静かな部屋に響く。

『私の側(そば)にいれば、お前は二度と「人間の嘘」に怯える必要はない。私の心には、お前を傷つける偽りは存在しないからだ。私はお前の異能を盾にはしない。ただ、私という「絶対的な真実」の隣で、息を潜めて生きていればいい』

(あ……)

眞白様の頭上の純白の煙が、彼の言葉の通り、一点の曇りもない『真実』として、私の心を優しく包み込んでいく。

『どうする。千歳家に戻り、再び道具として磨り潰されるか。それとも、私の妻となり、私の庇護下で静寂を手に入れるか。選べ』

それは、冷徹な契約のようでありながら、私にとっては、暗闇の底に差し込んだ唯一の救いの蜘蛛の糸だった。