沈黙の鬼神は愛を語れない 〜心を翻訳する少女と、冷酷総帥の極上筆談婚姻〜

夜の帳(とばり)が完全に明け、柔らかな初夏の陽光が、重厚な遮光カーテンの隙間を縫って寝室へと滑り込んできた。
意識がゆっくりと浮上するのと同時に、私の身体を支配したのは、これまでにないほど深く、抗いようのない「愛の重み」だった。

シーツに沈み込む私の身体を、後ろから逃がさないように、けれど壊れやすい宝物を扱うような繊細さで抱き締めている、熱く逞しい腕。
私の背中にぴったりと密着する、鍛え上げられた眞白(ましろ)様の胸板。彼が呼吸をするたびに、私の肌に伝わる規則正しい振動が、昨夜の情熱的な出来事が夢ではなかったことを、何よりも雄弁に物語っていた。

(私……また、眞白様に、あんなに激しく……)

思い出すだけで、シーツの下の身体がカッと熱くなる。
昨夜の夜会での勝利。五条(ごじょう)家を完膚なきまでに叩き潰し、私の「異能」が帝都の社交界で認められた夜。
屋敷に戻った眞白様は、まるでお祝いを口実にするかのように、情熱の赴くままに私を求め、その溢れんばかりの情愛を私の身体の隅々にまで注ぎ込んでくれた。

恐る恐る視線を動かすと、すぐ目の前には、口元の呪符を外した眞白様の、神々しいほどに美しい寝顔があった。
長い睫毛が影を落とし、いつもは冷徹な「鬼神」として戦場に立つ男とは思えないほど、穏やかで、そしてどこか幼さすら感じさせる無防備な表情。

そして、私の瞳――【心音の翻訳(しんおんのほんやく)】は、彼の頭上から立ち上る、言葉を超えた真実の灯火を捉えた。

そこに浮かんでいたのは、きらきらとした純金の粒子をこれでもかと散りばめた、宇宙のように深い『大特濃の黄金色と、とろけるような薔薇(ピンク)色が混ざり合った煙』だった。
眠りの中でなお、彼の心は私への甘く烈烈な独占欲と慈しみで、飽和状態になっていた。

『ああ、愛しい紬(つむぎ)。ようやく朝が来たか。眠っている間も、お前を抱き締める腕の感触が心地よすぎて、私は一度もこの腕を緩めることができなかった。その白く滑らかな肌、私を求めて震える吐息、すべてが私の魂を融かしていく。もう特務軍の公務などすべて放り出して、このままお前を寝室に閉じ込め、一生私の愛だけで満たして暮らしたい――』

(ま、眞白様……っ! 寝ている時まで、本音が……本音が甘すぎて、心臓が持ちません……っ!)

私はあまりの恥ずかしさに、顔を真っ赤にしてシーツの中に潜り込もうとした。
すると、私の僅かな動きに反応したのか、眞白様の長い睫毛がピクリと震え、ゆっくりと深い夜の海のような瞳が開かれた。

「……っ」

至近距離で視線が交わり、私は息を呑む。
寝起きの少し潤んだ瞳が、まっすぐに私を捉えた瞬間――彼の頭上の煙が、ボッと音を立てるかのような勢いで、一瞬にして鮮烈なピンク色へと跳ね上がった。

『――ッ!? おはよう、紬。……すまない、寝起き早々に私の醜態を晒してしまった。お前があまりにも愛らしく、そして昨夜の余韻が私の脳裏から離れなくて、つい、お前を壊してしまいたいという不埒な欲望が溢れ出してしまった。身体は……身体は痛まないか? 私の力が強すぎなかっただろうか?』

(あ、またもの凄く心配してる……!)

無表情のまま、頭上の煙だけで大パニックを起こしている旦那様。
眞白様はサイドテーブルに置かれていた、もはや私たちの絆の象徴でもある革表紙のノートと万年筆をひったくるように手に取ると、凄まじい速度でペンを走らせた。

「おはよう、紬。……夜中にうなされることもなく、安眠できたようで安心した。……お前が望むなら、今日の公務はすべて副官に丸投げしてきた。今日一日は、お前のためだけの『私の休日』だ。お前が望むことを、すべて叶えてやりたいのだが……」

(えっ、公務を丸投げ!? あの真面目な眞白様が……?)

私は目を丸くして彼を見つめた。
特務軍総帥として、常に帝都の安寧を第一に考えてきた「鬼神」が、私のために仕事を休む。その事実だけで、彼がどれほど私を大切に想ってくれているかが痛いほど伝わってきた。

「眞白様、お仕事はよろしいのですか? 私のためにお時間を割いてくださるのは、とっても嬉しいですけれど……」

私が不安げに問いかけると、眞白様の頭上の煙は、今度は『周囲の有象無象(うぞうむぞう)への完全な拒絶』と『私への極上の独占欲』が混ざり合った、漆黒を帯びたピンク色へと変化した。

『仕事などどうでもいい。今は、昨夜の夜会でお前を不躾な視線で見た男どもを、一族郎党すべて物理的に滅ぼしたい衝動を抑えるので精一杯なのだ。お前という至宝を、誰の目にも触れさせたくない。……だが、お前が屋敷に閉じこもるのを嫌がるのなら、私が完璧な結界を張り、誰も近づけない場所へデートに連れて行ってやろう。お前が望むなら、帝都の商業街ごと買い占めて、貸し切りにしてもいいのだぞ』

(……お、過保護が行き過ぎて、国家経済を揺るがす規模になってしまっています……っ!)

私は内心で冷や汗をかきながらも、彼のあまりにも不器用で、かつ底知れない愛に胸がいっぱいになった。

「ふふ、買い占めるなんてそんな……。ただ、眞白様と一緒に、のんびりとお散歩ができれば、それだけで私は幸せです」

私が真っ直ぐに彼の瞳を見つめて微笑むと、眞白様の頭上の煙は、一瞬にして黄金色に輝く、とろけるような『極上の桜色』へと染まり、部屋全体を包み込むように広がっていった。

『――ッッ!! 何という欲のなさと、清らかさだ。お前という少女は、本当に私の理性をどこまで試せば気が済むのだ。散歩? そんな、他の男が一人でもいるかもしれない場所へ、こんなに可愛いお前を連れ出すのは本来なら論外だ。だが……お前がそれを望むなら、私のこの腕でお前を抱きしめ、一歩も地に着かせずに運んでやろうか』

(あ、また極端な方向へ……!)

眞白様はノートに「分かった。最高の休日を約束しよう」とだけ爽やかに書き記したが、その頭上の煙は『今すぐお前を押し倒して、散歩に出る時間さえ奪ってしまいたい』という、肉食獣のような本音をビカビカと点滅させていた。

◇◇◇

お風呂を済ませ、仕立ての良い上品な、けれど露出が一切ない(眞白様の厳命による)ラベンダー色のワンピースに着替えた私は、眞白様と共にダイニングルームへと向かった。

テーブルの上には、斎藤(さいとう)さんが丹精込めて用意した、朝の爽やかな光にぴったりの豪華な朝食が並んでいた。
出汁の香りがふわりと漂う、最高級の卵焼き、皮がパリッと焼かれた旬の焼き魚、そして炊きたての土鍋ご飯。実家では冷めた残り飯しか与えられなかった私にとって、湯気が立ち上る朝の食卓は、今でも奇跡のように感じられる。

眞白様は、完璧な「無表情」で箸を動かしながら、私の茶碗に次々と美味しそうなおかずを乗せていく。
……が、その頭上の煙は、相変わらず私の咀嚼(そしゃく)一つ一つに過剰なまでの反応を見せていた。

『ああ、お前が美味しそうに食べる姿を見るだけで、私の胸はこれ以上ないほどに満たされる。もっと肉をつけて、私好みの柔らかい身体になってくれ。……いや、今でも十分に柔らかく、抱き締めるたびに理性が融けてしまいそうなのだが。……お前が「美味しい」と言うたびに、私はその食材を生産した村ごと買い取って、お前のためだけに働かせたい衝動に駆られる』

(ま、眞白様……っ! 落ち着いてください……!)

私は果実酒のせいでもない熱さを顔に感じながら、必死に卵焼きを口に運んだ。
斎藤さんはその様子を見て、微笑ましそうに、けれど完璧な執事の所作で控えている。

「旦那様。本日の休日のために、特務軍の護衛艦隊を帝都の上空に配備させ、奥様の通り道に不審な輩が近づかぬよう、半径一マイルを完全に封鎖いたしました。御準備は万全でございます」

(ええっ!? 護衛艦隊!? 半径一マイル封鎖!?)

私はあまりの規模の大きさに、思わず食べていたお味噌汁を吹き出しそうになった。
たかがお散歩のために、国の防衛戦力を使うなんて。

眞白様は満足そうに頷くと、ノートに力強い文字を書いた。

「当然だ。紬は今や特務軍の、そして私の至宝。道端の石ころ一つにすら、彼女の足を躓かせる権利などない。……紬、準備はいいか? お前が望むなら、太陽の光が眩しすぎないよう、帝都の天候魔術を操作させて雨雲を遠ざけさせたぞ」

(天候まで変えたんですか……!?)

過保護を超えて、もはや全能の神のような振る舞いを始めた旦那様に、私はもう笑うしかできなかった。
けれど、その過剰なまでの「愛の防壁」の裏側にあるのは、かつて私が実家で誰にも守られず、泥水を啜るようにして生きてきたことを、彼なりに全力で否定し、塗り替えようとしてくれている優しさなのだ。

眞白様の頭上からは、世界で一番甘く、そして世界で一番頼もしい『黄金色の愛の煙』が立ち上り、私の不安をすべて吸い取ってくれるように、優しく私の身体を包み込んでいた。

「はい、眞白様。貴方と一緒なら、どこへ行っても私は幸せです」

私がそう言って彼の大きな手を取ると、眞白様の耳元がトマトのように真っ赤に染まり、頭上の煙が喜びで花火のように弾けた。

こうして、帝都を震撼させるほどの「超過保護な鬼神の休日」が、幕を開けるのだった。