沈黙の鬼神は愛を語れない 〜心を翻訳する少女と、冷酷総帥の極上筆談婚姻〜

五条家の一団が国家反逆罪の現行犯として特務軍の精鋭たちに組み伏せられ、怒号と共に引きずり出されていった後も、大宮殿の広大な会場には、刺すような緊迫感が居座り続けていた。
燦然と輝く魔導シャンデリアの光すら、先ほど柳生眞白様が放った圧倒的な「鬼神」の霊圧によって、心なしか怯えるように細かく刻み狂っている。

周囲にいた高位の陰陽師や名門の令嬢たちは、完全に言葉を失っていた。
ある者は青ざめた顔で互いに目配せを交わし、ある者は畏怖のあまり、私たち夫婦が歩を進めるたびに、まるで海が割れるように一斉に道を開けていく。

彼らの頭上から立ち上る煙は、もはや先ほどのような侮蔑や値つまみの色は一切なく、一様に『畏怖』と『驚愕』を示す、灰色がかったくすんだ紫色の煙ばかりだった。

『まさか、あの千歳(ちとせ)家の出来損ないが、これほどの異能を秘めていたなんて……』
『五条家を瞬時に一族滅亡の淵に追いやるなど、やはり柳生総帥の逆鱗に触れては生きていられん……』

そんな彼らの怯えた本音が、私の【心音の翻訳】を通じて、文字となって脳裏に容赦なく流れ込んでくる。
しかし、今の私には、周囲の視線も囁き声も、もうどうでもよかった。
私の意識のすべては、私の腰を大きな手でしっかりと抱き抱え、会場の出口へと堂々と歩みを進める、最愛の旦那様に向けられていたからだ。

宮殿の重厚な正面扉が特務軍の兵士たちによって押し開かれ、私たちは帝都のひんやりとした夜気の中に迎え入れられた。
待機していた漆黒の装甲車のドアが開けられ、眞白様に促されるようにして車内へと乗り込む。重厚なドアがバタンと閉まった瞬間、遮音性の高い密室の中で、世界は一気に静まり返った。

「……はあ」

私は座席のクッションに深く身体を沈め、今日一番の大きなため息を吐き出した。
純白のシルクドレスの裾を握りしめる私の指先は、まだ微かに震えている。

緊張の糸が切れた途端、実家を失った時のこと、そして今夜、社交界という未知の戦場で五条家の悪意を撥ね退けたこと――それらの記憶が波のように押し寄せ、胸の奥が熱くなった。

(私、ちゃんとお披露目の夜会で、眞白様の隣にいられたかしら……。出来損ないのままで、眞白様に恥をかかせてしまわなかったかしら……)

不安と安堵が混ざり合った、複雑な感情が私の胸を支配した、その刹那だった。

「――あっ」

短い悲鳴が私の口から漏れた。
視界が急に反転し、気付けば私は、隣に座っていた眞白様の逞しい膝の上へと完全に抱き上げられていた。

軍服の上質なウール生地の感触が、薄いドレス越しに私の肌へと直に伝わってくる。
眞白様の長い腕が、私の細い腰を、 shadowを、そして背中を、まるで世界で最も壊れやすい硝子の宝物を囲い込むように、ぎゅっと力を込めて抱き締めてきた。
彼の胸板から伝わってくる、ドク、ドク、という力強い心音と、男らしい体温。そして、彼のお気に入りの白檀(びゃくだん)の香りが、車内の限られた空間を一瞬にして満たしていく。

彼の口元はまだ漆黒の呪符の布で覆われており、声は一切聞こえない。
しかし、私の瞳は、彼の頭上から噴き出す、言葉を遥かに超えた情熱の嵐を鮮明に捉えていた。

そこに浮かんでいたのは、きらきらとした純金の粒子をこれでもかと巻き込んだ、宇宙のように深い『超特濃の薔薇(ピンク)色と深紅が混ざり合った煙』だった。それは、先ほどまでの冷徹な鬼神の姿からは想像もつかないほど、激しい独占欲と愛おしさの文字を紡ぎ出していた。

『ああ、私の愛しい紬。夜会の喧騒から、ようやく二人きりになれた。あのような薄汚い有象無象どもの前に、お前という至宝を晒さねばならなかった我が身の無能さが呪わしい。お前があの傲慢な五条の女に何を言われるかと、私の心臓は恐怖で引き裂かれそうだったのだ。……だが、お前は本当に美しく、そして勇敢だった。私の、世界でただ一人の自慢の妻だ。今すぐその白い首筋に私の痕を深く刻み付け、お前が完全に私のものだと、世界中に知らしめてやりたい。私の理性は、もう限界だ――』

「眞白、様……っ」

ノートに書かれる文字よりも早く、彼の魂の叫びが私の脳内にダイレクトに流れ込んでくる。
そのあまりにも真っ直ぐで、混じり気のない「全肯定」の言葉に、私の目元からポロポロと涙が溢れ出した。

「眞白様……。私、貴方がずっと隣で支えてくださったから、一歩も引かずに戦えました。五条さんたちの醜い本音を聞いた時も、怖くなかったのは、眞白様の温かい手が、私をずっと繋ぎ止めてくれていたからです」

私が彼の胸元に顔を埋めながら、消え入るような声で伝えると、眞白様の身体がビクリと硬直した。
次の瞬間、彼の頭上の煙は、車内を物理的な熱量で埋め尽くすほどの『超特濃のピンク色の霧』へと変化し、ハートの形をいくつも結びながら激しくのたうち回った。

『――ッッ!! お前という少女は、どうしてこれほどまでに私の心を翻弄するのだ。愛おしさが限界を超えた。もう我慢などしない。お前が私をこれほどまでに狂わせるのだから、その責任は身体で取ってもらうぞ。屋敷に戻ったら、お前の一切の我が遑を聞き入れ、そして私のすべてを注ぎ込んで、お前を私の愛だけで満たしてやる。覚悟していてほしい』

(……っ、最後の「私のすべてを注ぎ込んで」って、一体どういう意味ですか……!?)

手文字のあまりにも直球な肉食獣の本音に、私は顔を耳の根元まで真っ赤に染め上げた。
眞白様は完璧な無表情を装っているけれど、その夜の海のような瞳には、男としての獰猛な独占欲がギラリと灯っている。
この不器用で、けれど情熱が限界突破している旦那様に、私はもう一生敵わないのだと、心地よい諦めを抱くしかなかった。

◇◇◇

漆黒の装甲車が柳生家の広大な敷地へと滑り込み、重厚な鉄門をくぐって正面玄関へと停車した。
車門が開かれると、そこにはいつも通りの、けれどどこかホッとした表情を浮かべた使用人たちが整列していた。

その最前列で、老執事の斎藤(さいとう)さんが、いつも以上の満面の笑みを浮かべて私たちを出迎えてくれた。

「旦那様、奥様。夜会での大勝利、心よりお祝い申し上げます。五条家の不穏な動きを完全に封じ込め、奥様の高潔なお姿が帝都中に知れ渡ったとのこと、特務軍の密偵より報告を受け、この斎藤、感動のあまり涙が止まりません」

「斎藤さん……ありがとうございます。皆様のおかげです」

私が膝の上から降ろしてもらい、ドレスの裾を整えながら気恥ずかしくも頭を下げると、斎藤さんは嬉しそうに目を細めた。
「さあ、お疲れの奥様のために、今夜は特別な祝宴の準備がございます。誰に遠慮することもございません。どうぞ、ダイニングルームへお進みください」

案内されたダイニングルームの扉が開かれた瞬間、私はその光景に小さく息を呑んだ。
長大なマホガニーのディナーテーブルの上には、これまでに見たこともないほど、美しく洗練された料理の数々が並べられていたのだ。

私の疲れた身体を労るように、消化に良く、けれど最高級の食材を使った和洋折衷のフルコース。
じっくりと煮込まれた柔らかな大和牛のシチュー、季節の新鮮な魚介を使った繊細なジュレ、そしてテーブルの中央には、氷を敷き詰めた銀の器の中で冷やされた、美しい琥珀色の甘い果実酒のボトルが置かれていた。

「今夜は、お二人の本当の平穏を祝う夜でございます。どうぞ、ごゆっくりとお楽しみください」

斎藤さんが一礼して退室し、広い部屋には再び、私と眞白様の二人きりになった。

眞白様は無言のままボトルを手に取ると、私のクリスタルグラスにトクトクと琥珀色の果実酒を注ぎ、自らのグラスにもそれを満たした。
彼が口元の布を少しだけ緩め、グラスを掲げる。

「乾杯、ですか? 眞白様」

私が微笑んでグラスを合わせると、チリン、と澄んだ美しい音が静かな部屋に響いた。
一口含んだ果実酒は、驚くほど甘く、高貴な葡萄と桃の香りが口いっぱいに広がった。ほんの少しアルコールが入っているのか、喉を通ると、身体の奥からじんわりと心地よい熱が広がっていく。

理性が少しだけふわふわと解けていく感覚の中、私は隣に座る眞白様を見つめた。
彼は、食事の間も、私の皿に次々と美味しい料理を甲斐甲斐しく取り分けてくれ、私が一口食べるごとに、頭上の煙を満足そうなピンク色へと染めていた。

『もっと食べるといい、私の可愛い紬。今日のお前は本当に勇敢だった。だが、やはり私に抱き締められている時の、あの無防備で柔らかいお前が一番愛おしい。……早く夕食を終えて、寝室へ行きたい。今夜は、お前を私の愛だけで満たしてやるのだ』

(眞白様……っ、お酒のせいで、本音がいつもよりさらに生々しくなっています……っ!)

私は果実酒のせいだけではない熱さを顔に感じながら、必死にデザートのタルトを口に運んだ。
言葉を発しない彼との時間は、世界中のどんな賑やかな宴よりも、甘く、濃厚で、いくら言葉を尽くしても足りないほどの情愛に満ちていた。

◇◇◇

深夜、全ての灯りが落とされ、月光だけが大きな窓から静かに差し込む主寝室。
キングサイズのベッドの上で、私はシルクの薄いラベンダー色の寝間着に身を包み、トク、トク、と高鳴る自らの心音を聞いていた。

食後に飲んだ甘い果実酒のせいで、身体がいつもより火照っている。
シーツの感触が妙に滑らかに感じられ、呼吸が少しだけ浅くなる。

カチャリ、と静かに扉が開き、お風呂上がりの眞白様が入ってきた。
彼の長い黒髪は少し濡れており、月の光を浴びて妖しく濡れそべっている。そして――彼の口元には、もうあの漆黒の呪符の布はなかった。

露わになった、神の最高傑作とも言うべき、圧倒的に美しく端正な素顔。
その深い瞳が私を捉えた瞬間、室内の空気が一変した。

眞白様はゆっくりとベッドへと近づき、シーツの上に膝を突くと、私を組み敷くようにして覆いかぶさってきた。
至近距離から注がれる、夜の海のように深い視線。彼の高い鼻梁が私の頬をかすめ、男らしい体温と、白檀の香りが私を完全に包み込む。

彼の手が、私の両手首を優しく、けれど絶対に拒絶を許さない強さで、ベッドの上へと固定した。

「あ……眞白、様……っ」

声が出ない代わりに、彼の頭上からは、部屋全体を黄金の結界で満たすかのような、神々しいまでの『超特濃の純金色の煙』が、烈烈と渦巻いていた。
そこに結ばれた文字は、もう、私の理性を完全に消し去るのに十分すぎるほどの、極上の溺愛の言葉だった。

『五条家も、すべてはお前の敵ではない。お前は今日、本当の意味で、名実ともに私のものになったのだ、紬。……もう、手加減などしてやれない。お前が私をこんなにも狂わせたのだ。今夜は、お前のその清らかな肌のすべてに、私の愛の証を刻みつけてやる。私の名前を、その身体と魂の奥深くまで、永遠に引き裂けないほどに融かし込んでやる――』

「ん……っ……!」

彼の美しい唇が、私の唇を、昨夜よりも遥かに深く、激しく、貪(むさぼ)るように塞ぎ込んできた。
息ができないほどの熱い口づけ。彼の舌が私の口内を愛おしげに搦(から)め取り、私の身体から一切の力が抜けていく。

声を持たない「鬼神」の、それは言葉以上の、圧倒的な魂の告白だった。
私の異能――【心音の翻訳】は、今や彼の胸の奥から響いてくる、狂おしいほどの『愛している、愛している、お前だけが私の命だ』という地鳴りのような恋情の音を、ダイレクトに拾い上げ、私の脳内を甘い快感で満たしていた。

彼の手が、私の寝間着の紐をゆっくりと解き、衣服の隙間から、少し冷たくて、けれど熱い大きな手のひらが、私の滑らかな肌へと滑り込んでくる。
その指先が触れるたびに、私の身体は小さく跳ね、彼の名前を無意識に呼んでいた。

「あ……っ、ましろ、様……、ましろ様……っ」

私の声を聞くたびに、眞白様の瞳に、男としての獰猛な独占欲がギラリと灯る。
彼の頭上の金色の煙が、激しく、甘くのたうち回り、私たちの身体を完全に視界から隠すように、濃密な薔薇色の霧となって主寝室を包み込んでいった。

嘘を宿すことができない、鬼神の心。
その仮面の裏にあったのは、世界で一番深く、世界で一番過保護で、放置すれば幾千もの愛を叫び続ける、私だけへの永遠の溺愛だった。

言葉のない世界の、終わらない甘い夜。
私たちは、互いの魂のすべてを差し出し合い、二度と解けない真実の愛の中で、深く、深く、融け合っていくのだった。