沈黙の鬼神は愛を語れない 〜心を翻訳する少女と、冷酷総帥の極上筆談婚姻〜

千歳家と柳生本家という、私を長年縛り付け、利用しようとしていたすべての因縁が瓦解してから、数日が経った。
帝都を震撼させた陰陽庁での大審判は、特務軍総帥である柳生眞白(ましろ)様の圧倒的な勝利と、私の「異能」の証明によって幕を閉じ、今や私を「偽物の花嫁」などと呼ぶ者はどこにもいなくなった。

それどころか、実家の悪意を自らの言葉で撥ね退けた「総帥夫人」として、私の名は霊能界の隅々にまで轟いているらしい。

けれど、そんな大騒ぎなど、この広大で静謐な柳生邸の主寝室には一ミリも届かなかった。

(……ん、ふ……あ……)

朝の柔らかな光が遮光カーテンの隙間から差し込む中、私はいつものように、抗えないほどに心地よい温もりの中で目を覚ました。

私の細い腰を、まるで片時も離したくないと言わんばかりの強い力で抱き締めている、逞しく大きな腕。背中にぴったりと密着する、鍛え上げられた熱い胸板。
寝返りを打つことすら許さないその独占欲に満ちた抱擁に、私はシーツの中で小さく身を縮めることしかできない。

ふと上を見上げると、口元を覆う黒布を外した、息を呑むほどに美しい眞白様の素顔がすぐそこにあった。
長い黒髪が乱れて額にかかり、切れ長の美しい瞳が、じっと私を見つめている。彼は既に起きていたようで、私が目を覚ますのを、ただじっと待っていたようだった。

目が合った瞬間、彼の頭上から立ち上っていた、寝起き特有の穏やかな煙が、ぽんっ、と弾けるようにして『まばゆい純金の粒子を散りばめた、超特濃の薔薇(ピンク)色』へと変色した。

『ああ、私の愛しい紬が目覚めた。寝起きの少し潤んだ瞳も、赤く火てった頬も、すべてが私の理性を限界まで削り取っていく。どうしてこれほどまでに愛らしいのだ。今すぐその白い鎖骨に私の痕(あと)を深く刻み付け、もう一度シーツの底へと引きずり込んで、一日中私の愛で啼(な)かせ続けたい――』

(ま、眞白様……っ! 朝一番から本音が……本音が情熱的すぎます……っ!)

私はあまりの恥ずかしさに、顔を真っ赤にして布団を頭まで被ろうとした。
すると、眞白様は「また怖がらせてしまったのか」と勘違いしたようで、無表情のまま(けれど頭上の煙は激しく狼狽して灰色になりかけながら)、枕元のノートに流麗な速度で万年筆を走らせた。

『おはよう、紬。……私の腕の中が不快だっただろうか。お前がそうして私から隠れてしまうと、私は自分が何かお前の嫌がる非道をしてしまったのではないかと、胸が張り裂けそうになる。どうか、私の顔を見てくれ』

文章はどこまでも殊勝で、私に嫌われることを極限まで恐れる健気な旦那様。
けれど、頭上の煙は未だに薔薇色の霧を濃くしながら『布団を引き剥がして、その可愛い身体を抱き潰したい』という生々しい独占欲を叫んでいる。

私はその落差に胸をキュンとさせながら、布団の端から恐る恐る顔を出した。
そして、彼の黒いシルクの寝間着の袖をぎゅっと掴み、上目遣いで彼を見つめる。

「お、おはようございます、眞白様。嫌がってなんていません……。ただ、眞白様の心の中が、朝からあまりにも私への愛で溢れていて……。恥ずかしくて、どうしていいか分からなかっただけです……」

消え入りそうな声で白状すると、眞白様の夜の海のような瞳が、微かに大きく見開かれた。
次の瞬間、彼の頭上の煙は、部屋の結界を揺るがすほどの猛烈な勢いで大爆発を起こし、濃密な、どこまでも甘いピンク色の光がベッド全体を埋め尽くした。

『――ッッ!! お前という少女は、どうしてこれほどまでに私の心を翻弄するのだ。愛おしさが限界を超えた。もう我慢などしない。お前が私をこれほどまでに狂わせるのだから、その責任は身体で取ってもらうぞ』

「――ひゃんっ!?」

ノートを放り出した眞白様に、あっという間にベッドの上へと押し倒される。
朝の光の中で露わになる彼の美しい素顔が至近距離まで迫り、私の唇は、彼の少し熱い、けれどこの上なく優しい唇によって深く、深く塞がれた。
言葉のない世界の、あまりにも過保護で情熱的な朝の儀式に、私はただ、彼の体温に溶かされていくことしかできなかった。

◇◇◇

そんな甘い朝の余韻を引きずりながら、私たちはダイニングルームへと移動し、老執事の斎藤(さいとう)さんが用意してくれた朝食を摂っていた。

私はまだ顔が火照ったままで、お味噌汁を飲む手がおぼつかない。
隣に座る眞白様は、いつものように呪符の黒布を口元に巻き、完璧な「冷酷総帥」の仮面を被っている。……が、彼の頭上の煙は、未だに私の姿を見るたびにハートマークのような形を結び、甘いピンク色の光を放ち続けていた。

『可愛いな、紬。まだ赤みが引かない。昨夜と今朝の愛の余韻が、お前のその白い肌に残っているのを見るだけで、私は今日一日のすべての任務を放り出して、このままお前を抱き締めて眠りたくなる』

(もう、眞白様……っ、斎藤さんの前なんですから、心の中だけでも落ち着いてください……!)

私が心の中で必死に懇願していると、斎藤さんがトレイの上に一通の、非常に重厚な金縁の招待状を載せて近づいてきた。

「旦那様、奥様。陰陽庁の長官、並びに帝都の最高霊家門閥の代表より、初夏の『帝都至高夜会(ていとしこうやかい)』への招待状が届いております。……これまでは旦那様はすべて断られておりましたが、今回は『新総帥夫人のお披露目』も兼ねて、是非にと、強く要請が来ております」

「夜会……ですか?」

私はその言葉に、思わず背筋をこわばらせた。
社交界。それは、千歳家にいた頃の私にとっては、完全に無縁の世界だった。
実家では「出来損ないを外に出すな」「我が家の恥を晒す気か」と、夜会どころか、普通の集まりにすら一度も出席させてもらったことがなかったのだ。

(私のような、まともな社交の作法も知らない人間が、特務軍総帥の妻としてそんな大舞台に出席していいの……? 眞白様に恥をかかせてしまったら……)

一気に不安が押し寄せ、私の頭上が曇りかける。
その瞬間――カシャリ、と鋭い音が響き、眞白様の手が私の小さな手をテーブルの上で力強く包み込んだ。

見上げると、彼の頭上からは、私の不安をすべて吹き飛ばすような、神々しいまでの『純白と金色の輝かしい煙』が、激しく渦巻いていた。

『何をお前は不安に思っているのだ、紬。恥をかく? 逆だ。お前は私の命の恩人であり、この世界で最も美しく、気高い私の唯一無二の正妻だ。あのような有象無象どもの集まりに、お前という至宝を連れて行くこと自体が、奴らにとっての至上の栄誉なのだ。お前が望むなら、私は帝都の社交界ごと、お前の足元に跪(ひざまづ)かせてみせよう』

眞白様はノートをひったくるように掴むと、力強い、一ミリの迷いもない文字を書き殴った。

『出席する。……紬、何も恐れる必要はない。お前はただ、私の隣で、私の溢れる愛だけを感じていればいい。お前を世界で一番美しい花嫁として、私が完璧に飾り立ててやる』

「眞白様……。ありがとうございます。貴方が一緒に行ってくださるなら、私、頑張ります」

私が真っ直ぐにその瞳を見つめて微笑むと、眞白様の頭上の煙は、一瞬にして愛おしげな深いピンク色へと染まり、ゆらゆらと波打った。
こうして、私の「社交界デビュー」が、眞白様の全面的なプロデュースによって決定したのだった。

◇◇◇

翌日、柳生邸の広大な応接間は、臨時の「最高級ブティック」へと変貌していた。
「お前を外の雑踏に連れ出すのは、他の男の視線に晒されるため危険だ」という、眞白様の斜め上の過保護な理由により、帝都一番の老舗テーラーと、最高級の宝石商が、数え切れないほどのドレスと宝飾品を屋敷に丸ごと持ち込んできたのだ。

「まぁ……! なんて美しい奥様かしら! まるで妖精のようですわ!」

女性の仕立て屋たちが、私の身体に次々と最高級のシルクやレースのドレスをあてがいながら、歓声を上げる。
私が着替え室で、淡いサファイアブルーの、デコルテが大きく開いたイブニングドレスに着替え、恥ずかしそうに応接間へと姿を現した時のことだった。

ソファに座って監視(?)していた眞白様の頭上の煙が、一瞬にして『真っ黒な、凄まじいまでの独占欲の嵐』へと変貌した。

『――ダメだ!!! 絶対にダメだ!!! なんだそのドレスは! お前のその白く滑らかな鎖骨も、美しい胸元の膨らみも、すべてが露出しているではないか! あのような夜会にこれを着ていったら、会場中の男たちが色めき立ち、お前を不埒な目で見るに決まっている! 他の男に一肌も見せたくない! お前のその美しい身体は、私だけのものだ! 今すぐ首元まで完全に隠れるドレスに変えさせろ!!!』

(ま、眞白様……っ! 本音が、本音が嫉妬で大暴走を起こしています……っ!)

無表情のまま、ゴゴゴゴと地鳴りのような威圧感を放つ眞白様に、宝石商や仕立て屋たちが「ひっ……!」と息を呑んでその場にひれ伏す。
眞白様は猛烈な筆圧でノートに文字を叩きつけた。

『却下だ。もっと肌の露出が少なく、首元までレースで覆われた、厳格なドレスを持ってこい。ただし、世界で一番豪華なものだ』

「は、はいっ! 直ちに!!」

慌てて仕立て屋たちが持ってきたのは、最高級の純白のシルクをベースに、首元から手首までが繊細な薔薇の魔導レースで覆われた、極めて気品高く、けれど一切の露出がない特注のドレスだった。
それは、まるで中世の聖女のような、厳かで圧倒的な美しさを放っていた。

それを着て再び私が姿を現すと、眞白様の頭上の煙は、今度は『まばゆい黄金色と薔薇色の後光』へと変化し、きらきらと光の粉を降らせ始めた。

『……ああ、美しい。美しすぎて、心臓が止まるかと思った。露出がないことで、逆にお前の持つ清廉さと、犯しがたい気高さが際立っている。……だが、これでもまだ美しすぎる。夜会当日、お前を見た男たちが、その美しさに目を奪われると思うだけで、やはり全員の目を潰してしまいたくなるな――』

(もう、過保護が行き過ぎて、今度は夜会の出席者全員を盲目にする規模になってしまっています……!)

私は内心で甘い悲鳴を上げながらも、自分をこれほどまでに愛し、独占しようとしてくれる旦那様の存在に、深い幸福を感じずにはいられなかった。

そして、ついに帝都至高夜会の当日が訪れる。
それは、私たちの新しい絆を試す、新たなる嵐の始まりでもあった。