沈黙の鬼神は愛を語れない 〜心を翻訳する少女と、冷酷総帥の極上筆談婚姻〜

柳生本家の一族を完全にねじ伏せ、その権力と領地を特務軍の直轄としてから、数日が経過した。
屋敷を取り巻く空気は、以前にも増して澄み渡り、私を脅かす悪意の雑音は完全にシャットアウトされていた。

(本当に……静かで、温かい)

朝、目を覚ますと、いつものように世界で一番愛おしい温もりが私を包み込んでいた。
私の腰をがっしりと、けれど慈しむように抱き締める眞白様の大きな腕。彼の胸板にぴったりと背中を預けながら、私はその心地よい重みに幸福を噛み締めていた。

昨夜も、彼は口元の布を外し、その息を呑むほどに美しい素顔を私だけに晒してくれた。
言葉を持たない彼の唇から溢れ出る、狂おしいほどの情愛。私の【心音の翻訳(しんおんのほんやく)】という異能は、彼の魂が私を求めて激しく脈打つ音を、これでもかと鮮明に拾い上げていた。

ふと見上げると、眞白様は既に目を覚ましており、私の髪を大きな指先で優しく愛おしげに梳(す)いているところだった。
視線が交わった瞬間、彼の頭上から立ち上る煙が、ぽんっ、と弾けるように鮮やかな『黄金色を帯びた大特濃のピンク色』へと染まる。

『ああ、目覚めた瞬間の紬も、どうしてこれほどまでに愛らしいのだ。少し乱れた髪も、まだ眠たげに潤んだその瞳も、すべてが私の理性を狂わせる。今すぐその薄い唇に朝の挨拶のキスを落とし、そのまま再びシーツの中へと連れ戻してしまいたい――』

(ま、眞白様……っ、朝一番から本音の糖度が高すぎます……!)

私は途端に顔がカッと熱くなり、布団の中に潜り込もうとした。
すると、眞白様は無表情のまま(寝室ではまだ布をつけていないその美しい素顔のまま)、少しだけ寂しげに眉を下げ、枕元のノートに流麗な速度で文字を書いた。

『おはよう、紬。……私の腕の中は窮屈だっただろうか。お前が急に顔を隠してしまうと、私はまた何かお前の嫌がることをしてしまったのではないかと、胸が締め付けられるように不安になるのだ』

(そんな、嫌がるだなんて滅相もないのに……!)

ノートの文章も、そして頭上で『見捨てないでくれ、愛している』と健気に点滅しているピンク色の煙も、どちらも愛おしすぎて胸がいっぱいになる。

私は布団から顔を出すと、彼の黒いシルクの寝間着の胸元をぎゅっと掴んだ。
「お、おはようございます、眞白様! 嫌がってなんていません……! ただ、眞白様の心の声が、あまりにも私への愛に満ちていて……恥ずかしくて、心臓が持ちそうになかっただけです……」

消え入りそうな声で白状すると、眞白様は一瞬だけ目を見開いた。
次の瞬間、彼の頭上の煙は、部屋の壁を突き破らんばかりの勢いで猛烈な爆発を起こし、濃密な薔薇色(ピンク)の霧となって私たちを包み込んだ。

『――ッッ!! お前という少女は、どうしてこれほどまでに私の心を翻弄するのだ。愛おしさが限界を超えた。もう我慢などしない。お前が私をこれほどまでに狂わせるのだから、その責任は身体で取ってもらうぞ』

「――ひゃんっ!?」

ノートを放り出した眞白様に、あっという間にベッドの上へと押し倒される。
朝の光の中で露わになる彼の美しい素顔が至近距離まで迫り、私の唇は、彼の少し熱い、けれどこの上なく優しい唇によって深く、深く塞がれた。
言葉のない世界の、あまりにも過保護で情熱的な朝の儀式に、私はただ、彼の体温に溶かされていくことしかできなかった。

◇◇◇

そんな甘い余韻を引きずりながら、私たちはダイニングルームへと移動し、斎藤(さいとう)さんが用意してくれた朝食を摂っていた。

私はまだ顔が火照ったままで、お味噌汁を飲む手がおぼつかない。
隣に座る眞白様は、いつものように呪符の黒布を口元に巻き、完璧な「冷酷総帥」の仮面を被っている。……が、彼の頭上の煙は、未だに私の姿を見るたびにハートマークのような形を結び、甘いピンク色の光を放ち続けていた。

『可愛いな、紬。まだ赤みが引かない。昨夜と今朝の愛の余韻が、お前のその白い肌に残っているのを見るだけで、私は今日一日のすべての任務を放り出して、このままお前を抱き締めて眠りたくなる』

(もう、眞白様……っ、斎藤さんの前なんですから、心の中だけでも落ち着いてください……!)

私が心の中で必死に懇願していると、廊下からバタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
現れたのは、特務軍の伝令兵だった。彼は大汗をかきながら、眞白様の前で最敬礼を捧げる。

「報告いたします、総帥! ……大変不穏な事態が発生いたしました。現在、帝都の結界街、および一般の霊能者たちの間で、奇妙な『噂』が急速に拡散しております!」

伝令兵の言葉に、眞白様の夜の海のような瞳が、一瞬にして冷徹な鋭さを取り戻した。
彼の頭上の煙から甘さが消え去り、ピキピキと凍りつくような『純白の、けれど刃のような煙』へと変化する。

眞白様は手元のノートにペンを走らせた。

『噂だと? 内容を申せ』

伝令兵は、背後に控える私をチラリと気まずそうに見た後、意を決したように声を張り上げた。

「はっ……! 『特務軍総帥が娶った千歳家の紬は、狐のあやかしが化けた【偽りの花嫁】であり、本物の紬は、千歳家で今も幽閉されている』……という噂です! さらに、その偽物の花嫁が、禁忌の精神呪術を使い、総帥の心を操って柳生本家を攻撃させたのだと、本家の残党や千歳家が吹聴(ふいちょう)している模様であります!」

(私が……偽物の花嫁……!?)

その言葉を聞いた瞬間、私の頭の芯が冷たく冷え切っていくのを感じた。
千歳家と、没落した柳生本家の残党。彼らは、私と眞白様を切り離すために、そして眞白様の総帥としての社会的信用を失墜させるために、そんな卑劣な嘘の噂を流したのだ。

「さらに……」と伝令兵は続ける。
「千歳家の当主、厳山(げんざん)が、本物の『紬』と称する少女を連れて、本日正午、陰陽庁の最高裁判所へ『総帥による令嬢誘拐および精神操作の告発』に踏み切るとのことです!」

大広間に、重苦しい沈黙が流れる。
実家の人たちが、私を道具として磨り潰そうとしたあの悪魔たちが、最後の悪あがきとして、私からこの温かい居場所を奪おうとしている。

私の身体が、条件反射的に小さな震えを刻み始めた。
(また……また、あの人たちの嘘に、私の人生が壊されてしまうの……?)

恐怖が胸を締め付けそうになった、その時。

ドンっ!!! と、ダイニングの頑丈なテーブルが、眞白様の拳によって粉々に叩き割られた。

「ひっ……!?」
伝令兵が、その圧倒的な霊圧の前にその場に平伏する。

眞白様から立ち上ったのは、もはや言葉を失うほどの、凄まじいまでの『紅蓮の殺意を孕んだ純白の煙』だった。部屋のガラス窓がピキピキと音を立ててひび割れ、屋敷全体の結界が彼の怒りに共鳴して激しく鳴動している。

彼の頭上の煙は、千歳家に対する絶対的な、そして完璧な「破滅」の文字を紡ぎ出していた。

『我が妻を、偽物と呼んだな。私の魂を救ってくれた、世界で唯一無二の紬を、あやかしか何かのように罵ったな。千歳厳山……お前たちは、本当に私の逆鱗(げきりん)に触れた。一族諸共、この世の地獄の底へと叩き落としてやる』

眞白様はノートをひったくるように掴むと、紙面を切り裂かんばかりの筆圧で、冷酷無比な文字を書き殴った。

『紬、恐れるな。お前が本物であることは、私のこの「嘘を宿せない心」が、何よりも証明している。……斎藤、特務軍第一、第二、第三部隊を直ちに緊急招集しろ。陰陽庁へ向かう。私の妻を傷つける害虫どもを、私の「声」で、今度こそ跡形もなく消し去ってくれる』

(眞白様……)

彼の頭上の煙は、敵に対する凄まじい殺意の裏で、私への狂気的なまでの「過保護な守護」の文字を叫んでいた。
千歳家が用意したという「偽物の花嫁」の正体とは。そして、眞白様の過保護な怒りが帝都を揺るがす、決戦の幕が上がろうとしていた。