沈黙の鬼神は愛を語れない 〜心を翻訳する少女と、冷酷総帥の極上筆談婚姻〜

「……っ、あ、浅はかであった……。すべて、総帥の仰せの通りにいたします……!」

大広間の冷たい畳に額を擦り付け、ガタガタと無様に身体を震わせているのは、さっきまで尊大な態度で私たちを見下していた柳生本家の当主だった。
その隣では、宗介(そうすけ)が完全に腰を抜かし、自らの失態と眞白(ましろ)様から放たれた「本物の殺意」の前に、言葉を失って這いつくばっている。

声を失ってなお、この国の陰陽師の頂点に君臨する「鬼神」。
眞白様が放った『声(言霊)を聞く覚悟を持つがいい』という宣告は、本家の一族にとって、文字通りの破滅を意味していた。かつて五歳の彼が一瞬にして本邸を消し飛ばしたという圧倒的な天災の記憶が、彼らの魂に恐怖の楔(くさび)として深く打ち込まれているのだ。

当主は震える手で、特務軍直轄化を受け入れるための魔術契約書に、自らの血判を押した。
これで、柳生本家が持っていた権力も、領地も、資金も、すべてが眞白様の管理下へと移ることになる。彼らが私を「出来損ない」と蔑み、眞白様の弱みにしようと企んだ結果は、一族の完全な没落という形で幕を閉じた。

眞白様は、差し出された契約書を冷淡な目で見下ろすと、それを斎藤(さいとう)さんへと手渡した。
そして、これ以上この醜悪な悪意の巣窟にいる必要はないと判断したように、私の肩をその大きな腕で優しく、けれどしっかりと引き寄せた。

広間に集まっていた長老たちには一瞥もくれず、私たちは静かに、けれど堂々と柳生本邸を後にした。

◇◇◇

帰りの、防音設備が完璧に施された漆黒の装甲車の中。
二人きりになった瞬間、それまで車内に満ちていた、肌を刺すような冷徹な霊圧が、嘘のように霧散していった。

「ふぅ……」

眞白様が、口元を覆う黒布の上から、小さく無音の息を吐き出す。
それと同時に、彼の頭上から立ち上っていた『漆黒を帯びた吹雪のような煙』が、まるで魔法が解けたかのように、一瞬にしてぽわぽわとした『愛おしげな大特濃の薔薇(ピンク)色』へと変色した。

(あ、いつもの眞白様に戻った……)

私はホッと胸を撫で下ろした。
眞白様は、すぐに懐からお馴染みの革表紙のノートを取り出すと、少しだけ申し訳なさそうな、弱気な手つきでペンを走らせた。

『紬。……本当に、すまない。お前をあのような醜い悪意に塗れた場所に連れて行き、恐ろしい思いをさせてしまった。私は、本家を完全に黙らせるためにはこれしかないと思って臨んだのだが、やはり、お前に私の残酷な一面を見せるのは、今でも酷く胸が痛む。嫌われてしまったのではないかと、気が気ではないのだ』

差し出された手文字は、先ほど長老たちを震撼させたものと同じとは思えないほど、繊細で、どこか怯えるような丸みを帯びていた。
けれど、彼の頭上の煙は、ノートの反省文を遥かに凌駕するほどの、凄まじいまでの「過保護な独占欲」と「甘やかしの欲求」で大暴走を起こしていた。

『ああ、怖かったろうに、私の可愛い紬。よくぞ耐えてくれた。本当は本邸の門を出た瞬間に、お前を軽々と抱き上げて、人目を気にせず何度も何度も抱き締め、お疲れ様のキスを奪いたかったのだ。今すぐこの窮屈な車から降りて屋敷のベッドへと戻り、お前を私の腕の中に閉じ込めて、今日一日は私の愛だけで満たしてあげたい――』

「~~~~っっ!?」

ノートに書かれた神妙な謝罪文と、頭上で激しくのたうつ『ベッドで抱き締めたい、キスしたい』という超ド級の本音の落差に、私の顔は瞬時に沸騰した。
(眞白様、反省しているようで、頭の中がちっとも反省していません……っ!)

私はあまりの恥ずかしさに、赤くなった顔を隠すように両手で覆った。
すると、眞白様は「やはり怖がらせてしまったのか」と勘違いしたようで、さらに大慌てで次のページに文字を書き殴った。

『お前が顔を隠すほどに怯えている……! 私は本当に愚かだ。帰ったら、お前の好きな甘い菓子を何でも用意させよう。私のことはいくら責めても構わない。だから、どうか私を見捨てないでくれ』

(見捨てるだなんて、あるわけがないのに……!)

私は慌てて、顔を覆っていた手を下ろすと、眞白様のノートを持つその大きな手を、自らの両手でぎゅっと握り締めた。
「眞白様、勘違いしないでください! 私は怖くて顔を隠したんじゃありません。貴方の……貴方の本音が、あまりにも温かくて、恥ずかしかっただけです。……私、お出かけに連れて行ってくださって、凄く嬉しかったんですよ?」

私が真っ直ぐにその瞳を見つめて微笑むと、眞白様は布に覆われた口元を片手で強く押さえ、ふいっと窓の外へと顔を背けてしまった。
彼の耳の付け根が、トマトのように真っ赤に染まっている。
嘘を宿すことができない彼の心臓は、今、私の言葉によって、特務軍のどの戦闘時よりも激しい速さで脈打っているのが、繋いだ手から痛いほど伝わってきた。

◇◇◇

柳生邸に戻ると、斎藤さんが素晴らしい手際で、リビングのテーブルに温かいアールグレイの紅茶と、私が以前「食べてみたい」と呟いていた、都内の有名店の特製イチゴタルトを用意してくれていた。

「奥様、本家での大仕事、本当にお疲れ様でございました。旦那様から、本日は奥様をこれ以上ないほどに甘やかすようにと、事前に厳命を受けておりましたので」

斎藤さんが茶目っ気たっぷりに微笑む。
(事前に厳命って……眞白様、本家に乗り込む前から、私の甘やかしプランを考えていたんですね)

私はその過保護ぶりに胸を熱くしながら、瑞々しいイチゴタルトを一口頬張った。
「お、美味しい……! 疲れが全部吹き飛んじゃいそうです!」

私が幸せそうに頬を緩めると、隣に座る眞白様の頭上の煙から、きらきらとした金の粒子がさらに激しく飛び散った。
彼は手元のノートに流麗な文字を刻む。

『美味しいか。ならば良かった。お前がその小さな口で嬉しそうに食事をする姿は、私にとって、どんな高位の魔術を見るよりも美しい。……これからは、お前が望むものは、この世界の果てからでも私がすべて手に入れてこよう』

(本当に……底なしの甘やかしだわ)

実家では「食べる価値もない」と冷遇されていた私が、今や国家最高の権力者に、お姫様のように跪(ひざまづ)かれ、すべての望みを叶えられようとしている。この急激な変化に、まだ頭が追いつかないけれど、私の心は、彼の嘘のない『純白の愛』によって、完全に満たされていた。

夕食も終わり、夜の静寂が屋敷を包み込む頃。
私たちは、主寝室の大きなベッドの上で、再び二人きりになっていた。

パチパチと、魔除けの香炉から小さな音が響く。
眞白様はベッドの縁に腰掛け、私をその逞しい腕の中に包み込んだまま、そっと自らの口元に手をかけた。

さらり、と黒い布が外され、月の光の中に、彼の息を呑むほどに美しい素顔が現れる。
昨夜、本当の意味で結ばれた私たちの距離は、もう言葉や布で隔てる必要のないところまで深まっていた。

眞白様は声を出さない。けれど、彼の美しい唇が、私の額、そして目元へと、優しく、何度も何度も熱いキスを落としていく。
それは、ノートの文字を介さない、彼なりの最高に過保護で、最高に甘い「お疲れ様」の儀式だった。

見上げる彼の頭上には、黄金色と深紅の混ざり合った、この世で最も美しい愛の煙が渦巻いている。
その煙が、私の瞳に、永遠の絆を証明するような文字を結んだ。

『紬。お前が私の隣にいてくれるなら、私はどんな運命も恐れない。本家も、あやかしも、お前を脅かすものすべてから、私はこの命を懸けてお前を守り、甘やかし、愛し続けよう。……だから、今夜も私の腕の中で、安心して眠るがいい』

「はい……。私も、ずっと、眞白様のお側(そば)にいます。……愛しています、私の旦那様」

私が彼の首元に細い腕を絡めると、眞白様は嬉しそうに目を細め、再びその美しい唇で、私の唇を深く、深く、塞ぎ込んだ。
言葉のない世界の、どこまでも甘く、どこまでも過保護な筆談婚姻生活。
立ちはだかる困難を二人で乗り越えた私たちの絆は、もう誰にも引き裂くことのできない、本物の「真実」へと昇華したのだった。