沈黙の鬼神は愛を語れない 〜心を翻訳する少女と、冷酷総帥の極上筆談婚姻〜

世界は、見るに堪えない嘘と悪意の煙で満ちている。

煌びやかなクリスタルのシャンデリアが天井で眩い光を放ち、最高級のジャズが生演奏される、名門・千歳(ちとせ)財閥の本邸大広間。
今夜は私の二つ年の離れた妹、紗香(さやか)が、由緒正しき陰陽師の家系である柳生(やぎゅう)家との婚約内定を取り付けた、その祝勝パーティーが催されていた。

最高級のシルクで仕立てられたドレスを纏い、金箔のあしらわれたグラスを掲げて談笑する、政財界の重鎮たち。
その誰もが、上品な笑顔の裏側でドス黒い何かを煮詰め、吐き出している。

私の瞳――【心音の翻訳(しんおんのほんやく)】という異能を持つこの目には、人が口にする言葉とは別に、その人物の頭上から立ち上る「本音」が、まるで黒い煙で形成された文字のようになって視覚化されてしまうのだ。

「おめでとう、千歳殿。これで千歳家の陰陽術の未来も安泰ですな」

そう言って父親の肩を親しげに叩く、他家の当主。だが、彼の頭上に浮かぶ黒い煙の文字は、醜く歪んでいた。

『早く没落しろ、成金め。お前たちの血筋など、我が家の道具にすぎん』

「ありがとうございます。すべては皆様の温かいご支援のおかげです」

にこやかに返す私の父親、千歳厳山(げんざん)。だが、その頭上にもまた、同じように漆黒の煙が渦巻いている。

『お前のような老い損ないに頭を下げるのも今日までだ。柳生家と繋がった今、我が家が業界の頂点に立つ』

(うっ……)

胸を突くような激しい吐き気が込み上げ、私はドレスの胸元を強く押さえた。
ただそこに立っているだけで、何十人、何百人という人間の嘘と強欲、嫉妬と悪意が、文字の暴力となって私の脳内に直接流れ込んでくる。
この異能は、私の精神を、そして身体を、内側からじわじわと削り取る呪いそのものだった。

「おい、紬(つむぎ)」

冷酷な、けれど一見すると威厳に満ちた父親の声が私を呼んだ。
部屋の隅、影の薄い場所に息を潜めていた私を、父親は顎でしゃくって自分の隣へと立たせる。
そこには、今夜の重要な交渉相手である大物政治家の姿があった。

「我が長女の紬です。体調が優れず普段は表に出しませんが……紬、ご挨拶を」

父親の手が、私の肩を優しく抱く。周囲から見れば、病弱な娘を労る慈愛に満ちた父親の姿そのものだろう。
けれど、私の肩を掴む父親の指先は、肉に食い込むほどに冷たく、そして強かった。それは「早く使え」という無言の脅迫。

父親の頭上に浮かぶ煙は、こう告げている。

『役立たずの出来損ないめ。早くあの男の本音を読め。嘘をついているかどうか、私に合図を出せ』

私には、妹の紗香のような、あやかしを薙ぎ払う華やかな攻撃魔術の才能は一切ない。
だからこそ実家は、私を「相手の嘘を見破るための都合のいい道具」として使い潰してきた。
他家との政治的な交渉、財閥の利権争い。そこに連れて行かれては、四六時中、人間の最も汚い部分を覗き見ることを強要される。
それがどれほど私の心を壊していくか、家族の誰一人として一瞥すらくれなかった。

「お初にお目にかかります、千歳紬と申します……」

喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
政治家の頭上を見る。黒い煙は『千歳家をどう利用してやろうか』と囁いている。
私は父親の手のひらに、あらかじめ決められていた「嘘をついている」という合図の隠し文字を、指先で小さく書き込んだ。

父親の目が満足げに細められる。
用が済めば、もう私はそこにいる必要すら、価値すらない。

「……少し、風に当たってまいります」

そっとその場を離れようとした時、香水の甘い香りと共に、今夜の主役である妹の紗香が歩み寄ってきた。
その隣には、私の婚約者であるはずの、柳生蓮(れん)の姿がある。

「お姉様、今日もそんな地味な格好をなさっているのね。せっかくの私の晴れ舞台なのに、まるでお通夜のようだわ」

紗香はクスクスと愛らしく笑いながら、蓮の腕に自分の細い腕を絡めた。
姉を気遣うような、茶目っ気のある妹の仕草。
だが、彼女の頭上に広がる黒い煙は、何よりも残忍だった。

『気味が悪い化け物。人の心を覗き見るなんて、本当に反吐が出るわ。お父様にすがりついて生きてるだけの無能なくせに。早くこの家から消え失せればいいのに』

頭が割れるように痛む。
実の妹から向けられる、一点の曇りもない純粋な嫌悪の文字。
助けを求めるように蓮を見つめたが、私の唯一の心の拠り所であったはずの婚約者は、冷たい目で私を見下ろした。

「紬、紗香の言う通りだ。君はもう少し、千歳家の長女としての自覚を持つべきだよ。いつもそうやって暗い顔をして……僕の妻になる覚悟があるのかい?」

蓮の言葉に、私は息が止まりそうになった。
彼は、私の異能の苦しみを知っている数少ない人間のはずだった。実家で虐げられ、ボロボロになっていた私に、かつて優しく手を差し伸べてくれたのは彼だったのに。いつか私をこの家から連れ出してくれると、そう信じていたのに。

彼の頭上の煙が、私の最後の希望を無残に打ち砕く。

『心を覗く化け物なんて、誰が妻にするか。千歳家の本物の天才は紗香だ。柳生家にとっても、あの無能な姉より、強力な魔力を持つ紗香を妻に迎えた方が遥かに利益がある。早く婚約を破棄する大義名分を作らなければ』

(あ……ああ……)

声にならなかった。
物理的な暴力を振るわれているわけではない。ご飯だって、豪華なものが用意されている。
けれど、この部屋にいる全員が、私の愛する家族も、信じていた恋人も、全員が笑顔で私の心を切り刻んでいる。
「お姉ちゃんなんだから」「病弱なんだから」という優しい言葉の檻に閉じ込められながら、その裏で私を化け物と呼び、利用価値だけを貪り尽くす。
誰も、私の本当の痛みに気づいてくれない。

この場に満ちる悪意の煙に窒息しそうになりながら、私はたまらず大広間を飛び出した。

外は、冷たい大雨が降っていた。
現代の東京。きらびやかな高層ビルの狭間で、激しい雨の音が世界の雑音を消し去っていく。
傘も持たず、薄いドレスのまま、私は夜の街へと走り続けた。

どこへ行けばいいのか分からない。
実家に戻れば、またあの黒い文字の絨毯が私を待っている。
でも、私には行く当ても、頼れる誰もいない。

(……もう、疲れてしまったな)

冷たい雨が体温を奪い、これまで他人の呪いや悪意を引き受けすぎて限界を迎えていた身体が、悲鳴を上げる。
視界が急激に狭くなっていく。足がもつれ、私は冷たいアスファルトの上へと激しく倒れ込んだ。

激しい雨の音。遠のいていく意識の中で、私は自分の手元を見た。
泥にまみれた私の手は、これまで他人の本音を暴くために使われ、傷つき、ボロボロだった。

(誰でもいい……。お願いだから、私を「道具」としてじゃなく、ただの人間として……)

そこまで考えた時、遠くから、重厚なブーツの足音が近づいてくるのが聞こえた。
アスファルトを叩く激しい雨の音に混じって、規則正しく、圧倒的な存在感を放つ足音。

重い瞼を必死に持ち上げる。
視界の端に映ったのは、漆黒の軍服。
現代の闇に潜むあやかしを駆逐する国家の最高武力――【陰陽特殊特務軍】の外套だった。

そして、私の真ん前で足音が止まる。
見上げると、そこには信じられないほど美しい、けれど氷のように冷たい瞳を持った一人の男が立っていた。

彼の口元は、不気味なほど漆黒の布で固く覆われている。
街の灯りを浴びて、男の影が私を包み込んだ。

その瞬間、私の目は、彼の頭上を見た。

激しい雨の中、彼から立ち上っていたのは――。
今まで生きてきて一度も見見たことがない、濁りの一切ない、澄み切った『純白の煙』だった。