散る散る、満ちる。

 自分のくしゃみの音で目が覚めた。

「さみぃ……」

 背中も尻も、全部痛い。
 どうして俺は近所の公園にレジャーシートを敷いて横たわっていたのか、二、三度瞬きをして思い出した。

 そうだ、花見に来ていたのだ。

 ブランコの近くに設置された時計の針は、午後八時を指している。
 鼻から息を吸うと体温よりも低い温度の空気が鼻孔を抜け、一気に肺に流れ込んだ。ゆっくりと起き上がり、首を左右に曲げてから手の指を組んで思い切り背伸びをする。縮こまっていた身体からだが麺棒でぎゅうと伸ばされているような気分になり、俺は「うどん食いたい」と呟いた。

「食べる?」

 声の方向へ目を向けると、ネクタイを緩ゆるめたサラリーマンらしき男が、白いプラスチックの器に入った豚汁を差し出していた。

 誰だろう。
 バイト先の常連客か。
 バスでよく遭遇する乗客か。
 何となく見たことがあるような気がするけど、思い出せない。

「うどんじゃなくて申し訳ないけど、美味しいよ」

 三十代半ばぐらいだろうか。俺よりずいぶん年上に見えるそのリーマンは、人懐こい顔でにっこり笑って言った。

「あ、や、そういうのは」
「ちょっと冷めてるけど、冷えても旨いのが豚汁だから」
「いや、アツい方が絶対旨いっしょ」
「それは勿論そう。けどそれ言い出したら何だってそうじゃない? おにぎりだって握りたての方がほかほかだし、パリパリの海苔が口の中でちょっとくっつく感じが癖になるっていうか」
「俺、おにぎりは冷たい方が塩が馴染んでて好きっス。海苔もふにゃついてる方が食いやすいし」
「えー、そっち派かぁ」
「何スか、そっち派って」
「僕と同じじゃない派」

 何言ってんだ、この人。
 まんまじゃねぇかと思わず笑ってしまった。

「だから、ほら」

 どうぞと改めてリーマンが豚汁を勧めてきたので、俺は「あざっス」と言って受け取ろうとしたが、そういえばと手を引っ込めた。

「よく知らない人からモノを貰っちゃいけませんて、ばあちゃんに言われたんだった」

 やっぱすんません――と、俺は謝る。

「そっか。おばあちゃんの言葉じゃあ、仕方ないね」

 リーマンは少し寂しそうに笑うとずずずと豚汁を啜すすり、「うん、旨い」と微笑んだ。

「お兄さんも花見っスか」
「そ。ここの桜、もさもさしてるのが可愛いよね。毎年見てるけどやっぱりここの桜が一番好きだなぁ」

 桜がもさもさって、どういう意味だ。
 目線を上に向けると、ぼんぼりのようにボリュームのある桜の花で視界が埋め尽くされた。何枚もの花びらが重なった遅咲きの八重桜が、風にゆるゆると震えている。

「俺、花見の何が楽しいのか全然分かんねぇや」
「そうなの?」
「大人ってさ、花見なんて言いながら全然桜見てないし、食べたり呑んだり馬鹿笑いしてるだけだろって」
「確かにそういう人たちもいるよね」
「弁当だってさ、別にどの花のそばで食ってもいいじゃん。なのにそれを『花見』なんて言う人、あんまいないと思うんだよな。何で桜だけ特別扱いなのか、意味分かんね」

 ひとひらの花びらが、目の前の地面に音もなく落ちる。
 まだ咲いていたかったと主張するように、薄く淡い桃色の欠片はわずかな風を受けて一瞬ふわりと舞い上がった。

「――君は誰と花見をしに来たの?」
「俺スか。俺は」

 夜の八時に、あの公園に来て。

 幼馴染にそう言われたのだ。

 ばあちゃんに預けられっ放しだった俺の後ろを、あいつはいつもついてきた。
 生来の目付きの悪さでどれだけ睨んでも、にこにこと笑って。

 高卒で就職した先で嫌味ばかり言う先輩を殴ってクビになった時、周りからは「馬鹿なことをするな」と散々言われたが、アイツは諫めるどころか「ちゃんと理由があるんだろ。むしろ恰好良いじゃん」と言って笑いながら俺の肩を叩いた。

 喧嘩ばかりしていた俺の近くにいることを良く思わない人間はたくさんいたはずなのに、ずっと笑顔で俺の隣にいた。
 何を言われても上手く笑えない俺とよく笑うあいつは、見た目だけでなく性格も正反対だった。
 腐れ縁みたいな関係だと思っていたのに、そうじゃなかった。

 俺のことを「好き」なんて言いやがって。

 はじめは「何のつもりだ」と思った。
 仕事も続かないし道を歩けば絡まれる。
 そんな俺といても、良いことなんてひとつもないのに。

 でも悪意をぶつけられるよりは遥かに良かったし、何よりもあいつがそばにいると心地良くて、俺は自分が少しだけマシな人間になれた気がしたんだ。

「ふたりだけで、夜桜を見ようって言われたんスよ」

 お弁当は何がいいのかと訊かれたから、唐揚げとか卵焼きとかウィンナーとかほうれん草の胡麻和えとか、思い付くものをいっぱい言った気がする。

「はい」

 レジャーシートの上に、紙皿が置かれた。

「お腹空いてそうな顔してるよ」

 見ると、俺がついさっき思い出していたようなおかずが皿の上いっぱいに盛られている。リーマンは「食べられないかもしれないけど、せっかくの花見だから」と言い唐揚げをひとつつまむと、「旨い」と再び自画自賛した。

 人の良さそうなリーマンに、俺はひとつの質問を投げた。

「あいつは、何で花見やろうなんて思ったんスかね」

 長い付き合いの中で、花見をしようなんて言われたのは初めてだった。
 俺もあいつも酒が吞めない年だし、わいわい騒ぐことを楽しいと思うタイプじゃなかったのに。

 どうして、花見だったのか。

「特別だったんじゃないかな」

 リーマンが答える。

「特別?」
「君のことがとても大切で、かけがえのない存在なんだってことを、桜の下で伝えることに意味があると思ったんだよ」

 ――誰に何を言われても、どんなことがあっても一生そばにいるからって、桜に誓いたかったんだ。

 風が強く吹き始めた。
 はらりはらりと花びらが降り、俺たちの頭上を踊るように散っていく。

「――今年の花見も、そろそろお開きかな」

 リーマンがぽつりと呟いた。
 俺は再び時計を見る。
 午後九時。
 突風に攫われるように大量の八重桜の花びらがごうごうと舞い上がりながら、渦を巻く。

 何だろう。
 とても大事なことが頭から抜け落ちている気がする。

「約束、今年も忘れないでいてくれてありがとう」

 約束。

 俺は、俺自身に関わる大事な何かを忘れている。
 考えようとすればするほど風の音は強くなり、薄いピンク色をした無数の花びらに思考が乱される。

「来年は豚汁じゃなくて、うどんを用意しておくね」

 耳元で強風が唸うなりを上げ、瞬きをひとつするごとに映像がまぶたの裏でコマ送りされていく。

 午後七時四十分を指す時計の針。
 道路を蹴る俺の白いスニーカー。
 点滅する信号。
 視界に飛び込んで来た黒い車。
 血に濡れた腕。
 遠ざかるナンバープレート。
 足跡で汚れた桜の花びら。

「もしかして、俺――」
「また来年の今日も、八時にここで待ってる」

 リーマンが口の端を上げて笑う。
 懐かしいその顔。
 お前は。

 ぴたりと風が止み、音が消える。

「大好きだよ、桜」

 桜。
 俺の名前。

 愛おしそうに呟いたその声が、俺の存在と共に夜の公園に溶けていく。

 あぁそうだった。
 俺が花見を約束したのは――。

 目の前がぼやける。
 あいつの姿が見えなくなる。
 忘れたくないのに、瞬きの度に大事なものから失われていく。

 頼む。

 全てが消えていく前に、俺は八重桜の木に祈る。
 わずかな時間でもいい。
 来年の今日もまた、この場所で花見をさせてくれ。
 あいつが俺のことを忘れるまでで構わないから。