ブレイクファスト!-恋の速攻は決まらない-

 蛍光灯の外灯の下。古びたバスケットゴールが二つ。
 見慣れた場所なのになんだか落ち着かなかった。

 手持ち無沙汰に持ってきたボールでミドルシュートを打つ。ポスっと軽い音を立ててネットを揺らす。落ちてきたボールを拾って振り返ると、冴島が立っていた。

「座りますか」
 そう言われて、コートの横にあるベンチに並んで座る。
 今さらになって二人きりでいるこの距離感に緊張して、なにを話していいかわからなくなった。
 冴島も黙ったままなにも言わなかった。

「……ずっと、聞きたいことがあったんだけどいい?」

 意を決して、カラカラの喉をこじ開けると、俺はそう切り出した。
 冴島の視線がこちらに向くのがわかった。

「冴島くんってさ、なんでバスケ部に入部してくれたの?」

 ずっと気にはなっていた。
 でも、彼なりに悩んで決めてくれたのならそれでいい、そう思ってあえて聞いてこなかった。
 冴島はすぐには答えなかった。しばらくコートを見つめたあと、静かに口を開いた。
「俺、先輩が俺のことを知る前から、先輩のこと見てました」
「え」
 思いがけない答えに、思わず冴島を見上げる。
「俺、ずっと陸上で短距離やってて、前に向かって走ることしか知らなかったから。ここを走るたびに、バスケットゴールめがけて跳ぶあなたを見かけて、人ってあんなに高く跳べるんだなって、そう思って見てました」

──先輩もよくここにいますよね。

 初めてこの公園で冴島と話したとき、そう言っていたのを思い出す。
 なんだか気恥ずかしくなった俺は、頭を掻きながら曖昧に笑った。
「いや、でも別に……冴島くんもバスケやってみてわかったと思うけど、大したことないでしょ。俺のジャンプ力なんて」
「そう、かもしれないんですけど……」
 冴島は少し困ったような顔をしてコートを見つめていた。
「俺、そうやって練習する先輩を一年くらい見てたんで。だから、教室で声かけてくれたときも先輩のこと覚えていて」
 そんなに長いこと見られていたのかと思うと、なんだか顔が熱くなった。
「そのあと、先輩が俺の横を抜いてシュートしたことがあったじゃないですか。あのとき初めて間近で先輩のシュート見て、なんか俺、そのときすごく──」
 何か言葉を探すようにそこで言葉が途切れた。
 そして目を伏せるように俯くと
「心掴まれちゃったんですよね。俺の背より高く跳ぶ先輩に」
「い……いや、そんな大したもんじゃ……」
 俺は動揺を隠しきれずにただ視線を泳がせた。
「たぶん、そのとき俺、陸上でがんじがらめになっちゃってて。名前も“陸”だし、なんかずっと地上に縛り付けられてるような気分だったんですよね」
 外灯に照らされた冴島の横顔は、いつもよりずっと穏やかだった。
「だからああやって、羽があるみたいに軽やかに跳んでいく先輩を見て、次やるなら上を向きたいなって」
 そう言って、冴島は俺の顔を覗き込むようにしてふわりと笑った。

「それが、バスケ部に入ろうと思った理由です」

 心臓がありえないくらい大きく跳ねた。
 身体の中から熱がせり上がってくるみたいだった。
 俺はただもうしどろもどろになりながら顔を真っ赤にして、
「へ……へぇ……そうだったんだ……いやぁ……俺のシュートでそこまで思ってくれるなんてね……あはは」
 そう無理やり笑ってごまかすしかできなかった。

「で?」
「え?」

 覗き込むように俺の顔を見ていた冴島が、今度はベンチの背もたれに腕をかけるようにして、身体ごとこちらを向いた。人一人分くらいは空いていた空間が、ぐっと詰められたようで思わず体がこわばった。
「俺からも質問いいですか?」
「あ、ハイ……」
「なんで昨日泣いてたんですか?」
「いやっ、だから泣いてな……っ」
 顔を跳ね上げると思った以上に冴島の顔が近くにあって、そのまま俺は固まってしまった。
 恥ずかしいのに。見つめてくる冴島から目が離せなかった。
 どれくらいそうしてただろう。静かに冴島が口を開いた。
「俺、先輩のこと好きです」
「は……」
「だから、俺と帰る約束してるのに他の男と一緒に帰ってたり、その上あんな泣き顔見せられたり」
「いや、だから、あれは違くて」
「あと、声かけてんのに無視されたり、目が合ってるのに逸らされたりすると、普通に傷つきます」
「そ……それはごめん……」

 なんか今すごいこと言われなかったか?

 頭の片隅にまだ残っていた冷静さで、今言われた言葉を早戻しては再生する。だけど、それを正確に処理できるほどのメモリーを今の俺は持ち合わせていない。
 ただ今は、心臓が爆発しそうなくらいうるさくて、息の仕方も忘れてしまうくらい苦しくて死にそうだった。
 聞こえてしまうんじゃないかと思うほどの激しい鼓動を感じながら、ぼんやりと冴島の顔を見つめていると、なぜだかその顔が近づいてくるような気がした。

(ふぇっ⁉︎ ちょ……ちょっと待って……なにこれ、なに……どう……なにすん)

 少し傾けるようにした冴島の顔が、そのまま唇を通り過ぎ、頬を掠めるようにして耳元に辿り着く。
「羽鳥先輩」
 その落ち着いた低い声が耳から直接身体に響いて足の先まで震わせる。
 はぁっと、全速力で走ったみたいに呼吸が浅くなった。
「次の試合勝って全国に行けたら、この続きくれません?」
「……っ」
 耳元で響く声だけで変な声が出そうになった。
「そのとき先輩の気持ちも教えてください」
「むっ……」
 もう俺は完全に限界を超えていた。

「無理ィ……」

 両手で顔を覆って自分の膝に突っ伏すと、そこに額を擦り付けてもう顔が上げられなかった。
 クツクツと笑う声が聞こえて、身体が離れていく感触がする。
「俺、行ける気がするんですよ」
 さっきの空気なんかもうなかったみたいにカラッとした声で言われて、俺は少しだけ顔を上げた。
「羽鳥先輩となら」
 見上げた冴島は笑ってて、なんだかすっきりとした顔をしていた。
「先輩の声で俺はもっと速く走れます」
 その声は確信に満ちていた。
「まあ予選は三年の先輩たちが出るのが優先らしいのであれなんですけど……」
 冴島はその大きな身体をかがめると、きっと酷いことになってるだろう俺の顔を覗き込んだ。

「全国大会は一緒に出ましょう。羽鳥先輩」

 俺はもう動揺と興奮で嬉しいんだか泣きたいんだかなんだかわからない感情でぐちゃぐちゃになりながら、ただこくこくと頷くことしかできなかった。



 八月。四十度に迫る暑さの中、地方のとある体育館の中は、それ以上の熱気に包まれていた。
 俺はコートの中で相手の動きをつぶさに観察していた。
(さすが、全国)
 滴る汗を拭いながら、思わず笑いが出る。
 体格も、スピードもまるで桁違いだ。まともに張り合ってたらとても勝てない。
 相手のシュートが外れ、すかさず長嶋先輩がリバウンドをもぎ取った。すぐさま俺にパスが回る。俺は右サイドの間宮を見た。間宮にパスを回すそぶりを見せた瞬間、相手ディフェンスの視線と重心が完全に間宮に向いた。

──でも俺には

「冴島走れ!」

 横を冴島が駆け抜けてぶわりと風が巻き起こった。
 その刹那──俺はすでにディフェンスの裏に抜けていた冴島にボールを放った。



 夏休みがもうすぐ終わる。
 まだまだ暑いが、夕暮れはなんとなく夏の終わりを感じさせていた。
 俺は冴島と半分に割れるアイスを分け合いながら河川敷を歩いて帰っていた。
 全国大会が終わり、部活もだいぶ緩くなった。夏休みが開ければ三年生は引退していよいよ二年が中心となる。
「先輩、今日公園来ます?」
「え~? 公園?」
 あっちぃ、とプラスチック容器に入ったアイスを額に当てながら、ダルそうに返事をした。
「まあ、行ってもいいけどさ。でももう大会も終わったし、そんな根詰めて練習することなくない?」
 そう言うと、冴島は不貞腐れたような顔をした。
「先輩、忘れてません?」
「ひゃにお?」
 アイスを口に咥えたまま冴島を見上げる。
「『続き』もらってないんですけど」
「ぶほっ」
 忘れてるだろうと、いつも通りを装ってやり過ごしてきたのに。
 不意打ちを喰らって思わずアイスを吹き出した。
「いや! いやいやい……え? あれマジなの?」
「は?」
 うわ。怖い。
 初めて会ったときの冴島みたいな目だ、とヒヤリとする。
「そういうこと言うと、今ここでもらうことになりますけどいいですか?」
「な、何を⁉︎」
 ごまかされないとでも言う風に、ぐいっと背中に手が回された。
 大きい背が折り畳まれるように曲げられると、俺の顔に当たっていた西陽がその影に遮られた。
「うわあああ!」

──ずぼっ。

「……ふぇんぱい?」
「ひぃ……ごめん……」
 顔が近づいてきたのに驚いて、思わず自分の食べていたアイスを冴島の口に突っ込んでしまった。冴島は呆れたような顔をしてため息をついた。
「じゃあ、はい」
 冴島は自分の持っていたアイスを差し出した。
「今日のところは間接キスで我慢します」
「その言い方なんかヤダぁ……」
 食べにくいな、と思いながらおずおずと冴島がくれたアイスを口の端で噛む。
「先輩って、バスケ以外じゃ全然速攻決めさせてくれないんですね」
 冗談めかすように笑いながら冴島も俺に突っ込まれたアイスを齧った。
「まあ、いいです。夏休みはまだありますし」
 蝉の声がジリジリ響いて、まだ夏は終わらせないとばかりに囃し立てている。
「俺は先輩の一言ですぐに動けるんで」
 俺の手に握りしめられたアイスは、形を失って溶けていく。
「先輩の戦略が決まったら、ちゃんと教えてくださいね」
 そう言って前を向いて歩き出す、冴島の大きな背中を後ろから見つめた。

「冴島!」

 ぴくりと肩が跳ねて、アイスを口の端に咥えた冴島が振り返る。
 本当に、苦手なんだこういうの。
 こんなの戦略も、分析も、全部意味ないじゃないか。

 コートを降りた途端、俺はもう人の気持ちも、自分の気持ちさえも掴めなくなる。
 だけど、君に触れられてこうやって心臓が跳ねるのも、呼吸が苦しくなるのも、胸が詰まるみたいに泣きたくなるのも、全部、全部。

──全部、君のことが好きだから。

「俺は、声かけたからな!」
 冴島は目を見開く。
「あ、あとはお前が動けよ! ……速攻で!」
 そう言った次の瞬間にはもう、俺の顔は白いワイシャツに埋まってた。
「はい、先輩」
 こんな明るい時間にこんなことになるんなら、素直に「公園に行く」と言っときゃよかったな、そう思いながら俺は顔を上げた。

 ほら。

 だから苦手なんだ。

 恋なんて。

 どうかこの人通りの少ない河川敷に、今だけは誰も来ませんように。
 そんなことを願いながら、俺は目を閉じた。