金の装飾を施されたアーチ形の大窓が、磨き込まれた寄せ木張りの床に沿って等間隔に連なっている。灯りは点いていないのに、早朝のこの廊下は王城のどこよりも明るく、そして眩い。窓の一枚一枚から燦々と降り注ぐ朝の陽光が差し込み、幾筋もの光の帯が床を横切るように伸びていた。まるで雲間から射す光芒のように。
太い柱と柱の間には金を纏った彫像が鎮座し、守護するように――或いは、通り過ぎてゆく者たちを見張るように――ただ静かに佇んでいる。所々に飾られた、硝子や陶器の花瓶に活けられたたくさんの花。一面に金箔の施された細緻な彫り込みの美しいテーブルの上に並べられた、大小様々なオブジェや骨董品。数百年前の名画家が手掛けたという建国史を描いた壮麗なフレスコ画が埋め尽くす天井。そこから整然と吊り下げられた幾つもの小ぶりなシャンデリアからは、無数のクリスタルが垂れ下がり、陽光を受けてきらきらと虹色に輝いている。
早朝であるからか、ひと気のないその廊下をひとりで歩みながら、ユーリスは胸の内で静かに溜息をこぼす。ひとり分の靴音だけが響く静謐な廊下は、朝特有の冴えた空気が隅々にまで満ち、いつにも増して凛と張り詰めているように感じられる。窓の向かい側の壁に貼られた硝子が陽光を受けて淡く輝き、反射したそれが横顔を照らしてあたたかい。
ふと足を止め、ユーリスは何となしに、格子状の桟で細かく区切られた窓の外へと目を向ける。回廊の中央には背丈の低い草花だけが植えられた小さな中庭があり、その向こう側には白亜の壁がずっしりと聳え立つ。そこに設けられた幾つかの窓辺からは、こぼれ落ちるように咲き誇る赤とピンクのゼラニウムが、壁面に沿って混ざり合いながら、豊かに垂れ下がっているのが見えた。
その鮮やかな色に、ユーリスは思わず視線を吸い寄せられる。甘く華やかな、それでいて爽やかな青さも併せ持った、瑞々しい薫り。窓は硝子に覆われ閉じ切られているので、その香りが廊下まで流れ込んでくることはない。それでも不思議と、今まさに鼻の前をやさしい薫りがふわりと掠めていったような気がした。
――私、ゼラニウムがとても好きなの。鮮やかな花弁はもちろん、仄かにぬくもりを感じられるような薫りに、なんとも言えず心惹かれてしまって。
鼓膜の裏側に蘇る、まだ少しばかりあどけなさを残した声。それはすぐさま頭の片隅に、やわらかく微笑む懐かしいかんばせを――まるで息づくような生々しさで――鮮明に浮かび上がらせた。
――だから、お父様にお願いして、部屋の窓辺に花箱を作ってもらったの。いつか鮮やかなゼラニウムが、たっぷりと垂れ下がるように育てたくて。
専属の庭師に助言を乞い、教えられた育成方法を手帳に事細かくまとめ、素直すぎるほどそれに従って毎日愛情を込めながら世話をしていたおかげか、彼女の部屋を訪れる度、窓辺のゼラニウムはすくすくと育っていた。
花は最初の春にすぐ咲いたが、しかし見ごたえのあるボリュームに茂るまでには、凡そ一、二年の歳月を要したように思う。その間も彼女は、定期的に庭師のもとを訪ねては教えを授かり、律儀なまでの従順さで丁寧に育て続けていた。
――ユーリス、見て! こんなに綺麗に育ってくれたわ! こんなにも見事に育ってくれるなんて……!
ゼラニウムがたっぷりと垂れ下がった窓辺を見上げ、心底嬉しそうに表情を綻ばせる彼女の横顔を見つめながら、そういうところは昔から本当に変わらない、と思ったものだ。小さなことにも目を輝かせ、隠しきれない喜びを全身で表す、どこまでもどこまでも澄み切った純粋さ。そんな彼女を――。
ユーリスは溢れ出そうとする回想を堰き止めるように大きく息を吐き、それからゆっくりとひとつ瞬いた。色鮮やかなゼラニウムが視界の端に映り込まないよう意図的に視線を逸らし、廊下の突き当たりに佇む扉だけを見据えて、止めていた足を再び前へと進める。一歩、一歩、迷いのない、意志のこもった歩みで。
突き当たりの壁には、廊下に負けず劣らず豪奢な扉が佇んでいた。左右には、アカンサスを模した柱頭のついた太い装飾柱が一本ずつ配され、その真中に白銀にも似た淡い色彩をした両開きの扉が設けられている。つるりとした表面には蔦や花を精巧に模した美しい金の装飾が施され、それらに囲まれたひときわ重厚な王家の紋章が、窓から差し込む陽光を浴びて微かに煌めいていた。
ユーリスは右手で扉を軽くノックし、中から返事が戻るのを待ってから、徐に扉を開いた。王城に数多存在する部屋の中でも、五指に入るほど豪華絢爛な一室。賓客をもてなす為に飾り立てられた応接の間は広々としており、壁にも天井の縁飾りにも惜しみなく金の装飾があしらわれ、大理石と顔料を用いた幾何学模様が、天井と床に対になるよう描かれている。頭上のシャンデリアには灯りが点いていないが、窓から差し込む朝陽だけで室内は十分に明るい。
「大変お待たせ致しました」
そう言いながら、ユーリスは部屋の中央に置かれた、凡そ十人は座れるであろう胡桃材の細長いテーブルの先端へ歩み寄り、深緑色のベルベットが張られた椅子にゆったりと腰掛けた。そうして反対側の先端に座る女へと、真っ直ぐに目を向ける。
敢えてこの場所を選んだのは、賓客をもてなすのに最適ということもあるが、この長細いテーブルがあるというのが、何より重要な決め手だった。おかげで、ひと五人分の距離は保たれる。その間を、彼女がどう思っているのかは、分からないけれど。
視線の先ではカトリーヌが、相も変わらず洗練された優美な所作で、ティーカップを持ち上げているところだった。背後の窓から差し込む眩い朝陽を浴びて、プラチナブロンドの髪が淡い光を湛えて輝いている。透き通るような滑らかな肌も、ぱっちりとした大きな瞳も、その奥でやわらかく綻ぶ薄いピンク色の瞳も、果実のような唇も、ここ二日で見た姿と何も変わらない。
身に纏うドレスは、舞踏会の日に着ていたそれよりも控えめではあるが、胸元は大きく開き、くっきりと陰影の落ちた鎖骨や華奢な白い肩が無防備にさらけ出されている。色合いこそ瞳の色に合わせたやさしいペールピンクだが、そのデザインには明らかに彼女の意図が透けて見え、ユーリスは胸の内で深々と溜息をつく。
それでも顔にはいつもと同じように笑みを貼り付け、ユーリスは静かに、彼女がティーカップから手を離すのを待つ。壁際に置かれた振り子時計へさりげなく目を向けて時刻を確かめると、朝食の支度が整うまであと一時間というところだった。カトリーヌの滞在は三日――正確には三日目の朝食を終えてすぐ発つという予定なので、実質二日半だ。残された時間は、あと僅かしかない。
それはカトリーヌも、分かっているのだろう。だから朝食の前に是非ふたりきりで話をしたいと、昨夜のうちに侍女を通して申し込んできた。何を話したいのかなど、無論考えるまでもない。そもそも、それが主な目的で、彼女は遥々此処までやって来たのだろうから。
――で、お前はその誘いを、受けるつもりなのか?
そう問いかけたテオドールの口元には、にやりとした笑みが浮かんでいた。代わってやっても構わんが、と彼は――恐らくは本気で――そう言っていたけれど。ユーリスは特に思案に耽ることなく、王女付きの侍女へ誘いを受ける旨を二つ返事で伝えた。こういった類の話は、当人同士で、己の口できちんと言葉を交わし合う方が良い。この国だけでなく、エルヴァール王国の今後の為にも、うまく纏めておくに越したことはないのだから。
かちゃ、と食器の重なる微かな音が耳に届き、ユーリスはすかさず時計へ向けていた視線をカトリーヌへと戻した。彼女の美麗なかんばせには、喜びと恍惚を滲ませた笑みが、ふんわりと浮かんでいる。
「私の認めた手紙は、お読みいただけましたか」
「ええ、もちろん。国王陛下からの親書とともに、拝読いたしました」
そう言いながら、ユーリスは封を開けることすらしなかった純白の封筒を、頭の片隅に思い浮かべる。テオドールから渡された親書には確かに目を通したが、カトリーヌが想いの丈を綴ったという手紙は、封蝋を破ることなくテオドールへと突き返した。彼はひどく呆れたように肩を竦めたが、どこか愉快そうに目を眇めてもいたのを、今でもよく憶えている。あの主君のことだ、ユーリスがそうするであろうことなど、初めから見通していたに違いない。
「身に余るほどのお言葉、誠にありがたく思います。王女殿下ほどの御方に、そのようなお気持ちを向けていただけるとは」
「まあ、とっても嬉しいわ! 心を込めて綴った甲斐がありました」
ぱあっと、まるで花が開いたかのように笑顔を弾かせるカトリーヌを眺めながら、何故こんなにも違うのだろう――と、不意に疑問が頭を擡げる。彼女の美貌は、ユーリスの目から見ても、芸術品のように整っていると思う。そんな彼女が浮かべる満面の華やかな笑みは、さぞ多くの男心を擽り、捉えて離さないだろう、とも。
しかしどうにも、ユーリスにはその魅力が、いまいち理解出来なかった。心が反応しない、というのだろうか。少しもざわつきはしないし、視線を釘付けにされることもない。どこにでもいる令嬢のひとりと、大した違いを感じないのだ。
けれど――。ほんの僅かな瞬きの間に、瞼の裏の暗闇に浮かんだ無邪気な笑顔には、心を引き摺られてしまう。たった一瞬ばかりだったというのに、それでも。もう一度あの笑みを見たくて、再び瞼を閉じたくなる衝動を、ユーリスは静かに堪えた。王女の前でそんなことをするつもりは、さすがにない。
「では、私のお誘いを受けて下さったのも、お話をして下さる為と思ってよろしいのかしら」
「はい。この件については、王女殿下ときちんとお話をしておかなければならないと思いまして」
内側から溢れ出す喜びをそのまま表に滲ませるように、薄ピンク色の瞳を輝かせてはにかみながら、カトリーヌは胸の前で両手を握り合わせた。そんな彼女を真っ直ぐに見据え、ユーリスは少しも笑みを崩すことなく、ゆっくりと唇を開く。
「此度の、王女殿下からのご縁談についてですが――」
ユーリスが言葉を続けようとした――その瞬間。何の前触れもなく、唐突に扉が開け放たれた。カイルに指示を出し、敢えて人払いをしてもらっていたはずだというのに。何故いきなり闖入者が――と訝りながら扉の方へ視線を向けると、そこに立っていたのは、珍しく険しい面持ちをしたテオドールと、その背後から困惑した様子で顔を覗かせるカイルだった。
「陛下、何故こちら――」
「そこを退け」
ユーリスの言葉を遮るように放たれた一言は、いつになく厳しく、ぴんと張り詰めた空気を纏っていた。突然の乱入に、“退け”という言葉――。理由が分からず、ユーリスは悠然とした歩みで近付いてくるテオドールを、ただ唖然と見つめることしか出来ない。
一対一で話をつけることについて、許可を出したのはテオドール自身だ。物言いたげな表情を見せなかったわけではないが、それでもユーリスの意志を優先し、人払いの許しまで出してこの場のセッティングに協力もしてくれた。
その当人が、何故――。
「そこを退けと言っているだろう」
傍らで足を止めたテオドールは、朝陽を浴びて金色みを帯びた瞳で、未だ椅子に腰掛けたままのユーリスを射抜く。刹那、ぞくりとした震えが背筋を走り抜けた。この男とはもう長い付き合いだ。だから分かる。こうして険しく相手を射抜く時は――決まって、重大な何かが起きた時だ。
ユーリスがそう察したのを見抜いたのか、テオドールは眉根に刻んだ皺を深めながら、形の良い唇をゆっくりと開いた。
「――セシリアが倒れたそうだ」
その言葉が鼓膜を貫いた瞬間、どん、と激しい音が部屋中に響き渡ったような気がした。椅子でも倒しただろうか。それともテーブルに拳を叩きつけただろうか。けれど椅子は倒れてもいなければ、両手はぶらりと宙に垂れ下がっているだけで、窓が割れたわけでも、置き時計やその他の調度品が倒れたわけでもない。
気付けばユーリスは、ふらりと立ち上がっていた。じわりじわりと見開かせた目でテオドールの黄金色の瞳を見返し、開きかけた唇の合間から、掠れた吐息をこぼす。――セシリアが、倒れた。彼の放った言葉が、頭の中をぐるぐると駆け回っている。乱暴に、頭のそこここにぶつかりながら。そのくせ、意味をまるで理解することが、ユーリスには未だ出来ずにいた。立ち上がっているくせに。茫然としているくせに。それでも、まるで理解することを全力で拒んでいるかのように、何ひとつ呑み込めない。
「少しお待ちいただけるかしら。ユーリス様は今、私と大事なお話の最中で――」
「部外者は黙っていてもらえるかな、カトリーヌ王女」
テオドールの鋭い視線に貫かれ、流石のカトリーヌも口を噤む。そんな彼女に鼻を鳴らし、テオドールは再びユーリスへと目を向けた。
「その調子では、まともに話は出来んだろう。だからさっさと退けと言っているんだ」
退け――つまりそれは、行け、ということだ。この話し合いの場を放り出し、今すぐ公爵邸へ――セシリアのもとへ向かえ、と。
「先ほど、邸から使者が参りまして。今朝方、お倒れになったようです」
テオドールの背後から、不安げな声色でカイルが説明する。それを聞いて漸く、セシリアが倒れたという事実が、すとんと胸の底に落ちた。刹那、荒波のような焦燥が、どっと押し寄せてくる。あらゆる感情を巻き込み、渾然一体となったとぐろは、身体中で暴れ回りながら、嫌な記憶を呼び覚ます。一年前の、あの襲撃が起こった時。鮮血で真っ赤に染まった手を見下ろしながら湧き上がった――あの時の、猛烈に襲いかかってきた感情に、よく似ている。
「必要であれば、宮廷医師を連れて行って構わん。どうせ今頃、暇を持て余しているだろうからな。ついでに薬師も、貸しとしてつけておいてやる」
そう言って、にやりと口角を上げた主君に、ユーリスは力の抜けた声でどうにか礼を告げた。もっと他に言うことはあるだろう。言わなければいけないことが。確かめなければならないことが。カトリーヌに対しても、突然の退席について詫びる必要がある。
しかし頭では分かっていても、まるで縫い留められてしまったみたいに、口は頑なに動こうとしない。声は乾いた喉に張り付き、言葉は浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。そうして結局最後に残ったのは――セシリア、という名だけだった。ただそれだけが、頭の中を埋め尽くしている。
そんなユーリスから目を逸らし、テオドールは彼の横を通り過ぎながら、ふっと吐息を漏らすようにして笑った。
「気の所為などと言っておったが――私がお前の左耳に見ていたのは、結局“青い幻”などではなかったな」
いつの間にか俯けていた顔を上げた瞬間、左耳元で、金属と鉱石の奏でる澄んだ音が微かに聞こえた。鼓膜にやさしく触れたそれは、ユーリスの心臓をどくりと跳ねさせ、その衝動に突き動かされるようにして、開かれたままの扉へと足を進めた。
――もし、ユーリスが良ければ、なのだけれど……。
「馬を急ぎ裏へ回せ」
背後についてくるカイルへ指示を出しながら、ユーリスは汗ばんだ掌をきつく握り締める。
「既に手配済みです。宮廷医師と薬師は、至急馬車を用意して向かわせます」
「……頼んだ」
朝陽の差し込む眩い廊下を、来た時とは真逆の慌ただしい足取りで進む。馬が用意されているという裏門まで、どこをどう通れば最短で辿り着けるか。それだけを考えながら進むユーリスの足取りは、いつの間にか半ば駆けるほどになっていた。
――ピアスの片方を、貴方が持っていてくれないかしら。
太い柱と柱の間には金を纏った彫像が鎮座し、守護するように――或いは、通り過ぎてゆく者たちを見張るように――ただ静かに佇んでいる。所々に飾られた、硝子や陶器の花瓶に活けられたたくさんの花。一面に金箔の施された細緻な彫り込みの美しいテーブルの上に並べられた、大小様々なオブジェや骨董品。数百年前の名画家が手掛けたという建国史を描いた壮麗なフレスコ画が埋め尽くす天井。そこから整然と吊り下げられた幾つもの小ぶりなシャンデリアからは、無数のクリスタルが垂れ下がり、陽光を受けてきらきらと虹色に輝いている。
早朝であるからか、ひと気のないその廊下をひとりで歩みながら、ユーリスは胸の内で静かに溜息をこぼす。ひとり分の靴音だけが響く静謐な廊下は、朝特有の冴えた空気が隅々にまで満ち、いつにも増して凛と張り詰めているように感じられる。窓の向かい側の壁に貼られた硝子が陽光を受けて淡く輝き、反射したそれが横顔を照らしてあたたかい。
ふと足を止め、ユーリスは何となしに、格子状の桟で細かく区切られた窓の外へと目を向ける。回廊の中央には背丈の低い草花だけが植えられた小さな中庭があり、その向こう側には白亜の壁がずっしりと聳え立つ。そこに設けられた幾つかの窓辺からは、こぼれ落ちるように咲き誇る赤とピンクのゼラニウムが、壁面に沿って混ざり合いながら、豊かに垂れ下がっているのが見えた。
その鮮やかな色に、ユーリスは思わず視線を吸い寄せられる。甘く華やかな、それでいて爽やかな青さも併せ持った、瑞々しい薫り。窓は硝子に覆われ閉じ切られているので、その香りが廊下まで流れ込んでくることはない。それでも不思議と、今まさに鼻の前をやさしい薫りがふわりと掠めていったような気がした。
――私、ゼラニウムがとても好きなの。鮮やかな花弁はもちろん、仄かにぬくもりを感じられるような薫りに、なんとも言えず心惹かれてしまって。
鼓膜の裏側に蘇る、まだ少しばかりあどけなさを残した声。それはすぐさま頭の片隅に、やわらかく微笑む懐かしいかんばせを――まるで息づくような生々しさで――鮮明に浮かび上がらせた。
――だから、お父様にお願いして、部屋の窓辺に花箱を作ってもらったの。いつか鮮やかなゼラニウムが、たっぷりと垂れ下がるように育てたくて。
専属の庭師に助言を乞い、教えられた育成方法を手帳に事細かくまとめ、素直すぎるほどそれに従って毎日愛情を込めながら世話をしていたおかげか、彼女の部屋を訪れる度、窓辺のゼラニウムはすくすくと育っていた。
花は最初の春にすぐ咲いたが、しかし見ごたえのあるボリュームに茂るまでには、凡そ一、二年の歳月を要したように思う。その間も彼女は、定期的に庭師のもとを訪ねては教えを授かり、律儀なまでの従順さで丁寧に育て続けていた。
――ユーリス、見て! こんなに綺麗に育ってくれたわ! こんなにも見事に育ってくれるなんて……!
ゼラニウムがたっぷりと垂れ下がった窓辺を見上げ、心底嬉しそうに表情を綻ばせる彼女の横顔を見つめながら、そういうところは昔から本当に変わらない、と思ったものだ。小さなことにも目を輝かせ、隠しきれない喜びを全身で表す、どこまでもどこまでも澄み切った純粋さ。そんな彼女を――。
ユーリスは溢れ出そうとする回想を堰き止めるように大きく息を吐き、それからゆっくりとひとつ瞬いた。色鮮やかなゼラニウムが視界の端に映り込まないよう意図的に視線を逸らし、廊下の突き当たりに佇む扉だけを見据えて、止めていた足を再び前へと進める。一歩、一歩、迷いのない、意志のこもった歩みで。
突き当たりの壁には、廊下に負けず劣らず豪奢な扉が佇んでいた。左右には、アカンサスを模した柱頭のついた太い装飾柱が一本ずつ配され、その真中に白銀にも似た淡い色彩をした両開きの扉が設けられている。つるりとした表面には蔦や花を精巧に模した美しい金の装飾が施され、それらに囲まれたひときわ重厚な王家の紋章が、窓から差し込む陽光を浴びて微かに煌めいていた。
ユーリスは右手で扉を軽くノックし、中から返事が戻るのを待ってから、徐に扉を開いた。王城に数多存在する部屋の中でも、五指に入るほど豪華絢爛な一室。賓客をもてなす為に飾り立てられた応接の間は広々としており、壁にも天井の縁飾りにも惜しみなく金の装飾があしらわれ、大理石と顔料を用いた幾何学模様が、天井と床に対になるよう描かれている。頭上のシャンデリアには灯りが点いていないが、窓から差し込む朝陽だけで室内は十分に明るい。
「大変お待たせ致しました」
そう言いながら、ユーリスは部屋の中央に置かれた、凡そ十人は座れるであろう胡桃材の細長いテーブルの先端へ歩み寄り、深緑色のベルベットが張られた椅子にゆったりと腰掛けた。そうして反対側の先端に座る女へと、真っ直ぐに目を向ける。
敢えてこの場所を選んだのは、賓客をもてなすのに最適ということもあるが、この長細いテーブルがあるというのが、何より重要な決め手だった。おかげで、ひと五人分の距離は保たれる。その間を、彼女がどう思っているのかは、分からないけれど。
視線の先ではカトリーヌが、相も変わらず洗練された優美な所作で、ティーカップを持ち上げているところだった。背後の窓から差し込む眩い朝陽を浴びて、プラチナブロンドの髪が淡い光を湛えて輝いている。透き通るような滑らかな肌も、ぱっちりとした大きな瞳も、その奥でやわらかく綻ぶ薄いピンク色の瞳も、果実のような唇も、ここ二日で見た姿と何も変わらない。
身に纏うドレスは、舞踏会の日に着ていたそれよりも控えめではあるが、胸元は大きく開き、くっきりと陰影の落ちた鎖骨や華奢な白い肩が無防備にさらけ出されている。色合いこそ瞳の色に合わせたやさしいペールピンクだが、そのデザインには明らかに彼女の意図が透けて見え、ユーリスは胸の内で深々と溜息をつく。
それでも顔にはいつもと同じように笑みを貼り付け、ユーリスは静かに、彼女がティーカップから手を離すのを待つ。壁際に置かれた振り子時計へさりげなく目を向けて時刻を確かめると、朝食の支度が整うまであと一時間というところだった。カトリーヌの滞在は三日――正確には三日目の朝食を終えてすぐ発つという予定なので、実質二日半だ。残された時間は、あと僅かしかない。
それはカトリーヌも、分かっているのだろう。だから朝食の前に是非ふたりきりで話をしたいと、昨夜のうちに侍女を通して申し込んできた。何を話したいのかなど、無論考えるまでもない。そもそも、それが主な目的で、彼女は遥々此処までやって来たのだろうから。
――で、お前はその誘いを、受けるつもりなのか?
そう問いかけたテオドールの口元には、にやりとした笑みが浮かんでいた。代わってやっても構わんが、と彼は――恐らくは本気で――そう言っていたけれど。ユーリスは特に思案に耽ることなく、王女付きの侍女へ誘いを受ける旨を二つ返事で伝えた。こういった類の話は、当人同士で、己の口できちんと言葉を交わし合う方が良い。この国だけでなく、エルヴァール王国の今後の為にも、うまく纏めておくに越したことはないのだから。
かちゃ、と食器の重なる微かな音が耳に届き、ユーリスはすかさず時計へ向けていた視線をカトリーヌへと戻した。彼女の美麗なかんばせには、喜びと恍惚を滲ませた笑みが、ふんわりと浮かんでいる。
「私の認めた手紙は、お読みいただけましたか」
「ええ、もちろん。国王陛下からの親書とともに、拝読いたしました」
そう言いながら、ユーリスは封を開けることすらしなかった純白の封筒を、頭の片隅に思い浮かべる。テオドールから渡された親書には確かに目を通したが、カトリーヌが想いの丈を綴ったという手紙は、封蝋を破ることなくテオドールへと突き返した。彼はひどく呆れたように肩を竦めたが、どこか愉快そうに目を眇めてもいたのを、今でもよく憶えている。あの主君のことだ、ユーリスがそうするであろうことなど、初めから見通していたに違いない。
「身に余るほどのお言葉、誠にありがたく思います。王女殿下ほどの御方に、そのようなお気持ちを向けていただけるとは」
「まあ、とっても嬉しいわ! 心を込めて綴った甲斐がありました」
ぱあっと、まるで花が開いたかのように笑顔を弾かせるカトリーヌを眺めながら、何故こんなにも違うのだろう――と、不意に疑問が頭を擡げる。彼女の美貌は、ユーリスの目から見ても、芸術品のように整っていると思う。そんな彼女が浮かべる満面の華やかな笑みは、さぞ多くの男心を擽り、捉えて離さないだろう、とも。
しかしどうにも、ユーリスにはその魅力が、いまいち理解出来なかった。心が反応しない、というのだろうか。少しもざわつきはしないし、視線を釘付けにされることもない。どこにでもいる令嬢のひとりと、大した違いを感じないのだ。
けれど――。ほんの僅かな瞬きの間に、瞼の裏の暗闇に浮かんだ無邪気な笑顔には、心を引き摺られてしまう。たった一瞬ばかりだったというのに、それでも。もう一度あの笑みを見たくて、再び瞼を閉じたくなる衝動を、ユーリスは静かに堪えた。王女の前でそんなことをするつもりは、さすがにない。
「では、私のお誘いを受けて下さったのも、お話をして下さる為と思ってよろしいのかしら」
「はい。この件については、王女殿下ときちんとお話をしておかなければならないと思いまして」
内側から溢れ出す喜びをそのまま表に滲ませるように、薄ピンク色の瞳を輝かせてはにかみながら、カトリーヌは胸の前で両手を握り合わせた。そんな彼女を真っ直ぐに見据え、ユーリスは少しも笑みを崩すことなく、ゆっくりと唇を開く。
「此度の、王女殿下からのご縁談についてですが――」
ユーリスが言葉を続けようとした――その瞬間。何の前触れもなく、唐突に扉が開け放たれた。カイルに指示を出し、敢えて人払いをしてもらっていたはずだというのに。何故いきなり闖入者が――と訝りながら扉の方へ視線を向けると、そこに立っていたのは、珍しく険しい面持ちをしたテオドールと、その背後から困惑した様子で顔を覗かせるカイルだった。
「陛下、何故こちら――」
「そこを退け」
ユーリスの言葉を遮るように放たれた一言は、いつになく厳しく、ぴんと張り詰めた空気を纏っていた。突然の乱入に、“退け”という言葉――。理由が分からず、ユーリスは悠然とした歩みで近付いてくるテオドールを、ただ唖然と見つめることしか出来ない。
一対一で話をつけることについて、許可を出したのはテオドール自身だ。物言いたげな表情を見せなかったわけではないが、それでもユーリスの意志を優先し、人払いの許しまで出してこの場のセッティングに協力もしてくれた。
その当人が、何故――。
「そこを退けと言っているだろう」
傍らで足を止めたテオドールは、朝陽を浴びて金色みを帯びた瞳で、未だ椅子に腰掛けたままのユーリスを射抜く。刹那、ぞくりとした震えが背筋を走り抜けた。この男とはもう長い付き合いだ。だから分かる。こうして険しく相手を射抜く時は――決まって、重大な何かが起きた時だ。
ユーリスがそう察したのを見抜いたのか、テオドールは眉根に刻んだ皺を深めながら、形の良い唇をゆっくりと開いた。
「――セシリアが倒れたそうだ」
その言葉が鼓膜を貫いた瞬間、どん、と激しい音が部屋中に響き渡ったような気がした。椅子でも倒しただろうか。それともテーブルに拳を叩きつけただろうか。けれど椅子は倒れてもいなければ、両手はぶらりと宙に垂れ下がっているだけで、窓が割れたわけでも、置き時計やその他の調度品が倒れたわけでもない。
気付けばユーリスは、ふらりと立ち上がっていた。じわりじわりと見開かせた目でテオドールの黄金色の瞳を見返し、開きかけた唇の合間から、掠れた吐息をこぼす。――セシリアが、倒れた。彼の放った言葉が、頭の中をぐるぐると駆け回っている。乱暴に、頭のそこここにぶつかりながら。そのくせ、意味をまるで理解することが、ユーリスには未だ出来ずにいた。立ち上がっているくせに。茫然としているくせに。それでも、まるで理解することを全力で拒んでいるかのように、何ひとつ呑み込めない。
「少しお待ちいただけるかしら。ユーリス様は今、私と大事なお話の最中で――」
「部外者は黙っていてもらえるかな、カトリーヌ王女」
テオドールの鋭い視線に貫かれ、流石のカトリーヌも口を噤む。そんな彼女に鼻を鳴らし、テオドールは再びユーリスへと目を向けた。
「その調子では、まともに話は出来んだろう。だからさっさと退けと言っているんだ」
退け――つまりそれは、行け、ということだ。この話し合いの場を放り出し、今すぐ公爵邸へ――セシリアのもとへ向かえ、と。
「先ほど、邸から使者が参りまして。今朝方、お倒れになったようです」
テオドールの背後から、不安げな声色でカイルが説明する。それを聞いて漸く、セシリアが倒れたという事実が、すとんと胸の底に落ちた。刹那、荒波のような焦燥が、どっと押し寄せてくる。あらゆる感情を巻き込み、渾然一体となったとぐろは、身体中で暴れ回りながら、嫌な記憶を呼び覚ます。一年前の、あの襲撃が起こった時。鮮血で真っ赤に染まった手を見下ろしながら湧き上がった――あの時の、猛烈に襲いかかってきた感情に、よく似ている。
「必要であれば、宮廷医師を連れて行って構わん。どうせ今頃、暇を持て余しているだろうからな。ついでに薬師も、貸しとしてつけておいてやる」
そう言って、にやりと口角を上げた主君に、ユーリスは力の抜けた声でどうにか礼を告げた。もっと他に言うことはあるだろう。言わなければいけないことが。確かめなければならないことが。カトリーヌに対しても、突然の退席について詫びる必要がある。
しかし頭では分かっていても、まるで縫い留められてしまったみたいに、口は頑なに動こうとしない。声は乾いた喉に張り付き、言葉は浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。そうして結局最後に残ったのは――セシリア、という名だけだった。ただそれだけが、頭の中を埋め尽くしている。
そんなユーリスから目を逸らし、テオドールは彼の横を通り過ぎながら、ふっと吐息を漏らすようにして笑った。
「気の所為などと言っておったが――私がお前の左耳に見ていたのは、結局“青い幻”などではなかったな」
いつの間にか俯けていた顔を上げた瞬間、左耳元で、金属と鉱石の奏でる澄んだ音が微かに聞こえた。鼓膜にやさしく触れたそれは、ユーリスの心臓をどくりと跳ねさせ、その衝動に突き動かされるようにして、開かれたままの扉へと足を進めた。
――もし、ユーリスが良ければ、なのだけれど……。
「馬を急ぎ裏へ回せ」
背後についてくるカイルへ指示を出しながら、ユーリスは汗ばんだ掌をきつく握り締める。
「既に手配済みです。宮廷医師と薬師は、至急馬車を用意して向かわせます」
「……頼んだ」
朝陽の差し込む眩い廊下を、来た時とは真逆の慌ただしい足取りで進む。馬が用意されているという裏門まで、どこをどう通れば最短で辿り着けるか。それだけを考えながら進むユーリスの足取りは、いつの間にか半ば駆けるほどになっていた。
――ピアスの片方を、貴方が持っていてくれないかしら。
