「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 目が覚めると、朝だった。

 窓の外で、小鳥が囀っているのが聞こえる。どうやら今朝も晴れであるらしい。ちらと窓辺へ目を向けると、朝の眩い陽光が、引かれたままのカーテンを縁取るようにじんわりと滲んでいた。

 夜が明ければ朝が来る。そうしてまた新しい一日が始まるのだ。たとえどんなことがあろうとも。世界は少しも立ち止まることなく、規則正しい時計の進みとともに、日常は滞りなく進んでゆく。無慈悲にも。

 身体を動かすのがなんだか億劫で、セシリアはベッドに寝そべったままゆるりと天蓋を仰ぎ、艶やかな杢目を見るともなくじっと見つめた。今朝はやけに、頭がぼんやりとしている。まるで密度の薄い白い綿で埋め尽くされているみたいに。何かを考えようとしても、そうするより先に泡沫が弾けるように消えて、結局何も残らない。起き抜けだからだろうか。身体がずっしりとベッドに沈み込んでいるような気がする。いつもより深く、重く。

 のろのろと持ち上げた腕で目元を覆い、セシリアは肺いっぱいに吸い込んだ息を細く長く吐き出す。閉じた瞼の裏側に広がる暗闇が、今はとても心地よく感じられる。

 このままずっと目を瞑っていれば、悪い夢でも見ていたのではないかと――そう思えるかもしれない、と考えて、なんて馬鹿なことだろう、とセシリアは静かに自嘲をこぼす。昨夜の出来事が夢でないことくらい、靄のかかった頭でも分かるというのに。カトリーヌの甘い毒を潜めた薄ピンク色の瞳も、視界を遮った逞しい背中も、ふたりだけの為に作られたような一本道を寄り添いながら歩いてゆく姿も、何もかも――。

 しかし、モランベスト夫妻に見送られ、馬車に乗り込んで王城を出た後の記憶が、セシリアにはまるでなかった。その部分だけが、記憶の箱の中からぽっかりと抜け落ちてしまっている。しかも、眠ったという感覚さえ少しもない。

 こうして今、きちんと寝間着を身につけ、他の誰でもない自身のベッドの上に横たわっているのだから、憶えはなくとも身体はきちんと――無意識に――動いていたのだろう。それとも、グレアムや侍女に支えられることで、辛うじて此処まで帰り着けるような腑抜け具合だったのだろうか。

 そう思うものの、何故か不思議と、もうどうでもいい、という諦念に似た感情が浮かんでくる。仮にグレアムたちに迷惑をかけていたとして、今までならきっと、そんなふうに流すことなど出来なかったはずだというのに。

 のっそりと腕を退かして、再び天蓋を見つめる。頭の芯は、まるで針で刺されているみたいにちくちく痛むというのに、目覚めたばかりの目からぼやけが少しずつ薄れてゆくにつれ、現実がどんどんと明瞭に、輪郭を取り戻してゆく。

 意識が冴えてくるほどに、昨夜の出来事が嫌でも鮮明に脳裏へと浮かび上がってくる。匂いも、震えも、嫌な汗も、あの場所を包んでいた濃密な空気も、何もかも。四方八方から無遠慮に向けられる刺々しい視線も、たくさんの嗤い声も、まるで今まさにそれらに晒されているかのように、まざまざと蘇ってくる。

 ――まあ、やはり貴女が、ユーリス様の。

 とても綺麗な人だった、と思う。さすがはエルヴァール王国の第二王女。まるで天使のような愛らしい麗貌だけでなく、ほんの些細な所作のひとつひとつすら、指の先まで神経が行き届いているのだと感じさせる洗練された優雅さがあった。

 そして何より、人を容易く籠絡させてしまうような、あの現実離れした雰囲気と、人を惹きつけてやまない蠱惑的な笑み――。

 こんな絶世の美女に見つめられれば、男性はひとたまりもないだろう。あの時セシリアは、確かにそう思った。同性である自分でさえ、彼女の笑みの前にたじろいでしまったのだから。

 ならば、そんな彼女をあんなにも間近でエスコートしていたユーリスは、いったいどうだったのだろう。彼女に対し何を感じ、何を思ったのだろう。

 背中の裏に隠され、ついぞ振り返ることのなかった彼が、どんな表情をしていたのかは、分からない。けれど、カトリーヌが彼の名を呼んだ時の砂糖菓子のような甘ったるい声から、或いは、今にも腕を絡めそうな距離で歩みながら浮かべていた恍惚とした横顔から、なんとなく察することは出来る。

 ユーリスはきっと、微笑んでいたはずだ。爽やかでやさしい笑みを、あの端正な顔に浮かべていたに違いない。

 そんな彼は、宰相の務めを果たす明日まで、邸へ戻ることは出来ない。――いや、戻れないのではなく、そもそも戻る気がないのかもしれない、と、セシリアは僅かに目を伏せながら思う。グレアムは明日まで、と言っていたけれど。それを保証するものは、何もない。もしかしたらこのまま、彼は邸へ戻らない可能性だって、有り得なくはないのだから。何せ彼は――。

 こめかみの辺りがずきりと痛み、セシリアは思わず眉根を寄せた。なんだか身体の中心部分が、じんわりと熱を帯びているような気がする。まるで自分自身が大きな石や、鉛の塊にでもなったみたいに、全身がずっしりと重たくなってゆくような、奇妙な感覚までも。

 ――公爵殿と王女殿下は、随分と親しげだな。
 ――なんだお前、あの話を知らないのか?

 そろそろ起きなければいけないと分かっていても、そうするのがひどく億劫で、ベッドに気怠く身を沈めたまま、代わり映えのない杢目をぼうっと眺める。けれどその実、瞳に浮かぶのは見慣れた天蓋ではなく、まるで全てを手中に収めたと言わんばかりの艶やかな笑みだった。果実のように瑞々しい唇を弧に描き、大きな目をすうっと眇めた、あの勝ち誇ったような表情。

 ――なんでも、王女殿下が公爵殿に縁談を申し込んだそうだぞ。
 ――公爵殿もさぞ嬉しいのではないか? お荷物でしかない妻を切り捨てる、良い機会だからなあ。

 本当に、もう潮時なのだろう、とセシリアはゆっくりと瞼を閉ざしながら思う。今度こそ、紛れもなく終わりなのだ、と。離婚を切り出すには、今が一番良い機会だろう。他の女性から、しかも大国のひとつであるエルヴァール王国の第二王女から縁談を申し込まれているのだから。別れるには、これ以上ない好機だと言っても、過言ではない。

 王女との結婚は、莫大な借金を作って“没落貴族”になりかけたどこぞの伯爵家とのそれとは、抱える意味も重要さも、何もかもが大きく違う。

 エルヴァール王国は、ヴェルミア王国と比肩するほどの大国だ。豊かな海産資源と広大な穀倉地帯を持ち、且つ交易の中継地でもあったことから、経済的に大きな発展を遂げてきた。そんな国の王女と、公爵家当主であり王家の傍流の血を継ぐユーリスとの婚姻は、両国にとって強固な繋がりとなり、外交的にも経済的にも、この国に大きな利をもたらすに違いない。そんなことは深く考えるまでもなく、誰の目にも明らかなことだ。無論、宰相を務めるユーリス自身が、他の誰よりそれを理解しているだろう。

 王女からの縁談は、いつ頃申し込まれたのだろう。セシリアは鈍く霞んだ頭で考える。舞踏会の前か、それとも彼女が来訪するよりずっと前か――。どこの誰とも知らない男たちが聞こえよがしに噂を交わしていたのだから、恐らくは後者だろう。

 ただ、今となってはもう、いつ申し込まれたかなど気にすることではないのかもしれない。以前だろうが直前だろうが、“縁談がある”というその事実が変わることは、ないのだから。

 どのみち、そう遠くない先で、ユーリスの方から別れを切り出されるだろう。王女との婚姻と、愛することのないお飾りの妻を天秤にかければ、どちらに傾くかなど考えるまでもない。ならばこちらから離婚話を持ち出しても構わないはずだ。“公爵家夫人”として、或いは"ひとりの女"としての、最後の矜持。どうせ、ただどちらが先か、というだけのことに過ぎないのだから――。

 珍しく、もう一度眠りたい欲に駆られた、その時。不意に扉がノックされ、朝の支度を告げる侍女の声が聞こえてきた。セシリアは徐に瞼を持ち上げ、ひどく乾いた喉から声を絞り出し、返事をする。いつまでも考え込んでいる暇はない。離婚が眼の前に迫っているとはいえ、まだ“公爵夫人”の肩書を背負っているのだから。こなさなければならない仕事は、きちんと滞りなく進める責任がある。

 ゆっくりと上体を起こすと、何故かただそれだけで、目眩にも似た感覚に襲われた。昨夜飲んだチェリー酒のせいだろうか。とはいえ、たった一杯しか飲んでいないのだから、二日酔いとは考えにくい。それでも、ずるずると引き摺るようにしてベッドから降りた身体には、手にも足にも、軸を支える腰や両肩に至るまで、ひどい倦怠感がべっとりと纏わり付いていた。

 その感覚は朝食を摂っている最中も続き、終いには胃の腑まで沁み込んでくる始末で。結局スープの味も、新鮮な野菜の味も、食後のお茶の味も、何ひとつ味わえないまま、食事はただ無理矢理嚥下することを繰り返すだけの、単純な作業と化してしまった。

 それでもどうにか全て食べ終え、セシリアは重怠い足を動かして執務室へと向かい、デスクの上に積み重なった書類に手を伸ばす。今日はどうにも調子が悪いが、恐らくは昨夜の疲労のせいだろう。たった一杯だけとはいえ、お酒を飲んだのは随分と久しぶりのことだったから、臓腑が少し驚いているのかもしれない。そう誤魔化しながらいつも通り右手にペンを握り、確認すべき書類に視線を走らせる。

 けれど、どれだけ文章を辿っても視線が滑って、内容が一文字も頭に入ってこない。辛うじて今年の収穫量の見込みに関する報告書だと分かるが、びっしりと綴られた文字はまるで外国のそれに見えるし、羅列された数字は意味のない図形のように思えてしまう。

 セシリアは一旦ペンを置き、背もたれに深く身を沈めながらゆっくりと息を吐き出した。それから指先で眉間を軽く揉み、凝っているのかもしれない肩を軽く回す。ついでに首もゆっくりと左右に傾け、両手を上に突き上げてぐっと伸びもしてみる。しかしそれでも、どうにも違和感が消えることはなかった。頭も身体もすっきりとせず、むしろ時間が経つにつれ、どんどんと鈍くなっていっているような気さえする。

「どうかされましたか、奥様」

 ハーブティーを運んできてくれたグレアムが、心配そうな面持ちでセシリアを窺う。そんな彼に、セシリアはにこりと笑みを返しながら「大丈夫よ」と努めて明るい口調で答えた。きっと久しぶりの舞踏会で疲れただけだから、と。お酒も飲んだからそのせいかもしれない、とも言い添えて。

 今日は仕事量を少し調整して、休憩をこまめにとり、そして早めに就寝しよう。そうすればきっと、明日には元通りになっているだろうから――。

 そう思いながら一日を過ごし、一晩が明けた翌朝。しかしセシリアは、前日の予想に反し、ひどい頭痛によって目を覚ますこととなった。

 昨日にも増して、意識はまるで濃い靄がかかっているかのようにぼんやりとしていて、身体中がひどい虚脱感に包まれている。瞼を持ち上げるだけでこめかみがずきりと脈打ち、呼吸をする度に肺の奥がじんわりと火照っているのを感じる。皮膚の表面はひんやりとしているのに、身体の芯だけがじりじりと燃えるように熱く、まるで内側から炙られているかのようだ。手足の先はひどく重く、シーツに沈み込んだまま、指一本動かすのさえひどく億劫だった。

 顔を動かすだけでも、まるで泥でも纏っているみたいに重怠く、辛くてたまらない。それでもどうにか視線だけを滑らせて壁にかけられた時計を確かめると、侍女が支度の手伝いに来る定刻までには、まだ当分時間があった。

 このまま寝ていようかと思ったが、しかし喉があまりにもからからで、呼吸をする度に、ひゅっ、と風を切るような音を出すものだから、セシリアは仕方なく、のっそりと身体を起こしてベッドを降りる。毛布を抜け出した途端に、ひどい悪寒に襲われ、セシリアはシュミーズの上からショールを羽織り、覚束ない足取りでどうにか部屋を出た。

 初夏ともなると、陽が顔を出すのは随分と早い。廊下の壁に一定の間隔で整然と設けられた窓からは、眩い朝陽が小さな光の粒を散らしながら燦々と差し込んでいる。いつもであれば気持ちよく感じるその清潔な陽光さえ、今は目にするだけで頭の芯が疼き、思わず目を眇めてしまう。

 ここから最も近い部屋はユーリスの寝室だが、今そこに彼はいない。次に近いのは、グレアムの部屋だ。他のどの使用人よりも早起きな彼であれば、この時間でも既に目を覚まし、身支度すらも整えていることだろう。

 水と、それから多分、薬――。そう考えつつ、壁に手を添えてふらつく身体をどうにか支えながら、セシリアは一歩、また一歩とゆっくりと足を進めた。そうするだけで、嫌な汗が身体のそこここから滲み出し、シュミーズの柔らかな布地が肌にべったりと張り付いてくる。

廊下は、こんなにも長かっただろうか。まるで途方もない距離を歩いているような、そんな気がしてくる。それでもグレアムの部屋までどうにか、半ば引き摺るようにして足を運んでいると、

「――奥様?」

 不意に、近くの階段からグレアムが姿を現した。彼の深い灰色の瞳を視線が捉えた瞬間、安堵に似たぬくもりが胸にこみ上げる。どうしてこの人の瞳は、こんなにも安心感を与えてくれるのだろう。そう思いながら微笑もうとしたけれど、すうっと力の抜けた身体は糸が切れた操り人形のようにふらりと大きく傾き、視界がぐにゃりと歪んだ。

「奥様っ!?」

 普段は決して大声を上げたりしないグレアムの、焦りや驚きを孕んだ声と、慌ただしく駆け寄ってくる足音を聞きながら、セシリアは弛んだ足を保つことが出来ずに、ゆっくりと廊下に沈んでいった。壁に離れていた手が空を滑り、力の抜けた膝が崩れ落ち、頬に硬いものがぶつかる。けれど不思議と、痛みは感じなかった。ただただ、朝の冴えた空気に浸された大理石の冷たい感触だけが、じんわりと皮膚に伝わってくる。

 喉が渇いたから、お水が飲みたいの。それから、薬も用意してもらえるかしら――。そう伝えたいのに、開いた唇の合間からは、ただ掠れた吐息がこぼれ落ちるだけだった。

「奥様っ! 奥様、しっかりなさってください!」

 傍らに膝をついたグレアムが何かを必死に叫んでいるけれど、分厚い膜に遮られ、輪郭の朧げなそれは言葉としての形を失い、上手く聞き取れない。いったい何を言っているのだろう、と、ぼんやりとした頭の片隅で、セシリアはどこか他人事のように思う。

 それよりも、ああ――瞼が重たくてたまらない。

 抱き起こされるような感覚がするけれど、自分の意志ではもう何もすることが出来ず、セシリアは落ちてくる瞼に抗えぬまま、そっと静かに目を閉ざし――そこで彼女の意識は、ぷつりと途切れた。