「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 ひと月も経つと、すっかり春の麗らかさは薄れ、初夏の瑞々しい匂いが風に混じって流れ込んでくる。差し込む日差しも随分ぬくもりを増し、より眩くなったように感じるのは、果たして気の所為だろうか。

 下ろしていた瞼をゆっくりと開き、ユーリスは気怠げに持ち上げた右手の指先で、鈍い疼きを繰り返す眉間を軽く揉んだ。少しだけ仮眠をとろうと横になったは良いものの、眠った感覚がまるでない。ただずっと目を瞑っていただけのような、そんな気がする。カイルが気を利かせて、休む前に安眠に効くというハーブティーを持ってきてくれたが、どうやら蓄積して凝り固まった疲労には敵わなかったらしい。

 睡眠を貪りたいのは山々だが、執務室のシェーズロングでそれが叶わないことは、これまでの幾夜にも及ぶ経験で嫌というほど理解している。

 休んだ気は全くしないし、身体は鉛でも詰めたかのように重たい。それでもこれ以上横たわっているわけにもいかず、ユーリスは徐に身を起こし、毛布代わりに掛けていた上着を羽織った。脇の窓からは朝の清らかな日差しが燦々と降り注ぎ、吹き抜ける風は心地よく、どこか遠くで小鳥が囀っている。しかしそんな長閑な朝の情景は、今のユーリスには何の癒しにもならない。

 顔でも洗いに行くかと、寛げていたシャツの胸元だけを整え、ユーリスは執務室の扉を開けた。しかしそこで、彼はぴたりと動きを止める。止めるしかなかった――扉の前に佇む、ふたりの姿を見てしまっては。

「なんだ。休んでいると聞いたのに、やけに酷い顔をしているな」
「……あの長椅子で呑気に熟睡出来るのは、陛下くらいなものですよ」

 そう言いながら深々と溜息を吐き、テオドールの背後にちらと視線を向けると、申し訳なさそうに苦笑を浮かべたカイルと目が合った。恐らくは引き留めようとしてくれたのだろうが、たとえユーリスが偶然扉を開かずとも、テオドールの性格を考えれば、きっと気にも留めずに部屋ヘ入っていたことだろう。

「わざわざお越し頂かずとも、お呼びいただければよろしかったのに」
「気にするな。朝の散歩のついでだ」

 貴方にそんな日課などないだろ、と内心で悪態をこぼしながら、ユーリスは踵を返してテオドールを室内へ招き入れる。ただでさえ身体はひどく重怠いというのに、彼の来訪でいっそう重石を乗せられたような気がして、唇から自ずと溜息がこぼれた。

「……それで」

 執務室の中央に向かい合うようにして置かれたソファの片方に腰掛け、ユーリスは羽織っていた上着を整える。当人は全く気にしないだろうが――そんな質なら疾うに引き返しているだろう――、一応は主君の前だ。礼儀として、身なりは整えておくに越したことはない。

「いったい何のご用件でしょうか」

 扉の向こう側から、カイルが通りがかりの侍女を呼び止め、お茶を用意するよう指示する声が微かに耳に届く。それを聞くともなく聞きながら、ユーリスは正面にどさりと腰を据えたテオドールの、陽光を浴びていつもより一段と金色に輝く瞳を、真っ直ぐに見据える。

 長い脚を組み、悠然と背もたれに寄り掛かる彼の端正な顔には、どこか愉しげな色が滲んでいた。形の良い唇の端はにやりと持ち上がり、実に綺麗な弧を描いている。その嫌な笑みを前に、ユーリスは目眩がしそうだ、と思う。無論、彼のかんばせがどうとかではない。そういう表情をする時は決まって――面倒事の前触れであると、散々思い知らされてきたせいで。

「実は、どこぞの我儘なお姫様が、我が王都へ来訪されるそうだ」
「いつ、ご来訪されるのですか」
「七日後だ」

 喉元までこみ上げてきた言葉を無理矢理呑み込み、ユーリスは深く吸い込んだ息を長く吐き出しながら、徐に天井を仰いだ。左耳の傍で、金属の奏でる小さな音がする。鼓膜に触れたほんのささやかなその音の、微かな残響を耳の奥に感じながら、ユーリスはゆっくりと目を閉ざす。――さて、このたった七日で、どう動くべきか。

 テオドールの言う“どこぞの我儘なお姫様”とは、間違いなくエルヴァール王国第二王女であるカトリーヌ・ラクロワのことだろう。しかし彼の国の王都からヴェルミア王国へは、どんなに馬を飛ばしても国境を越えるまでにかなりの日数を要するはずだ。そこから王都へとなると、更に日は嵩む。たった七日程度で来られる距離ではない。

「……随分と早すぎますね」

 そう言いながら、ユーリスは瞼を持ち上げ、再びテオドールへと視線を戻す。そんな彼の疑問を察したのか、テオドールは肘掛けに片腕を預け、顎に指先を添えながら、くつくつと喉を鳴らして笑った。

「所用で、たまたま近くまで来ていたと聞いている」
「なるほど。たまたま、ですか」
「国境警備隊からは、何の報告も受けてはいなかったがな」

 扉をノックする音が室内に響き、ユーリスはすぐに返事をする。カイルが扉を開けると、その傍らをワゴンを押した侍女が通り過ぎた。礼儀正しく入室してきた彼女は、ワゴンをテーブルの傍で止め、慣れた手際でてきぱきとティーセットを並べてゆく。

 こぽこぽと小さな音を立てて、白磁のティーカップに澄んだ赤褐色の液体が注がれるのをぼんやりと眺めながら、ユーリスは早速頭の中で、やらねばならないことをざっくりと組み立てる。一国の王女が来るとなれば、王族主催の晩餐会や舞踏会が開かれるのは既定路線だろう。そうなると、普段の政務に加え、王女を迎える為の支度も重なることになる。

 そこまで考え、ユーリスは小さく息を吐く。――今夜はどうにか帰れそうだ、と思っていたというのに。これでは再び長椅子が寝床になりそうだ。

「お前に逢いたくて、お忍びで馬車を飛ばして来ているのだろう。随分と想われているな。羨ましい限りだ」

 侍女が部屋を出ていったのを視界の端で認め、テオドールはティーカップを持ち上げながら、愉しんでいるのを隠そうともしない口調でそう言った。

 “羨ましい”などと口にしているが、この男に結婚願望がないことを、ユーリスは知っている。爵位家の娘や、どこかの国の王女を迎え、早々に王妃の座を埋めてほしい。そしてすぐにでも、次代の王となる御子を――と、大臣たちは躍起になっているようだが、当のテオドールは素知らぬ顔を貫き、どの進言も飄々と躱している。

 そのせいで大臣たちは頭を抱え、終いにはユーリスへ泣きついてくる始末だ。宰相であり、宮廷の中で最も親しい間柄なのだから、どうにか陛下を説得してくれ、と。しかし幾ら懇願されようと、この件に関してはユーリスですらお手上げだった。当のテオドールが、聞く耳を持ちすらしないのだから。

「さて、どうする? ユーリス」

 淹れたてのあたたかいお茶をひと口飲み、ユーリスは微かに揺らぐ赤褐色の水面をじっと見つめた。本当に、どうしたものか。たった七日で、一国の王女を迎える準備をどこまで完璧に整えられるだろう。

「取り敢えず、今すぐ動ける者を――」
「そういうことではない」

 ユーリスの言葉を遮り、テオドールは顎に添えた指先で唇に触れながら、意味深に目を細めた。

「王族主催の、しかも隣国の王女を歓迎する舞踏会となれば、高位貴族の殆どが参加することになるだろう。――無論、公爵位であるシルヴェイン家も例外ではない」

 ティーカップをソーサーへ戻そうとしていた手をはたととめ、ユーリスはゆっくりと上げた視線で、相も変わらず嫌な笑みを浮かべた主の、蜜のような瞳を静かに見つめ返す。

「だがお前は、宰相としての務めを果たさねばならん。母上が表舞台から退いている以上、この国で私に次ぐ地位にあるのはお前だ。その役目は避けられん」

 かちゃり、と小さな音を立ててティーカップを置き、ユーリスは黄金色の瞳に視線を据えたまま、背もたれへ深く身を沈めた。

「しかも、カトリーヌ王女は、お前に逢いに遥々此処まで来るわけだからな。お前が傍に仕えねば、不興を買ってしまうだろう。彼の国との良好な関係を継続することが、我が国にとってどれほどの利をもたらすか――お前ならよく分かっているだろう?」

 にやりと持ち上がった口角に、こめかみの奥が鈍く疼く。

 テオドールの言葉は、確かに道理だ。ヴェルミア王国と比肩するほどの大国であるエルヴァール王国との友好な繋がりは、強固であればあるほど自国に大きな利をもたらす。正に今がその機であることは間違いない。関係を深められれば、これまで目をつけていた彼の国が抱える大陸随一の港――しかも不凍港――との取引もスムーズに進むだろう。

 だが――。胸の内で重たい溜息を吐き出し、ユーリスはいつの間にか皺の寄った眉間を、指先で軽く揉む。寝不足のせいか、頭が痛い。

「どうせお前のことだ。王女との縁談の件は、セシリアに話していないのだろう?」

 無言を返すと、それを肯定と受け取ったテオドールが、くつりと笑った。

「クロードをこちらに呼び寄せるにも、時間が足らん。まああいつなら、兄嫁の為、幼馴染の為、昼夜馬を駆けて来そうではあるが」

 確かに彼ならやりかねない、とユーリスは思う。セシリアの為なら、寝る間も惜しんで馬を走らせることなど平気でやるに違いない。しかし、王都から使者を出してからの日数を考えると、たとえクロードが無理をしようと、舞踏会までに到着するのは難しいだろう。

 そこで漸く、テオドールが言わんとしていることを理解し、ユーリスは彼の双眸から視線を背けた。そんな彼に、テオドールはふっと息を漏らす。悪友の反応を心底愉しんでいるのを、隠しもせずに。

「――さて、どうする? ユーリス」