グレアムが書庫より取り出してきた邸の見取り図をもとに、カイルの指示によって護衛部隊の隊士たちは邸の要所要所へ、少しの穴もないよう配置されていった。玄関やエントランスホール、パーラーや執務室や廊下といった内部はもちろん、庭園や門扉といった屋外の至るところにも。
セシリアの傍には、カイルが常に控えることとなった。自分はひとりでも構わない、と何度も断りを入れたが、しかしカイルはそのどれにも頷かず、
――奥様の傍を少しでも離れようものなら、私の首が飛びかねません。
と言って苦笑をこぼす始末だった。そう言われてしまうと、さすがにセシリアも頑なに否とは言いづらく、渋々彼の同行を許す他なかった。もっとも、ひとりで過ごすことの多いセシリアにとって、常に誰かとふたりで部屋にいるというのは、どうにも居心地が悪く、息が詰まるものだったのだけれど。
半ば心此処にあらずの状態であるとはいえ、未処理の書類を片さなければならず、セシリアは暫くの間、カイルとふたりで執務室に籠った。公爵領にいるクロードから送られてきた書類へ目を通し、必要なところにペンを走らせる。今年の予想収穫量、物流の推移、商人たちの取引記録、警備隊との議事録、当主の捺印が必要な決済書――。
それらに向き合っている間だけは、ほんの少しとはいえ、事件のことを頭の片隅へ追いやることが出来た。それでも、完全に忘れることは、どうしても出来そうにない。けれど、頭の中を占める領域が僅かでも減るだけで、ふと気を緩めた瞬間にこみ上げてきそうな恐怖を、どうにか押さえつけていられた。
「――カイル様」
こなさなければならないものを一通り終え、セシリアはパーラーへ場所を移した。頃合いを見計らったかのように入ってきたグレアムが、てきぱきとした手つきであたたかなハーブティーを淹れてくれる。愛用のティーカップに注がれた薄い琥珀色のそれに、そっと口をつけた。やさしく上品な香りが鼻をくすぐり、たちまち口の中を穏やかな甘みが満たしていく。
恐らくは、不安や緊張を和らげる効果のあるリンデンを用いたハーブティーだろう。彼の細やかな心遣いに胸の内で感謝しながら、セシリアはティーカップを手にしたまま、傍らに立つカイルを見上げた。邸へ来たばかりの時は、気が動転していて気付かなかったけれど。よくよくそのかんばせを見てみると、爽やかな左目の下に、小さな泣きぼくろがひとつあった。
「ひとつ、訊いても良いでしょうか」
「ええ、もちろん」
そう言って、にこやかな表情で頷いてくれたカイルへ、セシリアはそっと苦笑をこぼす。自分で声をかけておきながら、喉元までこみ上げた言葉を口にするべきかどうか、今更になって躊躇ってしまっている。もう引っ込めることなど出来ないと分かっていても――それでもなかなか、言葉はどれも喉の手前で止まったまま、ぴくりとも動かない。
そんなセシリアを、カイルは急かすことなく、ただ背筋を伸ばして、じっと静かに待っていてくれた。
もう一度ハーブティーに口をつけ、甘いぬくもりで喉を潤してから、細く長い息をゆっくりと吐き出す。窓の外では雷こそ鳴りを潜めているものの、雨はまだ激しく降り続いていて、小さな雨粒が窓硝子をぱたぱたと叩きながら、無数に貼り付いている。
「先ほど仰っていた、“似ている”という言葉ですけれど……」
迷いのせいか思いの外か細くなってしまった声に、内心でそっと溜息をつきながら、ちらりと横目でカイルを見上げる。彼は涼やかな目をぱちりと瞬かせ、それから「ああ」と言って、ふわりと顔を綻ばせた。どうやらそれだけで、セシリアの問いたいことを察してくれたらしい。
「ユーリス様によく似ていらっしゃる、と思ったもので」
「ユーリスに……?」
思わず、鸚鵡返しになってしまった。彼の言葉が、あまりにも想定外で、驚愕してしまったせいで。
似ている――自分が、ユーリスと?
頭の中で言葉を繰り返してみても、どうにもうまく結びつかない。寧ろ、まるで正反対ではないかとさえ思う。完璧で、隙がなく、何者にも揺るがない彼と、感情に振り回されてばかりで、何の役にも立てない自分が似ている――だなんて。彼とは何もかもが違うはずなのに。いったい何処をどう見れば、ユーリスと似ていると思えるのだろう。
戸惑いのまま視線を彷徨わせると、カイルは穏やかに目を細めたまま、小さく声を立てて笑った。嫌味のない、明るくどこか楽しげな、朗らかな笑い声。
「意外ですか? ユーリス様と似ていることが」
「え? ええ、それは、もちろん……」
思えばカイルとは、結婚式後に開かれたパーティーで、ひと言ふた言、言葉を交わしたくらいしか、記憶にない。ユーリスとは騎士団時代から、特に親しくしていたようだけれど。彼が宰相となった折に護衛隊へ就くことを、自ら志願したとも聞いている。
「私が彼と似ているとは、とても思えないものですから……」
「そんなことはありませんよ」
「どうして、その様に言い切れるのですか?」
「実際に自分の目で見て、深くそう感じたからです」
くつりと喉を鳴らして笑い、カイルは戯けたように軽く首を傾けた。
「そうですね、例えば先程の――」
彼が何かを言いかけた、その時。唐突に扉がノックされ、会話がぷつりと途切れた。セシリアはカイルへ向けていた視線を扉の方へと移し、「どうぞ」と努めて落ち着いた声で入室を促す。一拍の間を置いて扉が開き、顔をのぞかせたのは、玄関付近を担当していたと思しき護衛隊士のひとりだった。ユーリスやカイルより一段と幼さの残るかんばせは、まだ年若いことを窺わせる。
彼はセシリアの姿を認めると、恐縮したように、それでも恭しく頭をひとつ下げた。それからすぐにカイルへと目を向け、やや慌てた様子で口を開く。
「失礼いたします、隊長。先程、王城より近衛隊の使者が参りまして……隊長と直接お話がしたいとのことです」
「……分かった。すぐに行く」
先程までの穏やかな表情から一転、護衛隊長としての険しく引き締まった顔に戻ったカイルが、報告に来た隊士にパーラーの入口へ就くよう素早く指示を出す。そうしてすぐにセシリアへ視線を戻すと、凛としながらもやさしさをほんのりと滲ませた榛色の瞳で、セシリアの双眸を真っ直ぐに見つめた。
「せっかちな御方なんですよ、実は」
屈託のない調子でそう言う彼に、いったい誰のことだろうと、セシリアは小首を傾げる。けれどすぐに、カイルの笑みの奥に真剣な光が宿った。
「恐らく、ユーリス様のご指示で来たのだろうと思います。何かあったというわけではないでしょうから、どうかご心配なさらず」
その言葉だけを言い置いて、カイルは踵を返し、足早に出口へと向かっていく。逞しく広いその背中に、「本当に?」と問いかけたかったけれど、言葉はついぞ出てこないまま、カイルは重い扉の向こう側へと姿を消してしまった。
セシリアの傍には、カイルが常に控えることとなった。自分はひとりでも構わない、と何度も断りを入れたが、しかしカイルはそのどれにも頷かず、
――奥様の傍を少しでも離れようものなら、私の首が飛びかねません。
と言って苦笑をこぼす始末だった。そう言われてしまうと、さすがにセシリアも頑なに否とは言いづらく、渋々彼の同行を許す他なかった。もっとも、ひとりで過ごすことの多いセシリアにとって、常に誰かとふたりで部屋にいるというのは、どうにも居心地が悪く、息が詰まるものだったのだけれど。
半ば心此処にあらずの状態であるとはいえ、未処理の書類を片さなければならず、セシリアは暫くの間、カイルとふたりで執務室に籠った。公爵領にいるクロードから送られてきた書類へ目を通し、必要なところにペンを走らせる。今年の予想収穫量、物流の推移、商人たちの取引記録、警備隊との議事録、当主の捺印が必要な決済書――。
それらに向き合っている間だけは、ほんの少しとはいえ、事件のことを頭の片隅へ追いやることが出来た。それでも、完全に忘れることは、どうしても出来そうにない。けれど、頭の中を占める領域が僅かでも減るだけで、ふと気を緩めた瞬間にこみ上げてきそうな恐怖を、どうにか押さえつけていられた。
「――カイル様」
こなさなければならないものを一通り終え、セシリアはパーラーへ場所を移した。頃合いを見計らったかのように入ってきたグレアムが、てきぱきとした手つきであたたかなハーブティーを淹れてくれる。愛用のティーカップに注がれた薄い琥珀色のそれに、そっと口をつけた。やさしく上品な香りが鼻をくすぐり、たちまち口の中を穏やかな甘みが満たしていく。
恐らくは、不安や緊張を和らげる効果のあるリンデンを用いたハーブティーだろう。彼の細やかな心遣いに胸の内で感謝しながら、セシリアはティーカップを手にしたまま、傍らに立つカイルを見上げた。邸へ来たばかりの時は、気が動転していて気付かなかったけれど。よくよくそのかんばせを見てみると、爽やかな左目の下に、小さな泣きぼくろがひとつあった。
「ひとつ、訊いても良いでしょうか」
「ええ、もちろん」
そう言って、にこやかな表情で頷いてくれたカイルへ、セシリアはそっと苦笑をこぼす。自分で声をかけておきながら、喉元までこみ上げた言葉を口にするべきかどうか、今更になって躊躇ってしまっている。もう引っ込めることなど出来ないと分かっていても――それでもなかなか、言葉はどれも喉の手前で止まったまま、ぴくりとも動かない。
そんなセシリアを、カイルは急かすことなく、ただ背筋を伸ばして、じっと静かに待っていてくれた。
もう一度ハーブティーに口をつけ、甘いぬくもりで喉を潤してから、細く長い息をゆっくりと吐き出す。窓の外では雷こそ鳴りを潜めているものの、雨はまだ激しく降り続いていて、小さな雨粒が窓硝子をぱたぱたと叩きながら、無数に貼り付いている。
「先ほど仰っていた、“似ている”という言葉ですけれど……」
迷いのせいか思いの外か細くなってしまった声に、内心でそっと溜息をつきながら、ちらりと横目でカイルを見上げる。彼は涼やかな目をぱちりと瞬かせ、それから「ああ」と言って、ふわりと顔を綻ばせた。どうやらそれだけで、セシリアの問いたいことを察してくれたらしい。
「ユーリス様によく似ていらっしゃる、と思ったもので」
「ユーリスに……?」
思わず、鸚鵡返しになってしまった。彼の言葉が、あまりにも想定外で、驚愕してしまったせいで。
似ている――自分が、ユーリスと?
頭の中で言葉を繰り返してみても、どうにもうまく結びつかない。寧ろ、まるで正反対ではないかとさえ思う。完璧で、隙がなく、何者にも揺るがない彼と、感情に振り回されてばかりで、何の役にも立てない自分が似ている――だなんて。彼とは何もかもが違うはずなのに。いったい何処をどう見れば、ユーリスと似ていると思えるのだろう。
戸惑いのまま視線を彷徨わせると、カイルは穏やかに目を細めたまま、小さく声を立てて笑った。嫌味のない、明るくどこか楽しげな、朗らかな笑い声。
「意外ですか? ユーリス様と似ていることが」
「え? ええ、それは、もちろん……」
思えばカイルとは、結婚式後に開かれたパーティーで、ひと言ふた言、言葉を交わしたくらいしか、記憶にない。ユーリスとは騎士団時代から、特に親しくしていたようだけれど。彼が宰相となった折に護衛隊へ就くことを、自ら志願したとも聞いている。
「私が彼と似ているとは、とても思えないものですから……」
「そんなことはありませんよ」
「どうして、その様に言い切れるのですか?」
「実際に自分の目で見て、深くそう感じたからです」
くつりと喉を鳴らして笑い、カイルは戯けたように軽く首を傾けた。
「そうですね、例えば先程の――」
彼が何かを言いかけた、その時。唐突に扉がノックされ、会話がぷつりと途切れた。セシリアはカイルへ向けていた視線を扉の方へと移し、「どうぞ」と努めて落ち着いた声で入室を促す。一拍の間を置いて扉が開き、顔をのぞかせたのは、玄関付近を担当していたと思しき護衛隊士のひとりだった。ユーリスやカイルより一段と幼さの残るかんばせは、まだ年若いことを窺わせる。
彼はセシリアの姿を認めると、恐縮したように、それでも恭しく頭をひとつ下げた。それからすぐにカイルへと目を向け、やや慌てた様子で口を開く。
「失礼いたします、隊長。先程、王城より近衛隊の使者が参りまして……隊長と直接お話がしたいとのことです」
「……分かった。すぐに行く」
先程までの穏やかな表情から一転、護衛隊長としての険しく引き締まった顔に戻ったカイルが、報告に来た隊士にパーラーの入口へ就くよう素早く指示を出す。そうしてすぐにセシリアへ視線を戻すと、凛としながらもやさしさをほんのりと滲ませた榛色の瞳で、セシリアの双眸を真っ直ぐに見つめた。
「せっかちな御方なんですよ、実は」
屈託のない調子でそう言う彼に、いったい誰のことだろうと、セシリアは小首を傾げる。けれどすぐに、カイルの笑みの奥に真剣な光が宿った。
「恐らく、ユーリス様のご指示で来たのだろうと思います。何かあったというわけではないでしょうから、どうかご心配なさらず」
その言葉だけを言い置いて、カイルは踵を返し、足早に出口へと向かっていく。逞しく広いその背中に、「本当に?」と問いかけたかったけれど、言葉はついぞ出てこないまま、カイルは重い扉の向こう側へと姿を消してしまった。
