「君を愛することはない」と言われて三年、そろそろ白い結婚をやめようと思います

 朝、隣が空になっている――。
 それだけが、夫が帰ってきたことを証明する、唯一のものだった。

 少し乱れたシーツに手を這わせてみるけれど、もちろんそこに人肌の名残はまるでない。ぬくもりも、匂いも、気配に至るまで、さっぱりと消えてしまっている。寧ろあれは夢だったのだ、と言われた方がしっくりくるほど――彼が眠っていたという形跡は、なにひとつ残されてはいなかった。

 そんなことはいつものことで、疾うに分かりきっているくせに、と胸の奥で自嘲が滲む。セシリアはゆっくりと身体を起こし、カーテンの細い隙間から差し込む朝陽へ目を向けた。

 昨夜、使用人に頼んでおいた水差しは、今日もベッドサイドに置かれていない。それを多忙によるただの物忘れ――と誤魔化せていた頃が、随分と懐かしい。

 そう思いながらセシリアはベッドを降り、窓辺へと歩み寄る。壁一面を覆うカーテンの、細く光を滲ませた隙間に指をかけてひと思いに開くと、燦々と降り注ぐ清潔な朝陽が身体中を照らし、そのあまりの眩さに、セシリアは思わず目を細めた。

 今日もまた、いつもと代わり映えのない一日が始まる。
 ただただ“完璧”だけを求められる、お飾りな“公爵夫人”としての一日が――。


 身支度を終えて食堂へ向かうと、純白のクロスが敷かれたテーブルの上に、既に朝食の支度が整えられていた。

 僅かな量のサラダと、野菜をたっぷり使ったブイヨン仕立てのスープ。それから、芳しい匂いを漂わせる紅茶。朝はあまり食欲のないセシリアの為のメニューは、基本的に殆ど変わらない。強いて言うならば、スープのベースが変わるくらいだろうか。

 緞子張りの椅子に腰掛け、いつものように胸の前で両手を組んで祈りを捧げてから、カトラリーへ手を伸ばす。

 そんなセシリアの視界に、ふと、鮮やかな赤色が映り込んだ。普段はひとり分の食事しか並ばない、ただ殺風景なテーブルの上で、ひときわ異彩を放つそれへ、吸い寄せられるように目を向ける。

 そこに置かれていたのは、分厚い硝子製の花瓶に活けられた真っ赤な薔薇だった。

「旦那様から、奥様への誕生日プレゼントでございます」

 傍に控えていた執事長のグレアムが、にこやかな笑みとともに穏やかな口調でそう告げる。それを聞いて、セシリアは嗚呼――と胸の内で溜息をついた。どうやら彼は、今夜も帰宅をするつもりはないらしい。既にプレゼントが人伝で用意されている時点で、それは明白だった。

「……そう。とても嬉しいわ」

 そもそも――。スプーンで掬った黄金色のスープをゆっくりと口へ運びながら、セシリアは思う。結婚して早三年が経つけれど、夫から直接誕生日を祝われたことは、今までに一度たりともない、と。プレゼントを受け取ることも、祝いの言葉をもらうことも。他の貴族夫妻のように、パーティーを開くようなことも、全く。

 そして彼が毎年決まって、自らプレゼントを用意することはないことも、セシリアは疾うに知っていた。彼はいつも執事長のグレアムに対し、誕生日用の花束を用意するように、と指示をしているだけに過ぎない。花の種類の指定もしない。

 だから今、目の前で鮮やかな花弁をたっぷりと開かせた薔薇もまた、グレアムが手配したものに違いなかった。「何でも構わない」という、主の言葉に従って。

「旦那様に、お礼を伝えておいていただけるかしら」
「……畏まりました」

 恭しく頭を下げるグレアムを一瞥し、それから食事を終えるまで、セシリアは一度も薔薇の方へ目を向けることはしなかった。まるでそこには何もない、というふうに。

 午前と午後の予定を確認し、レモンを一切れ浮かべた紅茶をゆっくりと堪能してから、セシリアは席を立つ。

 グレアムに幾つか指示を出してから、いざ食堂を出る間際。踵を返し、振り返りもせずに歩きながら、それでも――薔薇の鮮やかな赤色が、まるで網膜に焼き付いているかのように、いつまで経っても離れてはくれなかった。


 エントランスへと真っ直ぐ続く廊下は、アーチ型の窓から差し込む朝陽によって、煌々と照らされている。艷やかに磨き上げられた大理石の床、先々代の趣味で集められたという絵画や胸像、不思議な模様の施された遠い異国の骨董品。それらを横目に、セシリアはひとり静かに、ただ廊下を突き進む。

「ねえ、聞いた? 今年も花束だけだったそうよ」
「まあ。しかも、今日もお戻りにならないんでしょう?」

 エントランスの中央に設けられた大階段へ足をかけようとしたところで、どこからともなく、女性たちの話し声が聞こえてきた。

 視線は感じないので、何処かの物陰に身を潜めているのだろう。セシリアの存在に気付いていないのか、それとも、気付いていながら敢えてそうしているのか。ふたりは、くすくすと嗤い声を漏らし、言葉を続けた。

「昨日は、ベルナール家のクレア嬢のところにいたそうよ」
「あら、本当に? 一昨日は、ソレル家のアメリー嬢のお誕生日パーティーに参加されてたって聞いたわ」
「パーティーって、普通は夫婦で参加するものなんじゃないのかしら」
「きっと奥様を同伴させたくなかったのよ。アメリー嬢とは親しい間柄だって噂だもの」

 階段を一段、また一段と登りながら、セシリアは思う。女性というものは実に口さがない生き物だ、と。この邸では特にそうだ。誰も彼もが――特に下級の使用人たちは――、暇さえあれば、真偽の定かでない噂話に興じている。

 特に、公爵家当主であるユーリス・シルヴェインにまつわる風聞には、驚くほど枚挙にいとまがない。昨日はどこの令嬢のもとを訪れていた、その前は誰それの令嬢と親密な遣り取りをしていた――どれもこれも、殆どが女性にまつわる話ばかりだ。

 そしてそれに紐づいて、噂好きな人々は決まってこう囁く。――旦那様は、奥様のことを愛していらっしゃらないのよ、と。実は本命の女性が他にいて、だから奥様に冷たく接しているのよ、とも。最終的な矛先は、必ずと言っても過言ではないほど、セシリアへと向けられるのだ。

 階段を登りきり、廊下を折れて左へ進むと、やがてふたりの話し声は聞こえなくなった。漸く耳障りな話が届かなくなったところで、呆れを含んだ溜息を深々と吐き出し、セシリアは自身に充てがわれた執務室の、重厚な扉をゆっくりと引き開く。

 愛だとか、恋だとか――。大きな窓を背に据えられた飴色のデスクを回り込み、革張りの椅子に深く腰掛けながら、セシリアは思う。愛だとか、恋だとか、そんなものは何も関係がないのだ、と。

 それはもう、彼――ユーリスと結婚をしたその日から、決まっていたことだ。だから“結婚”とは、ふたりにとって、ただの薄っぺらい紙切れ一枚の“契約”に過ぎない。

 ――君を愛することはない。

 くるりと椅子を回し、青空の広がる窓の外を眺めながら、セシリアは背もたれにゆったりと身を預ける。雲一つない、突き抜けるように澄んだ蒼穹。それを苦手だと思うようになったのは、果たしていつからだっただろう。曇り日や雨の日の方がよほど安心する、と思うようになったのも。

 ――君を愛することはない。

 恐らくは、あの時――。深く吸い込んだ息を細く長く吐き出し、セシリアは徐に目を閉じる。

 あの夜から、もう三年。それだけの長い時間が過ぎたというのに、今もまだ、ふと気を緩めると、瞼の裏の暗闇に、あの夜に見た美しくも冷たい青い瞳が鮮明に浮かんでくる。軽蔑とも哀れみとも違う、ただただ感情のうかがえない、静かな瞳が。

 数多の噂話を耳にするだけなら、まだ良かった。誕生日を直接祝われずとも、パーティーに誘われずとも。彼はただ、“完璧な公爵夫人”を演じてくれれば良いと、そう思っていることを知っていてもなお。

 しかし――。ゆるゆると瞼を持ち上げ、大空を駆け回る小鳥たちを見るともなく眺めながら、セシリアは暗く重たい溜息を、そっと吐き出した。

 もう、潮時なのかもしれない――。