「いくよ。……『きょうは、まずスーパーでもらう袋についてお話をします。最近――』」
「ああ、待って待って……えーっと……」
「七瀬くん、私語しない」
今日も今日とて読み上げてもらいつつ速記していく。最近やっと最初のいくつかの単語くらいは書き取れるようになってきたんだけれど、話が進んでいく内に聞き取っていくだけで精一杯になってしまい、聞きつつ書き取るのが出来なくなってしまう。
あわあわと慌てながらついて行く僕を、もちろん八馬先輩が待ってくれるわけでもなく、淡々と読み進めていく。ようやくこの頃は最後まで手が止まらずに行けるけれど、きちんと全て速記できているわけではないので反訳するにあたってはボロボロだ。
「四割の正解率ってとこかな」
そう言いながら、チェックされたものを八馬先輩から返却される。反訳用の紙には赤ペンでびっしりチェックが入っている。正直正解よりも間違いの方が多い。
「うう……あのー、本当に僕検定受けられるんですかね」
「受けることはできる。受かるかは知らない」
「ううう……それはそうですけどぉ……」
そう、来月末に行われる速記検定(もちろん一番下の級)を受けてみないかと言われ、いま猛特訓を受けている所なのだ。
週に三日の毎回二時間に加え、最近では活動日以外の日も八馬先輩に付きっきりで見てもらっているのだけれど、正直なかなか厳しい気がする。だって、合格するには最低七割くらいは反訳できていないとって言うんだから。検定まで残り半月あるとは言え、果たして間に合うのかが不安でしかない。
「六級は分速80文字の五分間朗読。その内の四割が出来ているんだから、不可能じゃないよ」
最高で四割、平均で三割弱の正解率しか出せていない僕がうな垂れていると、八馬先輩が僕の向かい側に座ってポツリと言う。目線は机の上の僕の反訳用紙に向いているけれど、言葉はまっすぐ僕に向けられているのがわかる。
先輩の目はまるで、うな垂れている僕の自信のなさを見透かしていて、それでもなお不可能じゃないなんて言ってくれている。
もしこれが半崎先輩や三浦先輩なら、優しさで言ってるのかなって思う気がする。実際先輩方は優しいし。
でも八馬先輩は速記に関してはかなりシビアだ。それは半崎先輩たちも言ってるくらいだから、指導だってかなり厳しい。
それでもこうして不可能じゃないって言ってくれるってことは……単純な優しさだけじゃないってことなんだろうか。
「……そう、ですか?」
それは先輩が速記の天才だからそう言うのでは? なんてうがった言い方をしそうになっていると、不意に先輩は顔を上げた。
そうしてバチッと目が合ったのだけれど、長い前髪の狭間から覗く涼しげな目元がゆるっと甘くほどけて見えた。不安しかない僕を諭すような、嘘のない瞳が、ギュッと僕を不安ごと包んでいく。
「大丈夫。俺も最初はそんなもんだったから。七瀬くんならできるよ、たぶん」
そう言いながら先輩は手を伸ばし、ポンポンと僕の頭を撫でてくれる。心なしか、ほんの少しさっきより近付いている気がしなくもない。
初めて間近で見る八馬先輩の無防備とも言える笑みに、優しい言葉に心臓が弾けたのかともう程大きな音を立てる。そして同時に、もっと先輩に近づきたいとも思ってもいた。
(先輩みたいになりたいっていうのもあるけど、もっと褒められたい、もっと先輩のこと知りたいって気持ちもあるんだよな……)
単純に憧れている先輩だから、というのもあるんだろうけれど、それがカッコいいからという気持ちから来ているとはちょっと違う気が最近する。もちろん褒められるのも嬉しいけれど、それ以上に、先輩がどう思っているのかとかも知りたくなってくる。
そう考えると、あの日もらったメモの言葉を解読するのが市場二位のかもしれない。弟子になるの何位しても、まだ先輩の気持ちがどうなのかをまだ僕は解読できていないから。
(とは言っても相変わらずあのメモは読み解けないんだよな……少しだけ、ヒントとかもらえないかな)
自力で解けてしまえれば一番いいのだろうけれど、もう一カ月も経つのに未だに読み解けないのだから少しくらいヒントが欲しい。
だから僕はブレザーの内ポケットにしまっているメモを取り出し、「あの、八馬先輩……」と、尋ねようとした時だった。
「お疲れー! 七瀬くんの特訓やってるって聞いたから差し入れもってきたよ!」
ガラッと教室の引き戸が突然開けられ、ビニール袋を提げた半崎先輩と三浦先輩が騒がしく入ってくる。
その途端に八馬先輩は僕からサッと手を放してしまい、吐息を感じるかと思うほど近かった距離はあっという間に離れていく。
あんなに甘く無防備にすら見えた八馬先輩の表情は、すっかりいつもの気だるげでアンニュイなそれになっていて、それはそれで色気があるけどなんだか寂しかった。まるであっという間にバリアを張られた気さえする。
もう少しだけ二人きりでいたかったな……とちょっとだけガッカリした自分に、え? なんで? と戸惑っていると、「はい、七瀬くん」と半崎先輩がパックのジュースを差し出してくる。
「どう? 頑張ってる?」
「はい。八馬先輩にバシバシ鍛えられてます」
「いいねー。もうきっと合格間違いなし……ん? なにそれ。必勝法とか書かれてるの?」
「あ! それは……!」
手許にあったメモを覗き込まれたかと思うとあっという間に半崎先輩に取り上げられてしまい、その上先輩は読み上げながら反訳を始める。
やっぱりメモは僕の知らない略式記号が使われていたみたいなんだけれど、いまそれをこういう形で知ってしまっていいのだろうか。
「えーっと? 『お』『れ』? 君……かな、これ? えーっと『また あ――』って、わあ!」
読み上げていく半崎先輩から、さらに八馬先輩がものすごい勢いで――普段の気だるそうな雰囲気からは想像もできないほどの速さで――メモを奪い返し、くしゃりと握りつぶす。そして、僕らの方をぎろりとにらみ付けてきた。その形相がぞくりとするほど怖い。
「えっと……八馬くんが、それ、書いたの? ごめん、見ちゃって……でも、中身は全然わからな――」
「――――ふざけんな」
半崎先輩がおろおろとフォローを入れようとするも、それを打ち消すかのように八馬先輩の低い声が響き、先輩は苛立たし気に教室を出て行ってしまった。弁明なんてひと言も許さないと言いたげな空気に、残された僕も半崎先輩たちも黙り込むしかない。
元はと言えば、僕が迂闊にあのメモをこんなところで取りだして見ていたりするのがいけなかったのかもしれない。でも、まさか読み上げられるなんて思いもしなかったから……。
何より、八馬先輩はあのメモに何が書かれているかを、そんなにも知られたくなかったなんて思いもしなかったのも事実だ。
迂闊な行動にもほどがある――そう今更悔やんだところで、遅い。
どうしよう。もう、先輩の気持ちがなんて書かれていたのかわからないんだろうか――絶望にも似た気持ちに覆われて、目の前が暗くなっていく。
憧れが先走って弟子にしてくれなんて言った僕に対する気持ちとして、あのメモをもらったのに。僕はまだひと言も自力で解読も出来ていないし、ましてやそれに対して答えも出していない。それ以前に、八馬先輩に拒絶されてしまったのではないだろうか。
拒絶、という言葉に僕の胸が抉られるように痛む。
この痛みは、ただ憧れの人から背を向けられたと言うだけのものにしては生々しすぎる。あまりに痛くて、傷の塞ぎようがない。
(なんでこんな、先輩に背を向けられるのが苦しいんだろう――こんなのまるで、好きみたいじゃ……)
好き、という言葉が脳裏に過ぎって、僕はハッと息を飲む。
最初にカッコ良さ惹かれて憧れだと思っていたけれど、頭撫でられて嬉しいとか、アイス食べながら一緒に歩いてデート観たいって思ってドキドキ啜るとか……
「そんなのもう、恋じゃんか……もう、先輩には振り返ってもらえないの決まってるのに」
自分で自分が呟いた言葉に、一層絶望が濃くなっていく。気付いた瞬間終わってる恋とか、最悪すぎて悲しすぎる。
無意識に恋をして、少しずつ八馬先輩と速記を通じてなら話が出来て、褒められたりもして仲良くなれたかなと思っていたのに……僕の迂闊さでそれがすべてダメになってしまったかもしれない。
もう恋も憧れも全部おしまいだ――そんな感情に頭からすっぽりと包まれてしまった僕は、その場にへたり込んでしまっていた。
「ああ、待って待って……えーっと……」
「七瀬くん、私語しない」
今日も今日とて読み上げてもらいつつ速記していく。最近やっと最初のいくつかの単語くらいは書き取れるようになってきたんだけれど、話が進んでいく内に聞き取っていくだけで精一杯になってしまい、聞きつつ書き取るのが出来なくなってしまう。
あわあわと慌てながらついて行く僕を、もちろん八馬先輩が待ってくれるわけでもなく、淡々と読み進めていく。ようやくこの頃は最後まで手が止まらずに行けるけれど、きちんと全て速記できているわけではないので反訳するにあたってはボロボロだ。
「四割の正解率ってとこかな」
そう言いながら、チェックされたものを八馬先輩から返却される。反訳用の紙には赤ペンでびっしりチェックが入っている。正直正解よりも間違いの方が多い。
「うう……あのー、本当に僕検定受けられるんですかね」
「受けることはできる。受かるかは知らない」
「ううう……それはそうですけどぉ……」
そう、来月末に行われる速記検定(もちろん一番下の級)を受けてみないかと言われ、いま猛特訓を受けている所なのだ。
週に三日の毎回二時間に加え、最近では活動日以外の日も八馬先輩に付きっきりで見てもらっているのだけれど、正直なかなか厳しい気がする。だって、合格するには最低七割くらいは反訳できていないとって言うんだから。検定まで残り半月あるとは言え、果たして間に合うのかが不安でしかない。
「六級は分速80文字の五分間朗読。その内の四割が出来ているんだから、不可能じゃないよ」
最高で四割、平均で三割弱の正解率しか出せていない僕がうな垂れていると、八馬先輩が僕の向かい側に座ってポツリと言う。目線は机の上の僕の反訳用紙に向いているけれど、言葉はまっすぐ僕に向けられているのがわかる。
先輩の目はまるで、うな垂れている僕の自信のなさを見透かしていて、それでもなお不可能じゃないなんて言ってくれている。
もしこれが半崎先輩や三浦先輩なら、優しさで言ってるのかなって思う気がする。実際先輩方は優しいし。
でも八馬先輩は速記に関してはかなりシビアだ。それは半崎先輩たちも言ってるくらいだから、指導だってかなり厳しい。
それでもこうして不可能じゃないって言ってくれるってことは……単純な優しさだけじゃないってことなんだろうか。
「……そう、ですか?」
それは先輩が速記の天才だからそう言うのでは? なんてうがった言い方をしそうになっていると、不意に先輩は顔を上げた。
そうしてバチッと目が合ったのだけれど、長い前髪の狭間から覗く涼しげな目元がゆるっと甘くほどけて見えた。不安しかない僕を諭すような、嘘のない瞳が、ギュッと僕を不安ごと包んでいく。
「大丈夫。俺も最初はそんなもんだったから。七瀬くんならできるよ、たぶん」
そう言いながら先輩は手を伸ばし、ポンポンと僕の頭を撫でてくれる。心なしか、ほんの少しさっきより近付いている気がしなくもない。
初めて間近で見る八馬先輩の無防備とも言える笑みに、優しい言葉に心臓が弾けたのかともう程大きな音を立てる。そして同時に、もっと先輩に近づきたいとも思ってもいた。
(先輩みたいになりたいっていうのもあるけど、もっと褒められたい、もっと先輩のこと知りたいって気持ちもあるんだよな……)
単純に憧れている先輩だから、というのもあるんだろうけれど、それがカッコいいからという気持ちから来ているとはちょっと違う気が最近する。もちろん褒められるのも嬉しいけれど、それ以上に、先輩がどう思っているのかとかも知りたくなってくる。
そう考えると、あの日もらったメモの言葉を解読するのが市場二位のかもしれない。弟子になるの何位しても、まだ先輩の気持ちがどうなのかをまだ僕は解読できていないから。
(とは言っても相変わらずあのメモは読み解けないんだよな……少しだけ、ヒントとかもらえないかな)
自力で解けてしまえれば一番いいのだろうけれど、もう一カ月も経つのに未だに読み解けないのだから少しくらいヒントが欲しい。
だから僕はブレザーの内ポケットにしまっているメモを取り出し、「あの、八馬先輩……」と、尋ねようとした時だった。
「お疲れー! 七瀬くんの特訓やってるって聞いたから差し入れもってきたよ!」
ガラッと教室の引き戸が突然開けられ、ビニール袋を提げた半崎先輩と三浦先輩が騒がしく入ってくる。
その途端に八馬先輩は僕からサッと手を放してしまい、吐息を感じるかと思うほど近かった距離はあっという間に離れていく。
あんなに甘く無防備にすら見えた八馬先輩の表情は、すっかりいつもの気だるげでアンニュイなそれになっていて、それはそれで色気があるけどなんだか寂しかった。まるであっという間にバリアを張られた気さえする。
もう少しだけ二人きりでいたかったな……とちょっとだけガッカリした自分に、え? なんで? と戸惑っていると、「はい、七瀬くん」と半崎先輩がパックのジュースを差し出してくる。
「どう? 頑張ってる?」
「はい。八馬先輩にバシバシ鍛えられてます」
「いいねー。もうきっと合格間違いなし……ん? なにそれ。必勝法とか書かれてるの?」
「あ! それは……!」
手許にあったメモを覗き込まれたかと思うとあっという間に半崎先輩に取り上げられてしまい、その上先輩は読み上げながら反訳を始める。
やっぱりメモは僕の知らない略式記号が使われていたみたいなんだけれど、いまそれをこういう形で知ってしまっていいのだろうか。
「えーっと? 『お』『れ』? 君……かな、これ? えーっと『また あ――』って、わあ!」
読み上げていく半崎先輩から、さらに八馬先輩がものすごい勢いで――普段の気だるそうな雰囲気からは想像もできないほどの速さで――メモを奪い返し、くしゃりと握りつぶす。そして、僕らの方をぎろりとにらみ付けてきた。その形相がぞくりとするほど怖い。
「えっと……八馬くんが、それ、書いたの? ごめん、見ちゃって……でも、中身は全然わからな――」
「――――ふざけんな」
半崎先輩がおろおろとフォローを入れようとするも、それを打ち消すかのように八馬先輩の低い声が響き、先輩は苛立たし気に教室を出て行ってしまった。弁明なんてひと言も許さないと言いたげな空気に、残された僕も半崎先輩たちも黙り込むしかない。
元はと言えば、僕が迂闊にあのメモをこんなところで取りだして見ていたりするのがいけなかったのかもしれない。でも、まさか読み上げられるなんて思いもしなかったから……。
何より、八馬先輩はあのメモに何が書かれているかを、そんなにも知られたくなかったなんて思いもしなかったのも事実だ。
迂闊な行動にもほどがある――そう今更悔やんだところで、遅い。
どうしよう。もう、先輩の気持ちがなんて書かれていたのかわからないんだろうか――絶望にも似た気持ちに覆われて、目の前が暗くなっていく。
憧れが先走って弟子にしてくれなんて言った僕に対する気持ちとして、あのメモをもらったのに。僕はまだひと言も自力で解読も出来ていないし、ましてやそれに対して答えも出していない。それ以前に、八馬先輩に拒絶されてしまったのではないだろうか。
拒絶、という言葉に僕の胸が抉られるように痛む。
この痛みは、ただ憧れの人から背を向けられたと言うだけのものにしては生々しすぎる。あまりに痛くて、傷の塞ぎようがない。
(なんでこんな、先輩に背を向けられるのが苦しいんだろう――こんなのまるで、好きみたいじゃ……)
好き、という言葉が脳裏に過ぎって、僕はハッと息を飲む。
最初にカッコ良さ惹かれて憧れだと思っていたけれど、頭撫でられて嬉しいとか、アイス食べながら一緒に歩いてデート観たいって思ってドキドキ啜るとか……
「そんなのもう、恋じゃんか……もう、先輩には振り返ってもらえないの決まってるのに」
自分で自分が呟いた言葉に、一層絶望が濃くなっていく。気付いた瞬間終わってる恋とか、最悪すぎて悲しすぎる。
無意識に恋をして、少しずつ八馬先輩と速記を通じてなら話が出来て、褒められたりもして仲良くなれたかなと思っていたのに……僕の迂闊さでそれがすべてダメになってしまったかもしれない。
もう恋も憧れも全部おしまいだ――そんな感情に頭からすっぽりと包まれてしまった僕は、その場にへたり込んでしまっていた。



