入部してひと月近くが経ち、僕は何とかいろは歌を突っかかることなく書けるようになってきた。先輩たちがこれをウォーミングアップ的なものだと言っていたのは、これ聞き取りの前にしておくとなんとなくペンの滑りがいい気がするのもあるのかもしれない。
「五十音といろは歌を覚えたら、簡単な略式記号を覚えようか」
大型連休前の最後の練習日のある日、八馬先輩からそんな提案をされた。略式記号とは速記文字をさらに省略して書く記号のことだ。例えば初めて見た時の『それでは』が水平に引かれた線であったように、『まず、はじめに』など、速記の聞き取りの際によく使われる言葉には略式記号があるんだそうだ。
「法則とかないんですか……」
「あるのかもしれないけど、俺はそうするより先に覚えちゃうかな」
発想が天才のそれで何も言い返せない……。何なんだこの人。速記に関して天才過ぎる。
八馬先輩は部内で唯一の速記検定三級保持者らしいいんだけれど、それってどれくらいのレベルなんだろうか。先輩のノートは速記で書いてるとも言っていたけれど。
「三級のレベルがどれくらいなんですか?」
「テレビのアナウンサーがどれくらいの速さで話しているかを例にすればわかる? 一説によると、分速で300~320文字くらい。普通の会話になるともっと速い。これが一級くらいで、検定だと10分間読んだ文章を書き留めていく」
そう言いながら、先輩は三級用の読み上げテキストを見せてくれた。内容は僕がやっているのと違ってグッと硬めになってて、明らかに難しい。
「え、なにこれ……僕がいまやってるのと全然内容のレベルが違う……」
「三級くらいになると時事問題とかもより扱うようになるからね」
「す、すごい……先輩これ全部頭に入ってるってことですよね……ふぇ~……」
「っはは、まあ、そうなるかな」
あまりのレベルの差にポカンとしていたら、八馬先輩からクスクス笑われてしまった。
さすがに子どもっぽかっただろうかと恥ずかしくなってテキストから手を放してうつむいていると、ふわっと何かが頭を触れてきた。
そっと窺うとそれは先輩の手で、僕を撫でているのがわかった。でも、なんで?
「え、あの、先輩……?」
八馬先輩はただニコニコと優しい顔をして僕の頭を撫でまわしていて、なんと言うか子犬とか愛でてる感じなんだ。
このままではまたかわいい系扱いされてしまう! と、ぐぬぬと思うものの、撫でられているのが気持ち良くて仕方ない。それに何だか近くにいるからか、あの電車の時みたいないいにおいするし。
でも特に今は気の利いたことを言っていないのにな……と思っていると、八馬先輩は手近にあったメモ紙にサラッと何かを書いていく。やっぱり速記文字だ。
「え? 『か』……これはえーっと『や』? このはねてるのは『い』のなんだ?」
たった数文字なのに、やっぱり僕には読み解けない。うんうん唸りながらメモ書きを見つめていると、さらに先輩は僕の頭をわしゃわしゃと撫でてくる。撫でられてくしゃくしゃな前髪の隙間から覗く先輩の顔は、いつもの気だるさはそのままなんだけれど、どこかちょっとだけ口元が緩んで嬉しそうにも見える。
そうしている間にも先輩はまた何かを綴り、ひょいと寄越してくる。やっぱり僕は読み解けない。
頭を抱えてうんうん唸っている僕の様子を見て、八馬先輩はまた違った文字を綴ってよこしてくる。次から次に、一言二言だけ綴って寄越してくるのがなんだか先輩は楽しそうだ。
「もう、何なんですかさっきから! 僕読めないんですけど!」
とは言えやっぱり先輩のメモ書きは読み解けないので、ここは三浦先輩たちに聞いてみた方がいいだろうか。
軽くパニックになっている僕の様子を楽しんでいるのか、八馬先輩は頬杖をついた姿勢で僕のことをジッと見ている。いつもアンニュイで気だるげなのに、色気のあるあの瞳で。
憧れているその目でそんなに見つめられてしまうと、どうにも落ち着かないんだけれど……
と、内心おろおろしていると、ちょうどそこへ三浦先輩が教室に入って来た。ちょうどいいので、メモの意味を聞いてみようと思う。
「三浦先輩、ちょっとこれいいですか?」
「んー? なぁに、七瀬くん」
「えっとこれなんですけど……あ、八馬先輩!」
メモを手に三浦先輩の方に行こうとしたのに、八馬先輩がささっとメモを取り上げてしまったのだ。そしてふいっと僕から手を放し、わしゃわしゃも終わってしまった。
「どうしたの、七瀬くん。髪すっごいぼさぼさだけど」
「えっとこれは八馬先輩が……」
そう僕が事情を説明しようとしたら、八馬先輩の方から視線を感じる。それもかなり強い意思のこもった眼差しだ。
恐る恐る振り返ると、八馬先輩が何やらまたメモを差し出している。もちろん速記文字付きで。
しかしそれは三浦先輩が取り上げてしまい、読み上げられる。
「えー、なぁに? 『いうな』? 七瀬くん何かしたの?」
「え、いや、その……三級がどれくらいすごいのか聞いてたんですけど……」
僕がしどろもどろにそう答えると三浦先輩は納得したのか、「わかる、すごいよねー」と話が変わり始めた。
すると八馬先輩は気が済んだのかもうこちらを見てこなくなって、ふいッと離れてひとりスマホの音声データを聞きながら自主練を始めている。先輩の指導をしてくれる人はいないので、必然的にそういう練習になるらしいのだ。
黙々と次々と速記していく八馬先輩の横顔は、アンニュイさがありつつも鋭くて真剣な空気もはらんでいて、なんだかすごくドキドキするのはなんでなんだろう。
(先輩と、速記以外のことも話したりしてみたいな。速記じゃない方法でもたくさん喋ってみたい)
でも八馬先輩は、基本すごく無口だ。無口と言うか、速記に関すること以外になるとほぼ口をつぐんでしまう。口を聞かないわけじゃないけど、必要最低限しか話をしてくれないんだ。
「八馬先輩! 今日帰りコンビニ寄りましょうよ!」
「なんで」
「今日暑いからアイス食べましょうよ! 先輩の奢りで!」
「断る」
部活終わりにこうやって三浦先輩とかが誘っても、五文字以上で話してくれたためしがない。本当に速記文字以外で会話が成立していないんだ。三浦先輩も半崎先輩も色々聞いてみてるんだけれど、大体いつも「いや」「べつに」「ふーん」くらいしか返ってこない。
初めて会ったあの日、電車の中で話しかけてくれたのはビギナーズラックだったと言うのだろうか? それとも幻?
「せめて何か話が出来たらいいんだけど……先輩速記文字でしか話してくれないし、買い食いとかもしないみたいだし……」
奢られたいかどうかの話は抜きにして、世間話でもしながら親交を深めてもう一度弟子入りトライを……と思ったんだけれど、なかなかそうもいかなそう。コンビニ誘っても無理ならどうしようもなくない?
そう肩を落としながら学年玄関の所で靴を履き替えていると、とんとんと誰かが肩を叩いてくる。
誰だろうかと振り返ると、驚いたことに八馬先輩が立っていたのだ。
「八馬先輩? どうしたんですか?」
「ん」
「へ? あ、メモ……えーっと……『あ』?『い』? ……えーっと『す』? 『ど』? 『う』? アイス? アイスがどうかしたんですか?」
さっき三浦先輩に誘われて断わってたはずなのにな? と思いながら口頭で尋ね返すと、突然先輩は僕の手を取って歩き始める。
「せ、先輩!? どこ行くんですか!?」
校内はもうほとんど誰も残っていないのか、僕が八馬先輩と手を繋ぐようにして歩いていても見られないのがちょっとホッとする。だってこんなカッコいい先輩にヘンな噂立っちゃったら申し訳ないもの。
一緒にいるだけで、ヘンな噂……それが僕なんだと思うと、なんだか胸が痛む。申し訳ないのもあるけど、なんか、悲しい気持ちも浮かんだ。
でもなんでそんな悲しいなんて――と考えている内に、先輩は学校のすぐ前のコンビニに着いていた。
「ん」
コンビニに入って八馬先輩はまっすぐアイスの所に行き、がさがさと中を漁っていたかと思ったら、青いソーダ味のアイスを一本突き出してくる。その様はなんか某国民的アニメの雨の日に傘を差し出す小学生男子みたいだ。
あの子は好きな子に照れ隠しって感じだったけど……先輩のは違うのだろうか?
「え? あ、これにしろってことですか?」
じゃあ、お会計を……と僕が財布を取りだそうとすると、先輩がスマホでピピっと払ってしまった。キャッシュレス決済ならポイントとか付くからなんだろうか?
だから店から出て、僕は慌てて「先輩、お金を……」と言っていたら、先輩は僕の分のアイスを「ん」と差し出しながら首を振る。
「え、いいんですか? お、奢り……?」
おずおずと僕が確認すると、八馬先輩はこくんとうなずいてくれた。
三浦先輩とは頑なに行かないって感じだったのに……なんで僕とは来てくれたんだろう?
一先ず奢ってもらったアイスの封を開け、僕はそっとひんやりとした空気を放つ青いそれにかぶりつく。シュワッとした爽やかな冷たさが口いっぱいに広がり、それはたちまち体中を満たしていく。
「っはぁ、うまぁ……八馬先輩、ありがとうございます。美味しいです」
このところ暑くなってきていたから、こういうアイスがすごく美味しく感じられる。だからつい頬が緩んでしまい、へらりと笑ってしまう。
先輩も同じように並んでアイスをかじり、黙々と食べている。そして時々、僕の方をジッと見てくる。
「美味い?」
「あ、はい。美味しいです」
「ごほうび」
「へ? ご褒美……え、あ、ああ、アイスがですか?」
「そう」
「あ、ありがとうござい、ます……あの、でもなんで……」
「頑張ってるから」
「へ? 頑張ってる……? あの、僕が、ですか?」
尋ねると先輩はこくんとうなずき、それからゆっくりと歩き始めた。てっきりコンビニ前で食べてしまうかと思ったけれど、べつに先輩とお喋りをする感じではないと言えばないので、歩きながらでもいいんだろう。
頑張ってるなんて、初めてちゃんと八馬先輩から言われた気がする。いろは歌が書けるようになったのが早いねとか、反訳がどれくらい出来たねとか、そういうのはたまに言われてたけど……でもこういうのは初めてだ。
(なんかこういうの、結構……ううん、かなり嬉しい。憧れてる先輩から頑張ってるって言われるの、認めてもらえたみたいで、すごく嬉しい)
アイスが何倍も美味しく感じられるくらいに、嬉しくて頬がにやけてしまう。でもこれって、単純に褒められて嬉しいからというだけなんだろうか。
もちろん嬉しい気持ちはある。でもそれとは別に、アイスみたいにほのかに甘いものを感じるんだ。
(アイス食べてるから? でも口から感じるのとは違う気がする……なんだろう)
シャクシャクとアイスをかじる音が、僕と先輩を繋ぐように漂っている。周りは駅前通りのかなり音がしているはずなのに、それだけがはっきりと聞こえていた。
歩いている間も、先輩は特に何も話しかけてはこない。でもだからと言って僕を置いてさっさと歩いて行ってしまうことはなく、まるで歩調を合わせるように隣を歩いてくれる。
なんか、デートしてるみたい――そんなことを考えたら突然すごく恥ずかしくなって体がかぁッと熱くなって、僕は慌ててアイスを食べきってしまった。
「ああ、着いたか」
「へ? あ、駅……」
食べきったところでちょうど駅に着き、偶然なのか僕は駅まで先輩と一緒に帰っていた。
夕暮れの駅前は人が多く、あっという間に飲まれそうなほどなのに、ぼくと先輩が見つめ合っている所だけが切り取られたように静かだ。
だからなのか、なんとなく見つめ合う形になっていて、随分とそうしていた気がする。
すると不意に先輩がくすっと笑い、「帰んないの?」と聞いてきた。
「あ、か、帰ります! えっと、アイスご馳走様でした! お疲れ様です!!」
「うん、じゃあね」
そう言って、先輩はまた僕の頭をぽんぽんと撫でて、駅の中へ入って行く。ひらひらとアイスの棒を持った手を振りながら、あっという間に見えなくなってしまった。
見えなくなってしまった背中を、僕はしばらくぼうっと眺めていた気がする。そうしてそっと、撫でられたところに触れてみる。
撫でられたところが、じんわりとあたたかい気がするのはどうしてだろう。アイスを急いで食べてしまったけど、もうちょっとゆっくり食べてたら、もしかしたら先輩は待っててくれたんだろうか。
「そんな、まさかね……」
そう声に出して呟いてみて打ち消そうとしても、なんとなくまだ心臓が騒がしい。部活の時に間近で指導してもらってる時よりも、ずっと心臓がうるさいし存在を主張してくる。
「な、何なんだろう、これ……」
棒だけになってしまったアイスのそれをぎゅっと握りしめたまま、僕はまだ帰りの電車に乗れずに佇んでいた。
「五十音といろは歌を覚えたら、簡単な略式記号を覚えようか」
大型連休前の最後の練習日のある日、八馬先輩からそんな提案をされた。略式記号とは速記文字をさらに省略して書く記号のことだ。例えば初めて見た時の『それでは』が水平に引かれた線であったように、『まず、はじめに』など、速記の聞き取りの際によく使われる言葉には略式記号があるんだそうだ。
「法則とかないんですか……」
「あるのかもしれないけど、俺はそうするより先に覚えちゃうかな」
発想が天才のそれで何も言い返せない……。何なんだこの人。速記に関して天才過ぎる。
八馬先輩は部内で唯一の速記検定三級保持者らしいいんだけれど、それってどれくらいのレベルなんだろうか。先輩のノートは速記で書いてるとも言っていたけれど。
「三級のレベルがどれくらいなんですか?」
「テレビのアナウンサーがどれくらいの速さで話しているかを例にすればわかる? 一説によると、分速で300~320文字くらい。普通の会話になるともっと速い。これが一級くらいで、検定だと10分間読んだ文章を書き留めていく」
そう言いながら、先輩は三級用の読み上げテキストを見せてくれた。内容は僕がやっているのと違ってグッと硬めになってて、明らかに難しい。
「え、なにこれ……僕がいまやってるのと全然内容のレベルが違う……」
「三級くらいになると時事問題とかもより扱うようになるからね」
「す、すごい……先輩これ全部頭に入ってるってことですよね……ふぇ~……」
「っはは、まあ、そうなるかな」
あまりのレベルの差にポカンとしていたら、八馬先輩からクスクス笑われてしまった。
さすがに子どもっぽかっただろうかと恥ずかしくなってテキストから手を放してうつむいていると、ふわっと何かが頭を触れてきた。
そっと窺うとそれは先輩の手で、僕を撫でているのがわかった。でも、なんで?
「え、あの、先輩……?」
八馬先輩はただニコニコと優しい顔をして僕の頭を撫でまわしていて、なんと言うか子犬とか愛でてる感じなんだ。
このままではまたかわいい系扱いされてしまう! と、ぐぬぬと思うものの、撫でられているのが気持ち良くて仕方ない。それに何だか近くにいるからか、あの電車の時みたいないいにおいするし。
でも特に今は気の利いたことを言っていないのにな……と思っていると、八馬先輩は手近にあったメモ紙にサラッと何かを書いていく。やっぱり速記文字だ。
「え? 『か』……これはえーっと『や』? このはねてるのは『い』のなんだ?」
たった数文字なのに、やっぱり僕には読み解けない。うんうん唸りながらメモ書きを見つめていると、さらに先輩は僕の頭をわしゃわしゃと撫でてくる。撫でられてくしゃくしゃな前髪の隙間から覗く先輩の顔は、いつもの気だるさはそのままなんだけれど、どこかちょっとだけ口元が緩んで嬉しそうにも見える。
そうしている間にも先輩はまた何かを綴り、ひょいと寄越してくる。やっぱり僕は読み解けない。
頭を抱えてうんうん唸っている僕の様子を見て、八馬先輩はまた違った文字を綴ってよこしてくる。次から次に、一言二言だけ綴って寄越してくるのがなんだか先輩は楽しそうだ。
「もう、何なんですかさっきから! 僕読めないんですけど!」
とは言えやっぱり先輩のメモ書きは読み解けないので、ここは三浦先輩たちに聞いてみた方がいいだろうか。
軽くパニックになっている僕の様子を楽しんでいるのか、八馬先輩は頬杖をついた姿勢で僕のことをジッと見ている。いつもアンニュイで気だるげなのに、色気のあるあの瞳で。
憧れているその目でそんなに見つめられてしまうと、どうにも落ち着かないんだけれど……
と、内心おろおろしていると、ちょうどそこへ三浦先輩が教室に入って来た。ちょうどいいので、メモの意味を聞いてみようと思う。
「三浦先輩、ちょっとこれいいですか?」
「んー? なぁに、七瀬くん」
「えっとこれなんですけど……あ、八馬先輩!」
メモを手に三浦先輩の方に行こうとしたのに、八馬先輩がささっとメモを取り上げてしまったのだ。そしてふいっと僕から手を放し、わしゃわしゃも終わってしまった。
「どうしたの、七瀬くん。髪すっごいぼさぼさだけど」
「えっとこれは八馬先輩が……」
そう僕が事情を説明しようとしたら、八馬先輩の方から視線を感じる。それもかなり強い意思のこもった眼差しだ。
恐る恐る振り返ると、八馬先輩が何やらまたメモを差し出している。もちろん速記文字付きで。
しかしそれは三浦先輩が取り上げてしまい、読み上げられる。
「えー、なぁに? 『いうな』? 七瀬くん何かしたの?」
「え、いや、その……三級がどれくらいすごいのか聞いてたんですけど……」
僕がしどろもどろにそう答えると三浦先輩は納得したのか、「わかる、すごいよねー」と話が変わり始めた。
すると八馬先輩は気が済んだのかもうこちらを見てこなくなって、ふいッと離れてひとりスマホの音声データを聞きながら自主練を始めている。先輩の指導をしてくれる人はいないので、必然的にそういう練習になるらしいのだ。
黙々と次々と速記していく八馬先輩の横顔は、アンニュイさがありつつも鋭くて真剣な空気もはらんでいて、なんだかすごくドキドキするのはなんでなんだろう。
(先輩と、速記以外のことも話したりしてみたいな。速記じゃない方法でもたくさん喋ってみたい)
でも八馬先輩は、基本すごく無口だ。無口と言うか、速記に関すること以外になるとほぼ口をつぐんでしまう。口を聞かないわけじゃないけど、必要最低限しか話をしてくれないんだ。
「八馬先輩! 今日帰りコンビニ寄りましょうよ!」
「なんで」
「今日暑いからアイス食べましょうよ! 先輩の奢りで!」
「断る」
部活終わりにこうやって三浦先輩とかが誘っても、五文字以上で話してくれたためしがない。本当に速記文字以外で会話が成立していないんだ。三浦先輩も半崎先輩も色々聞いてみてるんだけれど、大体いつも「いや」「べつに」「ふーん」くらいしか返ってこない。
初めて会ったあの日、電車の中で話しかけてくれたのはビギナーズラックだったと言うのだろうか? それとも幻?
「せめて何か話が出来たらいいんだけど……先輩速記文字でしか話してくれないし、買い食いとかもしないみたいだし……」
奢られたいかどうかの話は抜きにして、世間話でもしながら親交を深めてもう一度弟子入りトライを……と思ったんだけれど、なかなかそうもいかなそう。コンビニ誘っても無理ならどうしようもなくない?
そう肩を落としながら学年玄関の所で靴を履き替えていると、とんとんと誰かが肩を叩いてくる。
誰だろうかと振り返ると、驚いたことに八馬先輩が立っていたのだ。
「八馬先輩? どうしたんですか?」
「ん」
「へ? あ、メモ……えーっと……『あ』?『い』? ……えーっと『す』? 『ど』? 『う』? アイス? アイスがどうかしたんですか?」
さっき三浦先輩に誘われて断わってたはずなのにな? と思いながら口頭で尋ね返すと、突然先輩は僕の手を取って歩き始める。
「せ、先輩!? どこ行くんですか!?」
校内はもうほとんど誰も残っていないのか、僕が八馬先輩と手を繋ぐようにして歩いていても見られないのがちょっとホッとする。だってこんなカッコいい先輩にヘンな噂立っちゃったら申し訳ないもの。
一緒にいるだけで、ヘンな噂……それが僕なんだと思うと、なんだか胸が痛む。申し訳ないのもあるけど、なんか、悲しい気持ちも浮かんだ。
でもなんでそんな悲しいなんて――と考えている内に、先輩は学校のすぐ前のコンビニに着いていた。
「ん」
コンビニに入って八馬先輩はまっすぐアイスの所に行き、がさがさと中を漁っていたかと思ったら、青いソーダ味のアイスを一本突き出してくる。その様はなんか某国民的アニメの雨の日に傘を差し出す小学生男子みたいだ。
あの子は好きな子に照れ隠しって感じだったけど……先輩のは違うのだろうか?
「え? あ、これにしろってことですか?」
じゃあ、お会計を……と僕が財布を取りだそうとすると、先輩がスマホでピピっと払ってしまった。キャッシュレス決済ならポイントとか付くからなんだろうか?
だから店から出て、僕は慌てて「先輩、お金を……」と言っていたら、先輩は僕の分のアイスを「ん」と差し出しながら首を振る。
「え、いいんですか? お、奢り……?」
おずおずと僕が確認すると、八馬先輩はこくんとうなずいてくれた。
三浦先輩とは頑なに行かないって感じだったのに……なんで僕とは来てくれたんだろう?
一先ず奢ってもらったアイスの封を開け、僕はそっとひんやりとした空気を放つ青いそれにかぶりつく。シュワッとした爽やかな冷たさが口いっぱいに広がり、それはたちまち体中を満たしていく。
「っはぁ、うまぁ……八馬先輩、ありがとうございます。美味しいです」
このところ暑くなってきていたから、こういうアイスがすごく美味しく感じられる。だからつい頬が緩んでしまい、へらりと笑ってしまう。
先輩も同じように並んでアイスをかじり、黙々と食べている。そして時々、僕の方をジッと見てくる。
「美味い?」
「あ、はい。美味しいです」
「ごほうび」
「へ? ご褒美……え、あ、ああ、アイスがですか?」
「そう」
「あ、ありがとうござい、ます……あの、でもなんで……」
「頑張ってるから」
「へ? 頑張ってる……? あの、僕が、ですか?」
尋ねると先輩はこくんとうなずき、それからゆっくりと歩き始めた。てっきりコンビニ前で食べてしまうかと思ったけれど、べつに先輩とお喋りをする感じではないと言えばないので、歩きながらでもいいんだろう。
頑張ってるなんて、初めてちゃんと八馬先輩から言われた気がする。いろは歌が書けるようになったのが早いねとか、反訳がどれくらい出来たねとか、そういうのはたまに言われてたけど……でもこういうのは初めてだ。
(なんかこういうの、結構……ううん、かなり嬉しい。憧れてる先輩から頑張ってるって言われるの、認めてもらえたみたいで、すごく嬉しい)
アイスが何倍も美味しく感じられるくらいに、嬉しくて頬がにやけてしまう。でもこれって、単純に褒められて嬉しいからというだけなんだろうか。
もちろん嬉しい気持ちはある。でもそれとは別に、アイスみたいにほのかに甘いものを感じるんだ。
(アイス食べてるから? でも口から感じるのとは違う気がする……なんだろう)
シャクシャクとアイスをかじる音が、僕と先輩を繋ぐように漂っている。周りは駅前通りのかなり音がしているはずなのに、それだけがはっきりと聞こえていた。
歩いている間も、先輩は特に何も話しかけてはこない。でもだからと言って僕を置いてさっさと歩いて行ってしまうことはなく、まるで歩調を合わせるように隣を歩いてくれる。
なんか、デートしてるみたい――そんなことを考えたら突然すごく恥ずかしくなって体がかぁッと熱くなって、僕は慌ててアイスを食べきってしまった。
「ああ、着いたか」
「へ? あ、駅……」
食べきったところでちょうど駅に着き、偶然なのか僕は駅まで先輩と一緒に帰っていた。
夕暮れの駅前は人が多く、あっという間に飲まれそうなほどなのに、ぼくと先輩が見つめ合っている所だけが切り取られたように静かだ。
だからなのか、なんとなく見つめ合う形になっていて、随分とそうしていた気がする。
すると不意に先輩がくすっと笑い、「帰んないの?」と聞いてきた。
「あ、か、帰ります! えっと、アイスご馳走様でした! お疲れ様です!!」
「うん、じゃあね」
そう言って、先輩はまた僕の頭をぽんぽんと撫でて、駅の中へ入って行く。ひらひらとアイスの棒を持った手を振りながら、あっという間に見えなくなってしまった。
見えなくなってしまった背中を、僕はしばらくぼうっと眺めていた気がする。そうしてそっと、撫でられたところに触れてみる。
撫でられたところが、じんわりとあたたかい気がするのはどうしてだろう。アイスを急いで食べてしまったけど、もうちょっとゆっくり食べてたら、もしかしたら先輩は待っててくれたんだろうか。
「そんな、まさかね……」
そう声に出して呟いてみて打ち消そうとしても、なんとなくまだ心臓が騒がしい。部活の時に間近で指導してもらってる時よりも、ずっと心臓がうるさいし存在を主張してくる。
「な、何なんだろう、これ……」
棒だけになってしまったアイスのそれをぎゅっと握りしめたまま、僕はまだ帰りの電車に乗れずに佇んでいた。



