ダウナー系な先輩の愛の言葉が難読速記文字な件

 速記部の活動は週に三日。月・水・金の放課後一時間半ほど活動している。場所は部長である八馬先輩のクラスを使用していて、僕の他に三年生の半崎先輩と、二年生の三浦先輩がいる二人とも女子だ。

「七瀬くん、そこのテキストから適当なページ開いて、半崎さんに渡して」

 速記の醍醐味は反訳にあるという話をこの前していたからか、入部して二日目の今日は八馬先輩がお手本を見せてくれるという。
 読む文章をランダムで決めて、それを速記で書きとって反訳したものの出来栄えを見てほしいというのだ。

「あ、はい……じゃあ、ここで」
「ではいきまーす。……『まず、はじめに、きょうは運動と習慣についてお話をします。みなさんは毎日運動をされていますか――』」

 半崎先輩が読み上げていく端から、八馬先輩は紙にペンを走らせていく。動きに全く無駄がなく、ペンが停まる様子もない。本当に読み上げのペースと全く同じ速さで書き留めているのだ。
 もっと言うと、この前の三浦先輩の読み上げよりも半崎先輩は速いスピードで読んでいる気がするのに、八馬先輩の手は遅れることも迷うこともない。文字通りすらすらと書き記されていく。
 読み上げは大体二分くらいで終わり、それから反訳の作業に入る。先輩は何か辞書みたいなものを引きながら、さっき書き記したものを訳している。

「できたよ。チェックして」
「チェックって、さっき読んだやつと見比べるんですか?」
「そう。一字一句間違っていないかチェックすんの。間違いが少ないほどいいとされているから」

 そう言っている内に反訳された文章のチェックが終わり、それを先輩方が見せてくれた。読み上げられた文章と、八馬先輩が書き留めて反訳した文章。見た感じ数カ所しかミスがなく、ほぼ完ぺきと言える状態だった。

「す、すごい……本当にリアタイで言葉を書き留めてる……! 一言一句書き洩れてない!」

 速記文字での書き取りもさることながら、反訳もほぼ完ぺき。これぞ速記だというものを見せつけられて、僕は思わず拍手をしてしまう。

「八馬くんくらいになると、授業中の板書とかも速記文字なんだよ~」
「え!? そうなんですか!? ノート見たいです!」

 半崎先輩の言葉に僕が食いついてせがんでは見たものの、八馬先輩がノートを見せてくれる気配はない。ふいっと横を向いてさらさらっと何かを紙に書き、差し出してくる。案の定それはまたしても速記文字だ。先輩は顔を反らしている。
 書かれているのは小さな斜めの線に釣り針みたいな曲線がくっついていて、さらに先には短い曲線と先端に小さなマル。たった数文字の言葉みたいだけれど、なんて書いてあるんだろう?

「えっとこれは……これが『い』? こっちは……『や』かな? じゃあこれは……『た』にマルで……?」

 習いたての五十音だけで書かれていることはなんとかわかって読み解いてみたけれど、意味がつながらない。一体なんて書かれているんだろう……と、僕が首をひねっていると、それを覗き込んできた半崎先輩が「もー、八馬くん!」と、突然声を上げる。

「そうやって言いにくいことを速記文字にしないの! 速記初心者に速記文字で返すなんて意地悪過ぎる!」
「え、これ意地悪なんですか?」
「意地悪っていうか、八馬くんはコミュニケーションとるの面倒がっていつも速記文字で返してくるの!さっきまで指導はちゃんと喋ってたんだから、いまも喋ったらいいのに!」

 するとまた八馬先輩はさらさらとまた何かを書き出し、ひらっとこちらに差し出してくる。さっきのよりも長い言葉だけれど、またしても半崎先輩が呆れている。

「『個人情報だから』じゃないの! 折角の後輩なんだから見本にノート見せてあげればって話なだけじゃん!」
「あ、あの、また『いやだ』って来ましたけど……」
「八馬くん!」

 怒られているはずなのに、八馬先輩は特に意に介する様子もノートを見せてくれる様子もなく、机に突っ伏して寝始めてしまった。起きているのかもしれないけれど、話を聞かないぞって態度を取られるとこちらも何も言えない。
 結局八馬先輩が応じる気配がないので半崎先輩はあきらめ、三浦先輩の指導を始める。さっきよりも遅いスピードの読み上げを聞きながら、僕は僕で五十音やそこから派生する『いろは歌』の練習をすることにした。『いろは歌』は速記を始める時のウォーミングアップみたいなものになるらしい。

「そこのマルをもう少し小さくしないと、反訳の時読み間違えるよ」
「へ……? あ、はい……」

 夢中になって速記文字を綴っている僕の前に、いつの間にか八馬先輩がしゃがみ込んでこちらを見上げている。そうして指示してくる指は長くてきれいで、道しるべみたいだ。
 まさか話しかけられるなんて思っていなかったから、なんだかすごく緊張する……でも、また声が聞けて嬉しい。
 机に向かっている姿勢を取っているせい先輩との距離がやけに近く、視界いっぱいが先輩の姿だ。ち、近い……! と、顔を逸らすことも出来ず、おずおずとうなずいてまたペン先に視線を戻す。そうして速記に夢中になっているふりをしていたけれど、心臓はやけに騒がしい。

「もう五十音覚えて『いろは歌』? なかなかやるね」

 えらいえらいと言いながら、先輩は不意に僕の頭を撫でてくる。わしゃわしゃと大きな手で撫でまわされて、心臓が跳ねるかと思った。憧れている人が間近にいるからかなと思ったけれど、それにしても心臓が騒がしくてうるさい。
 もしかして僕のリアクション面白がってからかってるのかな……そんな気さえしてくるくらいに、不意打ちで先輩が接近してくるもんだから、どうリアクションするのが正解なのかわからない。わからないけれど、いやじゃないのは確かだ。
 だから僕は先輩の気が済むまで、ただひたすらに頭を撫でられながら震えそうな手でいろは歌を書き綴っていた。