ダウナー系な先輩の愛の言葉が難読速記文字な件

 八馬先輩に連れられて行ったのは一階にある三年六組の教室だった。先輩のクラスだ。
 教室の中に入ると既に二人いて、一人が紙に向かって何かを書き留めていて、もう一人が何かカンペみたいなものを読み上げている。

「『それでは、まずはじめにコーヒーと健康の問題についてお話します。コーヒーとは皆さんよくご存じの――』」

 青の三年生のネクタイの女子生徒が読み上げた文章を、緑のネクタイの二年生の女子がものすごい速さで書き留めていく。
 三年の先輩の読み上げ方がなんだか独特で、クセがあるようなないような、平坦で淡々とした口調で読み進めていく。なんかこの感じ、どこかで聞いたことがあるような気がする。

「八馬先輩、いまあの人たち何やってるんですか?」

 読み上げている声の邪魔にならないように思わずそっと先輩に囁くように聞くと、「ああ、練習だよ」とぽそっと答えてくれた。

「いま文章読んでいる子が話者で、その人の言葉を書き留めているのが速記」
「なんかめっちゃ速い……」
「まあ、速記だからね」

 それはそうなんだろうけど、まだよくわからない。腑に落ちない、という顔を僕はしていたんだろう。先輩はくすっと苦笑して、「まあ、いまから説明するから」と言う。
 その内に練習をしていたらしい二人の先輩方の読み上げが終わり、書き留めていた先輩が何かをまた書き始める。先輩はうーんと頭を抱えたり、書き留めたものを何回も見直したりして、悩んでいる感じだ。

「あれ、何してるんですか?」
「反訳。速記文字を日本語に訳す作業」

 それならさっき話していたことを書けばいいのでは? と思うんだけれど、何をそんなに考え込むんだろうか。コーヒーと健康の問題だったっけ。
 それなら僕でもわかりそうなんだけどな、なんて思っている内にどこからかアラームが鳴り、読み上げていた先輩が停める。

「はい、おしまーい。三浦ちゃん回収~」

 三浦先輩は読み上げをしていた先輩に反訳というのをしていたらしい用紙を取り上げられ、なんだか悔しげな顔をしている。まるでスポーツの試合の結果に悔しがっている選手みたいだ。

「ああ、半崎さんそれ貸して。今日入部した子に解説したいから」

 そう、八馬先輩が用紙を受け取り、僕を手招きして手近な机に座らせる。隣り合った席の真ん中にはさっきの訳が分からないけど何等かに身があるという速記文字、そしてその下には日本語が綴られている。

「ここに書かれているのが速記文字で、その上に書かれてるのが反訳された文字。速記で大事なのはこの反訳された文字の方。この正解率を競うのが速記競技」
「競技!? スポーツなんですか?」
「技を競い合う場合も競技って言うの」
「こ、この真っ直ぐな線で文字??」
「これだけで『それでは』って意味になんの。そういうルールがあるから正確に速く記録できる」
「……だから、『速記』?」

 おずおずと思ったことを疑問形で答えると、八馬先輩はパッと顔を輝かせ僕の手を取り、「そう! その通り!」と大袈裟なくらいに驚き喜んでいる。
 ちょっと気だるげに話していたのが、たった一言で嘘みたいにテンション上がって、僕の手まで握ってしまうなんて……よっぽど先輩は速記が好きなんだろうか。

「そう、そうなんだよ七瀬くん! こう言った記号を使うことによって、『ゆっくり書いても速く記せてしまう』のが『速記』なんだ」

 それから八馬先輩は、さっきまでのダウナーな感じから一転、別人のように活き活きした様子で速記について語り始めた。

「速記って言うのは、元は英語から派生してるんだけど、日本語の速記は五十音のひらがなカタカナを簡略化させて書いた記号のようなもので、それらを組み合わせて単語が出来上がると言うことで――」

 夢中で速記の話をしている先輩は。ふと視線を手元に戻して急に真っ赤になった。どうやら僕の手を握っていることを忘れていたらしく、慌てて手をほどく。

「……わ、悪い」

 そうごにょごにょと言いながら顔を逸らす先輩の横顔を盗み見る。長い前髪の隙間から覗くきりっとして切れ長の目に長い睫毛。僕の大きいだけの目元とは違う大人の色気を感じる。そして何より、少しちょっと照れているのか、赤くなっている所もアンニュイさとのギャップがなんか惹かれてしまう。

(さっきまであんなにアンニュイだったのに、速記のことになると夢中になっちゃうんだな……)

 僕のことをアツいとか言って笑ってたけれど、先輩だってなかなかなんじゃないだろうか。思いがけない小さな共通点を見つけられた気がして、少し嬉しくなる。

「ねえ、八馬先輩。その子入るんですかぁ?」

 僕が八馬先輩に速記のレクチャーを受けていると、後ろでそわそわとこちらを窺っていた三浦先輩たちがたまりかねたように尋ねてくる。
 八馬先輩はさっきの三浦先輩の反訳した紙をチェックしつつ、こくりとうなずくだけだ。
 それだけで通じるんだろうか? 僕からも何か一言言った方がいいかな? なんて考えていると、三浦先輩たちは手を取り合ってきゃあきゃあ言い始めた。

「やったー! 今年は入らなかったら潰れるとこだったのー!」

 ありがとねーと嬉しそうに僕をハグしてこようとする先輩方を、八馬先輩がサッと盾になるようにしてかわし、代わりに三浦先輩に何かを書いてさっきの紙を差し出す。

「え? 『セクハラ禁止』? ハグはセクハラじゃないですよぉ! 挨拶です!」

 三浦先輩はそう言って僕に歓迎のハグをしようとして来ようとしたけれど、八馬先輩が僕を背に隠すようにしたままで阻まれている。そうしてまた、八馬先輩は何かを書きつけて三浦先輩に渡す。なんで八馬先輩は途端に喋らなくなっちゃったんだろう?

「え、また? 『本人の同意がなければセクハラ』……ぐぬぬぬ……それはたしかにそうだけどぉ……」
「あ、あの……なんで八馬先輩喋らないんですか?」
「八馬先輩は、基本速記文字でしかコミュニケーション取らないの」
「え、ええ!?」

 どうやら八馬先輩は速記に関すること以外のやり取りは基本速記文字らしい。そんな無茶苦茶なことが通用するのかと思うのだけれど、三浦先輩も半崎先輩も八馬先輩からのメモを見て呆れて苦笑している。

(でも、先輩たちは嫌がっている風じゃないのがなんか面白い……。僕も、あんな風に先輩と速記文字でやり取りできるようになれたら、あのメモを読み解けるようになるかな?)

 そしたらアンニュイながらもカッコいい雰囲気に慣れたりするのかも? そんな淡い期待をしながら、僕は速記部への入部を決めた。