さて、どうしよう。
ひさしぶりに上がり込んだ幼馴染みの部屋で、慎吾は悩んでいた。空気をこれ以上悪くしたくなかったので、やけくそで笑顔を張り付けてはいるが、だがしかし。
「慎吾ー、腹減った」
のんきすぎる催促に、とりあえずへらりとした声を出す。台所に立っているので、顔は見えていないはずだ。うん、大丈夫、誤魔化せる。
「あー、うん。うどん茹でてるだけだから。ちょっと待って」
前回補充した冷凍うどんは、手付かずの状態で冷凍庫に眠っていた。その他の食材もしかりである。こいつ、この一週間、なに食って生きてたんだ。
浮かんだ疑念は、ごみ箱にあった割り箸やらなんやらで判明した。インスタントばっかりじゃねぇか。
「早くしないと、俺、マジで寝るかも。めちゃくちゃ眠い」
その台詞を最後に、ぼすっとベッドに倒れ込んだらしい音がした。なんでだ。本気でよくわからなくなって、首を捻る。
いったい、どうして、真白はこんなにもけろりとしているのだろう。
――いや、だからって、ギスギスしたかったわけじゃないんだけどさぁ。
ただ、その、なんというか。良くも悪くも、なにかしらの進展があるんじゃないのかな、なんて。ひっそりと目論んでいた当てが外れたというか、なんというか。
……やっぱり、虫の居所が悪かっただけだったのかな、あれ。
よくわかんねぇ生き物だな、と思いながら、慎吾はテーブルにうどんを置いた。
冷凍うどんに、これまた冷凍してあった揚げを甘辛く煮ただけの、お手軽きつねうどんである。
「はい、どうぞ」
食欲が勝ったのか、ベッドからのっそりと真白が這い出てきた。うどんを前に、ほわと頬をゆるめる。
「あったかそう」
「うん。あったまると思うよ。外、寒かったもんね」
もそもそと小動物のように咀嚼している幼馴染みに、そっとほほえむ。自分がつくったものを真白が食べているところを見ることが、慎吾は好きだ。優しくしている気分になることができる。
「おいしい?」
「今度、鍋食いたい」
「好きだね、しろ」
そう言うと、箸の動きが止まった。あれ、なにか間違ったかな。一抹の不安を抱いたものの、真白はなにも言わなかった。なにごともなかったように、揚げをかじり始めている。
こいつの一口、小さいんだよな。だから、小動物っぽいのかな。なんてことを考えたまま、慎吾は呼びかけた。
「ねぇ、しろ」
「なんだよ」
怪訝そうに顔を上げた真白は、まったくもっていつもどおりだった。いつもどおり。
少し前までの情緒不安定さは、いったい、どこに捨てたんだ。そう思わなくもなかったが、見慣れた態度に安堵していることも事実だった。
結局、自分は、真白に変わらないでいてほしいのかもしれない。
その顔をまっすぐに見つめたまま、言う。
「ごめんね」
自分が謝るべきだという自覚はあったのだ。返事を待っていると、幼馴染みが箸を置いた。
「なにが?」
「いや、あの、なにがというか」
「なにがっていうか、どれ? 今日のことだったら、いいかげん適当に遊ぶのやめよ。俺というか、あっちが気の毒だよ、さすがに」
「そこ?」
予想と違う反応に、声のトーンが上がる。面倒なことに巻き込むな、と罵倒される覚悟はあったのだが、そちらは予想外だった。その慎吾の反応にだろう、真白が嫌そうに目を眇めた。
「おまえが遊びでも、あっちは違ったんだろ。だったら、駄目だろ」
「いや」
お互い遊びのつもりだったんだよ、と言い繕いかけた言葉を、寸前で呑み込む。いつからかはわからない。けれど、そうでなくなったことに気がついてはいたのだ。
応える気がなかったから、うやむやに終わらせようとしていただけで。
「わかってんだろ」
「うん、ごめん」
「謝る相手は、俺じゃないと思うけど」
「いや、でも。……その、しろにも迷惑かけたから」
言い募ると、渋々と真白が頷いた。
「わかった」
その返答にほっとしたのも束の間、「このあいだのは、だけど」と切り出されて、背筋が伸びる。
「悪ノリしすぎだ、バカ」
慎吾の緊張を知ってか知らずか、真白が口にした言葉はそれだけだった。
「え……、と。それ、だけ?」
思わず、慎吾は問い直した。それ以外になにがあるという顔で頷いた真白が、箸が取る。話は終わりということらしい。
うどんをすする音を聞きながら、なんだ、と慎吾は脱力した。
――なんだ。やっぱり、虫の居所が悪かっただけか、あれ。
じっと観察してみたものの、嘘を吐いているふうでも、誤魔化しているふうでもない。つまり、本当に慎吾の悪ふざけとしか思っていないのだ。
まぁ、べつにいいんだけど。言い聞かせる調子で思い切る。そう、べつにいいのだ。真白がいいのなら、それで。
安堵と罪悪感と、寂しさと苦しさ。混ざり合う感情に蓋をして、ごちそうさま、と手を合わせる幼馴染みに、慎吾は笑顔を向けた。
満足そうな顔を見ていると、自分の考えていることなど、どうでもいい気がしてくるから不思議だった。偽善なのかもしれない。なにをいまさら、と言われるのかもしれない。
でも、やっぱり、自分は、真白にのんきに笑っていてほしいのだ。
「眠い」
「小さい子じゃないんだから」
目をこすり始めた真白に苦笑を返して、きれいに空いた器を手に立ち上がる。
「寝るなら、歯みがきしておいで」
でも、たしかに、真白にしては随分と遅い時間だ。自分も洗い物を済ませたら、隣に帰ろう。そう決めて、冷たい水で鍋を洗っていると、もごもごと真白が話しかけてきた。
「だって、眠い。っつか、最近、寝れてなかったから」
「しろが?」
寝れてないときたか。絶対、嘘だろ。内心で慎吾が疑っていることに気づいたのか、ぺたぺたとした足音が近づいてくる。
「俺だって、眠れないときくらいあるし」
「へぇ。じゃあ、眠くなってよかったじゃん。というか、垂らさないでね」
歯ブラシを咥えたまま喋る幼馴染みに視線を向けて、慎吾はぎょっとした。思っていた以上に近くにいたからである。
いつも、洗面所でみがいてなかったっけ。洗面所というか、風呂場というか、トイレというか、まぁ、その、なんだ、すべてが一体化している水回りで。
もしかして、この一週間で、足の踏み場もないほどに汚くなっているんじゃ。
「なぁ」
「なに? というか、しろ。怒らないから、教えてほしいんだけど。お風呂場、ちゃんと掃除してる?」
「おまえは俺の母ちゃんか。してるし。そこそこ。俺が汚くないと思うレベルで」
「あ、そう」
ひとまずの納得はしたが、見ないでおこう。慎吾はそう判じた。きっとケチをつけたくなる。
「いや、そうじゃなくて。おまえさ」
どことなく言いにくそうに、真白が続ける。
「帰るの?」
「その、つもりだけど?」
いつも、そうだよね、の意を込めて首を傾げると、真白が不服そうに眉を寄せた。
「いいじゃん、ここで寝たら。どうせ、明日の朝も来るんだし」
それが理にかなっているとばかりの言い方に、鉄壁の愛想笑いがぴきりと固まる。真白に他意がないことはわかっている。わかっているのだが。
「え、狭いでしょ」
「寝れるだろ、べつに」
シングルベッドだ。どちらも平均から大幅に超過しているわけではないが、それでも二十歳手前の男ふたりだ。寝苦しいだろ。
「でも、寝苦しいんじゃないかなー」
「寝れるだろ」
ふたり寝を回避すべく出した懸案を同じ台詞で一蹴されて、慎吾は再度固まった。そのあいだに、すたすたと真白は洗面所に戻っていく。
洗い物が終わり次第引き上げると踏んで、先回りで引き留めに来たのだろうか。
いったい、なんの試練なんだ、これ。声にならない溜息を落として、洗い物の残りに手をつける。現実逃避だ。だが、もともとたいした量でもなかったので、ものの数分で片付いてしまった。
明日締め切りのレポートがあることにしようかな。新たな言い訳を考えつつ、布巾で器の水気を拭っていると、歯みがきを終えたらしい真白が戻ってきた。
「帰るの?」
わざわざ隣に立って問われたそれに、溜息を呑み込んで視線を合わせる。こいつは、俺に対する警戒心を持とうと思わないのだろうか。いや、思わないんだろうな。
「いや、まぁ、ここで寝てもいいんだけど。でも、今までそんなこと言わなかったじゃん。どうしたの、急に」
「べつに、なんとなく。だって、面倒くさくねぇの、いちいち帰るの」
「うーん、そうでもないけど」
曖昧に笑い返した慎吾を、じっと真白は見上げてくる。あいかわらずの子どもみたいな瞳。黒目が大きくて、白い部分も生まれたての赤ちゃんみたいに透き通っている。
――なんか、逆らえないんだよなぁ。
だから、もう半分諦めている。それでも頷けずにいると、真白がぽそりと呟いた。
「おまえがいないと、なんか眠れない」
「え?」
「だから、責任取れよ、ばか」
言い捨てるなり、もぞもぞとベッドに潜り込んでいく。できあがった毛布の塊を無視して帰ることのできる自分であれば、きっとここまで困っていまい。
放っておけない自身に苦笑して、「ちょっと待っててね」と慎吾は声をかけた。
甘やかしているというよりも、惚れたほうの負けというやつなのだろうな、と思いながら。
とは言え、あれだけ眠い眠いと連呼していたのだ。シャワーを浴び終えるころには、眠っているのではないだろうか。
そんなふうに抱いていた淡い期待を打ち砕かれて、慎吾は再びの苦笑を刻んだ。まだ布団がもぞもぞと動いている。ばっちりと起きていたらしい。
「俺に対する警戒心ってものは持ってないの、しろは」
まぁ、いいんだけどね。何度目になるのかわからないことを言い聞かせつつ、布団を半分はぎ取った。真白と違って、今夜は自分が眠れない夜になりそうだ。幼馴染みの体温で、布団の中はあたたかい。
「なんで?」
「なんでって、えーと、……うん」
背中越しに響いた声に、自分で聞いたくせに言葉に詰まってしまった。なにが、「うん」だ。
「だって」
できるだけ、なんでもない調子で続ける。
「俺、ほら、男でも恋愛対象にできるでしょ。それで、しろも知ってるじゃない。身持ちも超軽いよ」
「まぁ、なぁ。おまえ、マジで軽いよなぁ」
「そこなの、しろの同意ポイントは。というか、だから、そうじゃなくて」
「そうじゃなくて、なんだよ」
早く言わないと、マジで寝るからな、と続いた台詞に、だろうなぁ、と慎吾は思った。心の底から同意する。幼馴染みの寝つきは、昔から抜群に良いのだ。だからこそ、俺がいないと眠れないという発言の真意が謎すぎる。
むずがるように寝返りを打った真白の髪が、慎吾の頬をくすぐった。自然と指が伸びて、あやすように一度、二度、とその黒髪を梳く。
指の隙間からこぼれていく毛先を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「だから、こう、なんていうのかな。自分に手ぇ出されたらどうしよう、とか」
そういうふうには、思わないものなのかな。
告げた瞬間、空気がかすかにこわばった気がした。気のせいかもしれないけれど。それでも、真白が応えるまでには少し間があった。
「ないだろ」
だよねぇ、と思った。つい先ほどの自問でも、同じ答えは出ていたのだ。わかっていたのに、真白の口から改めて聞かされると、重たいものを呑み込んだ気分になる。
――俺は、そういう対象として、ずっと見てるんだけどな。
言えるわけがなくて、「うん」と慎吾は呟いた。
「おやすみ」
誤魔化すように伝えて、撫でていた手を離す。
「しろ?」
その手を掴まれて、「ん?」と問い返した。子ども体温のぬくもりが、指先から伝播する。眠いのだろうか。また少し間が生まれた。
「おまえのそれが、どこまでのことを言ってるのかは知らねぇけど」
「うん」
「おまえはしないだろ」
淡々と言い切られて、慎吾は苦く笑った。
おまえのその信頼は、どこからきてるの。というか、このあいだしたじゃん。それで、おまえ、びっくりしたっていうか、下手したら泣きそうな顔してたじゃん。
俺が、どれだけビビったと思ってるの。
もう、うん、とも言えなくて、慎吾は黙り込んだ。自分がなにを言わなくても、あと数分もすれば、真白は寝るだろう。だから、べつに大丈夫だ。
そう言い聞かせる。朝になったら、いつもの自分に戻る。へらりと笑って、一緒にごはんを食べて、なんでもないことを話す、それだけの日々。
真白が望んでいる、日常。
「――か?」
ぼんやりとそんなことを考えていたせいで、真白の問いかけを聞き逃してしまった。
「ごめん、しろ。もう一回言ってくれる?」
なぜか握り合うかたちになっていた手の甲が、落とした視界に入る。真白の黒い毛先が、敷き毛布の上に散らばっていた。
「だから、そういうことを俺にしたいのかって、聞いたんだけど」
「……」
「違うのか?」
なにがどうして、こんな話になっているのだろう。言葉を選べずにいると、しびれを切らしたように真白が目を閉じた。
「違うなら、べつにいいけど」
もう寝ると無言で宣言されて、慎吾は「真白」とその名前を呼んだ。このままうやむやにしたら、きっと一生後悔する。そんな予感に背を押された。
いつからかなんて、わからない。けれど、その名前を呼ぶだけで、たまらなくなりそうになっていた。だから、愛称で呼ぶように変えた。
そうやって、なんとか踏ん張ろうとしていたのだ。真白が望む関係を続けようと思っていた。そのはずだった。それなのに。
肩をゆすると、億劫そうに真白が目を開けた。まるで抱き込むような体勢になっている。そのことにも気がついていたけれど、慎吾はそのまま問いかけた。
「真白は、そこで俺が『うん』って、そう言ったら、どうするの?」
質問返しで逃げていることはわかっていた。それでも、聞かずにはおれなかった。
「なんでって聞くけど」
「じゃあ、俺が、真白が好きだからだって言ったら?」
口にした瞬間、まだ早かったかもしれないと悔やんだ。けれど、真白がこんなふうに聞いてきたことは、はじめてだったのだ。
「その好きっていうのは、なんなの?」
ひどく平然と真白は聞き返した。慎吾は少しだけ考えて答えた。
「誰よりも一番、特別に好き」
結局、それが本音なのだ。ばくばくと信じられないくらい、心臓が音を立てている。でも、そうだった。真白が好きだ。誤魔化しようがないくらい。それがすべてだ。
じっと慎吾を見つめていた黒い瞳が、ゆっくりと瞬く。
「べつに、いいよ」
触れていた真白の手が、慎吾の指先をきゅっと強く握った。
「おまえの特別だっていうんなら、べつにいいよって。俺は言うと思う」
その意味を理解するまでに、また少し時間がかかった。それは、真白にとって恋愛なのだろうか。家族愛の、友情の延長線ではないのだろうか。
「俺がキスしたいって言っても、真白はそれを受け入れられるの」
考え込むように視線を落とした真白が、首を伸ばした。唇に真白のそれが当たる。
「大丈夫」
真白が小さく声を落とした。「おまえ、今ためしたの」とからかう余裕はもうなかった。
「おまえがいないと、眠れない」
いつかの夜と同じように、真白が胸元に頭を擦り寄せる。
たまらなく愛おしいと思った。
ひさしぶりに上がり込んだ幼馴染みの部屋で、慎吾は悩んでいた。空気をこれ以上悪くしたくなかったので、やけくそで笑顔を張り付けてはいるが、だがしかし。
「慎吾ー、腹減った」
のんきすぎる催促に、とりあえずへらりとした声を出す。台所に立っているので、顔は見えていないはずだ。うん、大丈夫、誤魔化せる。
「あー、うん。うどん茹でてるだけだから。ちょっと待って」
前回補充した冷凍うどんは、手付かずの状態で冷凍庫に眠っていた。その他の食材もしかりである。こいつ、この一週間、なに食って生きてたんだ。
浮かんだ疑念は、ごみ箱にあった割り箸やらなんやらで判明した。インスタントばっかりじゃねぇか。
「早くしないと、俺、マジで寝るかも。めちゃくちゃ眠い」
その台詞を最後に、ぼすっとベッドに倒れ込んだらしい音がした。なんでだ。本気でよくわからなくなって、首を捻る。
いったい、どうして、真白はこんなにもけろりとしているのだろう。
――いや、だからって、ギスギスしたかったわけじゃないんだけどさぁ。
ただ、その、なんというか。良くも悪くも、なにかしらの進展があるんじゃないのかな、なんて。ひっそりと目論んでいた当てが外れたというか、なんというか。
……やっぱり、虫の居所が悪かっただけだったのかな、あれ。
よくわかんねぇ生き物だな、と思いながら、慎吾はテーブルにうどんを置いた。
冷凍うどんに、これまた冷凍してあった揚げを甘辛く煮ただけの、お手軽きつねうどんである。
「はい、どうぞ」
食欲が勝ったのか、ベッドからのっそりと真白が這い出てきた。うどんを前に、ほわと頬をゆるめる。
「あったかそう」
「うん。あったまると思うよ。外、寒かったもんね」
もそもそと小動物のように咀嚼している幼馴染みに、そっとほほえむ。自分がつくったものを真白が食べているところを見ることが、慎吾は好きだ。優しくしている気分になることができる。
「おいしい?」
「今度、鍋食いたい」
「好きだね、しろ」
そう言うと、箸の動きが止まった。あれ、なにか間違ったかな。一抹の不安を抱いたものの、真白はなにも言わなかった。なにごともなかったように、揚げをかじり始めている。
こいつの一口、小さいんだよな。だから、小動物っぽいのかな。なんてことを考えたまま、慎吾は呼びかけた。
「ねぇ、しろ」
「なんだよ」
怪訝そうに顔を上げた真白は、まったくもっていつもどおりだった。いつもどおり。
少し前までの情緒不安定さは、いったい、どこに捨てたんだ。そう思わなくもなかったが、見慣れた態度に安堵していることも事実だった。
結局、自分は、真白に変わらないでいてほしいのかもしれない。
その顔をまっすぐに見つめたまま、言う。
「ごめんね」
自分が謝るべきだという自覚はあったのだ。返事を待っていると、幼馴染みが箸を置いた。
「なにが?」
「いや、あの、なにがというか」
「なにがっていうか、どれ? 今日のことだったら、いいかげん適当に遊ぶのやめよ。俺というか、あっちが気の毒だよ、さすがに」
「そこ?」
予想と違う反応に、声のトーンが上がる。面倒なことに巻き込むな、と罵倒される覚悟はあったのだが、そちらは予想外だった。その慎吾の反応にだろう、真白が嫌そうに目を眇めた。
「おまえが遊びでも、あっちは違ったんだろ。だったら、駄目だろ」
「いや」
お互い遊びのつもりだったんだよ、と言い繕いかけた言葉を、寸前で呑み込む。いつからかはわからない。けれど、そうでなくなったことに気がついてはいたのだ。
応える気がなかったから、うやむやに終わらせようとしていただけで。
「わかってんだろ」
「うん、ごめん」
「謝る相手は、俺じゃないと思うけど」
「いや、でも。……その、しろにも迷惑かけたから」
言い募ると、渋々と真白が頷いた。
「わかった」
その返答にほっとしたのも束の間、「このあいだのは、だけど」と切り出されて、背筋が伸びる。
「悪ノリしすぎだ、バカ」
慎吾の緊張を知ってか知らずか、真白が口にした言葉はそれだけだった。
「え……、と。それ、だけ?」
思わず、慎吾は問い直した。それ以外になにがあるという顔で頷いた真白が、箸が取る。話は終わりということらしい。
うどんをすする音を聞きながら、なんだ、と慎吾は脱力した。
――なんだ。やっぱり、虫の居所が悪かっただけか、あれ。
じっと観察してみたものの、嘘を吐いているふうでも、誤魔化しているふうでもない。つまり、本当に慎吾の悪ふざけとしか思っていないのだ。
まぁ、べつにいいんだけど。言い聞かせる調子で思い切る。そう、べつにいいのだ。真白がいいのなら、それで。
安堵と罪悪感と、寂しさと苦しさ。混ざり合う感情に蓋をして、ごちそうさま、と手を合わせる幼馴染みに、慎吾は笑顔を向けた。
満足そうな顔を見ていると、自分の考えていることなど、どうでもいい気がしてくるから不思議だった。偽善なのかもしれない。なにをいまさら、と言われるのかもしれない。
でも、やっぱり、自分は、真白にのんきに笑っていてほしいのだ。
「眠い」
「小さい子じゃないんだから」
目をこすり始めた真白に苦笑を返して、きれいに空いた器を手に立ち上がる。
「寝るなら、歯みがきしておいで」
でも、たしかに、真白にしては随分と遅い時間だ。自分も洗い物を済ませたら、隣に帰ろう。そう決めて、冷たい水で鍋を洗っていると、もごもごと真白が話しかけてきた。
「だって、眠い。っつか、最近、寝れてなかったから」
「しろが?」
寝れてないときたか。絶対、嘘だろ。内心で慎吾が疑っていることに気づいたのか、ぺたぺたとした足音が近づいてくる。
「俺だって、眠れないときくらいあるし」
「へぇ。じゃあ、眠くなってよかったじゃん。というか、垂らさないでね」
歯ブラシを咥えたまま喋る幼馴染みに視線を向けて、慎吾はぎょっとした。思っていた以上に近くにいたからである。
いつも、洗面所でみがいてなかったっけ。洗面所というか、風呂場というか、トイレというか、まぁ、その、なんだ、すべてが一体化している水回りで。
もしかして、この一週間で、足の踏み場もないほどに汚くなっているんじゃ。
「なぁ」
「なに? というか、しろ。怒らないから、教えてほしいんだけど。お風呂場、ちゃんと掃除してる?」
「おまえは俺の母ちゃんか。してるし。そこそこ。俺が汚くないと思うレベルで」
「あ、そう」
ひとまずの納得はしたが、見ないでおこう。慎吾はそう判じた。きっとケチをつけたくなる。
「いや、そうじゃなくて。おまえさ」
どことなく言いにくそうに、真白が続ける。
「帰るの?」
「その、つもりだけど?」
いつも、そうだよね、の意を込めて首を傾げると、真白が不服そうに眉を寄せた。
「いいじゃん、ここで寝たら。どうせ、明日の朝も来るんだし」
それが理にかなっているとばかりの言い方に、鉄壁の愛想笑いがぴきりと固まる。真白に他意がないことはわかっている。わかっているのだが。
「え、狭いでしょ」
「寝れるだろ、べつに」
シングルベッドだ。どちらも平均から大幅に超過しているわけではないが、それでも二十歳手前の男ふたりだ。寝苦しいだろ。
「でも、寝苦しいんじゃないかなー」
「寝れるだろ」
ふたり寝を回避すべく出した懸案を同じ台詞で一蹴されて、慎吾は再度固まった。そのあいだに、すたすたと真白は洗面所に戻っていく。
洗い物が終わり次第引き上げると踏んで、先回りで引き留めに来たのだろうか。
いったい、なんの試練なんだ、これ。声にならない溜息を落として、洗い物の残りに手をつける。現実逃避だ。だが、もともとたいした量でもなかったので、ものの数分で片付いてしまった。
明日締め切りのレポートがあることにしようかな。新たな言い訳を考えつつ、布巾で器の水気を拭っていると、歯みがきを終えたらしい真白が戻ってきた。
「帰るの?」
わざわざ隣に立って問われたそれに、溜息を呑み込んで視線を合わせる。こいつは、俺に対する警戒心を持とうと思わないのだろうか。いや、思わないんだろうな。
「いや、まぁ、ここで寝てもいいんだけど。でも、今までそんなこと言わなかったじゃん。どうしたの、急に」
「べつに、なんとなく。だって、面倒くさくねぇの、いちいち帰るの」
「うーん、そうでもないけど」
曖昧に笑い返した慎吾を、じっと真白は見上げてくる。あいかわらずの子どもみたいな瞳。黒目が大きくて、白い部分も生まれたての赤ちゃんみたいに透き通っている。
――なんか、逆らえないんだよなぁ。
だから、もう半分諦めている。それでも頷けずにいると、真白がぽそりと呟いた。
「おまえがいないと、なんか眠れない」
「え?」
「だから、責任取れよ、ばか」
言い捨てるなり、もぞもぞとベッドに潜り込んでいく。できあがった毛布の塊を無視して帰ることのできる自分であれば、きっとここまで困っていまい。
放っておけない自身に苦笑して、「ちょっと待っててね」と慎吾は声をかけた。
甘やかしているというよりも、惚れたほうの負けというやつなのだろうな、と思いながら。
とは言え、あれだけ眠い眠いと連呼していたのだ。シャワーを浴び終えるころには、眠っているのではないだろうか。
そんなふうに抱いていた淡い期待を打ち砕かれて、慎吾は再びの苦笑を刻んだ。まだ布団がもぞもぞと動いている。ばっちりと起きていたらしい。
「俺に対する警戒心ってものは持ってないの、しろは」
まぁ、いいんだけどね。何度目になるのかわからないことを言い聞かせつつ、布団を半分はぎ取った。真白と違って、今夜は自分が眠れない夜になりそうだ。幼馴染みの体温で、布団の中はあたたかい。
「なんで?」
「なんでって、えーと、……うん」
背中越しに響いた声に、自分で聞いたくせに言葉に詰まってしまった。なにが、「うん」だ。
「だって」
できるだけ、なんでもない調子で続ける。
「俺、ほら、男でも恋愛対象にできるでしょ。それで、しろも知ってるじゃない。身持ちも超軽いよ」
「まぁ、なぁ。おまえ、マジで軽いよなぁ」
「そこなの、しろの同意ポイントは。というか、だから、そうじゃなくて」
「そうじゃなくて、なんだよ」
早く言わないと、マジで寝るからな、と続いた台詞に、だろうなぁ、と慎吾は思った。心の底から同意する。幼馴染みの寝つきは、昔から抜群に良いのだ。だからこそ、俺がいないと眠れないという発言の真意が謎すぎる。
むずがるように寝返りを打った真白の髪が、慎吾の頬をくすぐった。自然と指が伸びて、あやすように一度、二度、とその黒髪を梳く。
指の隙間からこぼれていく毛先を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「だから、こう、なんていうのかな。自分に手ぇ出されたらどうしよう、とか」
そういうふうには、思わないものなのかな。
告げた瞬間、空気がかすかにこわばった気がした。気のせいかもしれないけれど。それでも、真白が応えるまでには少し間があった。
「ないだろ」
だよねぇ、と思った。つい先ほどの自問でも、同じ答えは出ていたのだ。わかっていたのに、真白の口から改めて聞かされると、重たいものを呑み込んだ気分になる。
――俺は、そういう対象として、ずっと見てるんだけどな。
言えるわけがなくて、「うん」と慎吾は呟いた。
「おやすみ」
誤魔化すように伝えて、撫でていた手を離す。
「しろ?」
その手を掴まれて、「ん?」と問い返した。子ども体温のぬくもりが、指先から伝播する。眠いのだろうか。また少し間が生まれた。
「おまえのそれが、どこまでのことを言ってるのかは知らねぇけど」
「うん」
「おまえはしないだろ」
淡々と言い切られて、慎吾は苦く笑った。
おまえのその信頼は、どこからきてるの。というか、このあいだしたじゃん。それで、おまえ、びっくりしたっていうか、下手したら泣きそうな顔してたじゃん。
俺が、どれだけビビったと思ってるの。
もう、うん、とも言えなくて、慎吾は黙り込んだ。自分がなにを言わなくても、あと数分もすれば、真白は寝るだろう。だから、べつに大丈夫だ。
そう言い聞かせる。朝になったら、いつもの自分に戻る。へらりと笑って、一緒にごはんを食べて、なんでもないことを話す、それだけの日々。
真白が望んでいる、日常。
「――か?」
ぼんやりとそんなことを考えていたせいで、真白の問いかけを聞き逃してしまった。
「ごめん、しろ。もう一回言ってくれる?」
なぜか握り合うかたちになっていた手の甲が、落とした視界に入る。真白の黒い毛先が、敷き毛布の上に散らばっていた。
「だから、そういうことを俺にしたいのかって、聞いたんだけど」
「……」
「違うのか?」
なにがどうして、こんな話になっているのだろう。言葉を選べずにいると、しびれを切らしたように真白が目を閉じた。
「違うなら、べつにいいけど」
もう寝ると無言で宣言されて、慎吾は「真白」とその名前を呼んだ。このままうやむやにしたら、きっと一生後悔する。そんな予感に背を押された。
いつからかなんて、わからない。けれど、その名前を呼ぶだけで、たまらなくなりそうになっていた。だから、愛称で呼ぶように変えた。
そうやって、なんとか踏ん張ろうとしていたのだ。真白が望む関係を続けようと思っていた。そのはずだった。それなのに。
肩をゆすると、億劫そうに真白が目を開けた。まるで抱き込むような体勢になっている。そのことにも気がついていたけれど、慎吾はそのまま問いかけた。
「真白は、そこで俺が『うん』って、そう言ったら、どうするの?」
質問返しで逃げていることはわかっていた。それでも、聞かずにはおれなかった。
「なんでって聞くけど」
「じゃあ、俺が、真白が好きだからだって言ったら?」
口にした瞬間、まだ早かったかもしれないと悔やんだ。けれど、真白がこんなふうに聞いてきたことは、はじめてだったのだ。
「その好きっていうのは、なんなの?」
ひどく平然と真白は聞き返した。慎吾は少しだけ考えて答えた。
「誰よりも一番、特別に好き」
結局、それが本音なのだ。ばくばくと信じられないくらい、心臓が音を立てている。でも、そうだった。真白が好きだ。誤魔化しようがないくらい。それがすべてだ。
じっと慎吾を見つめていた黒い瞳が、ゆっくりと瞬く。
「べつに、いいよ」
触れていた真白の手が、慎吾の指先をきゅっと強く握った。
「おまえの特別だっていうんなら、べつにいいよって。俺は言うと思う」
その意味を理解するまでに、また少し時間がかかった。それは、真白にとって恋愛なのだろうか。家族愛の、友情の延長線ではないのだろうか。
「俺がキスしたいって言っても、真白はそれを受け入れられるの」
考え込むように視線を落とした真白が、首を伸ばした。唇に真白のそれが当たる。
「大丈夫」
真白が小さく声を落とした。「おまえ、今ためしたの」とからかう余裕はもうなかった。
「おまえがいないと、眠れない」
いつかの夜と同じように、真白が胸元に頭を擦り寄せる。
たまらなく愛おしいと思った。



