隣のチャラ男くん

 ガチャンと鍵をかける音がして、夢見荘の廊下が軋んだ。階段を下る音が、少しずつ遠ざかっていく。
 あぁ、また、どっか行ったな。すぐに、そうわかった。というか、よくそれだけ出かけるところがあるよな。そんなふうに呆れながら、真白は布団の中で寝返りを打った。
 おかしい。なんというか、ものすごくおかしい。例のギシアンがようやく聞こえなくなったというのに、なぜ、自分は軽い不眠のままなのか。
 スマホに手を伸ばして、時間を確認する。二十三時三十四分。もう日付変わるじゃねぇか。慎吾がいたら、そっちに行くのに。
「……」
 浮かんでしまった案に、敷き毛布に頭を擦りつける。いや、違う。そうじゃない。いや、でも、なんだ。
「こんなの、いつぶりだ」
 ぼそりと呟いて、また寝返りを打つ。
 真白は、自分は気が長いと思っている。優しくて穏やか、だとか、そういうことではなく、面倒だから怒らない、というだけではあるが。でも、そうやって、うまくやっていたのだ。「まぁ、いいか」で済ませて困ったこともない。そのはずだったのに。
 ――まぁ、慎吾は、けんかだとも思ってないんだろうけど。
 勝手に拗ねていると判じているのだろうし、それで構わない。だって、なんでこんなふうにもやもやとしているのか、自分でもわからないのだ。
 ――依存しすぎてたんだよな、そもそもが。
 三度、寝返りを打つ。眠れない。諦めて、真白は溜息を吐いた。
 あれだけうるさかった隣が静かなのだ。喜べばいいのに。なんで。気配がないことを寂しいなんて、思ってしまっているのだろう。


 アルバイト先の店内は、クリスマスムードいっぱいで大変無駄にハッピーだ。
 バックヤードから出るなり、真白はぱしぱしと目を瞬かせた。眩い蛍光色は、寝不足続きの目に優しくない。そうして、あいかわらず客はいない。
「おつかれ」
「城崎くん、なんかすごい凶悪な顔してるけど。どうしたの。その隈」
 レジカウンターの前を通った真白を呼び止めて、田崎が自身の目の下を指さした。そんなにひどいのか、と疑いつつも、真顔で首を縦に振る。
「たぶん、もう見れねぇぞ」
「いや、それはどうでもいいけど。というか、大丈夫? この時期、レポートとかあったっけ。忙しいの?」
「そういうわけじゃねぇけど」
「じゃあ、もしかして、振られた? 慰め会とかしちゃう? 夕勤の美帆ちゃん、けっこうかわいいよ。誘ってあげようか」
「おまえがしたいだけだろ」
「えー、そういうこと言う? 俺には城崎くんと違って、大事な大事な彼女ちゃんがいるんだってば」
 大事な大事な彼女ちゃん。
 田崎のなんでもない軽口に、なんだかまた気持ちが沈んでしまった。そして、再認識する。睡眠は大事だ。
 頭がしっかり働いていないと、人間ろくなことを考えない。その証拠に、真白の脳内は、マイナス思考がエンドレスにループ中だ。いいかげん、それも終わりにしてしまいたい。
「いや、ちょっとあれだったんだけど。面倒だし、もういいわ」
 理由にまったくなっていない答えに、田崎が苦笑する。
「面倒って。城崎くん。そうやって考えること放棄してたら、脳みそ腐っちゃうよ?」
「腐るか」
 そのくらいで腐るなら、とっくの昔にそうなっているに違いない。
 そもそも、最長記録ではないかというくらい、今回は考えたのだ。めちゃくちゃえらい、と真白は自分で自分を褒めた。だって、誰も褒めてくれない。
「まぁ、本当に、俺はべつにいいけどさ。でも、面倒くさいばっかりでやり過ごしてたら、そのうちどっかで爆発するよ?」
「そういうのでもないから」
 心配してくれているらしいことは伝わったので、真白はひとまず否定を返した。
 本当に、そういうことでもないのだ。
 顔を合わせても、気まずく感じるのは一瞬だけだ、と真白はわかっている。
 どうせ、慎吾は、なにも考えていなかったのだ。今だって、機嫌の悪い自分を持て余しているだけ。生まれたころからずっと一緒の自分たちが、この程度で距離を置くはずもない。そのことも、真白はよくよくわかっていた。
 もやもやとしている理由がわからなくても、時間薬で必ず落ち着いていく。だから、問題はない。
 ――ただ、なぁ。
 らしくない長考をおともに、夢見荘までの道をてくてくと歩く。
 アルバイト先から夢見荘までの距離は、たったの五分。面倒だけどバイトしなきゃなぁと言うだけで腰を上げなかった真白に代わり、業を煮やした慎吾が見つけてきた好物件だ。
 何日か様子も見たけど、治安も問題ないし。夢見荘からも近いし。オーナーのおじさんもいい人そうだったから大丈夫、なんて。保護者すぎるお墨付きを与えられた上に、履歴書もつきっきりで書かされた。いわく、「放っておいたら、おまえ絶対に書かないだろ」。
 甘やかされてんだろうなぁ、これ。ふと、そう思った。
 甘さに慣れすぎて、面倒にすら感じていたけれど、今ならわかる。
 朝、ひとりの部屋で目覚めること、だとか。誰とも喋らないまま、一日が終わること、だとか。ひとりだと使い道のない、押し入れの中のガスコンロ、だとか。あたりまえだと傲慢に享受していたすべては、あたりまえではなかったのだ。
 この調子だと、土鍋が埃を被る日も、案外と早くにやってくるのかもしれない。
 嫌な想像に、道端でぷるぷると頭を振る。溜息ひとつで見上げた慎吾の部屋は、真っ暗闇のままだった。
 ――どうせ、どっかに遊びに行ってんだろうけど。
 真白と違って、慎吾は昔から人づきあいが多い。でも、それを羨ましいと思ったことも、寂しいと思ったことも、一度だってなかったはずなのに。
「……あ」
 階段を上ったところで、真白は足を止めた。二〇一号室の前に、見覚えのある男が座り込んでいる。
 ……どうすっかな。
 ものすごく回れ右をしたかったが、行くあてもない。内心で盛大に溜息を吐いて、真白は素通りをすることに決めた。
 声をかけられなければ良し、かけられたらアウト。そんなことを考えながら、自室に鍵を差し込む。「ねぇ」と声がかかったのは、ドアノブを掴んだときだった。
「……」
「ちょっと。ねぇってば」
 無視してドアノブを回したい衝動を堪えて、どうにか振り返る。改めて男を視認した真白は、そっと首を傾げた。
「寒くね?」
「は?」
「いや、ごめん。なんでもない」
 おしゃれなのかもしれないが、あまりに寒そうだったので、つい言葉になってしまったというだけだ。「寒いなら、俺の家で待つ?」みたいな、そういうお誘いでは、断じてない。
 誤魔化すように、真白は言い足した。
「慎吾、まだ帰ってこないと思うけど」
「ってことは、また遊んでるんだ。まぁ、いっか。あんたとも一回話してみたかったし」
 素直に顔をしかめた真白に構うことなく、男が立ち上がる。目線の高さは、小柄な真白とほとんど変わらなかった。じろじろと凝視してくる視線が、なんとも居心地が悪い。
 なんだかなぁ、と。辟易としていると、男が切り出した。なぜか、やたらと真面目な顔をしている。
「念のために聞いておきたかったんだけど、あんた、慎吾と付き合ったりしてないよね」
「は? 付き合うって」
 なにが。思考を停止させた真白に、「だから」と男が苛々と繰り返す。 
「慎吾のことが好きだとか。ヤッてるとか。そういう関係なのかって聞いてるんだけど」
「違う」
 自分たちは、そんな関係じゃない。男の苛々にあてられたのか、真白まで妙に苛々とした気分だった。
「おまえと一緒にすんな。そんなんじゃねぇから」
「だったら。幼馴染みだかなんだか知らないけど、あんまり束縛しないでやってよ」
「誰が束縛してるって?」
「へぇ、自覚すらしてないんだ」
 馬鹿にした態度で揶揄されて、苛々が増幅する。
 束縛なんてしていないし、そもそもとして、自分と慎吾の日常は、そんな安っぽい言葉で解されるものではないのに。
「慎吾も、お子ちゃまのお守りで大変だよね。俺と遊んでるほうが楽しいと思うんだけどさ。ほら、慎吾、面倒見良いでしょ?」
 応じない真白を男が笑う。笑っているのに棘のある顔。気に食わないのはこっちだ、と真白は思った。
 毎晩毎晩、聞きたくもない声を聞かされて。勝手に割り込まれて。我が物顔で居座られて。そこは、俺の場所なのに。
「だから、しかたなく、あんたのそばにいるんだろうけど。よかったじゃん、優しい幼馴染みがいて」
 知ったふうに鼻で笑われて、なにかが切れた。「あ」と我に返ったのは、手を出したあとだった。男は殴られた頬を手で押さえて、ぽかんとしている。やってしまった。
「信じらんないんだけど! ふつう、人の顔、殴る?」
「……その、ごめん」
 その前のやりとりを差し引いても、暴力はよろしくない。申し開きもない。冷えた頭で、真白は謝罪を繰り返そうとした。
「いや、本当、殴ったのは」
「しろ?」
 聞き慣れた声に、思わず背後を振り返る。目が合うと、慎吾がかすかに眉を寄せたことがわかった。階段を上る足音が速くなる。
「こんなとこでなにしてって、……南ちゃん?」
 そこで、ようやくもうひとりの存在に気がついたらしい。驚いたように語尾が跳ね上がる。
「なにやってんの?」
「いや、その……」
「殴られたんだけど! 俺、なにもしてないのに、そいつに、いきなり!」
 非難がましい訴えに、真白はふいと視線を逸らした。なにもしていなくはないだろうという不満はあったが、手を出したことは事実だったので、弁明しづらかったのだ。
 慎吾にどう説明すればいいのかも、わからなかった。だって、手を出した理由が、自分でもよくわからない。
 居た堪れない心地で、偏った状況説明が終わるのを待っていると、慎吾がちらりとこちらを見た。硬い表情に、反射で首をすくめる。怒られると思ったのだ。
 けれど、慎吾は小さく溜息を吐いただけだった。伸びてきた指先が、ぽんと額を叩く。冷たい。額を押さえると、慎吾が男に向き直った。その背中で、相手が見えなくなる。
「あのね、南ちゃん。そもそもの話してもいいかな。なんで、南ちゃんはここにいるの」
「なんでって……、そんなの、今、関係ないでしょ。俺が殴られたって言ってるのに、なんで、俺が責められるの?」
「真白は、なんの理由もなしに、そういうことはしない」
 自分の話なんてひとつも聞いていないのに、きっぱりと慎吾は言い切った。
「それに、俺、そんなこと一言も聞いてないんだけど。なんで、ここにいるのって、そっち。もう終わりにしたよね。南ちゃんも了承したよね。それなのに、なんで、ここにいるの?」
「なんでって……、だって」
 突き放す調子に、男の声が泣きそうに震える。
 あぁ、なんだ。慎吾のことが、本当に好きだったんだな。遊びじゃなくて。そう悟ったら、つきものがすとんと落ちた気がした。
「慎吾」
 衝動のままに袖を引く。
「俺が手を出したのも、本当だから」
「でも」
「だから、俺も悪い」
 片一方だけを糾弾するような話じゃない。そう告げると、慎吾は困ったように表情をやわらげた。
「でも、そうしちゃうくらい嫌なこと、言われたんじゃないの」
 身内にしか見せない、甘い対応。傍から見たら、おかしいと評されるものだとわかっている。だって、なにを言われたとしても、手を出した時点で、怒られてしかるべきなのだ。慎吾の基準も、かなり偏っている。でも。
 内側に溜まり込んでいたよどみが、ゆっくりと流れ出していく。そのことを、真白は感じていた。らしくなく苛々して、感情を持て余して、息苦しかったことが嘘みたいに。
 同じじゃない。慎吾の中で大事にされている。少なくとも、この男より。慎吾が相手にしていた、不特定多数の男より。
 そんなことを、思ってしまった。
「もういいよ。俺が馬鹿みたい」
 声のほうに視線を向ける。傷ついた瞳と目が合って、真白はどきりとした。最後の意地のように、男が笑みをかたどる。
「安心して。もう、絶対、会いになんて来ないから」
 それが最後だった。真白と慎吾の横をすり抜けると、階段を下りていく。男のほうを見ようともしないまま、慎吾が言った。
「そうして」
 感情の籠もっていない声に、規則的だった足音が乱れる。けれど、本当に一瞬のことだった。すぐに一定のリズムを取り戻す。
 街灯の奥に消えた背中を、目を逸らすことなく、真白は見送った。
 きっと、何度もひとりで歩いたのだろう。だって、夜中に声が聞こえることはあっても、朝には慎吾しかいなかった。慎吾だけが、真白の部屋にいた。ふたりだった。自分たちは、ずっとふたりだった。距離を置かれることは、嫌だった。
 ぐっと唇を噛み締める。上から目線の同情なのか、なんなのか。よくわからなかった。間違いなく、良い感情ではない。でも、嫌だった。
 掴んだままだった袖を、もう一度引く。こんなふうに顔を合わせることもひさしぶりで、真白は言葉に迷ってしまった。
 じっと見上げる。いろいろなものを呑み込んだふうに、慎吾が眉を下げた。
「さて、どうします?」
 聞き慣れた、優しく甘やかす声音だった。
「ひさしぶりに、俺とごはん、どうですか?」
 そんなふうに優しく言われて、俺が断れると思ってんのか。理不尽極まりないことを考えながら、こくんと真白は頷いた。ほっとしたように慎吾が笑った。