本格的に、風が冷たくなってきたな。
長身を縮めて夜道を歩きながら、慎吾は白い息を吐いた。寒がりの幼馴染みは早々に冬支度を整えていたが、本番は十二月に突入したこれからである。
「……十二月か」
今年ももう終わるのだと思うと、なんとも言えない感慨が胸に湧いた。あっというまだったような、長かったような。地元を離れてからの日々を思い返すにつれ、また白い息がこぼれる。
はぁ、ともう一度溜息を吐いて、夢見荘の階段手前で慎吾は立ち止まった。
駄目だ。なんというか、自分の中の苛々が、まったく薄れる気配がない。ぼさぼさと頭を掻きながら、慎吾は首を捻った。
――いや、わかってんだけどさ。俺の心が狭いってことは。
そう。わかってはいるのだが。あの真白が。マイペースで傍若無人な、あの幼馴染みが。
なぜか、自分に対して遠慮するそぶりを見せているのだ。おまけに、心臓に毛が生えていると評判の情緒まで揺らいでいる感じがある。絶対におかしいし、異変としか言いようがない。
カンカンと小さな音を立てて階段を上る。言動に違和感を覚えたタイミングを考えると、原因は野々村だ。おそらく、なにかを言われたのだろう。
たいしたことではなかったのだろうが、そのときの真白の琴線に触れた、なにか。
とうとう三度目の溜息を、慎吾はこぼした。勝手だとわかっている。それでも、第三者に言われたなにかで態度を変えられたことが、気に食わなかったのだ。だから、苛々している。
――そんなこと言っても、どうにかしないとな。いや、本当に。
八つ当たりをしたいわけではない。むしろ、その逆で。優しくしたい、と。たぶん、ずっと、自分は願っている。
どうにか四度目の溜息は呑み込んで、顔を上げる。そのタイミングで、階段を下りようとしていた相手と目が合った。あ、と声が漏れる。
「野々村さん」
「お、慎吾。このあいだはどうもね。鍋ごちそうさん」
「いや、ぜんぜん。いいですよ。これから練習ですか?」
もやもやとしていた感情に蓋をして、愛想笑いを張り付ける。そろそろ二十三時だが、このくらいの時間にギターを担いだ野々村とすれ違うことは、間々あることなのだ。
「そう、これからね。またライブするからさ、よかったら来てよ。ちびとでもいいし、彼女とでもいいし……って、いないんだっけ、彼女」
「ですね、今は」
この人にそんな話したっけな、と訝しんだものの、笑顔で頷く。まぁ、真白はライブハウスには行きたがらないと思うが、それはそれだ。
「あ、じゃあ。あのちびは? 彼女いたことってあったりすんの?」
「なんでですか?」
質問で返した慎吾に気を悪くしたふうでもなく、「いや、実はさ」と野々村が眉を下げる。
「このあいだ、悩んだ顔してたんだよ。あの、普段なんにも考えてなさそうなのが」
ひどい言われようである。
「いなかったことはないですよ」
とりあえず、慎吾は苦笑した。中学生だったころに、告白されるがままに付き合い、ものの一週間で「真白くんってつまんない」と身も蓋もない理由で振られていたが。嘘ではない。
「じゃあ、興味あってもおかしくはねぇのか。まぁ、あいつも男だもんな」
したり顔で野々村が頷く。苛立ちを覚えたが、慎吾は笑顔でやり過ごした。
「どうなんですかね」
「どうなんですかねって。しねぇの、そういう話」
「いや……」
「わかった、逆に言いにくいんだろ。おまえら、兄弟みたいなもんだから」
兄貴相手だと言いにくい、みたいなこともあるもんな。そう続いた言葉の後半は、あまり耳に入ってこなかった。兄弟という単語が、妙に引っかかってしまったのだ。
「まぁ、とにかくさ。なんか相談されたら、笑わないで相手してやってくんない? ちょっと責任感じてるんだよね、俺も」
「はぁ」
「そういうわけなんで、頼むわ」
自分に話したことで肩の荷が下りたらしい。あとは任せたとばかりに、軽い足取りで階段を下りていく。
その足音が聞こえなくなったところで、慎吾は拳に視線を落とした。いったい、いつから握りしめていたのだろう。ゆっくりと力を抜いて、足を踏み出す。
本当に勝手だとわかっているし、自分の心が狭いことも重々に承知している。
それでも、自分が一番よく知っているはずの幼馴染みのことを、他人に知ったふうに言われることが、慎吾は昔から嫌いだった。
あれ、珍しい。
再びそんなふうに感じたのは、自室に鍵を差し込もうとしたときだった。隣の二〇二号室から、うっすらとした明かりが漏れている。
――珍しいこともあるもんだな。
胸中で、慎吾は繰り返した。眠ることが至福と言って憚らない幼馴染みは、いつも二十三時には布団に入っている。
まぁ、消し忘れただけかもしれないけど。ずぼらだから。いいかげんだから。言い聞かせてみたものの、どうにも気持ちが落ち着かない。キーケースを見つめたまま、立ち尽くすこと数秒。
溜息ひとつで、慎吾は隣の部屋の前に移動した。ごはんをつくりに行くとき以外は使わないでおこうと決めていたはずの合鍵で、開錠する。
やめたほうがいいということは、わかっていた。わかっていても、珍しいことが続くと、焦燥が募ってたまらなくなる。
俺の知らないところで、俺が関係していないところで、変わってんじゃねぇよ。動かされてんじゃねぇよ。そんなことを思ってしまう。
自己本位甚だしい感情だと理解しているから、極力態度に出すことはしないように努めているけれど。
――なのに、肝心のあいつに通じないんだよなぁ。
誰もが自分のことを「いいやつ」だと言う。気分にムラがなく、誰にでも優しい、と。
意識してふるまっているのだから、そういう意味では当然の評価だと思っている。それなのに、幼馴染みにだけは、まったく通用しないのだ。真白は、慎吾の感情を簡単に読み取ってしまう。
「しろ? まだ起きてんの?」
一声かけて、靴を脱ぐ。顔を上げた瞬間、座卓の前にいた真白と目が合って、え、と半ば本気で慎吾は驚いた。いっそう珍しいことに、パソコンまで立ち上がっている。起きていたのか。
「あ、いや。電気ついてたから。珍しいなって」
心なしかびっくりした顔をさせてしまって、言い訳めいた台詞が口をつく。無言のままこちらを見つめていた真白が、溜息まじりにヘッドフォンを外した。ぱさりと癖のない黒髪が揺れる。
「萎えた」
「萎えたって、え、なに。珍しい。AV?」
三大欲求のバランス比率が睡眠欲に偏り切っている、あの真白が。興味が勝って、カーペットに転がった真白の隣に回り込む。
「俺の趣味じゃないけど」
「うわ、本気で珍しいの見てる。どういう心境の変化なの、ちょっと」
寝転がっている幼馴染みに、慎吾は視線を移した。その視線を受けて、真白が嫌そうに顔をしかめる。
「だから。俺の趣味じゃねぇって言ってんだろ」
「いや、だって、これ」
真白の趣味ではないという断りは聞いたし、承知もしているが、いわゆるエスエムものである。驚いてもしかたがないだろう。
――前にちらっと見たときは、早々にギブアップしてたくせに。
仲間内で過激なものの鑑賞会が流行っていたころの話だが、慎吾はよく覚えている。もっと楽しそうなのがいいという理由が、真白らしくてほほえましかったからだ。
彼女ができたら、面倒くさいだのなんだのと言いながら、ちゃんと優しくするんだろうな。容易に想像がついた。
その相手は、自分ではないのだろうけれど。
「っつか、こういうときこそ、見て見ぬふりしろよ。おまえ、得意だろうが」
億劫そうに上体を起こした真白が、パソコンの電源を落とした。ヘッドフォンから漏れていた高い声がぷつりと消える。
「いいじゃん、いまさらでしょ。いまさら」
ふつうはそうするだろうな、と納得したものの、へらりと笑うに慎吾は留めた。引く気にならなかったのだ。その笑顔を一瞥した真白の指が、トントンと机の縁を叩く。
「なに、なんなの、しろ。そんなに苛々して。珍しい」
「……最近」
ぶっきらぼうな調子に「最近?」と慎吾は繰り返した。言い淀むような沈黙のあとで、いかにも渋々と真白が口を開く。やはり少し珍しい態度だった。
「前にも増して性欲がねぇんだよ。さすがにちょっと心配になったというか」
「え? でも、昔から本当にないよね、しろ」
「だから。増してって言ってんだろ、増してって。それで、そんな話してたら野々村が」
「野々村さんが?」
「なんだよ。だから、野々村が、そりゃ刺激が足りてねぇんだって言って、勝手にいろいろ落として入れてったんだよ。これでも見てみろって」
「それで、これですか」
そういう相談を、あの人にはするんだ。俺には、なにも言わなかったくせに。
――兄弟、か。
増幅した苛立ちに、慎吾は小さく笑った。その笑みをどう取ったのか、真白が吐き捨てる。
「というか、おまえのせいだ」
その視線は、暗いパソコンの画面に向いたままだ。おまえのせい、と言われて、慎吾は思わず言い返した。
「なにがだよ」
おまえのせいだ、とか、むしろ、俺が言ってやりたいくらいだ。
「なにがも、なにも。おまえがさかった猿かなんかみたいにヤリまくってるから、俺が麻痺したんだって、そう言ってんだよ」
「へぇ。それで、俺のせい」
「毎晩毎晩あんな声ばっかり聞かされてみろ。なんも感じなくなるわ」
あぁ、なるほど。それで俺のせい、ね。
投げやりに告げられた理由を咀嚼して、「そっか」と慎吾は笑った。
「だから、そうだって言ってんだろ。わかったら、ちょっとは自重し……」
こちらを向いた真白と視線が絡む。その途端に、声が途切れた。
そんなに苛立った顔を、自分はしていたのだろうか。気がついても、どうにもできなかった。
いつもそうだ。真白への好意を押し隠すことだけで、自分は精いっぱいだ。それでも、こぼれそうになる感情を、必死にせき止めてきたつもりだ。大切にしたかったからだ。
真白を傷つけたいと思ったことは、一度もなかったはずだった。
「ねぇ、しろ」
「なんだよ」
及び腰の真白に、慎吾はにこりと笑いかけた。なんでなんだろうなぁ、と思う。
本当に幼いころから一緒にいるのに、真白とけんかをした覚えはほとんどない。自分も沸点は高いが、それ以上に真白が高いからだ。
それなのに、機嫌の悪い自分を、真白はなぜか昔から苦手がっていた。
本能で警戒しているのだろうか、もしかして。そこまで考えたところで、馬鹿らしい、と慎吾は切り捨てた。そんなはずはない。不機嫌な幼馴染みの相手をすることが面倒なだけだ。
けんかに発展しないことも、あたりまえの配慮として、把握済みの地雷にお互い触れないようにしているから、というだけ。特段に馬が合うわけでも、特別だからでも、なんでもない。
だから、このくらいでは、真白はなんとも思わない。俺と違って。
「俺がなんとかしてあげよっか」
「なんとかって。してくれる気があるなら、頻度減らしてくれたら、それでいいよ」
「そうじゃなくて。もっと直接的に、なんとかしてあげよっかってこと」
「はぁ? なにが」
「俺、うまいらしいから。安心していいよ」
怪訝な顔の真白にほほえんで、膝に手をかける。
「だから、なに……」
「俺が原因なんでしょ? お詫び代わりに解消してあげよっか。しろと違って、俺は有り余ってるし?」
困惑した視線は、慎吾の手元に注がれていた。けれど、その先はわかっていない。きっと、わからない、真白には。
なんてことないでしょ? そんなそぶりで、下着ごとスウェットをずり下げた。
ギリギリ冷静な判断力を残している部分が、しきりに警告を発している。けれど、同じ頭で、真白はなにも感じない、とおざなりに決めつけていた。
そういう意味で好きなのも、特別に思っているのも、俺だけだ。ずっと、俺だけだ。
「ちょ、なに……おまえ」
そこで、真白がようやく口を開いた。
「……なんか、怒ってる?」
どうにか絞り出したらしい問いかけに、乾いた笑みがこぼれる。
「しろの中で、今の流れで俺が怒る要素あったんだ?」
「そういうわけでもないけど。でも、怒ってんじゃん」
こんな感情の波には、すぐに気がつくくせに。
八つ当たりだとわかっていたのに、思ってしまった。俺の「好きだ」という感情にも、気がついてくれたらいいのに、なんて、そんなことを。
戸惑う気配を無視して、萎えかけていたものに触れる。ゆるく抜き始めた慎吾に、真白が小さく息を呑んだ。
「うん、大丈夫、大丈夫。ちゃんと反応してるし」
「触ったらそうなるに決まってるだろ。っつか、もういいから」
からかわれているにしても楽しくない、と真白の声が尖る。
阻害する目的で伸びてきた指先を、もう一方の手で掴む。ぎょっとしたように固まった顔に向かって、慎吾は繰り返した。
「大丈夫」
やんわりと揉みしだくと、手の中でまた少し固くなる。たまらなかった。
「はじめてでしょ? 誰かに触られるの。最後までやってあげる」
「いらねぇし。……というか、なにやってんだよ、おまえは」
答える代わりに、そこに唇で触れる。「はい、冗談」で終わらすことのできる一線を越えようとしている。わかっていたのに、やめることができなかった。
「おい、ちょっと。慎吾って」
舌先で舐め上げると、手の中でぴくりと指が震える。
「悪ふざけにしてもいいかげんにしろって。なぁ」
焦ったように頭を押されて、謝るなら今だな、とどこかで思った。今ならまだ「悪ふざけ」で真白は済ませてくれる。でも。
――今まで我慢してたはずなのになぁ。
もう、「今まで」に戻ることはできない。そのことを、慎吾は知った。
口に含んだまま愛撫を続けると、緩慢な刺激に真白が声を噛む。あ、ヤバい、と思った。もっと見たいし、もっと聞きたい。ぜんぶほしい。
今まで必死に隠して我慢していた感情が、爆発したみたいだった。
「慎……吾ッ」
指の隙間からのぞくうるんだ瞳が、いきそう、と訴える。懇願するようにもう一度名前を呼ばれて、駄目だと悟った。
ずっとほしかったし、触れたかった。自分のものにしたかったし、自分以外の誰にも渡したくなかった。ずっと、ずっと制御していたはずの独占欲。
抑えることは、もうできなかった。衝動のままに責め立てると、口の中で真白のものが大きく震える。あふれたものを、ごく当然と呑み込んだところで、ふっと急に頭が冷えた。
「……真白?」
恐る恐る顔を上げて、声をかける。呆然としていた真白の目に、ゆっくりと力が戻っていく。その様子に、慎吾は内心で首を傾げていた。
このときまで慎吾は、なんだかんだと言っても、「悪ノリしすぎだろ」の一言で、真白は一蹴すると思っていたのだ。
本気で怒りもしなければ、慎吾の本心に気がつくこともないだろう、と、そう。
「ごめん、……その、真白、びっくり、した?」
それ以外に、どう言えばいいのかわからなかった。
「最悪」
しばらくの間のあとで、真白が呟く。
「マジで最悪。なに考えてんの、おまえ」
「なにって」
言えるわけがない。口を噤んだ慎吾を、どうとらえたのかは知らない。うつむいた真白が頭を振る。見えなくなった表情が、ただ怖かった。
わかると思っていた、信じていたはずのなにかが、壊れていく。
「もう寝る」
「真白」
「もう、寝る。飯とかも、もういい」
頑なな台詞に、「ごめん」と慎吾は繰り返した。「実は真白が好きだったから?」、「真白に触れたかったから?」、「でも、ずっと我慢していたから?」。どれも言えるわけがない。
顔を見たい。目を見たい。でも、その頬に手を伸ばすことは許されない。
これ以上ここにいたら駄目だ。真白にとっても、きっといいことではない。
自分への言い訳のように念じて、慎吾は笑った。
なんでもないよ、と。気にしないでいいよ、と、本当は言いたかった。
「いつでも、また言ってね。そうしたら、ごはんつくりにくるし」
うつむいたまま、真白はなにも言わなかった。真白は、基本的にしっかりと人の目を見る。吸い込まれそうになる、まっすぐな瞳で。
それなのに、真一文字に結んだ口元しか見えない。
「じゃあね」
ぎこちなく告げて、逃げるように立ち上がる。ドアを閉める間際、
「結局、あいつらも俺も一緒なんじゃねぇか」
と呟いた声が聞こえた気がした。
長身を縮めて夜道を歩きながら、慎吾は白い息を吐いた。寒がりの幼馴染みは早々に冬支度を整えていたが、本番は十二月に突入したこれからである。
「……十二月か」
今年ももう終わるのだと思うと、なんとも言えない感慨が胸に湧いた。あっというまだったような、長かったような。地元を離れてからの日々を思い返すにつれ、また白い息がこぼれる。
はぁ、ともう一度溜息を吐いて、夢見荘の階段手前で慎吾は立ち止まった。
駄目だ。なんというか、自分の中の苛々が、まったく薄れる気配がない。ぼさぼさと頭を掻きながら、慎吾は首を捻った。
――いや、わかってんだけどさ。俺の心が狭いってことは。
そう。わかってはいるのだが。あの真白が。マイペースで傍若無人な、あの幼馴染みが。
なぜか、自分に対して遠慮するそぶりを見せているのだ。おまけに、心臓に毛が生えていると評判の情緒まで揺らいでいる感じがある。絶対におかしいし、異変としか言いようがない。
カンカンと小さな音を立てて階段を上る。言動に違和感を覚えたタイミングを考えると、原因は野々村だ。おそらく、なにかを言われたのだろう。
たいしたことではなかったのだろうが、そのときの真白の琴線に触れた、なにか。
とうとう三度目の溜息を、慎吾はこぼした。勝手だとわかっている。それでも、第三者に言われたなにかで態度を変えられたことが、気に食わなかったのだ。だから、苛々している。
――そんなこと言っても、どうにかしないとな。いや、本当に。
八つ当たりをしたいわけではない。むしろ、その逆で。優しくしたい、と。たぶん、ずっと、自分は願っている。
どうにか四度目の溜息は呑み込んで、顔を上げる。そのタイミングで、階段を下りようとしていた相手と目が合った。あ、と声が漏れる。
「野々村さん」
「お、慎吾。このあいだはどうもね。鍋ごちそうさん」
「いや、ぜんぜん。いいですよ。これから練習ですか?」
もやもやとしていた感情に蓋をして、愛想笑いを張り付ける。そろそろ二十三時だが、このくらいの時間にギターを担いだ野々村とすれ違うことは、間々あることなのだ。
「そう、これからね。またライブするからさ、よかったら来てよ。ちびとでもいいし、彼女とでもいいし……って、いないんだっけ、彼女」
「ですね、今は」
この人にそんな話したっけな、と訝しんだものの、笑顔で頷く。まぁ、真白はライブハウスには行きたがらないと思うが、それはそれだ。
「あ、じゃあ。あのちびは? 彼女いたことってあったりすんの?」
「なんでですか?」
質問で返した慎吾に気を悪くしたふうでもなく、「いや、実はさ」と野々村が眉を下げる。
「このあいだ、悩んだ顔してたんだよ。あの、普段なんにも考えてなさそうなのが」
ひどい言われようである。
「いなかったことはないですよ」
とりあえず、慎吾は苦笑した。中学生だったころに、告白されるがままに付き合い、ものの一週間で「真白くんってつまんない」と身も蓋もない理由で振られていたが。嘘ではない。
「じゃあ、興味あってもおかしくはねぇのか。まぁ、あいつも男だもんな」
したり顔で野々村が頷く。苛立ちを覚えたが、慎吾は笑顔でやり過ごした。
「どうなんですかね」
「どうなんですかねって。しねぇの、そういう話」
「いや……」
「わかった、逆に言いにくいんだろ。おまえら、兄弟みたいなもんだから」
兄貴相手だと言いにくい、みたいなこともあるもんな。そう続いた言葉の後半は、あまり耳に入ってこなかった。兄弟という単語が、妙に引っかかってしまったのだ。
「まぁ、とにかくさ。なんか相談されたら、笑わないで相手してやってくんない? ちょっと責任感じてるんだよね、俺も」
「はぁ」
「そういうわけなんで、頼むわ」
自分に話したことで肩の荷が下りたらしい。あとは任せたとばかりに、軽い足取りで階段を下りていく。
その足音が聞こえなくなったところで、慎吾は拳に視線を落とした。いったい、いつから握りしめていたのだろう。ゆっくりと力を抜いて、足を踏み出す。
本当に勝手だとわかっているし、自分の心が狭いことも重々に承知している。
それでも、自分が一番よく知っているはずの幼馴染みのことを、他人に知ったふうに言われることが、慎吾は昔から嫌いだった。
あれ、珍しい。
再びそんなふうに感じたのは、自室に鍵を差し込もうとしたときだった。隣の二〇二号室から、うっすらとした明かりが漏れている。
――珍しいこともあるもんだな。
胸中で、慎吾は繰り返した。眠ることが至福と言って憚らない幼馴染みは、いつも二十三時には布団に入っている。
まぁ、消し忘れただけかもしれないけど。ずぼらだから。いいかげんだから。言い聞かせてみたものの、どうにも気持ちが落ち着かない。キーケースを見つめたまま、立ち尽くすこと数秒。
溜息ひとつで、慎吾は隣の部屋の前に移動した。ごはんをつくりに行くとき以外は使わないでおこうと決めていたはずの合鍵で、開錠する。
やめたほうがいいということは、わかっていた。わかっていても、珍しいことが続くと、焦燥が募ってたまらなくなる。
俺の知らないところで、俺が関係していないところで、変わってんじゃねぇよ。動かされてんじゃねぇよ。そんなことを思ってしまう。
自己本位甚だしい感情だと理解しているから、極力態度に出すことはしないように努めているけれど。
――なのに、肝心のあいつに通じないんだよなぁ。
誰もが自分のことを「いいやつ」だと言う。気分にムラがなく、誰にでも優しい、と。
意識してふるまっているのだから、そういう意味では当然の評価だと思っている。それなのに、幼馴染みにだけは、まったく通用しないのだ。真白は、慎吾の感情を簡単に読み取ってしまう。
「しろ? まだ起きてんの?」
一声かけて、靴を脱ぐ。顔を上げた瞬間、座卓の前にいた真白と目が合って、え、と半ば本気で慎吾は驚いた。いっそう珍しいことに、パソコンまで立ち上がっている。起きていたのか。
「あ、いや。電気ついてたから。珍しいなって」
心なしかびっくりした顔をさせてしまって、言い訳めいた台詞が口をつく。無言のままこちらを見つめていた真白が、溜息まじりにヘッドフォンを外した。ぱさりと癖のない黒髪が揺れる。
「萎えた」
「萎えたって、え、なに。珍しい。AV?」
三大欲求のバランス比率が睡眠欲に偏り切っている、あの真白が。興味が勝って、カーペットに転がった真白の隣に回り込む。
「俺の趣味じゃないけど」
「うわ、本気で珍しいの見てる。どういう心境の変化なの、ちょっと」
寝転がっている幼馴染みに、慎吾は視線を移した。その視線を受けて、真白が嫌そうに顔をしかめる。
「だから。俺の趣味じゃねぇって言ってんだろ」
「いや、だって、これ」
真白の趣味ではないという断りは聞いたし、承知もしているが、いわゆるエスエムものである。驚いてもしかたがないだろう。
――前にちらっと見たときは、早々にギブアップしてたくせに。
仲間内で過激なものの鑑賞会が流行っていたころの話だが、慎吾はよく覚えている。もっと楽しそうなのがいいという理由が、真白らしくてほほえましかったからだ。
彼女ができたら、面倒くさいだのなんだのと言いながら、ちゃんと優しくするんだろうな。容易に想像がついた。
その相手は、自分ではないのだろうけれど。
「っつか、こういうときこそ、見て見ぬふりしろよ。おまえ、得意だろうが」
億劫そうに上体を起こした真白が、パソコンの電源を落とした。ヘッドフォンから漏れていた高い声がぷつりと消える。
「いいじゃん、いまさらでしょ。いまさら」
ふつうはそうするだろうな、と納得したものの、へらりと笑うに慎吾は留めた。引く気にならなかったのだ。その笑顔を一瞥した真白の指が、トントンと机の縁を叩く。
「なに、なんなの、しろ。そんなに苛々して。珍しい」
「……最近」
ぶっきらぼうな調子に「最近?」と慎吾は繰り返した。言い淀むような沈黙のあとで、いかにも渋々と真白が口を開く。やはり少し珍しい態度だった。
「前にも増して性欲がねぇんだよ。さすがにちょっと心配になったというか」
「え? でも、昔から本当にないよね、しろ」
「だから。増してって言ってんだろ、増してって。それで、そんな話してたら野々村が」
「野々村さんが?」
「なんだよ。だから、野々村が、そりゃ刺激が足りてねぇんだって言って、勝手にいろいろ落として入れてったんだよ。これでも見てみろって」
「それで、これですか」
そういう相談を、あの人にはするんだ。俺には、なにも言わなかったくせに。
――兄弟、か。
増幅した苛立ちに、慎吾は小さく笑った。その笑みをどう取ったのか、真白が吐き捨てる。
「というか、おまえのせいだ」
その視線は、暗いパソコンの画面に向いたままだ。おまえのせい、と言われて、慎吾は思わず言い返した。
「なにがだよ」
おまえのせいだ、とか、むしろ、俺が言ってやりたいくらいだ。
「なにがも、なにも。おまえがさかった猿かなんかみたいにヤリまくってるから、俺が麻痺したんだって、そう言ってんだよ」
「へぇ。それで、俺のせい」
「毎晩毎晩あんな声ばっかり聞かされてみろ。なんも感じなくなるわ」
あぁ、なるほど。それで俺のせい、ね。
投げやりに告げられた理由を咀嚼して、「そっか」と慎吾は笑った。
「だから、そうだって言ってんだろ。わかったら、ちょっとは自重し……」
こちらを向いた真白と視線が絡む。その途端に、声が途切れた。
そんなに苛立った顔を、自分はしていたのだろうか。気がついても、どうにもできなかった。
いつもそうだ。真白への好意を押し隠すことだけで、自分は精いっぱいだ。それでも、こぼれそうになる感情を、必死にせき止めてきたつもりだ。大切にしたかったからだ。
真白を傷つけたいと思ったことは、一度もなかったはずだった。
「ねぇ、しろ」
「なんだよ」
及び腰の真白に、慎吾はにこりと笑いかけた。なんでなんだろうなぁ、と思う。
本当に幼いころから一緒にいるのに、真白とけんかをした覚えはほとんどない。自分も沸点は高いが、それ以上に真白が高いからだ。
それなのに、機嫌の悪い自分を、真白はなぜか昔から苦手がっていた。
本能で警戒しているのだろうか、もしかして。そこまで考えたところで、馬鹿らしい、と慎吾は切り捨てた。そんなはずはない。不機嫌な幼馴染みの相手をすることが面倒なだけだ。
けんかに発展しないことも、あたりまえの配慮として、把握済みの地雷にお互い触れないようにしているから、というだけ。特段に馬が合うわけでも、特別だからでも、なんでもない。
だから、このくらいでは、真白はなんとも思わない。俺と違って。
「俺がなんとかしてあげよっか」
「なんとかって。してくれる気があるなら、頻度減らしてくれたら、それでいいよ」
「そうじゃなくて。もっと直接的に、なんとかしてあげよっかってこと」
「はぁ? なにが」
「俺、うまいらしいから。安心していいよ」
怪訝な顔の真白にほほえんで、膝に手をかける。
「だから、なに……」
「俺が原因なんでしょ? お詫び代わりに解消してあげよっか。しろと違って、俺は有り余ってるし?」
困惑した視線は、慎吾の手元に注がれていた。けれど、その先はわかっていない。きっと、わからない、真白には。
なんてことないでしょ? そんなそぶりで、下着ごとスウェットをずり下げた。
ギリギリ冷静な判断力を残している部分が、しきりに警告を発している。けれど、同じ頭で、真白はなにも感じない、とおざなりに決めつけていた。
そういう意味で好きなのも、特別に思っているのも、俺だけだ。ずっと、俺だけだ。
「ちょ、なに……おまえ」
そこで、真白がようやく口を開いた。
「……なんか、怒ってる?」
どうにか絞り出したらしい問いかけに、乾いた笑みがこぼれる。
「しろの中で、今の流れで俺が怒る要素あったんだ?」
「そういうわけでもないけど。でも、怒ってんじゃん」
こんな感情の波には、すぐに気がつくくせに。
八つ当たりだとわかっていたのに、思ってしまった。俺の「好きだ」という感情にも、気がついてくれたらいいのに、なんて、そんなことを。
戸惑う気配を無視して、萎えかけていたものに触れる。ゆるく抜き始めた慎吾に、真白が小さく息を呑んだ。
「うん、大丈夫、大丈夫。ちゃんと反応してるし」
「触ったらそうなるに決まってるだろ。っつか、もういいから」
からかわれているにしても楽しくない、と真白の声が尖る。
阻害する目的で伸びてきた指先を、もう一方の手で掴む。ぎょっとしたように固まった顔に向かって、慎吾は繰り返した。
「大丈夫」
やんわりと揉みしだくと、手の中でまた少し固くなる。たまらなかった。
「はじめてでしょ? 誰かに触られるの。最後までやってあげる」
「いらねぇし。……というか、なにやってんだよ、おまえは」
答える代わりに、そこに唇で触れる。「はい、冗談」で終わらすことのできる一線を越えようとしている。わかっていたのに、やめることができなかった。
「おい、ちょっと。慎吾って」
舌先で舐め上げると、手の中でぴくりと指が震える。
「悪ふざけにしてもいいかげんにしろって。なぁ」
焦ったように頭を押されて、謝るなら今だな、とどこかで思った。今ならまだ「悪ふざけ」で真白は済ませてくれる。でも。
――今まで我慢してたはずなのになぁ。
もう、「今まで」に戻ることはできない。そのことを、慎吾は知った。
口に含んだまま愛撫を続けると、緩慢な刺激に真白が声を噛む。あ、ヤバい、と思った。もっと見たいし、もっと聞きたい。ぜんぶほしい。
今まで必死に隠して我慢していた感情が、爆発したみたいだった。
「慎……吾ッ」
指の隙間からのぞくうるんだ瞳が、いきそう、と訴える。懇願するようにもう一度名前を呼ばれて、駄目だと悟った。
ずっとほしかったし、触れたかった。自分のものにしたかったし、自分以外の誰にも渡したくなかった。ずっと、ずっと制御していたはずの独占欲。
抑えることは、もうできなかった。衝動のままに責め立てると、口の中で真白のものが大きく震える。あふれたものを、ごく当然と呑み込んだところで、ふっと急に頭が冷えた。
「……真白?」
恐る恐る顔を上げて、声をかける。呆然としていた真白の目に、ゆっくりと力が戻っていく。その様子に、慎吾は内心で首を傾げていた。
このときまで慎吾は、なんだかんだと言っても、「悪ノリしすぎだろ」の一言で、真白は一蹴すると思っていたのだ。
本気で怒りもしなければ、慎吾の本心に気がつくこともないだろう、と、そう。
「ごめん、……その、真白、びっくり、した?」
それ以外に、どう言えばいいのかわからなかった。
「最悪」
しばらくの間のあとで、真白が呟く。
「マジで最悪。なに考えてんの、おまえ」
「なにって」
言えるわけがない。口を噤んだ慎吾を、どうとらえたのかは知らない。うつむいた真白が頭を振る。見えなくなった表情が、ただ怖かった。
わかると思っていた、信じていたはずのなにかが、壊れていく。
「もう寝る」
「真白」
「もう、寝る。飯とかも、もういい」
頑なな台詞に、「ごめん」と慎吾は繰り返した。「実は真白が好きだったから?」、「真白に触れたかったから?」、「でも、ずっと我慢していたから?」。どれも言えるわけがない。
顔を見たい。目を見たい。でも、その頬に手を伸ばすことは許されない。
これ以上ここにいたら駄目だ。真白にとっても、きっといいことではない。
自分への言い訳のように念じて、慎吾は笑った。
なんでもないよ、と。気にしないでいいよ、と、本当は言いたかった。
「いつでも、また言ってね。そうしたら、ごはんつくりにくるし」
うつむいたまま、真白はなにも言わなかった。真白は、基本的にしっかりと人の目を見る。吸い込まれそうになる、まっすぐな瞳で。
それなのに、真一文字に結んだ口元しか見えない。
「じゃあね」
ぎこちなく告げて、逃げるように立ち上がる。ドアを閉める間際、
「結局、あいつらも俺も一緒なんじゃねぇか」
と呟いた声が聞こえた気がした。



