「お、ちび」
そろそろ講義に出席しないと、必修単位の取得がマジでヤバい。そんなわけで、真白は三日ぶりに大学に顔を出していた。
そうして、ようやく夢見荘に戻ってきたと思ったら、これである。
「ちびじゃねぇし」
階段の最後の一段を上ったところで、真白は憮然と言い返した。慎吾やおまえが無駄にでかいだけだ。たぶん。
「おー、じゃあ、えーと、……なんだっけ?」
「城崎」
「あ、それ、それ。どっかの温泉地と同じってとこまでは覚えてたんだけどな」
いや、惜しかった、と悪気のない顔で笑う隣人を、真白は黙殺した。
覚えてねぇのは、おまえが人の顔を見るたびに「ちび」としか言わないからだろうが。
さて、角部屋ではない真白には、慎吾のほかにもうひとり隣人が存在していた。せめて反対側だけでも静かであってほしかったのだが、そうは問屋が卸さなかった隣人である。
ギシアンよりは幾分マシなものの、こちらはこちらでギターの音がひどいのだ。おまけに、なんの因果か、同じ大学の一学年先輩で、真白とは学部も同じ。目立つオレンジ頭のバンドマン。悪人ではないが、良い隣人だとは口が裂けても言いたくない。
その野々村が、なぜか真白の部屋の前で立ち止まっている。
早く自分のところに入ればいいのに。無言の圧をかけても、野々村はめげなかった。へらりとした笑みを張り付けて、じっとこちらを見返してくる。ろくでもないことを考えている顔だ。
うぜぇと思ったが、無視したままドアノブを回すことは憚られた。諦めの境地で、おざなりに問いかける。
「なんか用?」
「いや、用っていうか、どっちかっていうと、お願いなんだけど」
「聞きたくないから終わりでいい?」
寒いし疲れたから、俺は早く部屋に入りたい。そして寝たい。無表情で言い切った真白に、「待って、待って」と野々村が盛大に縋りつく。
「いいじゃん、ちょっとくらい隣人のお願い聞いてくれても! どうせ、城崎ちゃんは今日も慎吾飯なんだろ? 俺は金欠なの!」
「いや、知らないし」
「金欠なの。金欠。来月学食で奢ってあげるからさ、今日まぜてくんない?」
「あんたにそれ言われて、奢ってもらった記憶ないんだけど」
夏にも同じようなことを言われた記憶はあるが、それだけだ。
「いやいやいや。それは、おまえが大学にいないからだろ。慎吾にはちゃんと二回くらい奢ったよ、俺」
「あ、そう」
まぁ、実際につくっているのは慎吾なので、べつにいいのだが。
――でもなぁ。
ちらりと真白は大型犬を窺いみた。問題は、その慎吾なのだ。
急に三人分となると面倒だったのか、その場は人当たり良く笑っていたくせに、散会後の機嫌が悪かった。
本人にも自覚はなかったかもしれないが、悪いものは悪かった。
「あ、そう。じゃなくてさぁ、城崎ちゃーん」
「慎吾に言えよ。俺じゃなくて」
「だって、慎吾つかまんねぇし。それに、城崎ちゃんのお願いだったら聞くでしょ、慎吾」
「いや」
そんなにあいつ、俺に甘くないぞ。言おうとしたものの、傍から見るとそうなのかもしれない。真白は思い直した。だがしかし、機嫌が悪い慎吾は嫌だ。
沸点の高い幼馴染みは、めったなことでは怒らない。だからこそ、真白は機嫌が低空飛行しているときの慎吾が苦手だった。なんというか、隣にいても落ち着かない。
「じゃあ、またな」
「城崎ちゃん。教育言論のレポート、俺の去年のデータあげよっか?」
悪魔のささやきに、真白はドアノブを回そうとしていた手を止めた。
「あの先生、けっこう厳しいでしょ。出席日数重視だし。どうせ、城崎ちゃんさぼってるんじゃないの? 小テストも何回か受け損ねてない?」
「……損ねてる」
そろそろかもしれないと当たりをつけたから重い腰を上げたのに、小テストは前回行われていたらしい。行った意味がなかった。
「だろ? ってことはさ、レポートの評価悪かったら終わりじゃん。俺、去年、Aプラスだったんだよね」
Aプラス。機嫌の悪い慎吾と、必修単位。
わずかな葛藤ののち、真白の振り子は単位習得に傾いた。だって、来年も同じ講義とか絶対に受けたくない。
まぁ、たぶん、大丈夫だろ。早目に連絡さえ入れておけば。ふたり分の材料しかないのに、急遽三人とかになるのが駄目なんだ、たぶん。
そう思い切って、真白は自宅のドアを開放した。すべては単位のためである。
「良い隣人がいてよかったねぇ、お互いに」
ほくそ笑む野々村に無言で頷き返すと、真白はスマホをポケットから取り出した。
ご機嫌であってくれ、と念じてかけた電話が、ものの二コールで繋がる。あいかわらず早い。さすが真白の母親に「真白に連絡するより、慎吾くんに連絡するほうがよっぽど早い」と評されているだけはある。なにからなにまでマメなのだ。
「どうしたの? しろが俺に電話とか珍しいね」
よかった、機嫌は悪くない。おまけに、背後の雑音から察するに、やつはスーパーにいるらしい。間に合った。内心でガッツポーズを決めて、本題に入る。
「なぁ、今日のごはんって、もう決めてた?」
「いや、まだ決めてないけど。なにか食べたいものあるの?」
「なんでもいいんだけど。野々村が食いたいって」
瞬間、軽快だった応答が、ぴたりと止んだ。通話先からは、にぎやかな店内放送が鳴り響いている。
「慎吾?」
「あー……ごめん、うるさくて聞こえなかった。で、なに? 野々村さん、来てるの?」
もしかすると、ちょっと声のトーンが下がったかもしれない。
気がついてはいたが、背に代えることのできる腹がなかったので、真白は「うん」と頷いた。けっこう本気で必修単位がヤバいのだ。
「了解。鍋でいい? って、言っといて」
溜息とともに告げられた直後、なんの余韻もなく通話が切れた。珍しい。やっぱり怒っているのかもしれない。なんでなのかは、ちょっとわからないが。
「城崎ちゃーん、慎吾なんだってー?」
「え、あぁ、……鍋」
「あぁ、いいねー。鍋。寒いもんねー」
というか、あの子はマメだね、本当に。感心した顔の野々村に適当に相槌を打って、そのまま正面に腰を下ろす。
――まぁ、いいか。考えてもわかんねぇし。
集中してひとつのことを考えることができないのは、昔からだ。どうしても、「まぁ、いいか」で済ませたくなってしまう。
駄目なんだろうな、と思うことはあるものの、一番近くにいる幼馴染みが、なんだかんだと許すので、「まぁ、いいか」と改めることを諦めてしまうのだ。堂々巡りである。
つまり、半分は慎吾のせいだ。駄目すぎる責任転嫁を図って、真白は背中を丸めた。座卓にぺたりと頬を押し付ける。
「城崎ちゃんと慎吾ってさ、毎晩こうやって一緒に食ってんの?」
「さすがに毎晩ではないけど」
「けど? じゃあ週三くらい?」
問われて、真白はうーんと唸った。
「週四か、五」
「マジか」
自分で聞いたくせに、野々村がドン引いた顔をした。
「おまえら、もっと外で飲んだり遊んだりしないの? いや、城崎ちゃんはしないか。でも、慎吾は? するだろ?」
「べつに」
外で飲むと気疲れするとかなんとか言っていた気がするし。
否定すると、野々村は「マジか」ともう一度呟いた。マジだ。気を使いすぎるから気疲れするのだろうと真白は推測している。そういうやつなのだ。
「じゃあ、彼女は? って、おまえに聞くのは愚問か。愚問だったな。悪い」
「確信系で聞くな。いないけど」
「でも、慎吾はいるだろ?」
問い重ねられて、真白はしかたなく机から顔を上げた。無言のまま首を横に振る。
「マジで?」
「うん。わりと昔から」
人当たりが良くて、ついでに顔も良い幼馴染みは、昔からあたりまえのようにモテていた。
けれど、真白の記憶にある限り、特定の彼女がいたことはなかったはずだ。セフレはカウントされないだろう。
「あぁ、でも、そう言われると、ちょっと納得。っつか、そうだよな」
「なにが?」
「だって、彼女いたら、おまえの面倒こんなに見てねぇだろ。いや、逆か。おまえの面倒見てるからいないのか」
言われた内容を咀嚼して、首を傾げる。ふと気づいてしまったのだ。もしかして、それで機嫌が悪いのだろうか。
いいかげん面倒になってきた、とか。あるいは、彼氏か彼女かは知らないけれど、特定の相手をつくりたくなってきた、とか。でも、無駄に責任感があるから、いまさら俺の親との約束を反故にもできず困っている、とか。
……つくりたいのか。
特定の、特別な誰かを。それで、俺の今がなくなるのか。ただの想像なのに、なんだかすごく嫌な感じがした。
「お? どうした、ちび。気にしたのか?」
おもねる調子に、そっけなく「べつに」と応じる。なにがどう嫌なのか、説明できる気もしなかったからだ。
「ならいいけど。なんか神妙な顔してたから。普段あれだけぼーっとしてんのに」
それはそれで、大変失礼なことを言われているような。遅ればせながらむっとしたタイミングで、玄関のドアが開いた。吹き込む風が冷たい。
「ただいま、しろ。野々村さんもこんにちは」
「慎吾」
振り返ると、慎吾がにこと目元を笑ませた。電話で感じた「怒ってる」は気のせいだったのだろうかと思いそうになる、いつもどおりの笑顔。
いや、だがしかし。粗探しよろしく凝視していると、慎吾が眉を下げた。
「なに、どうしたの、しろ」
「いや、だから、どうもしないって」
口走った直後に八つ当たりのような言い方になったと悟ったが、後の祭りである。
「でも……」
気づかわしそうな問いかけを遮って、真白は立ち上がった。なんで、こいつは、一目見ただけで俺の変化に気づくんだ。自分でも説明できないレベルの「あれ?」だったのに。
らしくない真白の積極的な行動に、慎吾がぎょっとした顔になる。こいつも大概失礼だ。憤慨しつつも、奪い取ったエコバッグを調理台の上に置く。
「あの、しろ?」
「なに鍋?」
バッグの中身を覗き込みながら尋ねると、隣にやってきた慎吾が、ふっと笑った。
「闇鍋にもトマト鍋にもしないので、どうぞ、ご安心を」
「ふつうが一番おいしいと思う、マジで」
「そっか? 俺、変わり種も好きだけどな」
「じゃあ、おまえがひとりでつくって食ったらいいだろ」
「城崎ちゃん、独り身の俺になかなかひどいこと言うね。そりゃ、おまえらは、ふたりだから鍋も食いやすいんだろうけど」
座ったまま文句を垂れる野々村に、ワンテンポ遅れて真白は得心した。あたりまえの話なのに、なにも気がついていなかった。
ふつうのひとり暮らしだったら、鍋をつつく機会なんて、そうないんだな。
「今日はコンロの場所、覚えてるの?」
「左側」
即答すると、「よろしい」と慎吾が笑って頷いた。
あ、やっぱり、怒ってる。
真白が確信したのは、「ごちそうさま、練習行ってくるねー」と、上機嫌で野々村が出て行ったあとだった。
「なぁ」
「んー、なに。洗い物しちゃうからさ、机の上の持ってきて」
会話になっていない、と思いながらも、真白はすみやかに立ち上がった。
台所に立つ背中からは、機嫌が悪いオーラがにじんでいる。というか、真白にはそう見える。
「あの、おまえさ」
「だから、なにってば。立ってるんだったら、ついでに、それ拭いといて」
はい、と手元に視線を落としたまま濡れた皿を渡されて、真白は再確認した。間違いなく怒っている。
怒っているときや、なにか腹に一物を抱えているとき。そういった平静でいることが難しいようなとき、慎吾は絶対に真白の目を見ないのだ。
感情の揺らぎがわかったところで、原因は不明であるわけだけど。
手渡された小皿を布巾で拭きながら、幼馴染みをそっと盗み見る。同学年のはずなのに、昔からずっと見上げている横顔。プラス十センチ。それが、ふたりのあいだの距離だった。
十センチ背が高いだけなのに、慎吾はまるで保護者のように真白の面倒を見てくれていた。けれど、いつまでも甘えていていいのだろうか。
「なぁ、慎吾」
「だから、なんですかってば。ほら、これも」
新たに手渡された器を受け取った真白は、そのままを問いかけた。
「おまえさ、こういうの、迷惑?」
流れるようだった慎吾の指先の動きが、わずかに鈍る。
「こういうのって、うーん、そうだね。いきなりはやめてほしいかもね」
俺にも一応予定ってものがあるからね。口元だけで笑って、慎吾がスポンジに洗剤を足した。あとは鍋で最後だ。
それは、なんの予定なのだろう。誰のためのものなのだろう。そんなふうに考えてしまった自分が意外で、あぁ、駄目だな、とようやく自覚した。
慎吾に、自分の面倒をあたりまえの顔で見てくれる幼馴染みの存在に、依存しすぎている。
思考を遮断するように、真白は一度小さく瞬いた。
「べつに、いいよ」
「……え? なにが?」
きゅっとノズルの閉まる音がして、流水が止まる。隣を見上げると、ひさしぶりにしっかりと目が合った気がした。
「だから、べつにいいって。おまえが面倒なんだったら。俺だって、ひとりでもできるし」
そう繰り返すと、困惑した顔で慎吾が笑った。
「ごめん、しろ。それ、なんの話? ちゃんと主語言って?」
「だから、べつにいいんだって。おまえにも予定があるんだったら、それ優先したらいいし。むりやり俺に構ってくれなくても」
だって、それがふつうなのだろうということは、さすがに真白でもわかる。
それぞれで独立していて、それぞれの生活があって、だから、毎日のように一緒に過ごしたりなんてしない。いい年をした幼馴染みふたりが、毎朝一緒にごはんを食べることも、ふつうではない。そう判じることもできる。それが、自分たち以外でさえあれば。
なにか言いたそうに眉根を寄せた慎吾が、小さく溜息を吐いた。そうしてから、「あのね」と言い聞かせる調子で口火を切る。うつむきかけていた視線が上がる。
「俺が、今まで一回でも、しろより誰かを優先したことってあった?」
「でも」
「でもじゃないでしょ。なかったでしょ、そんなこと。真白の相手するのが嫌だったら、もっと前に言ってる。それに、いくら俺の面倒見が良くてもね、いやいやだったら、こんなこと半年以上も続けられない」
慎吾が本音を語ってくれていることは、真白にはあたりまえにわかる。でも、それが、いつまで持続するものなのかは知らない。
恋人と幼馴染み。どちらを優先するのかと問われたら、恋人なのだと思う。それもわかっている。
今は、今までは、その存在がなかったから、俺を最優先にしてくれていたというだけで。
「ちなみに、確認なんだけど。俺がさっき言ったのは、野々村さんの話だからね」
「うん」
でも、今、こうして隣にいてくれるのなら、いいのかもしれない。結論を先延ばしにしたいがための妥協とわかっていても、今の真白にその先を考えることは難しかった。
「うん」
だから、もう一度、しっかりと目を見て頷く。ほっとしたように慎吾が表情をゆるめた。柔らかい、いつもの顔。自分にだけ見せる、つくりものじゃない笑顔。
なんでもしてくれる器用な手がノズルを回す。その手が土鍋を洗い始めるところを、真白はなんとなくじっと見ていた。こちらに来てすぐに、ふたりで買ったものだ。ひとりだったら、使いようもない大きさのもの。いつか、埃を被る日が来るのだろうか。
「ねぇ、しろはさ」
なんでもないことのように慎吾が言った。
「俺がこんなふうに入り浸ってんの、嫌だったりしないの?」
なにをいまさら、と真白は内心で呆れた。土鍋に視線を注いだまま、「そんなわけないだろ」と言い放つ。
だって、慎吾は空気のような存在なのだ。いなくなったら、きっと、すごく困ってしまう。だから。ずっと、ここにいてくれたらいいのに。
そこまでは言葉にしなかったけれど、心の中で、真白はそう思っていた。
そろそろ講義に出席しないと、必修単位の取得がマジでヤバい。そんなわけで、真白は三日ぶりに大学に顔を出していた。
そうして、ようやく夢見荘に戻ってきたと思ったら、これである。
「ちびじゃねぇし」
階段の最後の一段を上ったところで、真白は憮然と言い返した。慎吾やおまえが無駄にでかいだけだ。たぶん。
「おー、じゃあ、えーと、……なんだっけ?」
「城崎」
「あ、それ、それ。どっかの温泉地と同じってとこまでは覚えてたんだけどな」
いや、惜しかった、と悪気のない顔で笑う隣人を、真白は黙殺した。
覚えてねぇのは、おまえが人の顔を見るたびに「ちび」としか言わないからだろうが。
さて、角部屋ではない真白には、慎吾のほかにもうひとり隣人が存在していた。せめて反対側だけでも静かであってほしかったのだが、そうは問屋が卸さなかった隣人である。
ギシアンよりは幾分マシなものの、こちらはこちらでギターの音がひどいのだ。おまけに、なんの因果か、同じ大学の一学年先輩で、真白とは学部も同じ。目立つオレンジ頭のバンドマン。悪人ではないが、良い隣人だとは口が裂けても言いたくない。
その野々村が、なぜか真白の部屋の前で立ち止まっている。
早く自分のところに入ればいいのに。無言の圧をかけても、野々村はめげなかった。へらりとした笑みを張り付けて、じっとこちらを見返してくる。ろくでもないことを考えている顔だ。
うぜぇと思ったが、無視したままドアノブを回すことは憚られた。諦めの境地で、おざなりに問いかける。
「なんか用?」
「いや、用っていうか、どっちかっていうと、お願いなんだけど」
「聞きたくないから終わりでいい?」
寒いし疲れたから、俺は早く部屋に入りたい。そして寝たい。無表情で言い切った真白に、「待って、待って」と野々村が盛大に縋りつく。
「いいじゃん、ちょっとくらい隣人のお願い聞いてくれても! どうせ、城崎ちゃんは今日も慎吾飯なんだろ? 俺は金欠なの!」
「いや、知らないし」
「金欠なの。金欠。来月学食で奢ってあげるからさ、今日まぜてくんない?」
「あんたにそれ言われて、奢ってもらった記憶ないんだけど」
夏にも同じようなことを言われた記憶はあるが、それだけだ。
「いやいやいや。それは、おまえが大学にいないからだろ。慎吾にはちゃんと二回くらい奢ったよ、俺」
「あ、そう」
まぁ、実際につくっているのは慎吾なので、べつにいいのだが。
――でもなぁ。
ちらりと真白は大型犬を窺いみた。問題は、その慎吾なのだ。
急に三人分となると面倒だったのか、その場は人当たり良く笑っていたくせに、散会後の機嫌が悪かった。
本人にも自覚はなかったかもしれないが、悪いものは悪かった。
「あ、そう。じゃなくてさぁ、城崎ちゃーん」
「慎吾に言えよ。俺じゃなくて」
「だって、慎吾つかまんねぇし。それに、城崎ちゃんのお願いだったら聞くでしょ、慎吾」
「いや」
そんなにあいつ、俺に甘くないぞ。言おうとしたものの、傍から見るとそうなのかもしれない。真白は思い直した。だがしかし、機嫌が悪い慎吾は嫌だ。
沸点の高い幼馴染みは、めったなことでは怒らない。だからこそ、真白は機嫌が低空飛行しているときの慎吾が苦手だった。なんというか、隣にいても落ち着かない。
「じゃあ、またな」
「城崎ちゃん。教育言論のレポート、俺の去年のデータあげよっか?」
悪魔のささやきに、真白はドアノブを回そうとしていた手を止めた。
「あの先生、けっこう厳しいでしょ。出席日数重視だし。どうせ、城崎ちゃんさぼってるんじゃないの? 小テストも何回か受け損ねてない?」
「……損ねてる」
そろそろかもしれないと当たりをつけたから重い腰を上げたのに、小テストは前回行われていたらしい。行った意味がなかった。
「だろ? ってことはさ、レポートの評価悪かったら終わりじゃん。俺、去年、Aプラスだったんだよね」
Aプラス。機嫌の悪い慎吾と、必修単位。
わずかな葛藤ののち、真白の振り子は単位習得に傾いた。だって、来年も同じ講義とか絶対に受けたくない。
まぁ、たぶん、大丈夫だろ。早目に連絡さえ入れておけば。ふたり分の材料しかないのに、急遽三人とかになるのが駄目なんだ、たぶん。
そう思い切って、真白は自宅のドアを開放した。すべては単位のためである。
「良い隣人がいてよかったねぇ、お互いに」
ほくそ笑む野々村に無言で頷き返すと、真白はスマホをポケットから取り出した。
ご機嫌であってくれ、と念じてかけた電話が、ものの二コールで繋がる。あいかわらず早い。さすが真白の母親に「真白に連絡するより、慎吾くんに連絡するほうがよっぽど早い」と評されているだけはある。なにからなにまでマメなのだ。
「どうしたの? しろが俺に電話とか珍しいね」
よかった、機嫌は悪くない。おまけに、背後の雑音から察するに、やつはスーパーにいるらしい。間に合った。内心でガッツポーズを決めて、本題に入る。
「なぁ、今日のごはんって、もう決めてた?」
「いや、まだ決めてないけど。なにか食べたいものあるの?」
「なんでもいいんだけど。野々村が食いたいって」
瞬間、軽快だった応答が、ぴたりと止んだ。通話先からは、にぎやかな店内放送が鳴り響いている。
「慎吾?」
「あー……ごめん、うるさくて聞こえなかった。で、なに? 野々村さん、来てるの?」
もしかすると、ちょっと声のトーンが下がったかもしれない。
気がついてはいたが、背に代えることのできる腹がなかったので、真白は「うん」と頷いた。けっこう本気で必修単位がヤバいのだ。
「了解。鍋でいい? って、言っといて」
溜息とともに告げられた直後、なんの余韻もなく通話が切れた。珍しい。やっぱり怒っているのかもしれない。なんでなのかは、ちょっとわからないが。
「城崎ちゃーん、慎吾なんだってー?」
「え、あぁ、……鍋」
「あぁ、いいねー。鍋。寒いもんねー」
というか、あの子はマメだね、本当に。感心した顔の野々村に適当に相槌を打って、そのまま正面に腰を下ろす。
――まぁ、いいか。考えてもわかんねぇし。
集中してひとつのことを考えることができないのは、昔からだ。どうしても、「まぁ、いいか」で済ませたくなってしまう。
駄目なんだろうな、と思うことはあるものの、一番近くにいる幼馴染みが、なんだかんだと許すので、「まぁ、いいか」と改めることを諦めてしまうのだ。堂々巡りである。
つまり、半分は慎吾のせいだ。駄目すぎる責任転嫁を図って、真白は背中を丸めた。座卓にぺたりと頬を押し付ける。
「城崎ちゃんと慎吾ってさ、毎晩こうやって一緒に食ってんの?」
「さすがに毎晩ではないけど」
「けど? じゃあ週三くらい?」
問われて、真白はうーんと唸った。
「週四か、五」
「マジか」
自分で聞いたくせに、野々村がドン引いた顔をした。
「おまえら、もっと外で飲んだり遊んだりしないの? いや、城崎ちゃんはしないか。でも、慎吾は? するだろ?」
「べつに」
外で飲むと気疲れするとかなんとか言っていた気がするし。
否定すると、野々村は「マジか」ともう一度呟いた。マジだ。気を使いすぎるから気疲れするのだろうと真白は推測している。そういうやつなのだ。
「じゃあ、彼女は? って、おまえに聞くのは愚問か。愚問だったな。悪い」
「確信系で聞くな。いないけど」
「でも、慎吾はいるだろ?」
問い重ねられて、真白はしかたなく机から顔を上げた。無言のまま首を横に振る。
「マジで?」
「うん。わりと昔から」
人当たりが良くて、ついでに顔も良い幼馴染みは、昔からあたりまえのようにモテていた。
けれど、真白の記憶にある限り、特定の彼女がいたことはなかったはずだ。セフレはカウントされないだろう。
「あぁ、でも、そう言われると、ちょっと納得。っつか、そうだよな」
「なにが?」
「だって、彼女いたら、おまえの面倒こんなに見てねぇだろ。いや、逆か。おまえの面倒見てるからいないのか」
言われた内容を咀嚼して、首を傾げる。ふと気づいてしまったのだ。もしかして、それで機嫌が悪いのだろうか。
いいかげん面倒になってきた、とか。あるいは、彼氏か彼女かは知らないけれど、特定の相手をつくりたくなってきた、とか。でも、無駄に責任感があるから、いまさら俺の親との約束を反故にもできず困っている、とか。
……つくりたいのか。
特定の、特別な誰かを。それで、俺の今がなくなるのか。ただの想像なのに、なんだかすごく嫌な感じがした。
「お? どうした、ちび。気にしたのか?」
おもねる調子に、そっけなく「べつに」と応じる。なにがどう嫌なのか、説明できる気もしなかったからだ。
「ならいいけど。なんか神妙な顔してたから。普段あれだけぼーっとしてんのに」
それはそれで、大変失礼なことを言われているような。遅ればせながらむっとしたタイミングで、玄関のドアが開いた。吹き込む風が冷たい。
「ただいま、しろ。野々村さんもこんにちは」
「慎吾」
振り返ると、慎吾がにこと目元を笑ませた。電話で感じた「怒ってる」は気のせいだったのだろうかと思いそうになる、いつもどおりの笑顔。
いや、だがしかし。粗探しよろしく凝視していると、慎吾が眉を下げた。
「なに、どうしたの、しろ」
「いや、だから、どうもしないって」
口走った直後に八つ当たりのような言い方になったと悟ったが、後の祭りである。
「でも……」
気づかわしそうな問いかけを遮って、真白は立ち上がった。なんで、こいつは、一目見ただけで俺の変化に気づくんだ。自分でも説明できないレベルの「あれ?」だったのに。
らしくない真白の積極的な行動に、慎吾がぎょっとした顔になる。こいつも大概失礼だ。憤慨しつつも、奪い取ったエコバッグを調理台の上に置く。
「あの、しろ?」
「なに鍋?」
バッグの中身を覗き込みながら尋ねると、隣にやってきた慎吾が、ふっと笑った。
「闇鍋にもトマト鍋にもしないので、どうぞ、ご安心を」
「ふつうが一番おいしいと思う、マジで」
「そっか? 俺、変わり種も好きだけどな」
「じゃあ、おまえがひとりでつくって食ったらいいだろ」
「城崎ちゃん、独り身の俺になかなかひどいこと言うね。そりゃ、おまえらは、ふたりだから鍋も食いやすいんだろうけど」
座ったまま文句を垂れる野々村に、ワンテンポ遅れて真白は得心した。あたりまえの話なのに、なにも気がついていなかった。
ふつうのひとり暮らしだったら、鍋をつつく機会なんて、そうないんだな。
「今日はコンロの場所、覚えてるの?」
「左側」
即答すると、「よろしい」と慎吾が笑って頷いた。
あ、やっぱり、怒ってる。
真白が確信したのは、「ごちそうさま、練習行ってくるねー」と、上機嫌で野々村が出て行ったあとだった。
「なぁ」
「んー、なに。洗い物しちゃうからさ、机の上の持ってきて」
会話になっていない、と思いながらも、真白はすみやかに立ち上がった。
台所に立つ背中からは、機嫌が悪いオーラがにじんでいる。というか、真白にはそう見える。
「あの、おまえさ」
「だから、なにってば。立ってるんだったら、ついでに、それ拭いといて」
はい、と手元に視線を落としたまま濡れた皿を渡されて、真白は再確認した。間違いなく怒っている。
怒っているときや、なにか腹に一物を抱えているとき。そういった平静でいることが難しいようなとき、慎吾は絶対に真白の目を見ないのだ。
感情の揺らぎがわかったところで、原因は不明であるわけだけど。
手渡された小皿を布巾で拭きながら、幼馴染みをそっと盗み見る。同学年のはずなのに、昔からずっと見上げている横顔。プラス十センチ。それが、ふたりのあいだの距離だった。
十センチ背が高いだけなのに、慎吾はまるで保護者のように真白の面倒を見てくれていた。けれど、いつまでも甘えていていいのだろうか。
「なぁ、慎吾」
「だから、なんですかってば。ほら、これも」
新たに手渡された器を受け取った真白は、そのままを問いかけた。
「おまえさ、こういうの、迷惑?」
流れるようだった慎吾の指先の動きが、わずかに鈍る。
「こういうのって、うーん、そうだね。いきなりはやめてほしいかもね」
俺にも一応予定ってものがあるからね。口元だけで笑って、慎吾がスポンジに洗剤を足した。あとは鍋で最後だ。
それは、なんの予定なのだろう。誰のためのものなのだろう。そんなふうに考えてしまった自分が意外で、あぁ、駄目だな、とようやく自覚した。
慎吾に、自分の面倒をあたりまえの顔で見てくれる幼馴染みの存在に、依存しすぎている。
思考を遮断するように、真白は一度小さく瞬いた。
「べつに、いいよ」
「……え? なにが?」
きゅっとノズルの閉まる音がして、流水が止まる。隣を見上げると、ひさしぶりにしっかりと目が合った気がした。
「だから、べつにいいって。おまえが面倒なんだったら。俺だって、ひとりでもできるし」
そう繰り返すと、困惑した顔で慎吾が笑った。
「ごめん、しろ。それ、なんの話? ちゃんと主語言って?」
「だから、べつにいいんだって。おまえにも予定があるんだったら、それ優先したらいいし。むりやり俺に構ってくれなくても」
だって、それがふつうなのだろうということは、さすがに真白でもわかる。
それぞれで独立していて、それぞれの生活があって、だから、毎日のように一緒に過ごしたりなんてしない。いい年をした幼馴染みふたりが、毎朝一緒にごはんを食べることも、ふつうではない。そう判じることもできる。それが、自分たち以外でさえあれば。
なにか言いたそうに眉根を寄せた慎吾が、小さく溜息を吐いた。そうしてから、「あのね」と言い聞かせる調子で口火を切る。うつむきかけていた視線が上がる。
「俺が、今まで一回でも、しろより誰かを優先したことってあった?」
「でも」
「でもじゃないでしょ。なかったでしょ、そんなこと。真白の相手するのが嫌だったら、もっと前に言ってる。それに、いくら俺の面倒見が良くてもね、いやいやだったら、こんなこと半年以上も続けられない」
慎吾が本音を語ってくれていることは、真白にはあたりまえにわかる。でも、それが、いつまで持続するものなのかは知らない。
恋人と幼馴染み。どちらを優先するのかと問われたら、恋人なのだと思う。それもわかっている。
今は、今までは、その存在がなかったから、俺を最優先にしてくれていたというだけで。
「ちなみに、確認なんだけど。俺がさっき言ったのは、野々村さんの話だからね」
「うん」
でも、今、こうして隣にいてくれるのなら、いいのかもしれない。結論を先延ばしにしたいがための妥協とわかっていても、今の真白にその先を考えることは難しかった。
「うん」
だから、もう一度、しっかりと目を見て頷く。ほっとしたように慎吾が表情をゆるめた。柔らかい、いつもの顔。自分にだけ見せる、つくりものじゃない笑顔。
なんでもしてくれる器用な手がノズルを回す。その手が土鍋を洗い始めるところを、真白はなんとなくじっと見ていた。こちらに来てすぐに、ふたりで買ったものだ。ひとりだったら、使いようもない大きさのもの。いつか、埃を被る日が来るのだろうか。
「ねぇ、しろはさ」
なんでもないことのように慎吾が言った。
「俺がこんなふうに入り浸ってんの、嫌だったりしないの?」
なにをいまさら、と真白は内心で呆れた。土鍋に視線を注いだまま、「そんなわけないだろ」と言い放つ。
だって、慎吾は空気のような存在なのだ。いなくなったら、きっと、すごく困ってしまう。だから。ずっと、ここにいてくれたらいいのに。
そこまでは言葉にしなかったけれど、心の中で、真白はそう思っていた。



