「はぁ? 意味わかんないんだけど」
「だから、そろそろ終わりにしよって。そう言ってんの」
不満たっぷりの態度を意にも介さず、慎吾はへらりとした笑みを浮かべた。別れ話の相手である南は、態度そのままに黙りこくっている。
――揉めたくはないんだけどなぁ。
だって、面倒だから。沈黙を持て余して、店内に視線を動かした。その視線が、隣のテーブルの女の子とばちりと合う。浮かんだ気まずそうな笑顔に、慎吾も生ぬるい笑みを返した。
そちらの会話も聞こえてはいましたが、聞かれたくてオープンな場所でやっているので、ネタにしてもらって大丈夫です。どうぞ、お気になさらず、の意である。
面倒な話は、人目の多い場所でするに限る。大学近くの大手コーヒーチェーン店なんて、その最適解だろう。少なくとも、慎吾はそう思っている。
知り合いに見つかる可能性の高い場所でごねる人間は、そういないだろうし。プライドの高い人間は、他人のネタにもなりたくないだろうし。というか、そうであってほしい。
後半はほとんど希望的観測であったものの、とかく慎吾は繰り返した。
「それに、ほら。もともと、お互い後腐れなく、気が向いたときにって話だったでしょ?」
三ヶ月ほど前に、そんな取り決めを交わしたはずだ。ね、と続ければ、険しかった童顔が拗ねた表情に変わる。
「……慎吾は、もう気が向かないって?」
「どうしたの、そんな顔して。俺じゃなくても、南ちゃんなら、いくらでもいい相手見つけられるでしょ」
エベレスト級のプライドをくすぐって、駄目押しで慎吾はほほえんだ。
「だから、今日で終わりにしよ?」
さぁ、どう出る。頼む。きれいに終わってくれ。面倒くさいから。なんなら一発くらい殴ってくれてもいいから。拝まんばかりの勢いで念じていると、ふっと南が息を吐いた。
「そうだね」
気を静めるようにコーヒーに口をつけて、意味深長な笑みを唇に刻む。
「次は趣味の悪くない男を選ぼうかな」
「なに、それ。それじゃ俺が悪いみたいじゃん」
「悪いでしょ」
尖った声に、うわぁと内心で苦笑いになる。なんでもないふうを装っていた南の態度が、みるみると険を帯び始めたからだ。隣のテーブルからの視線など、お構いなしという感じである。
「だいたいさぁ。なんで、慎吾も幼馴染みばっかり構うわけ? 小学生じゃあるまいし。俺たち大学生だよ、大学生。おかしいよね? あの子もあの子で、俺の周りちょろちょろするし。本当にうざかったんだけど」
「うーん」
うろちょろしてたのは、南ちゃんじゃないのかなぁ。浮かんだ疑念に蓋をして、おざなりに慎吾は笑った。
「そうかなぁ」
「そうかなぁ、じゃないよ。そうやって、慎吾が甘い顔するから勘違いするんでしょ。かわいそうじゃん。俺に勝てるわけもないのに」
「勝てる?」
「そ。誰がどう見たって、俺のほうが上でしょ。だって、相手はあれだよ。あの、なに考えてるのかわかんない、ぼーっとした顔の」
「ねぇ、南ちゃんさ」
たしかに、なにを考えているのかわかりづらい顔してるよな。その一点は認めつつ、慎吾は話を遮った。まぁ、どんな顔でも、俺にはわかるんだけど。にこりとほほえむ。
「それとこれ、今、関係のある話だった?」
黙り込んだ南に、言い含めるように続ける。もちろん、優しく言ったつもりだ。
「俺と南ちゃん、ふたりの話でしょ」
「……そうだね」
はっとしたように、南も笑みを浮かべた。もしかして、俺の笑顔が怖かったんだろうか。いや、ないない。そんなこと。
「そうだね、俺と慎吾の話だもんね」
それも、もう終わるけどね、と告げる代わりに、改めて慎吾も笑った。
世間一般的な見解として、南はきっとかわいいのだろう。けれど、自分には、真白のほうがよほどかわいく見えるのだ。
――あー……、めちゃくちゃ帰りたくなってきたな、なんか。
間違いなく、「なにを考えているのかわからない童顔」を連想してしまったせいだ。
どうでもいい話に、うんうんと相槌を打ちながら、早く終わんねぇかなぁ、と誠意のないことをチャラ男は考える。
夢見荘に帰れば、すぐそばに真白の気配がある。
その事実は、慎吾にとって、なによりも抗いがたい誘惑なのだった。
夢見荘の半分以上の窓からは、すでに明かりが消えている。
深夜一時に近い時間なので、妥当なところだと慎吾は思う。早寝の幼馴染みの部屋も、ごく当然と真っ暗だ。
変わり映えのない日常を確認して、忍び足で階段を上る。最大限に足音を殺す方法は、いつのまにか身についてしまった。
――もう、一年だからなぁ。
この場所で真白と暮らし始めて、それだけの時間が流れている。
改めて意識すると、ちょっと妙な感じだ。内心で苦笑しつつ、自室のドアを開ける。
生きていく上で環境が変わるポイントは、たぶん、いくつでもあるのだと思う。それなのに、自分たちの腐れ縁は、二十年近く繋がり続けている。
大学生にもなって、と非難されたことは、なにも今日がはじめてではなかった。南の言うことも、わからないわけではない。ただ、その上で、この縁を大事にしていこうと決めていた。
だから、変わるポイントが来ても、自分が手放さなかった。
明日の朝はなにをつくろうかな、と考えながらシャワーを済ませて、ベッドに入る。
アラームをセットしたスマホを枕元に置いたところで、慎吾はふと壁に目をやった。物音が聞こえた気がしたからだ。
寝汚い幼馴染みは、震度四程度の地震でも、まず目覚めないのだが。いったい、どうしたのだろう。そうこうしているうちに、ガチャリという音とともに玄関の扉が開いた。
――いや、本当になにごとだよ、これ。
ちょっと、本格的に珍しい。不審を抱きつつ、音のしたほうに視線を向ける。遮るドアも壁もない六畳一間なので、起き上がらなくとも十分に確認することはできた。
外廊下の薄明かりに照らされた素足が寒そうで、早く入ってきたらいいのに、と思う。けれど、その場から動く気配はない。ためらうように、じっと立ちすくんでいる。
「しろ?」
しかたないなぁ、と。根負けした気分で呼びかける。見守っていると、ぎこちなく影が一歩目を踏み出した。畳の軋む音が、すぐそばで止まる。
「どうしたの? 眠れない?」
真白に限って違うだろうとわかっていても、ほかに問いが浮かばなかったのだ。
反応はない。なにを考えているのかわからないと酷評された無表情で、ただただじっとこちらを見下ろしている。
「しーろ?」
困惑を持て余したまま、慎吾はもう一度呼びかけた。思うところがあるらしいとわかっても、さすがに内容までは言ってくれないとわからない。
「どうしたの」
「寒いから」
ようやく返ってきたぽつりとした声に、苦笑を呑み込む。いったん外に出て、俺のところに来るほうが寒かったでしょうよ、とはもちろん言わない。
今日も我慢の夜だなぁ、との苦笑ひとつで、慎吾は「おいで」とスペースを広げてやった。ひやりとした空気と一緒に、真白が入り込んでくる。
落ち着きどころを探してもぞもぞと動いていた身体が、左半身にすり寄ったところでぴたりと静かになる。
いろいろな意味でやめてほしかったものの、冷えた指先が暖を求めていることは明らかで。
だったらしかたがない、と。あっさり慎吾は諦めた。我ながら甘いと思うが、そういうふうにできているのだ。
なぁ、と布団の中から籠もった声がした。
「なに? もしかして、うるさかった? 俺」
あのくらいの生活音で真白が起きるとか、想定外すぎるんですけど。
「それ気にするくらいなら、ヤッてるときの声、気にしろよ」
「あー、だよねぇ」
だよねぇじゃねぇよ、とぼやく声が、直接骨に響いている感じがした。
「じゃあ、どうしたの?」
三度目の問いかけに返事はなかった。まさか、もう寝たのだろうか、この一瞬で。いや、だが、真白ならありえるかもしれない。
そう納得しかけたところに、寝言のような頼りない声が自分を呼んだ。
「慎吾」
「なに?」
たまに、自分でもわからなくなる。なんで、こんなにも甘い声を出してしまうのだろうか、と。そうして、真白はどうして気がつかないのだろう、と。
「とっとと帰ってこいよ、あほ慎吾」
「俺が帰ってくるの待ってたの、もしかして」
「違うっての。でも……なんか、あれなんだよ。あほ。ムカつく」
なにが、どうあれなんだよ。問い質したい気持ちもあったのに、ゆるやかな呼吸のリズムに負けてしまった。本当に寝たのか、寝たふりを決め込んでいるのかは、定かでなかったけれど。
昔、真白の妹に言われたことがある。
「慎吾くんさ、お兄ちゃんに振られるって少しも思ってないでしょ」
笑って交わしたが、そのとおりだった。そうだ。自分は少しもそんなふうに思っていない。物心ついたころから知るぬくもりを感じたまま、苦笑いを刻む。
――まぁ、なんで、かなちゃんが知ってんだって話だけど。
真白本人は、なにひとつ知らないでいるのに。
頭の先まですっぽりと潜り込んでいることが気になって、少しだけ布団を下げてやる。その結果として自分の肩がはみ出したことは、さておいておこう。
あらわになった寝顔は幼いころから変わっていなくて、それが少し不思議だった。
来年には二十歳になるのに、幼いまま。変容したこちらの感情に気がつくそぶりもなく、ただただ安心した顔で眠っている。
なんでなんだろうなぁ、と思っていると、外気に触れたことが嫌だったのか、むずかるように真白が頬を寄せた。自分と同い年の男のものなのに、柔らかそうな白い頬。伸びそうになった指先を握り込んで、慎吾はそっと背を向けた。
慎吾は、真白が自分のことをそれなりに好きだと知っている。
恋愛感情的な意味で好きだと告げても嫌われない程度には、真白は自分のことが好きだ。
今までと同じように過ごすことは、もうできない。だから、自分と付き合ってほしい。そう言えば、たぶん、真白は受け入れる。そのことを慎吾は知っている。
同じ意味で好きでなくても、自分が隣にいない状態になるほうが嫌だから。だから、真白は受け入れる。
「……でも、それって、恋愛じゃねぇよなぁ」
少なくとも、対等なそれじゃない。
だから、言いたくなかった。知られたくないし、関係を変えたくもない。告げるとしたら、真白が少しでも自分と似た感情を抱いたときだ、と。ずっと前から決めている。
それでも、どうしようもなく揺らぎそうにもなるときもあるけれど。
寝息を背中に感じながら、目を閉じる。訪れない睡魔を待ちわびているあいだにも、頭にはとりとめのないことが浮かび続けていた。
たとえば、はじめてここで同性とセックスをしたときのこと。
大家に釘を刺されなくとも、壁の薄さは承知していた。隣に聞こえるだろうこともわかっていた。でも、やってみたかったのだ。
真白がどんな反応を示すのか、見てみたかった。
嫌悪感をあらわにするのだろうか。それとも、少しくらい関心を持ってくれるのだろうか。でも、まぁ、嫉妬はしてくれないだろうな。
ヤッているあいだに考えていたことは、笑えるくらい真白のことばかりだった。
そうやって抱いた淡い期待も、心底どうでもいいという反応で、見事に打ち砕かれたのだけれど。もっとショックな事実を知ったあとだったので、へらりと流すことができた。
真白が聞いているかもしれないと想像して興じたセックスで、どうしようもなく興奮したという事実は微塵も匂わせない、いつもの顔で。
終わってんなぁ、と自分に呆れた分だけ、好きなんだなぁ、と思い知った。きれいごとをどれだけ並べたところで、真白とそういうことをしたいと思っているんだな、ということも。
あの夜も、今も。自分たちの関係は、なにひとつとして変わっていない。
自分にも、真白にも、嫌になることはある。それでも、好きでいることをやめようと思ったことは、一度もないんだよな。
眠れない暗闇の中で、そんなことを慎吾は考え続けていた。
「だから、そろそろ終わりにしよって。そう言ってんの」
不満たっぷりの態度を意にも介さず、慎吾はへらりとした笑みを浮かべた。別れ話の相手である南は、態度そのままに黙りこくっている。
――揉めたくはないんだけどなぁ。
だって、面倒だから。沈黙を持て余して、店内に視線を動かした。その視線が、隣のテーブルの女の子とばちりと合う。浮かんだ気まずそうな笑顔に、慎吾も生ぬるい笑みを返した。
そちらの会話も聞こえてはいましたが、聞かれたくてオープンな場所でやっているので、ネタにしてもらって大丈夫です。どうぞ、お気になさらず、の意である。
面倒な話は、人目の多い場所でするに限る。大学近くの大手コーヒーチェーン店なんて、その最適解だろう。少なくとも、慎吾はそう思っている。
知り合いに見つかる可能性の高い場所でごねる人間は、そういないだろうし。プライドの高い人間は、他人のネタにもなりたくないだろうし。というか、そうであってほしい。
後半はほとんど希望的観測であったものの、とかく慎吾は繰り返した。
「それに、ほら。もともと、お互い後腐れなく、気が向いたときにって話だったでしょ?」
三ヶ月ほど前に、そんな取り決めを交わしたはずだ。ね、と続ければ、険しかった童顔が拗ねた表情に変わる。
「……慎吾は、もう気が向かないって?」
「どうしたの、そんな顔して。俺じゃなくても、南ちゃんなら、いくらでもいい相手見つけられるでしょ」
エベレスト級のプライドをくすぐって、駄目押しで慎吾はほほえんだ。
「だから、今日で終わりにしよ?」
さぁ、どう出る。頼む。きれいに終わってくれ。面倒くさいから。なんなら一発くらい殴ってくれてもいいから。拝まんばかりの勢いで念じていると、ふっと南が息を吐いた。
「そうだね」
気を静めるようにコーヒーに口をつけて、意味深長な笑みを唇に刻む。
「次は趣味の悪くない男を選ぼうかな」
「なに、それ。それじゃ俺が悪いみたいじゃん」
「悪いでしょ」
尖った声に、うわぁと内心で苦笑いになる。なんでもないふうを装っていた南の態度が、みるみると険を帯び始めたからだ。隣のテーブルからの視線など、お構いなしという感じである。
「だいたいさぁ。なんで、慎吾も幼馴染みばっかり構うわけ? 小学生じゃあるまいし。俺たち大学生だよ、大学生。おかしいよね? あの子もあの子で、俺の周りちょろちょろするし。本当にうざかったんだけど」
「うーん」
うろちょろしてたのは、南ちゃんじゃないのかなぁ。浮かんだ疑念に蓋をして、おざなりに慎吾は笑った。
「そうかなぁ」
「そうかなぁ、じゃないよ。そうやって、慎吾が甘い顔するから勘違いするんでしょ。かわいそうじゃん。俺に勝てるわけもないのに」
「勝てる?」
「そ。誰がどう見たって、俺のほうが上でしょ。だって、相手はあれだよ。あの、なに考えてるのかわかんない、ぼーっとした顔の」
「ねぇ、南ちゃんさ」
たしかに、なにを考えているのかわかりづらい顔してるよな。その一点は認めつつ、慎吾は話を遮った。まぁ、どんな顔でも、俺にはわかるんだけど。にこりとほほえむ。
「それとこれ、今、関係のある話だった?」
黙り込んだ南に、言い含めるように続ける。もちろん、優しく言ったつもりだ。
「俺と南ちゃん、ふたりの話でしょ」
「……そうだね」
はっとしたように、南も笑みを浮かべた。もしかして、俺の笑顔が怖かったんだろうか。いや、ないない。そんなこと。
「そうだね、俺と慎吾の話だもんね」
それも、もう終わるけどね、と告げる代わりに、改めて慎吾も笑った。
世間一般的な見解として、南はきっとかわいいのだろう。けれど、自分には、真白のほうがよほどかわいく見えるのだ。
――あー……、めちゃくちゃ帰りたくなってきたな、なんか。
間違いなく、「なにを考えているのかわからない童顔」を連想してしまったせいだ。
どうでもいい話に、うんうんと相槌を打ちながら、早く終わんねぇかなぁ、と誠意のないことをチャラ男は考える。
夢見荘に帰れば、すぐそばに真白の気配がある。
その事実は、慎吾にとって、なによりも抗いがたい誘惑なのだった。
夢見荘の半分以上の窓からは、すでに明かりが消えている。
深夜一時に近い時間なので、妥当なところだと慎吾は思う。早寝の幼馴染みの部屋も、ごく当然と真っ暗だ。
変わり映えのない日常を確認して、忍び足で階段を上る。最大限に足音を殺す方法は、いつのまにか身についてしまった。
――もう、一年だからなぁ。
この場所で真白と暮らし始めて、それだけの時間が流れている。
改めて意識すると、ちょっと妙な感じだ。内心で苦笑しつつ、自室のドアを開ける。
生きていく上で環境が変わるポイントは、たぶん、いくつでもあるのだと思う。それなのに、自分たちの腐れ縁は、二十年近く繋がり続けている。
大学生にもなって、と非難されたことは、なにも今日がはじめてではなかった。南の言うことも、わからないわけではない。ただ、その上で、この縁を大事にしていこうと決めていた。
だから、変わるポイントが来ても、自分が手放さなかった。
明日の朝はなにをつくろうかな、と考えながらシャワーを済ませて、ベッドに入る。
アラームをセットしたスマホを枕元に置いたところで、慎吾はふと壁に目をやった。物音が聞こえた気がしたからだ。
寝汚い幼馴染みは、震度四程度の地震でも、まず目覚めないのだが。いったい、どうしたのだろう。そうこうしているうちに、ガチャリという音とともに玄関の扉が開いた。
――いや、本当になにごとだよ、これ。
ちょっと、本格的に珍しい。不審を抱きつつ、音のしたほうに視線を向ける。遮るドアも壁もない六畳一間なので、起き上がらなくとも十分に確認することはできた。
外廊下の薄明かりに照らされた素足が寒そうで、早く入ってきたらいいのに、と思う。けれど、その場から動く気配はない。ためらうように、じっと立ちすくんでいる。
「しろ?」
しかたないなぁ、と。根負けした気分で呼びかける。見守っていると、ぎこちなく影が一歩目を踏み出した。畳の軋む音が、すぐそばで止まる。
「どうしたの? 眠れない?」
真白に限って違うだろうとわかっていても、ほかに問いが浮かばなかったのだ。
反応はない。なにを考えているのかわからないと酷評された無表情で、ただただじっとこちらを見下ろしている。
「しーろ?」
困惑を持て余したまま、慎吾はもう一度呼びかけた。思うところがあるらしいとわかっても、さすがに内容までは言ってくれないとわからない。
「どうしたの」
「寒いから」
ようやく返ってきたぽつりとした声に、苦笑を呑み込む。いったん外に出て、俺のところに来るほうが寒かったでしょうよ、とはもちろん言わない。
今日も我慢の夜だなぁ、との苦笑ひとつで、慎吾は「おいで」とスペースを広げてやった。ひやりとした空気と一緒に、真白が入り込んでくる。
落ち着きどころを探してもぞもぞと動いていた身体が、左半身にすり寄ったところでぴたりと静かになる。
いろいろな意味でやめてほしかったものの、冷えた指先が暖を求めていることは明らかで。
だったらしかたがない、と。あっさり慎吾は諦めた。我ながら甘いと思うが、そういうふうにできているのだ。
なぁ、と布団の中から籠もった声がした。
「なに? もしかして、うるさかった? 俺」
あのくらいの生活音で真白が起きるとか、想定外すぎるんですけど。
「それ気にするくらいなら、ヤッてるときの声、気にしろよ」
「あー、だよねぇ」
だよねぇじゃねぇよ、とぼやく声が、直接骨に響いている感じがした。
「じゃあ、どうしたの?」
三度目の問いかけに返事はなかった。まさか、もう寝たのだろうか、この一瞬で。いや、だが、真白ならありえるかもしれない。
そう納得しかけたところに、寝言のような頼りない声が自分を呼んだ。
「慎吾」
「なに?」
たまに、自分でもわからなくなる。なんで、こんなにも甘い声を出してしまうのだろうか、と。そうして、真白はどうして気がつかないのだろう、と。
「とっとと帰ってこいよ、あほ慎吾」
「俺が帰ってくるの待ってたの、もしかして」
「違うっての。でも……なんか、あれなんだよ。あほ。ムカつく」
なにが、どうあれなんだよ。問い質したい気持ちもあったのに、ゆるやかな呼吸のリズムに負けてしまった。本当に寝たのか、寝たふりを決め込んでいるのかは、定かでなかったけれど。
昔、真白の妹に言われたことがある。
「慎吾くんさ、お兄ちゃんに振られるって少しも思ってないでしょ」
笑って交わしたが、そのとおりだった。そうだ。自分は少しもそんなふうに思っていない。物心ついたころから知るぬくもりを感じたまま、苦笑いを刻む。
――まぁ、なんで、かなちゃんが知ってんだって話だけど。
真白本人は、なにひとつ知らないでいるのに。
頭の先まですっぽりと潜り込んでいることが気になって、少しだけ布団を下げてやる。その結果として自分の肩がはみ出したことは、さておいておこう。
あらわになった寝顔は幼いころから変わっていなくて、それが少し不思議だった。
来年には二十歳になるのに、幼いまま。変容したこちらの感情に気がつくそぶりもなく、ただただ安心した顔で眠っている。
なんでなんだろうなぁ、と思っていると、外気に触れたことが嫌だったのか、むずかるように真白が頬を寄せた。自分と同い年の男のものなのに、柔らかそうな白い頬。伸びそうになった指先を握り込んで、慎吾はそっと背を向けた。
慎吾は、真白が自分のことをそれなりに好きだと知っている。
恋愛感情的な意味で好きだと告げても嫌われない程度には、真白は自分のことが好きだ。
今までと同じように過ごすことは、もうできない。だから、自分と付き合ってほしい。そう言えば、たぶん、真白は受け入れる。そのことを慎吾は知っている。
同じ意味で好きでなくても、自分が隣にいない状態になるほうが嫌だから。だから、真白は受け入れる。
「……でも、それって、恋愛じゃねぇよなぁ」
少なくとも、対等なそれじゃない。
だから、言いたくなかった。知られたくないし、関係を変えたくもない。告げるとしたら、真白が少しでも自分と似た感情を抱いたときだ、と。ずっと前から決めている。
それでも、どうしようもなく揺らぎそうにもなるときもあるけれど。
寝息を背中に感じながら、目を閉じる。訪れない睡魔を待ちわびているあいだにも、頭にはとりとめのないことが浮かび続けていた。
たとえば、はじめてここで同性とセックスをしたときのこと。
大家に釘を刺されなくとも、壁の薄さは承知していた。隣に聞こえるだろうこともわかっていた。でも、やってみたかったのだ。
真白がどんな反応を示すのか、見てみたかった。
嫌悪感をあらわにするのだろうか。それとも、少しくらい関心を持ってくれるのだろうか。でも、まぁ、嫉妬はしてくれないだろうな。
ヤッているあいだに考えていたことは、笑えるくらい真白のことばかりだった。
そうやって抱いた淡い期待も、心底どうでもいいという反応で、見事に打ち砕かれたのだけれど。もっとショックな事実を知ったあとだったので、へらりと流すことができた。
真白が聞いているかもしれないと想像して興じたセックスで、どうしようもなく興奮したという事実は微塵も匂わせない、いつもの顔で。
終わってんなぁ、と自分に呆れた分だけ、好きなんだなぁ、と思い知った。きれいごとをどれだけ並べたところで、真白とそういうことをしたいと思っているんだな、ということも。
あの夜も、今も。自分たちの関係は、なにひとつとして変わっていない。
自分にも、真白にも、嫌になることはある。それでも、好きでいることをやめようと思ったことは、一度もないんだよな。
眠れない暗闇の中で、そんなことを慎吾は考え続けていた。



