扉を開けた瞬間に襲った寒風に、うへと真白は首をすくめた。覚悟はしていたものの、すこぶる寒い。夏の暑さにも弱いが、冬の寒さにもほとほと弱くできているのだ。
それはもう徒歩五分のアルバイト先に行く決心をつけることも、一苦労なほどに。
ダウンジャケットのファスナーを極限まで引き上げて、部屋の鍵をかける。ポケットに両手をつっこんだまま、くるりと向きを変えたところで、「あ」と真白は声を漏らした。
夢見荘の階段が軋む音とともに、聞き覚えのある話し声が近づいている。
……もっと早く出てりゃよかった。
ギリギリまで引きこもっていた自身の無駄な抵抗を、真白は悔やんだ。間違いなく、もっと早くに出かけるべきだった。
「あれ、しろだ」
薄暗がりから顔を出した幼馴染みが、へらりと相好を崩す。
ひらひらと手を振ってくるさまはいかにも友好的だったが、ぴとりと隣にくっつく男からの視線はまったく友好的なそれではない。
「うん」
視線のやりどころに困って、真白は曖昧に頷いた。
なにが悲しくて、男連れの幼馴染みと遭遇しなければならないのか。そうして、なんで、恋敵よろしく睨みつけられないといけないのか。心の底から意味がわからない。
「どうしたの。今日、バイトじゃなかったっけ?」
愛想の良さをいかんなく発揮されて、「まぁ、そうだけど」ともごもごと呟く。俺なんて放っておいてくれていいから、さっさと家に入ってほしい。
「どうせ、ギリギリまで引きこもってたんでしょ。早く行かないと遅刻するよ」
身内用の呆れたふうでいて、どことなく甘い声。真白にとってはいつものものでしかないのに、刺さる視線がどんどんと鋭くなっていく。
なんだ、この理不尽。俺がいったいなにをした。心情としてはその一言に尽きたが、真白は平和主義者だった。争うための高エネルギーは所持していないし、人生平穏がなによりだ。
「うん」
行ってくる、と当たり障りのない返事を残して、脇を通り抜ける。部屋を出た瞬間も寒かったが、外付けの階段を下りるときが一番寒い。風の吹きつけがきついのだ。慎吾を壁にしたかったが、どだい無理な話である。
頭上から聞こえてくる男の声はやたらと高くて、妙にそれが鼻についた。
なんだかなぁ、と首を捻りつつ、スマホで時間を確かめる。十八時ジャスト。アルバイト先のコンビニエンスストアの交代時間は十八時。
「……まぁ、いいだろ」
ちょっとくらい。そう決めて、心持ちだけ速度を上げて歩く。寒い。
大変残念なことに、真白の頭には、急いで走るという選択肢が存在していなかった。
雑誌コーナーの一角で、立ち読みならぬ座り読みを決め込んだまま、壁時計に視線を向ける。二十三時。勤務時間終了から、きっかり一時間が経っている。
だがしかし。
「なんかなぁ。帰りたくないんだよなぁ」
ひとりごちて、真白は漫画雑誌をラックに戻した。ついでに、ぐしゃりと折れていた裏表紙を少しだけ整えてやる。
廃品にしたほうがいいのかもしれないが、勤務時間外なので、バックヤードまで返しにはいかない。
「帰りたくねぇって。城崎くん、いつも秒でタイムカード切って帰ってるじゃん」
「おまえも似たようなもんだろ」
同じく座り読みをしていた田崎が、けたけたと笑う。
真白と違い勤務中のはずだが、客が来ないことをいいことに、軽く三十分はこの調子なのだ。もうひとりの深夜帯スタッフも、早々にバックヤードに引っ込んでいる。
「俺は城崎くんと違ってかわいい彼女が待ってるからね。そりゃルンルンで帰るでしょ」
「あー、同棲してんだっけ。夜遊びされないの、おまえが夜勤のあいだに」
「マイナス方面に捻じれすぎじゃない、その恋愛観。彼女いたことないんじゃなかったっけ?」
「うるさい」
「恋愛って楽しいものだよ、城崎くん」
したり顔で繰り出された説諭を黙殺する。チャラい顔でなに言ってんだ。
居酒屋のホールスタッフのほうが似合う顔と言ってもいいが。つまるところ、人当たりは良いがうるさいのだ。チャラい幼馴染みに通じる部分があると思ってもいる。そこまで考えたところで、でもなぁ、と真白は思い直した。
田崎は、同棲中の彼女とかれこれ四年目のお付き合いらしいので、とっかえひっかえのあいつとはカテゴリーがまた違う。
せめて、あいつも、このくらい一途だったらよかったのに。
「なんか、こう、帰りたくねぇんだよな。はてしなく」
薄い壁を飛び越えて、あの声が聞こえてこないか、だとか。運悪くばったり出くわしたら面倒だなぁ、とか。
あと、なんか、いろいろ。
言葉にし切れないもやもやがふくらんだ「なんか嫌」な気分だとか。
溜息まじりに新たな漫画雑誌を手に取った真白を横目に、田崎は立ち上がった。
「俺のかわいい彼女の名誉のために否定しておくけど。うちの絵里ちゃんは、そういうことしないからね」
「あー、うん。悪かった。ごめん、絵里ちゃん」
開いたページの肌色の多さに辟易としつつ、謝罪を口にする。そうだ、絵里ちゃんに罪はない。
「城崎くんのごめんほど、心の籠もってないごめんもないよなー」
まぁ、いいけどさぁ、と笑いながら、田崎がレジカウンターに戻っていく。有線をいじったのか、曲が切り替わってクリスマスソングが流れ出した。
もう、そんな時期なのか。
なんだかなぁ、とまた真白は思った。クリスマスとか。慎吾は大はしゃぎするんじゃないだろうか。
アルバイト中の雑談でも、クリスマス前は恋人がほしくなるという話が出ていたくらいだ。真白はほしいとは思わないが、世間一般的にはそういうことであるらしい。
クリスマスは恋人のイベント。つまり、慎吾にとってもそういうこと。
「実家にでも帰るか、いっそのこと」
アルバイトの日程調整がきけば、ではあるが。
のんびりと年末を過ごす手はそれしかない気がしてくると、夢見荘に戻ることがますます億劫になってきた。手慰みに捲っている漫画も、おもしろくもなんともない。
客もいないことだし、バックヤードで寝てから帰ろうかな、なんてことを考えていたら、冷たい風が吹き込んできた。ひさしぶりに客が入店したらしい。
――マジ寒い。
この寒空の中を帰ることが、本気で嫌になってきた。
悩んでいるうちに、誰かの脚がこつんと身体に当たる。こんなに空いているのに、まったく誰だ。しかたなく顔を上げたところで、ぽかんと真白は固まった。
すぐそばに立っていたのが、珍しくどこか不機嫌そうな隣人だったからである。
「……慎吾」
「なにしてんの、しろ」
その声も、どことなく不機嫌そうだ。「読書」とだけ応じて、紙面に視線を戻す。なにを読んでいたのか答えることのできないレベルの流し読みであったものの、嘘ではない。
ぱらりとページを捲る。話の展開は謎だが、胸のでかいヒロインが、よくわからない技名を叫んでいるところだった。良いシーンなのかもしれない。よくわからないが。
なにも言わないでいると、ふっと慎吾が吐息で笑った。
「コンビニで、座り込んでするものでもないと思うけどね」
機嫌の悪そうだった雰囲気を引っ込めて、そのまま隣にしゃがみ込む。
「どれどれ」
ちらちらと視界に入る明るい毛先が気になって、真白は顔を上げた。
「あれ。これ、いつも読んでるやつじゃないじゃん。しろ、好きだったっけ? なんかおもしろいのあった?」
「いや、べつに。っていうか、おまえさ」
「んー? なにー?」
「あいつは?」
今日は、あいつと朝方までヤッてるんじゃなかったのか。後半は、さすがに言葉にできなくて、再び視線を落とす。
紙面上ではヒロインが大ピンチを迎えていて、以下次号で終わるところだった。
けれど、どうせ、次号で主役がかっこよく駆けつけて解決するのだ。子どものころから変わらない王道展開。でも、王道は安心する。
変わり映えしないものが、真白は好きだ。考えなくていいし、そのままでいることができる。すごく楽で、安心する。
うつむいたままの真白に、慎吾が「あぁ」と合点のいった声を出した。
「なぁんだ。それで、しろ、ここで拗ねてたの?」
「いや、拗ねてねぇから。隣でぎゃんぎゃんヤられたらうざいって思ってただけだから」
「それで、こんな時間なのに、ぐずぐずしてましたって?」
揶揄するように跳ね上がった語尾に、視線を持ち上げる。
「なんで、おまえが機嫌悪いわけ」
怒りたいのは俺で、怒っていたのも俺だったはずなのに。
そう言うと、慎吾は頬杖をついたまま、「べつに?」と口元だけで笑ってみせた。いつもの顔だ。べつに怒ってなんてないよ、という顔。
たぶん、ほかの誰が見ても、機嫌が悪いとは思わないだろう顔。でも。
真白は、無言で雑誌をラックに戻した。へらへらとしたいつもの笑顔にもイラッとするときはあるけれど、このつくり笑いはもっと嫌いだ。
昔からだ。慎吾は、言いたいことをあまり口にしない。ぜんぶ、笑って済ませようとする。ぜんぶ、自分の中だけで処理しようとする。
またうつむいて黙り込むと、「あのな」と慎吾が溜息まじりに口を開いた。
「真白」
最近はめったとされなくなった呼び方だった。思わず顔が上がる。ぺちんというまぬけな音とともに、冷たい指先が額に触れた。
「なにす……」
「心配」
「は?」
「するでしょ。いつも、おまえ、本当に最後まで勤務してんのかって勢いで、十時五分にはベッドにダイブしてんのに。それが十一時過ぎても帰ってこなかったら」
想像と百八十度違った文句に、真白は丸い目を瞬かせた。
「おまえは俺の母親か」
「似たようなもんだと思うけどね」
きまり悪さから出た軽口に、慎吾が小さく噴き出した。「いつも」の空気。落ち着きどころを失っていたなにかが、ゆっくりとあるべき場所に納まっていく。
「ちなみに、今日はもういないから」
「それで?」
「だから、帰りましょうって言ってるの。いつまで拗ねてんの、しろは」
ほら、と立ち上がった慎吾にせっつかれて、真白は重かったはずの腰を上げた。
外は寒いだろうなぁ、と思ったことが最後の抵抗だ。このままここにいてもしょうがない。そう。だから、しかたがないのだ。
「よかったね、城崎くん。お迎えが来て」
レジカウンターから愛想良く手を振る田崎に見送られ、真白は渋々と店を出た。外では慎吾が待っている。寒い、と言うと、変な感じ、と慎吾が言った。会話になっていない。
「なんだよ」
「いや、あたりまえの話で申し訳ないんだけど」
「だから、なんだよ」
「しろにもちゃんと交友関係があるんだなぁって」
「おまえは俺をなんだと思ってるんだ」
小学校のときも中学校のときも、高校に通っていたときも。幼馴染みほどアクティブな青春は謳歌していなかったかもしれないが、ひとり孤独に引きこもっていたわけでもないつもりだ。
「まぁ、でも。ほら、そこはしろだから」
答えになっていないことを言って、慎吾が歩き出す。
街灯に照らされた髪色が黄金色に見えて、なんだか誘蛾灯みたいだった。あれ、けど、そうなると、俺が蛾になるのか。それは少しいただけない。
そんなことを考えているうちに、「あ」と真白は気がついた。また犬みたいな呼び方に戻ってやがる。昔はちゃんと「真白」と呼んでいたはずなのに。
「なに、どうしたの。なんか言いたいことある顔してるけど」
なにも言っていないのに、振り返った慎吾が首を傾げる。あいかわらずの目敏さだ。呆れると同時に、変わらないなぁ、と思ってしまった。呼び方が変わろうが、なんだろうが。
絆された気分で、真白はぽつりと呟いた。少しだけ足を速めて、隣に並ぶ。
「なんていうか、昔から面倒見良いよなって」
「なんでまた」
「だって、昔からずっと、俺を迎えに来るの、おまえだ」
親に怒られたとき、だとか。なんとなく家に帰りたくなくなったとき、だとか。そんなとき、「ほら帰るよ」と手を差し出してくれるのは、いつもこの幼馴染みだった。
昔から変わらない。多少見た目が変わったって、呼び方が変わったって、慎吾の遊び相手が増えたって、きっと自分たちは変わらない。
変わらないなら、まぁいいかな、と思う。
「いや、べつに。誰の面倒でも見てるわけじゃないよ、俺」
褒めたつもりだったのだが、慎吾は微妙に苦い顔をした。
「へぇ」
でも、どうせ、会話を続けたところで、理由は言わないのだろうな。わかったから、真白はそれ以上を問わなかった。
もうずっと一緒にいるのだ。そういうことは真白にもわかる。すべてをわからなくても、ある程度のことはわかる。
わかることは、一緒に過ごしてきた年月の数だけあるつもりだ。
それなのに、と真白は白い息を吐いた。年々よくわからないと感じることも増えていて、それが少しだけ困る。
この男は、幼馴染みだというだけで、俺の面倒を見ているのだろうか。
仮にそうだとして、いつまで続けるつもりなのだろうか。
かなみのことを好きなのかと疑ったりもしたけれど、そうなると、夜な夜な男と遊んでいる意味がますますわからない。
「わけわかんねぇな、おまえ」
うっかりこぼれ落ちたそれに、慎吾は理不尽極まりないという顔で、
「俺はおまえがわけわかんない」
と言った。
それはもう徒歩五分のアルバイト先に行く決心をつけることも、一苦労なほどに。
ダウンジャケットのファスナーを極限まで引き上げて、部屋の鍵をかける。ポケットに両手をつっこんだまま、くるりと向きを変えたところで、「あ」と真白は声を漏らした。
夢見荘の階段が軋む音とともに、聞き覚えのある話し声が近づいている。
……もっと早く出てりゃよかった。
ギリギリまで引きこもっていた自身の無駄な抵抗を、真白は悔やんだ。間違いなく、もっと早くに出かけるべきだった。
「あれ、しろだ」
薄暗がりから顔を出した幼馴染みが、へらりと相好を崩す。
ひらひらと手を振ってくるさまはいかにも友好的だったが、ぴとりと隣にくっつく男からの視線はまったく友好的なそれではない。
「うん」
視線のやりどころに困って、真白は曖昧に頷いた。
なにが悲しくて、男連れの幼馴染みと遭遇しなければならないのか。そうして、なんで、恋敵よろしく睨みつけられないといけないのか。心の底から意味がわからない。
「どうしたの。今日、バイトじゃなかったっけ?」
愛想の良さをいかんなく発揮されて、「まぁ、そうだけど」ともごもごと呟く。俺なんて放っておいてくれていいから、さっさと家に入ってほしい。
「どうせ、ギリギリまで引きこもってたんでしょ。早く行かないと遅刻するよ」
身内用の呆れたふうでいて、どことなく甘い声。真白にとってはいつものものでしかないのに、刺さる視線がどんどんと鋭くなっていく。
なんだ、この理不尽。俺がいったいなにをした。心情としてはその一言に尽きたが、真白は平和主義者だった。争うための高エネルギーは所持していないし、人生平穏がなによりだ。
「うん」
行ってくる、と当たり障りのない返事を残して、脇を通り抜ける。部屋を出た瞬間も寒かったが、外付けの階段を下りるときが一番寒い。風の吹きつけがきついのだ。慎吾を壁にしたかったが、どだい無理な話である。
頭上から聞こえてくる男の声はやたらと高くて、妙にそれが鼻についた。
なんだかなぁ、と首を捻りつつ、スマホで時間を確かめる。十八時ジャスト。アルバイト先のコンビニエンスストアの交代時間は十八時。
「……まぁ、いいだろ」
ちょっとくらい。そう決めて、心持ちだけ速度を上げて歩く。寒い。
大変残念なことに、真白の頭には、急いで走るという選択肢が存在していなかった。
雑誌コーナーの一角で、立ち読みならぬ座り読みを決め込んだまま、壁時計に視線を向ける。二十三時。勤務時間終了から、きっかり一時間が経っている。
だがしかし。
「なんかなぁ。帰りたくないんだよなぁ」
ひとりごちて、真白は漫画雑誌をラックに戻した。ついでに、ぐしゃりと折れていた裏表紙を少しだけ整えてやる。
廃品にしたほうがいいのかもしれないが、勤務時間外なので、バックヤードまで返しにはいかない。
「帰りたくねぇって。城崎くん、いつも秒でタイムカード切って帰ってるじゃん」
「おまえも似たようなもんだろ」
同じく座り読みをしていた田崎が、けたけたと笑う。
真白と違い勤務中のはずだが、客が来ないことをいいことに、軽く三十分はこの調子なのだ。もうひとりの深夜帯スタッフも、早々にバックヤードに引っ込んでいる。
「俺は城崎くんと違ってかわいい彼女が待ってるからね。そりゃルンルンで帰るでしょ」
「あー、同棲してんだっけ。夜遊びされないの、おまえが夜勤のあいだに」
「マイナス方面に捻じれすぎじゃない、その恋愛観。彼女いたことないんじゃなかったっけ?」
「うるさい」
「恋愛って楽しいものだよ、城崎くん」
したり顔で繰り出された説諭を黙殺する。チャラい顔でなに言ってんだ。
居酒屋のホールスタッフのほうが似合う顔と言ってもいいが。つまるところ、人当たりは良いがうるさいのだ。チャラい幼馴染みに通じる部分があると思ってもいる。そこまで考えたところで、でもなぁ、と真白は思い直した。
田崎は、同棲中の彼女とかれこれ四年目のお付き合いらしいので、とっかえひっかえのあいつとはカテゴリーがまた違う。
せめて、あいつも、このくらい一途だったらよかったのに。
「なんか、こう、帰りたくねぇんだよな。はてしなく」
薄い壁を飛び越えて、あの声が聞こえてこないか、だとか。運悪くばったり出くわしたら面倒だなぁ、とか。
あと、なんか、いろいろ。
言葉にし切れないもやもやがふくらんだ「なんか嫌」な気分だとか。
溜息まじりに新たな漫画雑誌を手に取った真白を横目に、田崎は立ち上がった。
「俺のかわいい彼女の名誉のために否定しておくけど。うちの絵里ちゃんは、そういうことしないからね」
「あー、うん。悪かった。ごめん、絵里ちゃん」
開いたページの肌色の多さに辟易としつつ、謝罪を口にする。そうだ、絵里ちゃんに罪はない。
「城崎くんのごめんほど、心の籠もってないごめんもないよなー」
まぁ、いいけどさぁ、と笑いながら、田崎がレジカウンターに戻っていく。有線をいじったのか、曲が切り替わってクリスマスソングが流れ出した。
もう、そんな時期なのか。
なんだかなぁ、とまた真白は思った。クリスマスとか。慎吾は大はしゃぎするんじゃないだろうか。
アルバイト中の雑談でも、クリスマス前は恋人がほしくなるという話が出ていたくらいだ。真白はほしいとは思わないが、世間一般的にはそういうことであるらしい。
クリスマスは恋人のイベント。つまり、慎吾にとってもそういうこと。
「実家にでも帰るか、いっそのこと」
アルバイトの日程調整がきけば、ではあるが。
のんびりと年末を過ごす手はそれしかない気がしてくると、夢見荘に戻ることがますます億劫になってきた。手慰みに捲っている漫画も、おもしろくもなんともない。
客もいないことだし、バックヤードで寝てから帰ろうかな、なんてことを考えていたら、冷たい風が吹き込んできた。ひさしぶりに客が入店したらしい。
――マジ寒い。
この寒空の中を帰ることが、本気で嫌になってきた。
悩んでいるうちに、誰かの脚がこつんと身体に当たる。こんなに空いているのに、まったく誰だ。しかたなく顔を上げたところで、ぽかんと真白は固まった。
すぐそばに立っていたのが、珍しくどこか不機嫌そうな隣人だったからである。
「……慎吾」
「なにしてんの、しろ」
その声も、どことなく不機嫌そうだ。「読書」とだけ応じて、紙面に視線を戻す。なにを読んでいたのか答えることのできないレベルの流し読みであったものの、嘘ではない。
ぱらりとページを捲る。話の展開は謎だが、胸のでかいヒロインが、よくわからない技名を叫んでいるところだった。良いシーンなのかもしれない。よくわからないが。
なにも言わないでいると、ふっと慎吾が吐息で笑った。
「コンビニで、座り込んでするものでもないと思うけどね」
機嫌の悪そうだった雰囲気を引っ込めて、そのまま隣にしゃがみ込む。
「どれどれ」
ちらちらと視界に入る明るい毛先が気になって、真白は顔を上げた。
「あれ。これ、いつも読んでるやつじゃないじゃん。しろ、好きだったっけ? なんかおもしろいのあった?」
「いや、べつに。っていうか、おまえさ」
「んー? なにー?」
「あいつは?」
今日は、あいつと朝方までヤッてるんじゃなかったのか。後半は、さすがに言葉にできなくて、再び視線を落とす。
紙面上ではヒロインが大ピンチを迎えていて、以下次号で終わるところだった。
けれど、どうせ、次号で主役がかっこよく駆けつけて解決するのだ。子どものころから変わらない王道展開。でも、王道は安心する。
変わり映えしないものが、真白は好きだ。考えなくていいし、そのままでいることができる。すごく楽で、安心する。
うつむいたままの真白に、慎吾が「あぁ」と合点のいった声を出した。
「なぁんだ。それで、しろ、ここで拗ねてたの?」
「いや、拗ねてねぇから。隣でぎゃんぎゃんヤられたらうざいって思ってただけだから」
「それで、こんな時間なのに、ぐずぐずしてましたって?」
揶揄するように跳ね上がった語尾に、視線を持ち上げる。
「なんで、おまえが機嫌悪いわけ」
怒りたいのは俺で、怒っていたのも俺だったはずなのに。
そう言うと、慎吾は頬杖をついたまま、「べつに?」と口元だけで笑ってみせた。いつもの顔だ。べつに怒ってなんてないよ、という顔。
たぶん、ほかの誰が見ても、機嫌が悪いとは思わないだろう顔。でも。
真白は、無言で雑誌をラックに戻した。へらへらとしたいつもの笑顔にもイラッとするときはあるけれど、このつくり笑いはもっと嫌いだ。
昔からだ。慎吾は、言いたいことをあまり口にしない。ぜんぶ、笑って済ませようとする。ぜんぶ、自分の中だけで処理しようとする。
またうつむいて黙り込むと、「あのな」と慎吾が溜息まじりに口を開いた。
「真白」
最近はめったとされなくなった呼び方だった。思わず顔が上がる。ぺちんというまぬけな音とともに、冷たい指先が額に触れた。
「なにす……」
「心配」
「は?」
「するでしょ。いつも、おまえ、本当に最後まで勤務してんのかって勢いで、十時五分にはベッドにダイブしてんのに。それが十一時過ぎても帰ってこなかったら」
想像と百八十度違った文句に、真白は丸い目を瞬かせた。
「おまえは俺の母親か」
「似たようなもんだと思うけどね」
きまり悪さから出た軽口に、慎吾が小さく噴き出した。「いつも」の空気。落ち着きどころを失っていたなにかが、ゆっくりとあるべき場所に納まっていく。
「ちなみに、今日はもういないから」
「それで?」
「だから、帰りましょうって言ってるの。いつまで拗ねてんの、しろは」
ほら、と立ち上がった慎吾にせっつかれて、真白は重かったはずの腰を上げた。
外は寒いだろうなぁ、と思ったことが最後の抵抗だ。このままここにいてもしょうがない。そう。だから、しかたがないのだ。
「よかったね、城崎くん。お迎えが来て」
レジカウンターから愛想良く手を振る田崎に見送られ、真白は渋々と店を出た。外では慎吾が待っている。寒い、と言うと、変な感じ、と慎吾が言った。会話になっていない。
「なんだよ」
「いや、あたりまえの話で申し訳ないんだけど」
「だから、なんだよ」
「しろにもちゃんと交友関係があるんだなぁって」
「おまえは俺をなんだと思ってるんだ」
小学校のときも中学校のときも、高校に通っていたときも。幼馴染みほどアクティブな青春は謳歌していなかったかもしれないが、ひとり孤独に引きこもっていたわけでもないつもりだ。
「まぁ、でも。ほら、そこはしろだから」
答えになっていないことを言って、慎吾が歩き出す。
街灯に照らされた髪色が黄金色に見えて、なんだか誘蛾灯みたいだった。あれ、けど、そうなると、俺が蛾になるのか。それは少しいただけない。
そんなことを考えているうちに、「あ」と真白は気がついた。また犬みたいな呼び方に戻ってやがる。昔はちゃんと「真白」と呼んでいたはずなのに。
「なに、どうしたの。なんか言いたいことある顔してるけど」
なにも言っていないのに、振り返った慎吾が首を傾げる。あいかわらずの目敏さだ。呆れると同時に、変わらないなぁ、と思ってしまった。呼び方が変わろうが、なんだろうが。
絆された気分で、真白はぽつりと呟いた。少しだけ足を速めて、隣に並ぶ。
「なんていうか、昔から面倒見良いよなって」
「なんでまた」
「だって、昔からずっと、俺を迎えに来るの、おまえだ」
親に怒られたとき、だとか。なんとなく家に帰りたくなくなったとき、だとか。そんなとき、「ほら帰るよ」と手を差し出してくれるのは、いつもこの幼馴染みだった。
昔から変わらない。多少見た目が変わったって、呼び方が変わったって、慎吾の遊び相手が増えたって、きっと自分たちは変わらない。
変わらないなら、まぁいいかな、と思う。
「いや、べつに。誰の面倒でも見てるわけじゃないよ、俺」
褒めたつもりだったのだが、慎吾は微妙に苦い顔をした。
「へぇ」
でも、どうせ、会話を続けたところで、理由は言わないのだろうな。わかったから、真白はそれ以上を問わなかった。
もうずっと一緒にいるのだ。そういうことは真白にもわかる。すべてをわからなくても、ある程度のことはわかる。
わかることは、一緒に過ごしてきた年月の数だけあるつもりだ。
それなのに、と真白は白い息を吐いた。年々よくわからないと感じることも増えていて、それが少しだけ困る。
この男は、幼馴染みだというだけで、俺の面倒を見ているのだろうか。
仮にそうだとして、いつまで続けるつもりなのだろうか。
かなみのことを好きなのかと疑ったりもしたけれど、そうなると、夜な夜な男と遊んでいる意味がますますわからない。
「わけわかんねぇな、おまえ」
うっかりこぼれ落ちたそれに、慎吾は理不尽極まりないという顔で、
「俺はおまえがわけわかんない」
と言った。



