眠れない。どうにもこうにも眠れない。
半ば意地で目を閉じ続けているものの、睡魔の訪れる気配が微塵もない。
ごそごそと寝返りを打って、真白は夢見荘の薄い壁を睨みつけた。それもこれもすべては隣のせいなので、逆恨みなどではいっさいない。
「あっ、やっ……慎吾、もうダメッ……!」
あの、あほ慎吾。
過たず響いた声に、苛々とせんべい布団を引っ被る。隣人のへらへらとした顔が思い浮かぶと、よりいっそう腹が立ってきた。
いったい、どうして、俺がこんな目に遭わなければならないのか。
もう、思うところはそれしかない。なんで、俺がこんな目に。
遡ること半年と少し前。夢見荘に越してきた当初、大家は言っていたはずだ。
――ここの壁、薄いから。連れ込まないでね、女の子。とくにきみ。チャラそうだけど、ちゃんと分別ある行動をね。お願いね。
チャラそうと名指しされた隣人も、人当たり抜群の笑顔で請け負っていたはずだ。
――やだなぁ。僕、女の子なんて絶対に連れ込まないですよ。安心してください。
いやいやいやいや、ふざけんな。記憶の中の笑顔に、真白は盛大につっこんだ。
だからと言って、男を連れ込んでいいなどと、絶対に大家は言っていまい。
「もうっ……無理、死んじゃうっ」
いっそ死ね。内心で毒づくと、真白は後ろ足で壁を蹴りつけた。薄い壁が揺れる。
「そのくらいで死ぬか、ぼけ」
男とセックスなんてしたことないから、知らないけども。
訪れた静寂に胸がすいたのも束の間、ギシギシあんあんはすぐに再開されてしまった。おまけに、今度は含み笑いまで混ざっている。最悪だ。
……俺のベッドが、あいつの部屋に接してるから駄目なのか。
いや、でも、ここ以外に置くとこないし。悶々と真白は考える。六畳一間の学生向け賃貸なので、反対側の壁は押し入れなのだ。その前にベッドを設置するのは馬鹿すぎるだろう。
混迷する思考を持て余して、枕元のスマホに手を伸ばす。
午前三時。
ありえない。俺は日付が変わる前に寝たい派だ。げんなりと呻いて、枕に顔を擦りつける。五分経っても変わらない現状に、真白は深々と溜息を吐いた。眠れない。
壁の向こうからは、飽きることなくあれな声が響いている。無言で背を向けて、真白は頭まで布団を被り直した。もはや、それ以外に対抗策がなかったのだ。
籠もった布団の中に、哀れなほどの巨大溜息が反響する。
――明日、覚えとけよ、あいつ。
今度こそ、絶対に文句を言ってやる。
そう誓い、羊を数え始めてみたものの、二十六匹目で真白はすべてを投げ出した。面倒くさいし、本当の本当に眠りに落ちることのできる気がしない。
意味のない寝返りを打って、目を閉じる。だがしかし。悲しいくらいに、頭の芯が冴えている。眠れない。
「……」
マジであいつふざけんな。またひとつ、深々と溜息を吐き出す。
そんなわけで。城崎真白は、今日も今日とて眠れぬ夜を過ごしたのだった。
トントンと小気味良く響く包丁の音と、味噌汁のにおい。そうして、窓から差し込む明るい朝の光。
そのすべてが起きる時間であると主張していたが、あいにくこちらは睡眠不足なのだ。布団に包まったまま、起きたくないと身悶える。
「しろー?」
聞き慣れた声に愛称で呼ばれて、真白は唸った。起きたくない。
「ちょっと、しろ。起きてるんでしょ? 起きないの?」
「……てる」
「言葉だけじゃなくて。起きてるんだったら、ほら、しっかり身体も起こす」
これ以上粘ったら、たぶん、ちょっと怒られる。
長年の経験則で察した真白は、のそりと身を起こした。稼働していた暖房のおかげで、覚悟していたほどの寒さはない。そのことに少しばかりほっとする。
「あ、やっと起きた。おはよう、しろ。朝ごはんできてるよ」
ぼーっと座り込んでいると、鍋を片手に二十年来の隣人が振り返った。へらりと笑うチャラい顔は、睡眠不足の原因と思えぬ爽やかだ。知らず真白の口が曲がる。
「ちょっと、なに。その不貞腐れた顔。もう九時なんですけど。何時に寝たの? 駄目だよ、夜更かしは」
「誰のせいだ」
心の底から訴えたい。誰のせいだ。正当であるはずの訴えに、ほぼ毎朝やってくる通い妻ならぬ押しかけ隣人は、心外そうに目を見開いた。
「俺のせいなの? やだな、しろ。いくら隣だからって聞き耳立てないでよ」
「だから、それが誰のせいだと」
「あとね、耳からばっかり変な情報入れないほうがいいと思うよ。それ以上童貞拗らせたら、どうするの」
言い返す気力が失せて、無言で立ち上がる。
「ほら。その勢いで、ちゃっちゃっとベッド片付ける。それから、座卓もきれいにしてね。朝ごはん食べるんだから」
「おまえは俺の母ちゃんか」
「いーえ、幼馴染みです。でも、ひとりだとろくな生活をしない引きこもりの面倒を、佳代子さんに頼まれてるからな。そういう意味では正解か」
「うざい。首傾げんな」
絶対に、自分より睡眠時間は短いはずなのに。なんで、こんなにも元気いっぱいなのだろう。そんなにあれは、すっきり楽しいものなのか。
幼馴染みのあれそれを想像しそうになって、真白は畳もうとしていた布団をベッドに叩きつけた。ぶるぶると黒い頭を振る。
「ちょっと、しろ。狭いんだから、埃立てないでってば」
「はい、はい。悪かった」
「はいは一回」
おまえは俺の母親か、という二回目のつっこみは呑み込んで、そっと整え直す。罪があるのは慎吾であって、布団ではない。
――あ、そうだ、毛布。
そろそろ本格的に寒くなることだし、毛布があれば防音性も上がるかもしれない。思い立って、慎吾に問いかける。
「なぁ、俺の毛布どこ? あのもふもふのやつ」
「あるとしたら押し入れに決まってんじゃん。ほかに収納場所ないんだから」
「だって、しまったの、おまえだし」
「しろがいつまで経ってもしまわないから、俺がしかたなく片付けたんだけど?」
「だって、寒かったし」
「百歩譲って四月は許したけど、ゴールデンウイーク過ぎたらアウトでしょ。いつまで使うつもりだったの。しかも、俺が洗わなかったら、一回も洗わないままだったろ。あれだけ愛用してんなら、ちょっとは大事に使えって」
「オカンか」
「しろが手がかかるから、こうなってるんじゃないの。よくそれでひとり暮らしできるって豪語できたよね、本当に」
お玉片手に嫌味な薄笑いを浮かべられて、うっと言葉に詰まる。
大学進学を機に上京する少し前のこと。真白の母親が一番に心配していたのは、自分の息子のぐうたらぶりであった。
ひとり暮らしをさせたら最後、引きこもりになるに違いない。そう懸念した母親が、相談した相手が悪かった。同じマンションの隣室に住んでいた、慎吾の母親である。
鉄板の愛想で茶飲み話に参加していた慎吾が、「心配なら、俺が一緒に住もうか? 隣同士の部屋を借りるでもいいけど。学部違うけど、大学も一緒なんだし。面倒見てあげるよ」と提案。
無気力極まりない自分の息子より、隣家の息子を信頼している母親が、大喜びで即賛同。
頼みの綱であった慎吾の母親も、反対まではしてくれず。かくして真白の「ひとりでできるもん」は、始まるより前に多数決で却下されたのだった。そうして、今に至る。
「いつまで拗ねた顔してんの、しろは。ほら、ごはん食べるんでしょ? 食べないの?」
なにを考えているのかわからないと評される自分の無表情も、幼馴染みの慎吾にかかれば「わかりやすい顔」になるらしい。
指摘されて、真白はむっと唇を尖らせた。
「今日は、ジャガイモのお味噌汁とだし巻き卵。それと、一昨日の残りのぶり大根」
「……」
「食べないの? そっかぁ、佳代子さん、しょんぼりするだろうなぁ。うちの子は選り好みするから、慎吾くんと違って大きくなれなかったんだって」
早生まれ遅生まれの宿命か、持って生まれたなんとやらか。
同学年であるにもかかわらず、物心ついたころから、ずっと慎吾のほうが背が高い。いつかは縮むと期待していた身長差も、望みむなしく十センチの差がついたまま。
寝る子は育つという格言が真実であれば、自分のほうが長身でしかるべきでなかろうか。
無言のまま炊飯器から白米をよそっていると、腹の立つ追撃が飛んできた。
「まぁ、二十歳過ぎても、伸びる人は伸びるらしいから。がんばれ、しろ。目指せ、身長百七十センチ」
「うざい上にチャラい上にうざい」
「いや、なに。そのループ」
お茶碗を二膳テーブルに置けば、自分の任務は完了である。
あとは座って待っていれば、慎吾の手によって、いつもの朝の食卓が整えられていく。ひとり暮らしの学生には、豪華すぎるくらいの朝食だ。
実家にいたころは、めったに朝食なんて食べなかったのに。思い返すにつれ、自分の変化をしみじみと実感してしまう。
なんというか、食生活って大事だし、健康に良い。十代の学生らしくないことを考えていた真白は、慎吾の声かけで遅れて手を合わせた。
「はい、それじゃ、いただきます」
「……いただきます」
まず、味噌汁を一口。今日もおいしい、と口元をほころばせたところで、「あ」と我に返る。また流されるところだった。
「しろ、おいしい?」
にこにこと尋ねられて、少しだけ悩んだものの、こくりと頷く。うまい。遺憾ではあるが。腹が立つほどに、自分好みの味付けである。
「というか、おまえな」
「ん、なに? リクエストあるなら聞くけど」
「いや、違う、そうじゃねぇよ。そうじゃなくて、何度も言ってると思うんだけど、うるさい」
「なにが?」
「なにがってわかってんだろ、夜だよ、夜! なんで、俺が睡眠不足なんだ、おまえのせいで」
白々しくすっとぼけられて、真白は箸を置いた。食べていると怒りを誤魔化されかねない。
臨戦態勢の真白を前にしても、慎吾はへらりとした笑みを崩さなかった。この男の常套手段と知っているので、じろりとねめつける。
「そうやって、適当に笑ってたら済むと思ってるだろ、おまえ」
「えー。だって、実際にそうなんだもん」
ふざけんな、と言いたい衝動を呑み込んで、深々と溜息を吐く。
信じがたいが、そうなのだ。外面の良さを思う存分に利用する幼馴染みの言動に、たいていの人間は物の見事に騙される。だが、俺は騙されない。
言おう言おうと決めていた文句を、真白は一気に吐き出した。
「死ぬ死ぬイクイクうるせぇんだよ、なんなんだ、あいつは。AVデビューでも狙ってんのか」
「それはないと思うけど。そういう声出したほうが盛り上がると思ってるんじゃない? そう考えると、ちょっとかわいいよ」
「どこが」
「まぁ、笑いそうになるときがないとは言わないけど」
「なかなか最低だな、おまえ」
男遊びの激しさを知っている身としては、そうとしか言いようがない。
地元にいたころは、ふつうに女の子と遊んでいたはずなのに、なにがどうしてこうなった。幼馴染みの顔を、とっくりと見つめて考える。
まぁ、これも、ある種の大学デビューというやつか。そう結論づけた真白だったが、とは言え、と思い直した。
幼馴染みが男を好きだろうと、女を好きだろうと、そのこと自体はどうでもいいのだ。問題はただひとつ。頻度である。
苦々しい視線もなんのその。どこ吹く風で慎吾はほほえんでいる。
……それが俺に通用すると思うなよ、おまえ。
死ねばいいのに。ほんのちょっと思ってしまってから、真白は撤回した。これの死因が腹上死なんてものになった日は、おばさんに合わせる顔がない。
「眠そうだね、しろ」
「人の名前を、犬猫みたいな略し方すんな」
「えー、そう? 犬みたいでかわいいのに」
「それが嫌だって言ってんだろ。日本語通じねぇのか、おまえは!」
自分の声の大きさが頭に響いて、思わず眉根を寄せる。
「苛々してるねぇ。寝不足なんじゃないの、しろのくせに」
……だから、誰のせいだ。
というか。思い至って、真白は顔を上げた。
そもそもではあるが、あんな時間まであんあんセックスしておいて、朝には相手を帰らせているとか。優しげな顔をして、この男の脳内はどうなっているのだ。
「なぁに、しろ」
食事の手を止めて、慎吾が首を傾げる。その拍子に、ピンクがかった茶髪が揺れる。黒髪のほうがよかったのに。ぼんやりと真白は思った。なんというか、輪をかけてチャラい。
上京するやいなや、カットモデルなるものを始めた幼馴染みの髪型は、二ヶ月に一度のペースで変わり続けている。似合っていないわけではないものの、その美容師は絶対にわかっていない。
もとは良いのだから、変に派手な髪型にする必要はないのだ。そんなことを考えていたら、無意識に手が伸びていた。
「なに? どうしたの?」
珍しく本気で驚いたらしく、慎吾がぎょっと真顔になった。けれど、あっというまに、いつもの笑顔で覆われていく。その変化を見つめたまま、べつに、と真白は言った。
「チャラい髪って思っただけ」
「そうやって、すぐに、しろは俺のことチャラいチャラいって言うけどね。健気で一途って評判なんだよ、一部から!」
「どこの節穴だ、それを言ったのは」
ありえない。こいつの行動のどこをどう見れば、そうなるのだ。
長ったらしい前髪を指先で梳きながら、とりとめもないことを考える。目にかかって鬱陶しくないのだろうか。というか、なにもする前のほうが、絶対に手触りもよかったのに。
「あの、しろさん?」
「んー? なんだよ、おまえの髪、傷んでんな」
「……傷んでねぇし」
げんなりと呟いた慎吾が、諦めたように肩から力を抜く。自分のやりたいようにさせることにしたらしい。なんだか大型犬みたいだ。
わしゃわしゃと犬にするように撫でていた真白だったが、ふとあることに気がついた。妙にしみじみとした気分で、そうか、と思う。
こんな状態でもなければ、つむじを見下ろすこともないんだな。
ずっと昔から、慎吾ばかり背が高い。そのつむじを見つめているうちに、ぽつりとした文句がこぼれた。手を離す。
「なんか、ちょっとムカつくな」
「はぁ? 好き放題に人の頭撫で回しておいて、なに言ってんの」
「だから、毛布出すの手伝って。あと干すの」
「なにが、だから」
呆れたふうに笑って、慎吾がふるりと頭を振る。たしかに、「だから」ではなかったかもしれない。そんなことを考えたまま、真白は答えた。
「でかいから」
間近で合った瞳が、ぱしりと瞬く。そうしてから、合点のいった顔でくすくすと笑い出した。
「そうだねぇ、しろは小さいからね」
「誰もそうは言ってねぇだろうが」
「しかたない。食べ終わったら一緒にやりますか」
反論を一蹴した慎吾が、そんなふうな提案をする。だし巻き卵の残りを口に入れて、こくりと真白は頷いた。少し冷めてしまったが、それでもやはりおいしかった。
慎吾のつくるごはんは、おいしくてほっとする。
あいかわらずおいしそうに食べるね、と甘い顔でほほえまれて、うん、ともう一度頷く。
いくら幼馴染みだからって、距離感おかしくね。そう同級生に苦笑された回数は一度や二度ではないので、そうなのだろうなぁという自覚はある。けれど、改めるつもりはなかった。
だって、物心ついたころから、自分たちはこうなのだ。
慎吾の声が優しいことも、甘いことも。ずっと一緒にいることも。真白にとっては、ぜんぶあたりまえのことだった。
半ば意地で目を閉じ続けているものの、睡魔の訪れる気配が微塵もない。
ごそごそと寝返りを打って、真白は夢見荘の薄い壁を睨みつけた。それもこれもすべては隣のせいなので、逆恨みなどではいっさいない。
「あっ、やっ……慎吾、もうダメッ……!」
あの、あほ慎吾。
過たず響いた声に、苛々とせんべい布団を引っ被る。隣人のへらへらとした顔が思い浮かぶと、よりいっそう腹が立ってきた。
いったい、どうして、俺がこんな目に遭わなければならないのか。
もう、思うところはそれしかない。なんで、俺がこんな目に。
遡ること半年と少し前。夢見荘に越してきた当初、大家は言っていたはずだ。
――ここの壁、薄いから。連れ込まないでね、女の子。とくにきみ。チャラそうだけど、ちゃんと分別ある行動をね。お願いね。
チャラそうと名指しされた隣人も、人当たり抜群の笑顔で請け負っていたはずだ。
――やだなぁ。僕、女の子なんて絶対に連れ込まないですよ。安心してください。
いやいやいやいや、ふざけんな。記憶の中の笑顔に、真白は盛大につっこんだ。
だからと言って、男を連れ込んでいいなどと、絶対に大家は言っていまい。
「もうっ……無理、死んじゃうっ」
いっそ死ね。内心で毒づくと、真白は後ろ足で壁を蹴りつけた。薄い壁が揺れる。
「そのくらいで死ぬか、ぼけ」
男とセックスなんてしたことないから、知らないけども。
訪れた静寂に胸がすいたのも束の間、ギシギシあんあんはすぐに再開されてしまった。おまけに、今度は含み笑いまで混ざっている。最悪だ。
……俺のベッドが、あいつの部屋に接してるから駄目なのか。
いや、でも、ここ以外に置くとこないし。悶々と真白は考える。六畳一間の学生向け賃貸なので、反対側の壁は押し入れなのだ。その前にベッドを設置するのは馬鹿すぎるだろう。
混迷する思考を持て余して、枕元のスマホに手を伸ばす。
午前三時。
ありえない。俺は日付が変わる前に寝たい派だ。げんなりと呻いて、枕に顔を擦りつける。五分経っても変わらない現状に、真白は深々と溜息を吐いた。眠れない。
壁の向こうからは、飽きることなくあれな声が響いている。無言で背を向けて、真白は頭まで布団を被り直した。もはや、それ以外に対抗策がなかったのだ。
籠もった布団の中に、哀れなほどの巨大溜息が反響する。
――明日、覚えとけよ、あいつ。
今度こそ、絶対に文句を言ってやる。
そう誓い、羊を数え始めてみたものの、二十六匹目で真白はすべてを投げ出した。面倒くさいし、本当の本当に眠りに落ちることのできる気がしない。
意味のない寝返りを打って、目を閉じる。だがしかし。悲しいくらいに、頭の芯が冴えている。眠れない。
「……」
マジであいつふざけんな。またひとつ、深々と溜息を吐き出す。
そんなわけで。城崎真白は、今日も今日とて眠れぬ夜を過ごしたのだった。
トントンと小気味良く響く包丁の音と、味噌汁のにおい。そうして、窓から差し込む明るい朝の光。
そのすべてが起きる時間であると主張していたが、あいにくこちらは睡眠不足なのだ。布団に包まったまま、起きたくないと身悶える。
「しろー?」
聞き慣れた声に愛称で呼ばれて、真白は唸った。起きたくない。
「ちょっと、しろ。起きてるんでしょ? 起きないの?」
「……てる」
「言葉だけじゃなくて。起きてるんだったら、ほら、しっかり身体も起こす」
これ以上粘ったら、たぶん、ちょっと怒られる。
長年の経験則で察した真白は、のそりと身を起こした。稼働していた暖房のおかげで、覚悟していたほどの寒さはない。そのことに少しばかりほっとする。
「あ、やっと起きた。おはよう、しろ。朝ごはんできてるよ」
ぼーっと座り込んでいると、鍋を片手に二十年来の隣人が振り返った。へらりと笑うチャラい顔は、睡眠不足の原因と思えぬ爽やかだ。知らず真白の口が曲がる。
「ちょっと、なに。その不貞腐れた顔。もう九時なんですけど。何時に寝たの? 駄目だよ、夜更かしは」
「誰のせいだ」
心の底から訴えたい。誰のせいだ。正当であるはずの訴えに、ほぼ毎朝やってくる通い妻ならぬ押しかけ隣人は、心外そうに目を見開いた。
「俺のせいなの? やだな、しろ。いくら隣だからって聞き耳立てないでよ」
「だから、それが誰のせいだと」
「あとね、耳からばっかり変な情報入れないほうがいいと思うよ。それ以上童貞拗らせたら、どうするの」
言い返す気力が失せて、無言で立ち上がる。
「ほら。その勢いで、ちゃっちゃっとベッド片付ける。それから、座卓もきれいにしてね。朝ごはん食べるんだから」
「おまえは俺の母ちゃんか」
「いーえ、幼馴染みです。でも、ひとりだとろくな生活をしない引きこもりの面倒を、佳代子さんに頼まれてるからな。そういう意味では正解か」
「うざい。首傾げんな」
絶対に、自分より睡眠時間は短いはずなのに。なんで、こんなにも元気いっぱいなのだろう。そんなにあれは、すっきり楽しいものなのか。
幼馴染みのあれそれを想像しそうになって、真白は畳もうとしていた布団をベッドに叩きつけた。ぶるぶると黒い頭を振る。
「ちょっと、しろ。狭いんだから、埃立てないでってば」
「はい、はい。悪かった」
「はいは一回」
おまえは俺の母親か、という二回目のつっこみは呑み込んで、そっと整え直す。罪があるのは慎吾であって、布団ではない。
――あ、そうだ、毛布。
そろそろ本格的に寒くなることだし、毛布があれば防音性も上がるかもしれない。思い立って、慎吾に問いかける。
「なぁ、俺の毛布どこ? あのもふもふのやつ」
「あるとしたら押し入れに決まってんじゃん。ほかに収納場所ないんだから」
「だって、しまったの、おまえだし」
「しろがいつまで経ってもしまわないから、俺がしかたなく片付けたんだけど?」
「だって、寒かったし」
「百歩譲って四月は許したけど、ゴールデンウイーク過ぎたらアウトでしょ。いつまで使うつもりだったの。しかも、俺が洗わなかったら、一回も洗わないままだったろ。あれだけ愛用してんなら、ちょっとは大事に使えって」
「オカンか」
「しろが手がかかるから、こうなってるんじゃないの。よくそれでひとり暮らしできるって豪語できたよね、本当に」
お玉片手に嫌味な薄笑いを浮かべられて、うっと言葉に詰まる。
大学進学を機に上京する少し前のこと。真白の母親が一番に心配していたのは、自分の息子のぐうたらぶりであった。
ひとり暮らしをさせたら最後、引きこもりになるに違いない。そう懸念した母親が、相談した相手が悪かった。同じマンションの隣室に住んでいた、慎吾の母親である。
鉄板の愛想で茶飲み話に参加していた慎吾が、「心配なら、俺が一緒に住もうか? 隣同士の部屋を借りるでもいいけど。学部違うけど、大学も一緒なんだし。面倒見てあげるよ」と提案。
無気力極まりない自分の息子より、隣家の息子を信頼している母親が、大喜びで即賛同。
頼みの綱であった慎吾の母親も、反対まではしてくれず。かくして真白の「ひとりでできるもん」は、始まるより前に多数決で却下されたのだった。そうして、今に至る。
「いつまで拗ねた顔してんの、しろは。ほら、ごはん食べるんでしょ? 食べないの?」
なにを考えているのかわからないと評される自分の無表情も、幼馴染みの慎吾にかかれば「わかりやすい顔」になるらしい。
指摘されて、真白はむっと唇を尖らせた。
「今日は、ジャガイモのお味噌汁とだし巻き卵。それと、一昨日の残りのぶり大根」
「……」
「食べないの? そっかぁ、佳代子さん、しょんぼりするだろうなぁ。うちの子は選り好みするから、慎吾くんと違って大きくなれなかったんだって」
早生まれ遅生まれの宿命か、持って生まれたなんとやらか。
同学年であるにもかかわらず、物心ついたころから、ずっと慎吾のほうが背が高い。いつかは縮むと期待していた身長差も、望みむなしく十センチの差がついたまま。
寝る子は育つという格言が真実であれば、自分のほうが長身でしかるべきでなかろうか。
無言のまま炊飯器から白米をよそっていると、腹の立つ追撃が飛んできた。
「まぁ、二十歳過ぎても、伸びる人は伸びるらしいから。がんばれ、しろ。目指せ、身長百七十センチ」
「うざい上にチャラい上にうざい」
「いや、なに。そのループ」
お茶碗を二膳テーブルに置けば、自分の任務は完了である。
あとは座って待っていれば、慎吾の手によって、いつもの朝の食卓が整えられていく。ひとり暮らしの学生には、豪華すぎるくらいの朝食だ。
実家にいたころは、めったに朝食なんて食べなかったのに。思い返すにつれ、自分の変化をしみじみと実感してしまう。
なんというか、食生活って大事だし、健康に良い。十代の学生らしくないことを考えていた真白は、慎吾の声かけで遅れて手を合わせた。
「はい、それじゃ、いただきます」
「……いただきます」
まず、味噌汁を一口。今日もおいしい、と口元をほころばせたところで、「あ」と我に返る。また流されるところだった。
「しろ、おいしい?」
にこにこと尋ねられて、少しだけ悩んだものの、こくりと頷く。うまい。遺憾ではあるが。腹が立つほどに、自分好みの味付けである。
「というか、おまえな」
「ん、なに? リクエストあるなら聞くけど」
「いや、違う、そうじゃねぇよ。そうじゃなくて、何度も言ってると思うんだけど、うるさい」
「なにが?」
「なにがってわかってんだろ、夜だよ、夜! なんで、俺が睡眠不足なんだ、おまえのせいで」
白々しくすっとぼけられて、真白は箸を置いた。食べていると怒りを誤魔化されかねない。
臨戦態勢の真白を前にしても、慎吾はへらりとした笑みを崩さなかった。この男の常套手段と知っているので、じろりとねめつける。
「そうやって、適当に笑ってたら済むと思ってるだろ、おまえ」
「えー。だって、実際にそうなんだもん」
ふざけんな、と言いたい衝動を呑み込んで、深々と溜息を吐く。
信じがたいが、そうなのだ。外面の良さを思う存分に利用する幼馴染みの言動に、たいていの人間は物の見事に騙される。だが、俺は騙されない。
言おう言おうと決めていた文句を、真白は一気に吐き出した。
「死ぬ死ぬイクイクうるせぇんだよ、なんなんだ、あいつは。AVデビューでも狙ってんのか」
「それはないと思うけど。そういう声出したほうが盛り上がると思ってるんじゃない? そう考えると、ちょっとかわいいよ」
「どこが」
「まぁ、笑いそうになるときがないとは言わないけど」
「なかなか最低だな、おまえ」
男遊びの激しさを知っている身としては、そうとしか言いようがない。
地元にいたころは、ふつうに女の子と遊んでいたはずなのに、なにがどうしてこうなった。幼馴染みの顔を、とっくりと見つめて考える。
まぁ、これも、ある種の大学デビューというやつか。そう結論づけた真白だったが、とは言え、と思い直した。
幼馴染みが男を好きだろうと、女を好きだろうと、そのこと自体はどうでもいいのだ。問題はただひとつ。頻度である。
苦々しい視線もなんのその。どこ吹く風で慎吾はほほえんでいる。
……それが俺に通用すると思うなよ、おまえ。
死ねばいいのに。ほんのちょっと思ってしまってから、真白は撤回した。これの死因が腹上死なんてものになった日は、おばさんに合わせる顔がない。
「眠そうだね、しろ」
「人の名前を、犬猫みたいな略し方すんな」
「えー、そう? 犬みたいでかわいいのに」
「それが嫌だって言ってんだろ。日本語通じねぇのか、おまえは!」
自分の声の大きさが頭に響いて、思わず眉根を寄せる。
「苛々してるねぇ。寝不足なんじゃないの、しろのくせに」
……だから、誰のせいだ。
というか。思い至って、真白は顔を上げた。
そもそもではあるが、あんな時間まであんあんセックスしておいて、朝には相手を帰らせているとか。優しげな顔をして、この男の脳内はどうなっているのだ。
「なぁに、しろ」
食事の手を止めて、慎吾が首を傾げる。その拍子に、ピンクがかった茶髪が揺れる。黒髪のほうがよかったのに。ぼんやりと真白は思った。なんというか、輪をかけてチャラい。
上京するやいなや、カットモデルなるものを始めた幼馴染みの髪型は、二ヶ月に一度のペースで変わり続けている。似合っていないわけではないものの、その美容師は絶対にわかっていない。
もとは良いのだから、変に派手な髪型にする必要はないのだ。そんなことを考えていたら、無意識に手が伸びていた。
「なに? どうしたの?」
珍しく本気で驚いたらしく、慎吾がぎょっと真顔になった。けれど、あっというまに、いつもの笑顔で覆われていく。その変化を見つめたまま、べつに、と真白は言った。
「チャラい髪って思っただけ」
「そうやって、すぐに、しろは俺のことチャラいチャラいって言うけどね。健気で一途って評判なんだよ、一部から!」
「どこの節穴だ、それを言ったのは」
ありえない。こいつの行動のどこをどう見れば、そうなるのだ。
長ったらしい前髪を指先で梳きながら、とりとめもないことを考える。目にかかって鬱陶しくないのだろうか。というか、なにもする前のほうが、絶対に手触りもよかったのに。
「あの、しろさん?」
「んー? なんだよ、おまえの髪、傷んでんな」
「……傷んでねぇし」
げんなりと呟いた慎吾が、諦めたように肩から力を抜く。自分のやりたいようにさせることにしたらしい。なんだか大型犬みたいだ。
わしゃわしゃと犬にするように撫でていた真白だったが、ふとあることに気がついた。妙にしみじみとした気分で、そうか、と思う。
こんな状態でもなければ、つむじを見下ろすこともないんだな。
ずっと昔から、慎吾ばかり背が高い。そのつむじを見つめているうちに、ぽつりとした文句がこぼれた。手を離す。
「なんか、ちょっとムカつくな」
「はぁ? 好き放題に人の頭撫で回しておいて、なに言ってんの」
「だから、毛布出すの手伝って。あと干すの」
「なにが、だから」
呆れたふうに笑って、慎吾がふるりと頭を振る。たしかに、「だから」ではなかったかもしれない。そんなことを考えたまま、真白は答えた。
「でかいから」
間近で合った瞳が、ぱしりと瞬く。そうしてから、合点のいった顔でくすくすと笑い出した。
「そうだねぇ、しろは小さいからね」
「誰もそうは言ってねぇだろうが」
「しかたない。食べ終わったら一緒にやりますか」
反論を一蹴した慎吾が、そんなふうな提案をする。だし巻き卵の残りを口に入れて、こくりと真白は頷いた。少し冷めてしまったが、それでもやはりおいしかった。
慎吾のつくるごはんは、おいしくてほっとする。
あいかわらずおいしそうに食べるね、と甘い顔でほほえまれて、うん、ともう一度頷く。
いくら幼馴染みだからって、距離感おかしくね。そう同級生に苦笑された回数は一度や二度ではないので、そうなのだろうなぁという自覚はある。けれど、改めるつもりはなかった。
だって、物心ついたころから、自分たちはこうなのだ。
慎吾の声が優しいことも、甘いことも。ずっと一緒にいることも。真白にとっては、ぜんぶあたりまえのことだった。



