HAIMURUBUSHI

 1時間後、要町の洋菓子店の前で、おれは呆然と立ち竦んでいた。ガラス窓ごしに覗ける店内は暗く、ドアは施錠されている。看板の下に貼られた紙には手書きの文字で「閉店のお知らせ」とあった。
 あまりにも突然で、唖然とするほかなかった。理由は「諸般の事情」としか書かれておらず、SNSにも前触れと取れるような投稿は皆無だった。明かりの消えた店内にひとの気配はなく、亮太やバイトの女の子の姿も見られない。
 沖縄へ行ったときにも、それ以前にも、亮太はなにもいわなかった。たしかに、客で賑わっている場面は見たことがなく、ショーケースのなかで商品が売れ残っている日もすくなくなかったが、それほど経営が苦しかったのか。おれと話しているときの亮太の様子からは、切迫感や焦燥感は感じられなかった。経営に行き詰まり、思い悩んでいるようには、すくなくとも見えなかった。おれの前では不安を隠していたのかと考えると、胸が詰まった。
 スーツのポケットからスマホを取り出し、亮太に電話をかけようとした。着信履歴の画面に切り替えたところで、電話が鳴った。亮太ではなく、母親からの着信だった。
 遺産相続の件だろう。それ以外におれに電話するような用件はない。沖縄での報告を求められていたが、無視していた。愚痴や厭味を聞きたい気分ではなかったが、焦って操作をしていたために、つい反射的に通話を押してしまった。舌打ちを堪え、スマホを耳に近づける。
「やったわね」
 挨拶もなく、いきなり甲高い声を上げる。いつになく機嫌がよく、声が弾んでいた。
「正直、期待してなかったんだけど、見直したわ。どうやったの?」
 話の内容がまったくわからず、戸惑った。
「なんの話だよ」
 聞き返すと、母親は意外そうにいった。
「なにいってるの。あんたが説得したんでしょ。わざわざ沖縄まで行って」
 目の前の紙に並ぶ文字を見つめた。嫌な感覚が腹の下から這い上ってくる。
「亮太……?」
「そう。ついさっきね、弁護士通じて連絡があったの。遺産相続権を放棄するそうよ」
 わざとらしいため息をついて、母はいった。
「これでようやく落ち着けるわ。どういいくるめたか知らないけど、とにかく、お手柄ね。よくやったわ」
 皮肉なことに、母親から褒められたのは、人生ではじめてのことだった。当然、喜びや達成感などはなかった。スマホを握る手に無意識に力を込めていた。
 亮太が父親の店に愛着を持ち、大切にしていたことは、店での様子や丹精こめてつくられた菓子の数々から容易に想像できる。石黒美津夫の遺産が入れば、店を畳む必要もなくなるはずだ。なぜ突然考えを変えたのか。胸が騒いだ。
「亮太の家は?」
「え? なに?」
 おれの声が低く震えたことに、上機嫌の母親は気づいていなかった。
「家だよ。あいつの住所、知ってんだろ」
「さあ。知らないわよ」
「嘘つくな」
 母親は興信所を使って親子の身辺を探っていた。知らないはずがない。
「亮太の住所を教えろ」
「ちょっと、なんなの、母親に向かって、なんて口のきき方?」
 さすがに違和感をおぼえたのか、母の声が尖る。
「知らないっていってるでしょ。だいたい、知ってどうするのよ。もう関係ないのに……」
「早く教えろ!」
 自制できたのもそこまでだった。おれはスマホに向かって怒鳴った。従順なはずの息子の突然の激昂に、母は絶句した。
「あなた、どうしちゃったの?」
 かろうじて平静を装ったが、動揺しているのは明らかだった。
「どうもしない。ただ住所が知りたいだけだよ。早く教えろ」
「嫌よ」
 この期に及んで、主導権を握ろうとするかのように、ことさら厳しい口調でいった。
「もう終わったのよ。これ以上あの家に関わっても無駄じゃない。わからないの?」
「そっちこそ、なにもわかってない」
「倫雄」
 冷たく乾いた声。子どもの頃から、その声を聞くと、身が竦んだ。厳しく叱りつけることも感情的に声を荒らげることもなく、ただ、感情の欠如したその音は、失望に満ちていた。
「ちょっと黙ってわたしの話を聞きなさい」
「いや、そっちがおれの話を聞け」
 父にも母にも反抗したことはなかった。自分の頭で考えることはせず、与えられたレールの上をただ虚ろに歩き続けた。思考を放棄することで、自分を守ろうとしていたのだ。そのために他者を傷つけても、なにも感じなかった。感情を動かすという経験をずっと忘れていた。亮太に会うまで。
「いいか。もう一度だけいうぞ。三條亮太の自宅の住所を教えろ。今すぐ。でなきゃ後悔することになる。これは脅しじゃない。絶対に後悔させる」
 回線の向こう側で息を呑む気配がした。母は利己的な人間だが馬鹿ではない。おれが本気であることはもうじゅうぶん理解していたはずだ。ため息。落胆と失望。以前までは呼吸がくるしくなるほどの圧迫感と焦りを感じた。今はなにも感じない。ただ、亮太に会いたかった。
「あの男のせいね」
 母は張り詰めた声でいった。
「三條亮太。そうでしょ?」
 答えなかった。話したところで、母には理解できまい。
「けっきょく、あなたもあのひととおなじね」
 最後に、母は吐き捨てるようにいった。
「あの親子……夫と息子を両方奪うなんて」
 憎しみのこもった声だった。おれはなにもいわなかった。いう必要がなかった。その言葉が、母との最後の会話になるだろうと思ったからだ。
 落胆も焦りもなかった。むしろ、電話を切ったときには、開放感に溢れていた。長い間、母親から見放されることに怯え、父親の期待を裏切ることに怯えてきた。見えない鎖に全身を縛られ、身動きができずにいた。他人を蹴落とし、地位や金を手に入れることで、本心を誤魔化し、本当に必要なことから目を逸らし続けた。
 もっと早くこうすればよかったのだ。あまりにも長い呪縛から解き放たれ、ようやく息が吸えるようになっていた。
 タクシーを拾い、母親から聞き出した住所を伝えた。気が逸るのを抑え、窓の外で流れる景色に目を向ける。何度も辿った道なのに、まったく道の景色に見えた。三條亮太に、一秒でも早く会いたかった。