HAIMURUBUSHI

「単に嫌われただけなんじゃない?」
 グラスに残ったアイスティーをストローでかき混ぜながら、美佳が軽い口調でいう。
「いっしょに旅行すると、悪いところも見えてくるもんでしょ」
 氷が擦れ合うわずかな音がいやに鮮やかに響いた。
「まあ、あたしは男と旅行なんかしたことないけど……」
 顔を上げた美佳が、言葉を切った。唖然とした顔でおれを見つめる。
「ちょっと、マジ?」
「……なにが?」
 おれの質問には答えず、黙ってテーブルに身を乗り出し、瞬きもせずにじっとおれを観察している。居心地の悪い視線だった。自分がどんな顔をしているのか、想像したくなかった。
 自分でもわかっていた。おれは意地を張って連絡しないのではない。怖いのだ。亮太に拒まれるのが。あの台風の夜に起きたこと、あれはいったいなんだったのか。真相を知るのが怖かった。亮太がおれに抱かれたことよりも、おれが彼に溺れた理由と向き合うのが怖かった。亮太に嫌われることに耐えられず、嫌われたくないと思っていることも認められなかった。自分がそれほどまでに臆病な人間だったことをはじめて知った。
「そっちの話は?」
 落ち着かなくなり、ぎこちなく顔を背けた。
「話って?」
「なんか用があるから呼びつけたんだろ。忙しいとこわざわざきてやったんだから、さっさといえよ。おれに無駄な時間を使わせるな」
 冷めたコーヒーを一気に飲み、いった。動揺を隠そうと、無意識に早口になる。
「さっき話したでしょ」
 美佳が呆れ顔でいう。なにか話している声を聞いた気がしたが、内容は耳に入っていなかった。
「聞いてなかった? 上の空だったもんね」
 美佳は怒るよりもむしろ楽しげだった。テーブルの上で腕を組み、はっきりといった。
「あたし、足洗うから」
 意味がわからなかった。そういう顔をしていただろう。おれの返事を待たず、繰り返した。
「もうやめるってこと。今後は仕事を手伝えないけど、悪く思わないで」
「……急にどうした?」
 おれはようやく美佳の顔をまともに見た。眉間に皺を寄せ、いった。
「なにかあったのか。危ない目に遭ったなら……」
「ちがうちがう。べつになにもないって」
 顔の前で掌を閃かせて、首を傾げる。話すときの癖だ。
「ただ、嫌になっちゃったの。ひとを騙すのが」
 思わず噴き出した。美佳もおなじように笑うと思っていたが、彼女は顔の筋肉を動かすことなく、ただおれを見つめているだけだった。
「……本気か?」
「いつまでもこんなこと続けてられないでしょ」
「……マジか」
 今度はおれが驚かされる番だった。
「罪悪感感じてんのか? おまえが?」
「悪い?」
 美佳は抑揚を欠いた声でいった。
「数千万の負債を背負わすくらい、たいしたことないとは思ってる。騙されるほうが悪いってこともね。こっちはひとを紹介しただけの第三者で、責任を問われることもない。騙されるほうが悪いんだし、そもそも違法じゃないもんね」
 仕事をはじめるときにおれが説明した内容を繰り返す。完全合法の詐欺行為。罪悪感をおぼえたことは一度もない。美佳もおなじはずだった。
 美佳は顔色ひとつ変えずに身を起こし、胸の前で腕を組んで、肩を竦めた。
「ただ、一生の仕事ではないでしょ。おかげさまで貯金もそこそこできたし、地元に帰ってしばらくゆっくりするわ」
 おれはすこしの間黙って、ビジネスパートナーを見つめた。相手は怯むことなくおれの視線を受け止めている。
「男のうちのだれかに惚れたか?」
「冗談でしょ」
 表情はまったく動かないまま、声にもいっさいの揺れはなかった。
「仮にそうだったとしても、あんたに関係ない」
 おれをまっすぐに見据えて、いいきった。たいした女だ。数多の嘘つきと対峙してきたが、これほど感情の読み取れない人間とはそうお目にかかれない。仲間に引き込んだおれの判断は誤っていなかった。
「わかった」
 一言だけいった。美佳が意外そうに眉を上げる。
「なんだ? 他にも用があんのか?」
「ないけど……」
 組んでいた腕を解いて、気の抜けた表情を見せる。
「引き留められるかと思ってた」
「引き留められたかったのか?」
 苦笑いを浮かべ、いった。
「引き留めたって無駄だろ」
「まあ、そうね」
「無駄が嫌いなんだ、おれは」
 美佳の表情がわずかに緩む。平静を装ってはいたが、緊張していたのかもしれない。脅され、協力の継続を強要されることも想定していただろう。おれがあっさり承諾したことで拍子抜けしたかもしれない。
「じゃあ……」
「ああ。元気でな」
 手を振って合図をし、テーブルの上の伝票をさりげなく摘まみ取る。美佳はバッグを手に立ち上がったが、しばらくの間、そのままの姿勢でおれを見下ろしていた。
「あんた、変わった」
 やわらかな声で、ぽつりといった。
「その女のせい?」
 答えなかった。向こうも返答を求めているわけではなさそうだった。
「もしそうなら、今すぐ追いかけたほうがいい。つかまえて、絶対離しちゃだめだよ」
 それだけいって、美佳は店を出て行った。きたときよりも足取りが軽くなっているように見えた。
 おれも気分がすこしよくなっていた。稼ぎ頭のひとりを失ったのにもかかわらず。不思議なことに、惜しいという気持ちはなかった。美佳のいうとおり、おれは変わったのかもしれない。おなじように、石黒美津夫も変わったのだろうか。
 カフェの椅子に背中を凭せかけ、スーツのポケットからスマホを抜き出した。仕事の着信とメール、LINEが数件。亮太からの連絡はない。
 電話番号を表示させ、電話をかけた。旅行のために連絡先を交換していたが、一度もかけたことはなかった。しばらくの間着信音が鳴ったが、回線は繋がらなかった。
 ウェブを開き、亮太の洋菓子店の店名を検索する。たしかフェイスブックだかインスタグラムだかが存在するはずだ。バイトの女の子に勧められてアカウントを作成したものの、SNSは苦手で更新は滞りがちなのだと話していたことをおぼえていた。
 ページを開き、複数の画像が表示された。最新の投稿を見て、おれはスマホをスクロールする指を止めた。指の隙間から伝票が滑り落ちたが、おれはしばらくの間そのことに気づかず、ただ呆然とスマホの画面を見つめ続けた。