HAIMURUBUSHI

「なんかあった?」
 遠くで声がしたようだったが、実際には、小さなテーブルを挟んだ向かい側の椅子に座った相手が発した言葉だった。
「……なに?」
 すこし間を措いて、顔を上げた。化粧っけのない顔を訝しげに歪めて、美佳がおれを見つめる。
「ずっとケータイ見てる」
 のっぺりとした一重まぶたの地味な顔だち。美人とはいえないが醜くもない。これといった特徴のない存在感に乏しい女だが、頭の回転が速く、わずかな違和感にも目敏く気づく。家庭環境があまりよくなかったそうで、他人の心の動きに敏感なのはそのせいかもしれない。その才能は、本人にとっては望まざるものだったかもしれないが、おれたちの仕事にとっては非常に役立った。
 美佳とは六本木のクラブで知り合った。キャバ嬢としては、美佳は中の上程度といったところだった。顔やスタイルは並以下だったが、客の心を操るのがうまかった。男心を巧みに擽り、本気にさせる。
 営業スタイルははっきりしていた。他のキャバ嬢が群がる金持ちやイケメンには見向きもせず、真面目で目立たないタイプの会社員をターゲットにした。まめに連絡を取り、仕事の愚痴に耳を傾け、ときには励まし、ときには甘えて、自尊心と独占欲を刺激した。多くの客は勘違いし、貯蓄を切り崩し、借金をしてまで足繁く店に通った。身分不相応な高級ボトルを卸し、借金が嵩んで身動きが取れなくなると、べつの客に標的を移す。
 効率的だが、危険を伴う手法だ。ストーカー化した客から待ち伏せされ、暴行されかけて、店を離れたところで、おれがスカウトした。
 美佳はいわば餌だった。マッチングアプリに登録し、連絡を取った男と何度かデートをしてから、結婚を匂わせて、投資を勧める。将来のためにとか自分もやっているからとか適当な理由をつけて、投資に詳しい知り合いとしておれを紹介する。契約書に判を押させることができれば、儲けた金の一部をマージンとして受け取る仕組みになっていた。
 おなじような女を何人か飼っていたが、美佳は抜群に成績がよかった。地味で目立たない外見が功を奏していた。なまじ美人すぎるとかえって疑われる。水商売とは舞台がちがうのだ。この程度の女なら自分に惚れても納得できる。そう思わせることが重要だった。
「なにか気になることでもあるの?」
 アイスティーの氷をストローの先で突きながら聞いてくる。からからと軽やかな音とグラスの表面にへばりついた水滴が、あの波照間島での台風の夜の記憶を蘇らせた。
「べつに……」
 おれもコーヒーをひと口飲んだ。運ばれてきてから一度も口をつけていなかったコーヒーは完全に冷めていた。
 テーブルの上にはノートパソコン。10分以上操作がなければ自動的にスリープ状態に切り替わる設定だ。黒くなった画面に陰鬱な顔が映っている。
「なあ、聞いていいか?」
 美佳がストローを咥えて上目遣いにおれを見る。
「やったあと連絡が取れなくなることってあるか?」
「なにそれ」
 美佳が顔をしかめる。噴き出して、噎せそうになり、胸に手をあてて咳をした。
「やり捨てされたわけ?」
「そういうわけじゃ……」
「連絡つかないってことはそういうわけでしょ?」
 口を滑らせたことを早くも後悔しはじめていた。美佳はテーブルに頬杖をついて、いかにも楽しげに目を細めている。
「なになに、どういう関係? どこで会ったの? なにしてるひと?」
「もういい」
「怒んないでよ」
 笑いを噛み殺しながら、首を傾げていう。
「そうねえ、考えられる理由としては、よほどよくなかったか……」
「まさか。ありえない」
 笑い飛ばした。革靴の爪先でカフェの床を叩きながら、いった。
「何回もいってた。よくなかったわけない」
「演技ってこともあるんじゃない?」
 おれの体の下で、おれの手のなかで、亮太は何度も白濁を撒き散らした。白い肌を朱に染めて、体を撓らせ、小刻みに痙攣させた。女とはちがう。誤魔化しようがない。
「馬鹿なこというな。確かに不慣れだったけど、おれは……」
 また美佳が噴き出した。今度は我慢できずに、くすくす笑い出す。
「なんだよ」
「だって、不慣れとかいうから……」
 呆れたようにいって、おれを見る。
「散々遊んでるくせに、童貞みたいなこといっちゃって」
 嘘をついたわけではない。おれにとって男とのセックスははじめての体験だった。あの瞬間までは頭に浮かべたことさえなかった。衝動的にはじまったことだったが、驚くほど自然に最後まで運んでいった。
 おれとはちがい、亮太は慣れているように見えた。男同士の行為に詳しいわけではないが、男女のように簡単にできるものでないことはわかる。亮太はごく自然におれを受け容れ、おれに跨がって自ら腰を振った。ふだん見せる控えめな表情からは想像もつかないほど淫らな様子に驚いたが、戸惑いは一瞬で、あとは凄まじい興奮があるだけだった。
「2日間もしてたんだぞ」
 コーヒーの表面を見つめながら、呟いた。
「あれでよくなかったわけない。絶対よかったはず……」
「2日?」
 美佳が眉間に皺を寄せる。
「泊まったの? 珍しい」
 女と遊ぶときはたいてい宿泊でなく休憩を選ぶ。終わったあとにべたべたくっついているのも面倒だし、時間の無駄は避けたかった。美佳とも何度か暇つぶしに遊んだが、2回以上やることはなかった。
「しかたなかったんだよ。台風で飛行機が欠航になって……」
「うそ。旅行したの?」
 おれがふだん女をどう扱うか知っている美佳が驚きの声を上げる。しゃべりすぎを悔いて、ため息をついた。
「信じらんない。もしかして本気なの?」
 そんなつもりはなかった。はじめはなりゆきにまかせただけだった。ひと晩だけのはずが、翌朝、天候不良で飛行機とフェリーの欠航が決まり、結果的に、もう1日延泊することになった。荒れた天気のなか外出もできず、おれたちは1日中ベッドで過ごした。何度も絡み合い、食餌を取ることも忘れて互いを貪り合った。
 おれは飽きることなくひたすらに亮太を求め続けた。我を失って夢中で腰を打ちつけ、亮太のなかに精液を注ぎ込んだ。あんなふうになったのははじめてだった。どんないい女を抱いたときも、あれほど深く溺れたことはなかった。
 東京にもどるまでの間、フェリーのなかでも飛行機のなかでも、互いにほとんど口を開かなかった。視線を合わせることもせず、じっと黙っていた。
 亮太は同性愛者なのか。どういうつもりでおれを受け容れたのか。聞きたかったことはなにひとつ聞けなかった。突然の事態に動揺し、どう振る舞えばいいのかわからなかった。
 亮太との関係がどうなるのか考えると、どうにも気持ちが落ち着かなかった。交際を迫られた場合にはどうすべきか。男と付き合うことなど考えたこともなかった。亮太に弱みを握られたことに対する警戒心もあった。亮太とは単なる知り合いではない。裁判沙汰になっているのだ。関係をネタに強請られるかもしれない。母親や代理人にどう説明すべきか、考えあぐねていた。
 しかし、東京にもどってから約半月、亮太からの脅迫も誘惑もなかった。音沙汰なしだ。おれのほうも連絡はせず、店にも足を運んでいなかった。