空港へ向かうタクシーの車内で、スマホが鳴った。ディスプレイに表示された名前と番号を見て、思わず天井を仰ぐ。無視したかったが、そうもいかない。
「今どこ?」
回線が繋がるのと同時に、低く掠れた声が響いた。
「どこに行く気?」
嘘をつきたいという欲求に駆られたが、耐えた。会社には母親の息のかかった連中がやまほどいて、いまや会長となった母の指示でおれを見張っている。3日間の休暇を取ったことも朝から空港に向かっていることも知られているにちがいない。誤魔化そうとしても無駄だろう。かえって穿鑿されるだけだ。
「ちょっと羽伸ばすだけだよ」
「どこに行くの?」
おれの話は聞かずに、質問を繰り返す。いつものやりかた。ため息を飲み込んで、答えた。
「沖縄に行ってくる。遅い夏休みだよ」
「ひとりで?」
「いや、友達と」
「友達って?」
「母さん。頼むよ」
タクシー運転手の好奇心丸出しの視線をミラーごしに感じ、軽く咳をした。
「おれはもう大人だ。いつまでも子どもあつかいはやめてくれ」
話題を逸らそうとしたが、母には通用しなかった。冷ややかな声でいう。
「あのケーキ屋も今日から3日間臨時休業してるわね。すごい偶然だこと」
そこまで調べていたとは想定外だった。すべて知ったうえでかまをかけてきたのだ。あやうく口を滑らせるところだった。
「わかった。そうだよ。彼と行く」
「どうして? あなた、どういうつもりなの?」
「前にもいっただろ。おれは……」
「あの男と会うのは弱みを握るためね。それは理解した。でもいっしょに旅行までする? そんなこと意味あるの?」
「意味があるかは結果次第だろ」
スマホで通話をしながら、腕時計を確認する。早朝ということもあり、道路の流れは滑らかだ。予定していた時間よりも早く到着するだろう。亮太とは空港で落ち合うことになっていた。
「もうひと押しなんだよ。頼むからおれを信用して任せてくれ」
母親は鼻で笑った。子どもの頃からおなじだ。おれを信頼したことはただの一度もなかった。期末試験で1位を獲ったときも、柔道の大会で優勝したときも、つまらなさそうな顔をしていた。
高速道路の出口が近づいてきた。スマホを持ち替え、財布を取り出す。
「空港に着くから、もう切るよ」
「うまく説得して、遺産相続の権利を放棄させるのよ。わかった?」
答えずに、電話を切った。親指と人差し指で眉間を指圧し、深く息を吐く。結婚以来、夫の愛情を感じることなく破綻した夫婦生活に不満を募らせてきた母の恨みの矛先は子どもに向いた。息子を束縛し、思いどおりに操ることで、自身の存在を確認しようとした。
父の暴力に怯えて育ったおれにとって、頼れるのは母だけで、母親に逆らう選択肢は与えられなかった。幼い頃から植えつけられてきた記憶は、今もおれを縛り、自由を奪っていた。
空港では、亮太が先に着いて、ロビーでおれを待っていた。クリーム色のキャリーケースの柄をつかみ、所在なげに俯いている。
すぐには声をかけず、すこし離れた位置からしばらくの間、彼を見つめた。心細げな横顔を眺めていると、ついさっきまで心を支配していた陰鬱な気分がすこし和らいだ。
やがて、亮太のほうもおれに気づいた。顔を上げ、ほっとしたように表情を緩める。
「倫雄さん」
キャリーケースを引きながら、駆け寄ってくる。
「おはようございます」
「おはよう」
亮太はデニムシャツにハーフパンツ、スニーカーといったラフな服装だった。肩にはボストンバッグを提げ、ナイロン製のサコッシュも首に掛けている。喪服とエプロン姿しか見たことがなかったから、不思議な感覚だった。
「ずいぶん大荷物だな」
「旅行ははじめてで、なに持ってけばいいのかわからなくて……」
「旅行したことない? ほんとか?」
「お店があるので家族旅行の機会もなかったですし、お金もないので……」
不安げに視線を彷徨わせながら、いう。
「あの、搭乗手続きとかは……」
「チェックインはもう済ませた。あとはその荷物を……」
巨大なバッグを抱えて立ち尽くしている亮太を見て、思わず噴き出してしまった。
「いや、失礼。おれの手荷物として載せよう。貸して」
手を伸ばすと、眉間に皺を寄せ、ボストンバッグを差し出す。仕事柄、出張に出る機会も多いが、最小限の荷物しか持たない主義だった。下着などは現地のコンビニで調達し、使い終わったら持ち帰らずに処分する。
亮太のボストンバッグを肩に提げ、搭乗口に向かう。亮太はキャリーケースをからからいわせながら後をついてきた。
飛行機に乗り、石垣島の石垣空港へ。航空券と宿泊の手配はおれが済ませた。警察の捜査に加えて、母が雇った興信所の調査結果から、石黒美津夫と三條隆一の足取りを辿り、まったくおなじ旅行計画を立てた。ふたりがなにを考え、どういう経緯を経て死という選択に至ったのかをさぐるためだ。
父たちが旅だったのも、ちょうど1年前のおなじ時期だった。ハロウィンとクリスマスの間で、不動産業も洋菓子店も繁忙期を避けられ、オフシーズンであることから観光客の混雑もなかった。
おれは土日祝日が休みだが、客商売の亮太は週末休みが取りづらい。父親たちもおなじように平日に出かけていた。
「今どこ?」
回線が繋がるのと同時に、低く掠れた声が響いた。
「どこに行く気?」
嘘をつきたいという欲求に駆られたが、耐えた。会社には母親の息のかかった連中がやまほどいて、いまや会長となった母の指示でおれを見張っている。3日間の休暇を取ったことも朝から空港に向かっていることも知られているにちがいない。誤魔化そうとしても無駄だろう。かえって穿鑿されるだけだ。
「ちょっと羽伸ばすだけだよ」
「どこに行くの?」
おれの話は聞かずに、質問を繰り返す。いつものやりかた。ため息を飲み込んで、答えた。
「沖縄に行ってくる。遅い夏休みだよ」
「ひとりで?」
「いや、友達と」
「友達って?」
「母さん。頼むよ」
タクシー運転手の好奇心丸出しの視線をミラーごしに感じ、軽く咳をした。
「おれはもう大人だ。いつまでも子どもあつかいはやめてくれ」
話題を逸らそうとしたが、母には通用しなかった。冷ややかな声でいう。
「あのケーキ屋も今日から3日間臨時休業してるわね。すごい偶然だこと」
そこまで調べていたとは想定外だった。すべて知ったうえでかまをかけてきたのだ。あやうく口を滑らせるところだった。
「わかった。そうだよ。彼と行く」
「どうして? あなた、どういうつもりなの?」
「前にもいっただろ。おれは……」
「あの男と会うのは弱みを握るためね。それは理解した。でもいっしょに旅行までする? そんなこと意味あるの?」
「意味があるかは結果次第だろ」
スマホで通話をしながら、腕時計を確認する。早朝ということもあり、道路の流れは滑らかだ。予定していた時間よりも早く到着するだろう。亮太とは空港で落ち合うことになっていた。
「もうひと押しなんだよ。頼むからおれを信用して任せてくれ」
母親は鼻で笑った。子どもの頃からおなじだ。おれを信頼したことはただの一度もなかった。期末試験で1位を獲ったときも、柔道の大会で優勝したときも、つまらなさそうな顔をしていた。
高速道路の出口が近づいてきた。スマホを持ち替え、財布を取り出す。
「空港に着くから、もう切るよ」
「うまく説得して、遺産相続の権利を放棄させるのよ。わかった?」
答えずに、電話を切った。親指と人差し指で眉間を指圧し、深く息を吐く。結婚以来、夫の愛情を感じることなく破綻した夫婦生活に不満を募らせてきた母の恨みの矛先は子どもに向いた。息子を束縛し、思いどおりに操ることで、自身の存在を確認しようとした。
父の暴力に怯えて育ったおれにとって、頼れるのは母だけで、母親に逆らう選択肢は与えられなかった。幼い頃から植えつけられてきた記憶は、今もおれを縛り、自由を奪っていた。
空港では、亮太が先に着いて、ロビーでおれを待っていた。クリーム色のキャリーケースの柄をつかみ、所在なげに俯いている。
すぐには声をかけず、すこし離れた位置からしばらくの間、彼を見つめた。心細げな横顔を眺めていると、ついさっきまで心を支配していた陰鬱な気分がすこし和らいだ。
やがて、亮太のほうもおれに気づいた。顔を上げ、ほっとしたように表情を緩める。
「倫雄さん」
キャリーケースを引きながら、駆け寄ってくる。
「おはようございます」
「おはよう」
亮太はデニムシャツにハーフパンツ、スニーカーといったラフな服装だった。肩にはボストンバッグを提げ、ナイロン製のサコッシュも首に掛けている。喪服とエプロン姿しか見たことがなかったから、不思議な感覚だった。
「ずいぶん大荷物だな」
「旅行ははじめてで、なに持ってけばいいのかわからなくて……」
「旅行したことない? ほんとか?」
「お店があるので家族旅行の機会もなかったですし、お金もないので……」
不安げに視線を彷徨わせながら、いう。
「あの、搭乗手続きとかは……」
「チェックインはもう済ませた。あとはその荷物を……」
巨大なバッグを抱えて立ち尽くしている亮太を見て、思わず噴き出してしまった。
「いや、失礼。おれの手荷物として載せよう。貸して」
手を伸ばすと、眉間に皺を寄せ、ボストンバッグを差し出す。仕事柄、出張に出る機会も多いが、最小限の荷物しか持たない主義だった。下着などは現地のコンビニで調達し、使い終わったら持ち帰らずに処分する。
亮太のボストンバッグを肩に提げ、搭乗口に向かう。亮太はキャリーケースをからからいわせながら後をついてきた。
飛行機に乗り、石垣島の石垣空港へ。航空券と宿泊の手配はおれが済ませた。警察の捜査に加えて、母が雇った興信所の調査結果から、石黒美津夫と三條隆一の足取りを辿り、まったくおなじ旅行計画を立てた。ふたりがなにを考え、どういう経緯を経て死という選択に至ったのかをさぐるためだ。
父たちが旅だったのも、ちょうど1年前のおなじ時期だった。ハロウィンとクリスマスの間で、不動産業も洋菓子店も繁忙期を避けられ、オフシーズンであることから観光客の混雑もなかった。
おれは土日祝日が休みだが、客商売の亮太は週末休みが取りづらい。父親たちもおなじように平日に出かけていた。



