石黒美津夫は長野県安曇野市で生まれた。現在のように観光地として整備される前の雪深い田舎町だ。8人家族で、父親は農業に従事し、母親は役所併設の食堂で働いていた。
6人兄弟の4男だった美津夫は中学卒業後すぐに上京し、二十代で不動産会社を興した。持ち前の度胸と鋭い嗅覚、強運を武器に、バブル期をうまく立ち回り、一代で巨額の富を得た。
しかし、成功の影には闇が付き纏うものだ。美津夫の強引な土地取引や取り立てによって、馘首や破産の憂き目に遭った人々はすくなくなかった。自宅や資産を奪われ、家族を失い、自死した人たちもいたという。
美津夫への恨みを募らせ、自宅に押しかけた人もあったが、美津夫は平然としていたという。身長180センチを越える巨体で柔道の心得もあった美津夫は脅迫に怯むことも、また良心の呵責を感じることもなく、淡々と蓄えを肥やしていった。
手にした金は惜しみなく投資に回した。商売敵を葬り、権力者の弱みを握ることにもつかわれた。いつしか経済界だけでなく政界にも影響力を広げ、石黒美津夫に意見できる者はなくなった。
その冷血ぶりは、家の外だけではなく、家族にも向けられた。母親は常に怒鳴られ、ひとり息子は子どもらしい些細な失敗も許されず、厳しく躾けられた。愛情を見せることは一度もなかった。最後の最後まで。
「お待たせしました」
目の前にコーヒーカップとタルトの皿が置かれ、我に返った。
「ありがとう」
顔を上げずにいう。エプロンをした女性スタッフが滑るように席を離れる。愛想のひとつも見せず、存在しないかのようにカウンターの奥へ姿を消す。平日の夕方、時折ひとりで来店する客を歓迎していないのはわかっていた。
フォークの先でタルトの表面を軽く突く。旬のかぼちゃとクリームチーズのタルトで、派手さはないが、素朴な味わいだった。自家焙煎のコーヒーも苦みと酸味のバランスがよく、フルーティな香りと酸味が心地よい。
おれは両親の愛を知らない。父親は仕事にしか関心がなかったし、母親はひとり息子を自身の将来のための道具としか見ていなかった。
家庭料理には縁がなく、毎日の食事は基本的に家政婦がつくっていた。献立は母親が厳しく監視しており、スナック菓子やジュースといったものは禁じられていた。豆の煮たものや贈りものの煎餅などを与えられるくらいで、ケーキやクッキーを口にした記憶はほとんどなかった。
小さな店には色とりどりのケーキが並ぶショーケースとキャッシュカウンター、ふたりがけのテーブルがふたつ。客はおれひとりで、アルバイトの女性店員がケースのなかの商品を並べ替えている。
窓際の席に父親の姿が見えた気がした。もちろん幻影だ。父は1年前に死んでいたし、ここへきていたことも死後に知らされた。実際に見たことはないしいっしょにきたこともない。父とはもともと疎遠だったし、幼少期にも家族で外出した経験はほぼなかった。
かぼちゃのチーズタルトを食べ終え、紙ナプキンで口元を拭った。タルトにこれほど多くの種類があることを、この店にくるようになってはじめて知った。
ベルが鳴って、店のドアが開いた。客ではない。買い出しに出かけていた店主がもどったのだ。
「ただいま」
バイトスタッフに声をかけて、奥の席にかけたおれの姿に気づいた。
「倫雄さん」
コートを脱いで腕にかけ、笑顔を見せる。
「いらっしゃいませ」
「うん」
コーヒーを飲みながら、頷く。
閉店時間が近づく頃だ。三条亮太はアルバイトスタッフを帰し、看板の灯を消して、エプロンの紐を解いた。
「どうぞ」
新しく淹れたコーヒーとフルーツタルトをテーブルに置き、自分も向かい側の席に腰掛ける。
「注文してたっけかな」
「いえ、サーヴィスです」
「それは申し訳ない」
「売れ残りですから、お気になさらず。処分するより、食べていただいたほうが」
三条亮太は軽やかにいって、微笑んだ。アールグレイティーにレモンを浮かべて、口をつける。笑うと笑窪ができる。父親もそうだったのだろうかと、ふと考えた。
「だいじょうぶか」
声をかけると、一拍措いて、顔を上げた。
「なんです?」
「疲れているようだから」
紅茶を飲む亮太の顔は、ひと月前に会ったときよりもやつれて顔色もすぐれないように見えた。
「平気です。倫雄さんこそ、お仕事、忙しいんじゃないですか」
おれの仕事は父親とおなじ不動産業だ。父の経営する企業グループの末端で修行を積んでいるところだ。大学を卒業してすぐ入社したが、父の意向もあり、営業部の平社員からスタートした。無知な客を言葉巧みに操り、契約書に判を押させる。投資用と称して、資産性の乏しい物件を買わせ、運用に困った客から安価で買い戻し、べつの愚か者にあてがう。弱者を食い物にする無間地獄だ。
昨年からは大規模な都市再開発に携わり、マンションやオフィスビルを建設するための仕入れ業務を手がけている。用地取得というが、要は地上げだ。地主やその土地で商売をしている店主らを説き伏せ、場合によっては多少強引な手段をつかってでも追い出す。
「たいへんな仕事ですよね」
亮太には単に不動産デベロッパーとしか説明していなかった。どんな仕事かよく理解していないにちがいない。曖昧に頷いて見せた。
父はバブル崩壊直前に二束三文の土地を法外な値で売り飛ばし、利益を得た。頭の悪い人間からはいくら搾取しても構わないという極端な考えの持ち主だった。他人を蹴落とし、富を貪る父を軽蔑していたが、けっきょくは、おなじような生き方をしている。望んだわけではない。実家の影響を離れてべつの道を選択する勇気がなかっただけだ。父のような野心も母のような執着も持ち合わせていない。ただ臆病で無気力なだけの人間だ。
6人兄弟の4男だった美津夫は中学卒業後すぐに上京し、二十代で不動産会社を興した。持ち前の度胸と鋭い嗅覚、強運を武器に、バブル期をうまく立ち回り、一代で巨額の富を得た。
しかし、成功の影には闇が付き纏うものだ。美津夫の強引な土地取引や取り立てによって、馘首や破産の憂き目に遭った人々はすくなくなかった。自宅や資産を奪われ、家族を失い、自死した人たちもいたという。
美津夫への恨みを募らせ、自宅に押しかけた人もあったが、美津夫は平然としていたという。身長180センチを越える巨体で柔道の心得もあった美津夫は脅迫に怯むことも、また良心の呵責を感じることもなく、淡々と蓄えを肥やしていった。
手にした金は惜しみなく投資に回した。商売敵を葬り、権力者の弱みを握ることにもつかわれた。いつしか経済界だけでなく政界にも影響力を広げ、石黒美津夫に意見できる者はなくなった。
その冷血ぶりは、家の外だけではなく、家族にも向けられた。母親は常に怒鳴られ、ひとり息子は子どもらしい些細な失敗も許されず、厳しく躾けられた。愛情を見せることは一度もなかった。最後の最後まで。
「お待たせしました」
目の前にコーヒーカップとタルトの皿が置かれ、我に返った。
「ありがとう」
顔を上げずにいう。エプロンをした女性スタッフが滑るように席を離れる。愛想のひとつも見せず、存在しないかのようにカウンターの奥へ姿を消す。平日の夕方、時折ひとりで来店する客を歓迎していないのはわかっていた。
フォークの先でタルトの表面を軽く突く。旬のかぼちゃとクリームチーズのタルトで、派手さはないが、素朴な味わいだった。自家焙煎のコーヒーも苦みと酸味のバランスがよく、フルーティな香りと酸味が心地よい。
おれは両親の愛を知らない。父親は仕事にしか関心がなかったし、母親はひとり息子を自身の将来のための道具としか見ていなかった。
家庭料理には縁がなく、毎日の食事は基本的に家政婦がつくっていた。献立は母親が厳しく監視しており、スナック菓子やジュースといったものは禁じられていた。豆の煮たものや贈りものの煎餅などを与えられるくらいで、ケーキやクッキーを口にした記憶はほとんどなかった。
小さな店には色とりどりのケーキが並ぶショーケースとキャッシュカウンター、ふたりがけのテーブルがふたつ。客はおれひとりで、アルバイトの女性店員がケースのなかの商品を並べ替えている。
窓際の席に父親の姿が見えた気がした。もちろん幻影だ。父は1年前に死んでいたし、ここへきていたことも死後に知らされた。実際に見たことはないしいっしょにきたこともない。父とはもともと疎遠だったし、幼少期にも家族で外出した経験はほぼなかった。
かぼちゃのチーズタルトを食べ終え、紙ナプキンで口元を拭った。タルトにこれほど多くの種類があることを、この店にくるようになってはじめて知った。
ベルが鳴って、店のドアが開いた。客ではない。買い出しに出かけていた店主がもどったのだ。
「ただいま」
バイトスタッフに声をかけて、奥の席にかけたおれの姿に気づいた。
「倫雄さん」
コートを脱いで腕にかけ、笑顔を見せる。
「いらっしゃいませ」
「うん」
コーヒーを飲みながら、頷く。
閉店時間が近づく頃だ。三条亮太はアルバイトスタッフを帰し、看板の灯を消して、エプロンの紐を解いた。
「どうぞ」
新しく淹れたコーヒーとフルーツタルトをテーブルに置き、自分も向かい側の席に腰掛ける。
「注文してたっけかな」
「いえ、サーヴィスです」
「それは申し訳ない」
「売れ残りですから、お気になさらず。処分するより、食べていただいたほうが」
三条亮太は軽やかにいって、微笑んだ。アールグレイティーにレモンを浮かべて、口をつける。笑うと笑窪ができる。父親もそうだったのだろうかと、ふと考えた。
「だいじょうぶか」
声をかけると、一拍措いて、顔を上げた。
「なんです?」
「疲れているようだから」
紅茶を飲む亮太の顔は、ひと月前に会ったときよりもやつれて顔色もすぐれないように見えた。
「平気です。倫雄さんこそ、お仕事、忙しいんじゃないですか」
おれの仕事は父親とおなじ不動産業だ。父の経営する企業グループの末端で修行を積んでいるところだ。大学を卒業してすぐ入社したが、父の意向もあり、営業部の平社員からスタートした。無知な客を言葉巧みに操り、契約書に判を押させる。投資用と称して、資産性の乏しい物件を買わせ、運用に困った客から安価で買い戻し、べつの愚か者にあてがう。弱者を食い物にする無間地獄だ。
昨年からは大規模な都市再開発に携わり、マンションやオフィスビルを建設するための仕入れ業務を手がけている。用地取得というが、要は地上げだ。地主やその土地で商売をしている店主らを説き伏せ、場合によっては多少強引な手段をつかってでも追い出す。
「たいへんな仕事ですよね」
亮太には単に不動産デベロッパーとしか説明していなかった。どんな仕事かよく理解していないにちがいない。曖昧に頷いて見せた。
父はバブル崩壊直前に二束三文の土地を法外な値で売り飛ばし、利益を得た。頭の悪い人間からはいくら搾取しても構わないという極端な考えの持ち主だった。他人を蹴落とし、富を貪る父を軽蔑していたが、けっきょくは、おなじような生き方をしている。望んだわけではない。実家の影響を離れてべつの道を選択する勇気がなかっただけだ。父のような野心も母のような執着も持ち合わせていない。ただ臆病で無気力なだけの人間だ。



