天体望遠鏡と塩スプレーは相性最悪



 実際に波多江がいたからか。昨日は三十分かかった道のりも五分で済んだ。
 屋上のドアを目の前にして、最後の鍵をポケットから取り出す。

「改めて鍵を開けるってなると、ちょっとドキドキするね」

 そう呟いてから、ふっと波多江を見た。

「ねぇ、鍵って今までどうしてたの?」

「どうもしてねぇよ。俺が行く時は開いてたし、鍵のことも忘れてたわ」

 あっさりと言われ、同時に天研の顧問の顔が頭に浮かぶ。もしかしたら、上手く先回りして鍵は開けていたのかもしれない。顧問の立場を逸脱している気もしたので、新は何も言わずに鍵をノブに差し込んでひねった。

 ガチャ、とドアを開けると、思ったより強い風が校舎内に吹き込んでくる。
 先ほど下で見た雲も空を流れていて、月の光が遮られることなく屋上を照らしていた。

「おー、いいじゃん。月も綺麗だし」

 嬉しそうに声を上げる波多江が荷物を下ろし、リュックからLEDランタンを取り出した。

「足下、気をつけろよ」

 月光はあれど、確かに足下は薄暗い。波多江が手にしたランタンの橙色の灯りに誘導された新は、その既視感に首を傾げ足を止めた。

「どうした?」

 ランタンをゆらゆらさせながら尋ねてくる波多江に、新は思わず大声を上げていた。

「それ!」

「それ? ランタン?」

「僕が見た人魂! それ!」

「まっさかー」

 波多江は笑い飛ばすが、その揺れている様子は昨日見た人魂と同じ軌道だ。
 それに、人魂は月が綺麗な夜に出る、と言われている。

 屋上で月を観測している波多江が、橙色のランタンを持っている……ということは。

「え、マジで? マジでこれなのか?」

「そうだと思う……!」

 恥ずかしさで地面に座り込む新が呟くと、彼も理解してくれたらしい。

「あー……そっか。そっかー……なんか、ごめんな?」

「いや、僕が……勝手に……勘違いしただけで……」

 幽霊の正体なんて、結局そんなものだ。

 しかし、学校中の人間がランタンを人魂と見間違えるなんて。
 心霊系の話は、こういう面もあるから嫌なのだ。都市伝説やUFOと違ってロマンがない。そう言うと心霊推しの後輩とは言い争いになるのだが、実際に人魂はランタンだったではないか……。

「おい、香納? 大丈夫か?」

「だいじょぶ……」

 呟き、差し出された手を掴んで立ち上がる。

「まぁ人魂のことは悪かったけど、月はあるから。な?」

「波多江くんは悪くないよ。なんか、でも、気が抜けた……はは……」

 ずっと幽霊に怯えていた自分がバカみたいだ。

 乾いた笑いをこぼす新を、波多江が屋上の中央まで連れてきた。足下にランタンを置いて、そこで一番大きなケースを開ける。
 中には綺麗に収納された望遠鏡が入っていたのでビックリした。

「これ、あれ? 昨日の?」

「違う。これは、死んだ親父の」

 淡々と言う波多江に、言葉が詰まる。
 急に重いな、とは思ったのだが、波多江の真剣な横顔に何も言えなくなる。

 むしろ、さらっと言ってくれたからこそ自分が黙ってはいけない。

 そんな気持ちになり、新はなんでもないような口調で尋ねた。

「お父さんは、いつ?」

「中一の時に事故で。よく遊んでくれた、いい親父だったんだけど」

「じゃあ、月を観るのもお父さんの影響?」

「だな」

 頷いて、波多江は望遠鏡を慣れた様子で組み立てていく。

 昨日見た物より少しレトロな印象があるのは、年季が入っているからだろう。父親の形見ともいえる物を持ってきてくれた波多江に、ずっと疑問だったことを聞いてみる。

「どうして月なの? 星じゃなくて」

「ガキの頃に、プラネタリウム連れてってもらったんだけど」

「うん」

「親父が『月にはさみしがり屋のウサギがいるから、いつも見ていてあげないと可哀想だろ』って……」

 そんなロマンチストな父親の影響で月を観ている、息子の波多江も十分ロマンチストだと思った。新が先ほどの仕返しで指摘しようか悩んでいると、波多江が隣で頭を抱える。

「……笑いたいなら笑っていいぞ」

 あきらかに照れている様子だったのでからかってやりたかったが、それよりも気になったことがあったので聞いてみた。

「笑いたいわけじゃないけど……えっと……波多江くんって、なんでヤンキーなの?」

 素朴な問いかけだったが、波多江にとっては予想外の疑問だったらしい。
 思いきり噴き出した彼は笑いすぎて咳き込むほど笑うと、金色に染めた前髪を掻き上げて新の肩を一回叩いた。

「いたっ」

「やっぱ、香納っておもしれーな。初めて聞かれたわ」

 誰も怖くて聞けないだけでは?

 そう考えて、やはり踏み込みすぎた質問だったかも、と改めて新は青くなる。
 しかし波多江は気にした様子もなく、はぁ、と小さくため息を漏らした。

「面白いこと、教えてやろうか」

「なに?」

「俺、別にヤンキーじゃねぇよ?」

「えっ!? うそ、だってみんなうわさしてるよ!」

 そこまで言ってしまってから、あっと口を手で塞ぐ。すぐに自分の言葉の意味がわかり後悔したが、波多江が怒った様子はない。
 ただ、レッテルを貼られる不快感は新が嫌というほど知っているのに、自分も同じように波多江を見ていた。そんな簡単なこともわからず口走ってしまったことが、情けなくて申し訳ない。

「……ごめんね」

「そんなのいいから、ちょっと観てみろよ」

 小さな折りたたみ椅子に新を座らせ、望遠鏡の接眼レンズを覗かせる。

 その中には月が浮かんでいて、ぽこぽこしたクレーターまでわかった。
 白く輝く月は十分ハッキリ見えたのだが、波多江が調整のためにか。顔を寄せてくる。

「貸して」

「うわっ」

 いきなり綺麗な顔が近くに来たので、新は緊張とともに望遠鏡から慌てて離れた。そんなこちらの気持ちなどおかまいなしで、波多江が呆れたように呟く。

「うわってなんだよ……」

 接眼レンズを覗く波多江の横顔は、同じ男の自分が見ても整っている。

 これで「実はヤンキーじゃない」ということが知れ渡ったら、女子の彼を見る目も変わるだろう。それはそれで面白いと思いつつ、自分だけが知っているという事実も嬉しい。

(……いや、なんで嬉しいんだ?)

 自分の気持ちの意味がわからず悩んでいると、波多江が新を見た。

「ピント合った。これで、もっかい観て」

「う、うん」

 なぜかドキドキしながら、もう一度接眼レンズを覗く。

 すると、目の前に見える月は先ほどより美しく見えた。古い望遠鏡でも、ここまで月が綺麗に感じるのは波多江の技術なのだろうか。クレーターも輪郭がしっかりと主張しているので、本当にこんなにでこぼこしているんだ、と改めて感動した。

 言葉を忘れて見惚れていたので、慌てて感想を言う。

「ウサギ、僕には見えないみたい」

「いや、いるだろ? 右下に」

「いないよ、今は」

 そんなことを言い合っていると、流れてきた雲が月を隠した。

『あ』

 新と波多江の声が重なり、思わず二人で笑ってしまう。

 結局その後で月が見えることはなく、新たちは望遠鏡を夜露から守るために校舎へ戻った。望遠鏡のパーツを踊り場で乾燥させながら、波多江がぽつぽつと話し始める。

「親父が死んだ後、母親は再婚してさ」

「そうなんだ」

「相手がいいヤツってのはわかってても、なんか居づらいのがあってな。だから……なんとなく金髪にしたら、変なうわさが広がって。俺にも意味わかんねぇんだけど」

「入学早々の大乱闘とか、そういえば本当にあったのかは不明なんだよね……」

 新も乱闘現場を目撃したわけではない。ただ入学式の翌日にはうわさが立って、波多江満生という人間は腫れ物扱いになっていた。

 確かに学校がある地域は都会とはいえない場所で、良くも悪くも閉鎖的だ。そんなところに現れた金髪の生徒がヤンキーと呼ばれるのは、よくある流れなのかもしれない。

「だけど、オカ研ってだけで変わり者扱いされてるヤツもいたからな」

「それは僕のことだね?」

 自分でもわかっていたが、周囲からどう見られているかを改めて知ると面白い。やっぱり変わり者だと思われてたんだ、と実感すると同時に疑問が生まれる。

「そういえば、なんで僕のこと知ってたの? クラスも離れてるし、不思議だったんだ」

「天研が倉庫にしてる部屋の隣がオカ研なんだよ。いつ行ってもうるせぇから、それで最初は覚えた」

「え、うるさかった? それはごめん……」

 オカ研が部室にしているのは、長く使われていない資料室だ。隣が天研の倉庫だというのは知っていたが、誰も来ないからうるさくしても大丈夫、と勝手に思っていた。

 まさか、天研として波多江が出入りしていたとは。

「でも、何回か行ってると楽しそうにしてるなって思うようになってさ。特におまえ」

「僕? 一番うるさかったってこと?」

「まぁ、それもある」

 笑いながら言う波多江に、ついふてくされてしまう。
 すると、むすっとしている新を見ている彼がからかってきた。


「そんな顔すんなよ。せっかくカワイイのに」

「それさぁ、言われて嬉しいと思ってる?」

「嬉しくねぇの?」

「眼科行った方がいいよ」

 心の底から助言するが、波多江はにこにこするばかりで何も言わない。ただ、新もそんな風に笑う彼を少しだけ可愛い、と思うので何も言えなくなってしまう。

 微妙な沈黙の中で、乾燥させた望遠鏡を波多江がしまう音だけが響いた。新がその丁寧な手つきを見守っていると、スマホのアラームが鳴る。
 約束の九時まで、あと二十分だ。

「もうそろそろ出ないとね」

 屋上の鍵を閉めている新に、波多江が「なぁ」と話しかけてくる。

「ん?」

「また、次も一緒に来てくれるか?」

 予想していなかった問いに新は驚き、即答することができなかった。

 一度許可を取ってしまえば終わり。そう勝手に思っていた部分もあったので、波多江が提示した〝次〟に少しだけ困惑した。
 しかし新は校舎内からは見えない月とウサギの存在を思い出し、まっすぐに自分を見ている波多江に向き直った。彼は微かに緊張しているようだった。

(そんな真剣な顔されたら困るじゃん)

 だって、自分たちはもう既に秘密の共有者なのだ。いつもの調子で「来いよ」と言えばいいだけなのに、律儀に約束を取り付けようとしている波多江に親しみが湧く。

「いいよ。付き合ってあげる」

「マジで?」

「もちろん。月のウサギは、見ていてあげないとさみしくて死んじゃうんでしょ?」

「死ぬかどうかは知らねぇけど」

 波多江は、新の言葉に緊張が解けた様子だ。

「じゃ、帰るか」

 ケースにしまい終えた望遠鏡を背負い、波多江が階段を下りていく。その後を追いかけながら、新はその背に呼びかけた。

「ねぇ、満生くん」

 驚くかと思ったのに、想像していたよりも冷静な表情で波多江が振り返る。

「……くんもいらねぇよ」

「それはまだ無理だよ。そのうちね」

 この秘密の関係が続くことを暗に含めて言うが、波多江は不満そうだった。
 そんな顔が子どもっぽく見えて、新もつい笑みが漏れる。

 直接は気恥ずかしくて言えない。けれど、目の前で唇を尖らせている〝さみしがり屋のウサギ〟を見守るのも悪くないな、と思った新だった。