天体望遠鏡と塩スプレーは相性最悪



 ──翌日の昼休み、新は職員室の前でため息をついていた。

(あー……なんか、緊張するな……。でも、先生に聞かないと僕がボコボコに……!)

 昨夜、波多江から言われたことを思い出して青くなる。新は自分の両頬をぺちぺちと軽く叩くと、意を決して職員室のドアを開けた。
 少し室内を見回して、見つけた天研の顧問の机に歩み寄った。

「あのー……先生、今いいですか?」

「香納くん。どうかしましたか?」

 新は昨日起きた強烈な出来事は少し伏せ、波多江と屋上の許可について尋ねてみた。
 すると顧問は新の言葉を聞きながら、なぜかウンウンと嬉しそうに頷いている。彼は最後まで話を聞き終えてから、あっさり言った。

「いいですよ。香納くんが一緒なら話は別です。心強い」

「は。え? きょ、許可もらえるんですか?」

 あまりに話の通りがいいので驚くが、顧問は三本の鍵を新に渡した。通用門と昇降口、屋上の鍵だという。スペアだろうが大それた物を預かってしまった、と緊張する新に顧問は拝むように手を合わせた。

「波多江くんをよろしくお願いしますね」

「えっと……はい。迷惑になるようなことはしません……」

「ただ、一つだけ約束を。夜九時までに学校を出て帰宅するようにしてください」

 念のため夜中に巡回する警備員にも話を通しておくが、それだけは絶対、と念押しをされる。しかし夜九時までしっかり屋上にいられるなら、波多江も喜ぶに違いない。

(でも、なんで波多江くんをお願いされたんだろう?)

 天研の顧問に礼を言って職員室を出ると、新は波多江に連絡を入れた。

〈条件付きだけど許可もらえましたよ〉

 メッセージを送り自分のクラスまで歩いていると、廊下の向こうで手を振っている生徒がいた。波多江だった。
 彼は既にメッセージを読んだようで、嬉しそうに新に駆け寄ってくる。

「さっすが香納!」

「いったい!」

 いきなり肩をバンッと強く叩かれて悲鳴を上げる新に、波多江が「悪ぃ」と笑う。周囲の空気が止まったのを感じるが、別に後ろめたいわけでもないので会話を続けた。

「そんなにテンション上がるなら、自分で許可取れたんじゃないですか?」

 新がぼやくと、波多江は急にスッと不機嫌になった。

「昨日も言ったろ。他のヤツらと絡むのはめんどくせぇんだよ」

 そう吐き捨てる波多江に、新は思う。

(じゃあ……ほんとは僕が側にいるのも嫌なんだな……)

 陰キャでも、それくらいは空気を読む。
 波多江が月を観察している間、自分は静かに学校を探索することにしよう。

「おい、聞いてるか?」

「えっ? ごめんなさい、なんですか?」

 急にすごまれ、新は慌てて波多江を見上げた。

「今日は校門前で待ってるから。夜七時」

「今日も?」

「あたりまえだろ。晴れるみてぇだし」

 逆らうことは許さない、という圧を少しだけ感じ、新はおずおずと頷いた。
 本当なら後輩が風邪から復帰するまで待ちたかったのだが、波多江の機嫌を損ねるのはまずい。

(二日連続だと、母さん……なんて言うかなぁ?)

 そんなことを考えていると、ちょうど午後の授業が始まるチャイムが鳴った。

「待てよ」

 新が教室に戻ろうとしたのを引き止め、波多江が尋ねてくる。

「来るよな?」

「う、うん……大丈夫だと思います」

 あまりに真剣な表情をするので、親のことは言えなかった。曖昧な返事になってしまった新を不審に思わず、波多江はホッとしたように笑った。

「よかった」

 彼がそんなに柔らかく笑うなんて予想外で、思わずあ然としてしまう。
 ヤンキーなのに、というのは失礼かもしれないが、やはりギャップがすごい。

「あ。つか、タメ口にしろって言っただろ」

 急に波多江から笑顔が消えてしまい、その変わりように緊張で全身が硬直する。
 思わず「ごめんなさい!」と謝る新に、波多江は軽くため息を吐いた。

「まぁ、それはいいわ。とにかく来いよ。来なかったら弁償な」

「は……あ、う、うん。わかった……」

 かろうじてタメ口になった新に満足したのか。

「それでよし!」

 と笑って、波多江は自分のクラスに戻って行く。廊下にいた生徒たちがざわざわしているが、新の胸も同じようにざわざわしていた。

(あの笑顔だけ、ちょっと調子狂うなぁ……)

 波多江の背中を見送り、新も教室に入る。
 席に座って教科書やノートの準備をしていると、いろいろな場所から視線を感じた。

(なんか……見られてる?)

 一瞬だけ幽霊の可能性を考えるが、そうではなさそうだ。ただ居心地が悪いのは確かなので、ふっと隣の席のクラスメイトを見た。
 すると、彼はこちらを窺っていたらしい。目が合い、思わずたじろいでしまう。

 クラスメイトは心配そうな表情を見せ、

「大丈夫か……?」

 と尋ねてきた。

「な、何が?」

「いや、さっき話してたのって波多江だろ。ヤンキーの」

「あ……う、うん」

「パシリにでもされてんの?」

 違う、と言いたかったが、今は似たようなものだ。
 それに、昨夜の詳細を話せば結局「これだからオカ研は」という論調になりかねない。二秒くらいの間でいろいろ考え、新は言葉を濁した。

「別に……」

 そもそも、新とてクラスに馴染んでいるわけではない。だから、こんな時ばかり心配されてもなぁ、という思いがある。

 するとクラスメイトは鼻白んだ様子で「あっそ」と呟いてノートを開いた。せっかく心配してやってるのに、という空気さえ感じて、新は教科書に視線を落とす。

(めんどくさ……)

 確かに波多江との交流も始まったばかりだが、そのクラスメイトだって仲良く話すような間柄ではない。だから、物珍しさから探りを入れられるのは少し気持ち悪い。

(波多江くんをかばうわけじゃないけど……てゆか、あっちは被害者だよ)

 望遠鏡をネタに脅されたとはいえ、あれはそもそも新が悪いのだ。自分が壊した物に責任を持つのはあたりまえのことで、波多江が相手だから起きた事態でもない。

 だから妙な憶測が行き交うのは勘弁してほしい。
 大体、波多江にも失礼だ。

(波多江くんの気持ち、ちょっとわかるなー……)

 彼も他の研究会員との絡みを避けている。
 最初はどうしてかわからなかったが、新も基本的に他人に対して壁が高い。唯一の後輩とはオカルトを通して仲良くなれたものの、それくらいだ。

 あとは必要最低限の会話しかしないものだから、勝手に変わり者扱いされている。それも考えてみたらおかしいし、変なレッテルを貼る方がどうかしていると改めて思った。

 むしろ波多江の方が人間味があって、まともなのでは……?
 そう考えてみるが、彼の言動の数々も同時に思い出して否定する。

(まともではないか。うん、違うな、それは)

 自問自答で納得するが、また波多江の笑顔を思い出す。

 考えていたより人懐こく笑う様子が、伝説のヤンキーとはギャップがありすぎた。
 言葉はやや荒いが、塩スプレーをぶっかけた新を殴るわけでもない。むしろメガネの扱いは慎重で節度あるものだったし、なんだか腑に落ちなかった。

 そんなことを考えていると、いつの間にか授業も終わっていた。

「七時って微妙だなぁ……」

 夜の波多江との約束について、新はスマホを見ながら呟いた。

 帰宅しても慌ただしい気がするので、図書館か近くのファミレスで受験勉強をしていてもいい。その方が親の許可も下りやすい気がした。

〈勉強して帰る。遅くなるかも〉

 母にメッセージを送ると、すぐに〈OK〉というスタンプが返ってきて安心する。
 それから学校の裏手にある図書館に向かい、そこで勉強をして時間をつぶした。

 閉館ギリギリまで居座って出てきても、まだ空は明るい。あと一時間くらいで夜になるのが嘘みたいだ。でも、よく見ると空の下の方には藍色が広がっている。

 夕焼けが消えるまで、あっという間に違いない。
 あの太陽が沈んだら、波多江が楽しみにしている月が顔を出す。

 そういえば、聞いている余裕もなかった。

 なぜ彼は月だけを観察したいのか。

 せっかく望遠鏡を持っているのだから、もっといろいろ観察したらいいのに。どうして月にこだわるのだろう。何か理由はあるかもしれないが、聞いていいものか迷った。
 ただ空を眺めるのは、ずいぶんと久しぶりのような気がした。

 波多江の影響だと思う。

(おなかへった……)

 新は腹ごしらえも兼ねてファミレスに移動すると、そこでも勉強を続けた。

 カルボナーラを食べてからも少しだけ粘ったが、あっという間に待ち合わせ時間だ。セルフレジで慌てて会計を済ませ、学校まで足早に向かう。

(わー、遅くなっちゃったよぉ……! 波多江くん、もういるかなぁ)

 できたら彼を待っていたいくらいだったのに、解けない問題にムキになってしまった。
 これで波多江が先に待っていて、さらに時間も過ぎてしまったら……。
 少し血の気が引き、歩くスピードが気持ち速くなった。

「香納!」

 頑張って歩いていると、後ろから呼びかけられる。その場で一瞬だけ体が浮くくらい驚いてしまい、呼吸が乱れる。声の主が波多江だとわかっても、新の鼓動は静まりそうにない。

「ビックリした……!」

「おまえ帰ってねぇの?」

 新が制服のままだと知って、波多江が尋ねてくる。彼は昨日と同じように望遠鏡と思しき大荷物を担いでいるが、Tシャツにデニムパンツというラフな格好をしていた。一度、帰宅したらしい。

「図書館で勉強してたから……」

 そう答える新の横に立ち、波多江が信号が青に変わった横断歩道を歩き始める。
 ここまで来れば学校まではもうすぐで、周囲はほぼ住宅街だ。波多江と並んで話していても、自然と小声になってしまう。

「やっぱ大学は行くよな」

「うん。でも、まだ何がしたいっていうわけじゃなくて。波多江くんは?」

「あー……どうだろうな。前は行くって決めてたけど、今はなんか別に」

 珍しく弱気な口調で呟く波多江に、触れてはいけない空気を感じる。新は話題を変えようと、学校の怪談について聞いてみた。

「あのさ、天体観測してて何か見たことはない? 人魂とか、幽霊とか」

「ないんだよなー。見てみたいとは思ってるけどな」

 予想外の反応に、一気にテンションが上がる。

「そうなのっ? オカ研はいつでも会員募集中だよ!」

「俺は天研なんだよ。てか、香納こそビビりのくせになんでオカ研なんだよ?」

「う、僕の専門は都市伝説とかUFOとかですから……」

 痛いところを突かれ、ごにょごにょと言い返す。すると、波多江が言葉を鋭くした。

「敬語」

「えっ! あ、ご、ごめん……気をつける……」

 波多江が綺麗な顔をしているだけに、その言葉と表情の冷たさが際立つ。新は肝を冷やしながらタメ口を心がけることを誓い直した。

「雲はあるけど、これくらいなら問題ねぇな」

 学校にたどり着き、波多江が空を見上げながら言う。新も同じように空と校舎に視線を向けた。昨日よりは早い時間なのに、やはり夜の学校は昼と雰囲気が違う。

 リュックを下ろすと、新は天研の顧問から預かったスペアキーを取り出した。最初はこんな物を借りても大丈夫なのか、と思ったが、それも新への信頼の証なのかもしれない。堂々と許可を取ったのに、なぜか後ろめたい。

 通用門と昇降口の鍵を開けて校舎に入ると、昨日も感じた寒気が新を襲う。ぶるっと体を震わせる新に、波多江が昇降口のドアを閉めた。余韻を残して静かになる校舎内は、昨日より暗く感じる。

(あぁ……やっぱり、怖い……)

 ペンライトを点けて周囲を見渡していると、波多江が口を開いた。

「なぁ香納」

「えっ? え、なに?」

 怯えている新が問い返すと、彼はロッカーが並ぶ壁を指差して大声を上げた。

「あそこにちっちゃい人影が!」

「ぎゃぁあああっ!」

 一気に恐怖が膨れ上がり、波多江の声より何倍も大きな悲鳴を上げてしまう。新が涙目になってペンライトを振り回していると、波多江が笑いを堪えながら呟いた。

「あ、気のせい。香納の影だったわ」

「ちょっ、やめて!? この鍵、先生に返してきてもいいんだからね!?」

「あっははは! いや、想像以上にビビってるみたいだからさ」

 笑い事ではない。心臓がもたないし、腰が抜けるかと思ったくらい驚いたのだ。
 波多江のために来ているのに、そんな冗談はやめてほしい。

「僕もう帰るよ!? 怖いんだから!」

「悪かったって。もうやらない、マジで」

「次やったら先生に言う!」

 小学生みたいな怒り方をする新に、波多江がまた「ぷふっ」と噴き出す。慌てて口元を隠しても、笑ったのは見えた。肩を震わせている波多江に、本当に帰ってやる、と踵を返す。すると、いち早く伸びてきた波多江の手に昇降口の扉を押さえられた。

「ダメ。帰るなよ」

「そっちが悪いんじゃん!」

「俺がいるんだし。平気だろ?」

 尋ねられ、グッと声が詰まる。確かに波多江がいるのは心強い。彼の言葉が混乱を招いたとしても、それで緊張が解けたのも事実だった。

 これ以上ギャアギャア騒ぐのも子どもっぽいし、新は複雑な思いのままペンライトで波多江の顔を照らした。

「眩しいって」

「もう二度とやらないでよ、さっきみたいなこと」

「やらない」

「……わかった。じゃあ、屋上まで行こう」

 屋上の鍵を見せて、先に近くの階段を上り始める。
 新の後に続く波多江が「なぁ」と話しかけてきた。

「なに?」

「タメ口、上手くなったな」

 本当に反省しているのか、この男は。
 からかわれた怒りがあるから対等に話せているだけなのだが、波多江はやや見当違いのことを言う。彼は楽しそうに夜の校舎を眺めるばかりで、こちらの複雑な気持ちはどうでもよさそうだった。

「あのさぁ、波多江くん……」

 歩みを止めて呆れていると、階段を上がってくる波多江が人懐こい笑みを浮かべる。

「なんだよ、怖いなら先に行くけど?」

「いいよ別に!」

「あとさぁ、波多江でいいよ。満生でもいいけど」

「それは……まだ……」

 急に呼び捨てや名前呼びを提案されるなんて、一気に緊張してしまう。新が困惑してごにょごにょと語尾をごまかすと、下から顔をのぞき込まれた。

「なんで。呼べよ」

 にやにやしている波多江に背を向け、大きな足音を立てて屋上に向かう。
 またからかわれた。たぶんこの男は反省していない。