天体望遠鏡と塩スプレーは相性最悪



 満月が綺麗な夜、学校の屋上には人魂が現れる……らしい。
 オカルト研究会の会長である香納(かのう)(あらた)は、通っている高校の門前で空を見上げた。

 人魂のうわさは最近まことしやかに広まり始めた話で、古い怪談ではない。それゆえ新は唯一の後輩会員に「真相究明を!」といわれ、夜八時過ぎにやってきたのだが。

(風邪でドタキャンはないだろぉお……!)

 大体、新は都市伝説やUFOなどが好きなだけで心霊系は苦手なのだ。人魂以前に、夜の学校に入ることさえためらってしまう。それを「自分も行くんで!」と強引に押し切った張本人が来ないなら、もう帰りたい。

 しかし、今日の満月を逃したら次は約一カ月後になる。その間、後輩にずっとチクチクとビビりであることを責められるのは嫌だった。

(いっそ「人魂なんて出なかった」って主張するのもアリだな……)

 ずり下がるメガネを直しながら、そんな姑息なことを考えていた時だった。
 屋上に、ぼわ……っとした橙色の灯り──人魂が出現する。

「~~~~~ッ!?」

 声にならない悲鳴を上げる新の目の前で、人魂は少しだけ揺れた後でフッと消えた。
 オカルト研究会員だというのに、その現象を素直に喜ぶことができない。

(いやいやいや! 出ちゃったら行かなきゃダメじゃん! 行かなきゃ……!)

 人魂が漂っていた場所を見つめたまま動けずにいると、

 キィイ……

 風もないのに、通用門が開いた。
 まるで自分を招いているかのようなタイミングに、震えが止まらない。
 しかし、普段は厳重に閉まっているはずの通用門が開いているのは好都合だ。

(行く! 行って……人魂を撮る! だって僕はオカ研会長なんだし……っ!)

 念のために持ってきたお清め用の塩スプレーを握り締め、新は真っ暗な校舎の中に足を踏み入れた。

(うぅ……空気も重い気がする……)

 五月とはいえ、朝晩は冷える。しかしそれだけではない悪寒を感じ、新は着ていたパーカーの袖を限界まで伸ばした。

 月光で照らされている廊下は、ペンライトを使わなくても明るかった。その分だけ教室の中は暗くてのぞき込むこともできず、足早に歩く自分の影にも怯えてしまう。
 夜の学校は昼間とは別物のように感じて、階段を進む足が重い。

 結局、屋上の手前まで上ってくるのに三十分もかかってしまった。

「はぁ……屋上、ここだ……」

 普段は出入りも禁じられているので、三年生の新もそこから先には行ったことがない。
 呼吸が緊張で乱れる。

 目の前の階段を上れば、踊り場を経て屋上に続く扉があるはずだ。それなのに、屋上にまつわる嫌なうわさを思い出してしまった新の足が止まる。

 屋上から飛び降りた生徒の霊が手すりの向こうから声をかけてくるとか、誰もいないはずなのに教室にまで足音が響くとか……。

 たん……たん……

「ひぃ……!」

 足音。足音が鮮明に響いている。

 人魂だけでも見に行くのに勇気を振り絞った。追加の怪談なんていらない。
 新のメンタルは限界まで追い詰められているが、足音は着実に屋上から新のいる三階に向かって下りてきている。

 たん、たん、たん……

 わずかにテンポが速くなる足音に、新は真っ青になりながら塩スプレーをかまえた。

「ぁっ……悪霊退さぁああん!」

 叫びながら、階段を下りてきた人影に向け何度もスプレーを吹きかける。ぷしゅぷしゅと放たれる塩水に〝悪霊〟もたまらず悲鳴を上げた。

「つめて! しょっぱ!?」

「わぁああしゃべってるぅうう!」

 ぷしゅぷしゅぷしゅ、と泣きそうになりながらスプレーを連打する新の手を〝悪霊〟が力強く掴む。

「てめぇ、やめろ!」

「死にたくないです、ごめんなさい死にたくないですーっ!」

 パニック状態の新がジタバタしていると、強引に塩スプレーを取り上げられた。床にカツンッと捨てられる容器が、そのまま階下まで滑り落ちていく。

「おい! どうしてくれんだ!」

「ひぇ!?」

 怒鳴られた上にギュッと手首を強く握られ、ようやく涙が浮かんだ目を開ける。

 そこでようやく気付いた。新の手を拘束しているのは〝悪霊〟ではなく、生身の人間。

 金髪のヤンキーだ。

「あ……悪霊は……?」

 茫然とする新に、ヤンキーは大きく舌打ちをする。彼は乱暴に新を押しのけると、自分が肩に担いでいた荷物を床に置いてしゃがみ込んだ。

「逃げんなよ。座れ」

「へ?」

「座れ」

 険悪な表情で命令され、新は慌てて階段の一番下に腰を下ろした。先ほどまでの恐怖とは違う、命の危険を感じながらおずおずとヤンキーに尋ねる。

「……一組の、は、波多江(はたえ)くん……?」

「知ってんのか」

「しっ、知ってるも何も……!」

 入学早々に乱闘を主導して停学になったことは伝説だし、県内問わず喧嘩相手を探しに行っているとか、百人を相手にして全員返り討ちにしたとか。

 とにかくヤンキーらしいうわさが絶えない一匹狼、波多江満生(みつき)
 その存在を学校内で知らない者は一人もいない。

(伝説のヤンキーに塩スプレー連打……終わったー……!)

 心霊現象とは別の危機感で頭を抱えるが、波多江は新に背を向けたまま何かをいじっている。逃げるな、と言われたから大人しくしているものの、それは処刑までの時間が長引いているだけ。生きた心地がしない。

 すると、波多江がちらっと振り返り口を開いた。

「……おまえ、オカ研の香納だろ」

「なンっで……知ってるんですか……!?」

 面が割れていないのなら、このまま名前すらごまかしてしまおう。そんな風に考えていたことを見透かされたような気持ちになり、声がひっくり返る。

「俺んとこも、部じゃなくて研究会だからな」

 そう言われて初めて、波多江がいじっている物が見えた。

 天体望遠鏡だった。

 ヤンキーである波多江とは縁がなさそうだが、先ほどの発言を踏まえて問いかける。

「波多江くん、天研なんですか!?」

 正式名称は天文学研究会。略して天研。
 この学校で部活動をするには五人以上の部員が必要だが、それに満たないささやかな集まりは研究会とされる。そして、現在研究会とされているのはオカ研と天研だけだ。

「俺は一人でやってるけどな」

 新の問いに答えた波多江は、深くため息を漏らした。

「ダメだわ」

 小さく呟き、波多江が切れ長の瞳を新に向けてくる。あきらかに不機嫌そうな波多江を疑問に思っていると、彼は「コレ」と手元の望遠鏡を指差した。

「いくらすると思う?」

「え、た、高そうってことしか……わかんないです……」

 なぜ値段など聞かれるのか。嫌な予感しかしない新に、波多江が淡々と言う。

「二十万」

「にじゅ……」

「安物だけど、おまえの塩水で修理行きかも。下手したら直らねぇ」

 眼光鋭く責められ、ようやく「逃げるな」と言われた理由がわかった。新は口から「ぴえ……」と情けない微かな悲鳴を漏らして震える。

 確かに望遠鏡のような精密機器に、塩水なんてぶっかけたらまずいだろう。
 しかも悪霊なんていなかったのだ。新の勘違いで塩スプレーを浴びせられた波多江としては、それだけでも怒り心頭に違いない。
 新は青くなりながら波多江に尋ねた。

「あの……べ、弁償……でしょうか……」

「そうだな」

「二十万……?」

 震える指を二本立てる新に、波多江は難しい顔をしている。
 無言でこちらをジッと眺めてくる波多江の視線をまっすぐ見返すと、少しだけ表情が和らぐ。小さな変化にホッとしてしまうが、許されたわけではない。

 その証拠に波多江は新の隣に腰を下ろすと、その肩をグッと引き寄せてきた。

「ひっ……!」

 怯えた悲鳴を上げる新に、波多江が小声で囁くように言う。

「俺に協力するなら半額。いや、弁償はなしにしてやってもいい」

「ほ……ほんと!?」

 メガネの奥で目を輝かせる新を見つめながら、波多江はうさんくさい笑みを浮かべた。

「で、でも、協力って……」

「おまえ、今日は誰の許可取って来た?」

 その言葉に、思わずきょとんっとしてしまう。

 オカ研に顧問らしい顧問はいない。
 そのため、今日も誰かに許可を取ってきたわけではなかった。この学校は古いし、通用門が開いていなくても抜け道がいくらでもある。

 波多江が通用門を開けたのだったら、むしろ彼こそ顧問に許可を取ったのでは?

 天研は理化学の教師が正式な顧問となっているので、天体観測の許可くらいは下りそうだ。

「許可なんて取ってないです。だから、警備員さんや先生に見つかったらアウトです」

「んだよ、マジで言ってんの?」

「マジですよ!」

 波多江に嘘をつく方が怖いので素直に言うと、彼は考え込む様子を見せた。
 何かまずいことでもあるのだろうか、と新はビクビクしてしまう。新の肩を掴んでいる波多江の手もそのままなので、逃げることもできなかった。

「じゃあさ、俺の代わりに許可取ってくんない? うちの顧問に」

「え?」

「俺は他のヤツらとつるみたくねぇって言ってんのに、顧問が『なら許可は出せない』とか言いやがる。俺は一人で月だけ観れりゃいいんだよ」

 通用門や昇降口が開いていたので、てっきり彼はちゃんと許可を取って屋上にいたんだとばかり思っていた。

 所属はしているが他の会員と交流しない、というのは顧問としても悩みの種だろう。ただ会員側も波多江と仲良くしよう、と思っているのか定かではない。
 こんな言い方は申し訳ないが、やはり波多江は学校内での立場が悪すぎる。

「香納はオカ研だけど、成績もいいし評判もいい。おまえなら堂々と屋上の許可も取れんのかもって思ったんだよな」

「もしかして、それが条件ですか? 屋上の許可取りが?」

 確かに新は成績はいいかもしれない。そのおかげで先生の覚えもいいのは、自分でもわかっている。ただ「評判もいい」と波多江に評価されるほどか?

 オカ研に所属している陰キャは、どちらかといえばクラスでも浮いていた。イジられたりもしないし、みんな普通に挨拶もしてくれる。しかし基本的に〝変わってるヤツ〟というイメージはつきまとっていると思う。

 不健康そうな細い体に、ぼさっとした髪。
 メガネもかけているため、親しみやすい印象はないはずだ。

「波多江くん。僕じゃダメですよ、許可なんて下りないです」

「俺より全然いいだろ」

 また、そんな返事のしにくいことを言う。

 新は困惑したが、波多江に塩スプレーをかけた負い目もあるのでキッパリ断るのも気が引けた。しばらく考えて、聞くだけ聞いてみるのはいいかな、と思い直す。

「……わかった。とりあえず天研の先生に聞いてみます」

「マジか!」

 パッと笑顔になる波多江だったが、肩の手は離れない。まるで「まだ逃がさない」と言われているようで、ものすごく居心地が悪かった。
 恐る恐る、肝心な部分を聞いてみる。

「それで、許可が出たら……その、弁償のことはナシでいいんですか……?」

「いいぞ。ただ、おまえも来いよ」

「え、どこに?」

 波多江の言葉に首を傾げていると、彼は小さくため息を漏らし天井を指差した。

「屋上だよ」

「どうしてっ?」

 自分が屋上に行く意味がわからなくて尋ねる新に、波多江は呆れたように言う。

「許可取りした本人じゃねぇか。俺だけ屋上にいたらおかしいだろ」

「そ、それはそうだけど……」

「それに、学校の怪談を調べられる。オカ研としても条件いいんじゃね?」

 今まではこっそり忍び込んでいたので、確かに後ろめたいし厳密には犯罪だ。波多江の許可取りとはいえ、自分も夜中の学校に堂々と入れるのは非常に美味しい。

 後輩がなんと言うかはともかく、波多江がいるなら心霊現象も怖くないはず……。
 そんなことを考え、ハッとした。

(波多江くんをオカ研に巻き込んじゃダメだろっ)

 大体、いつもは後輩に迷惑をかけながら調査をしている。波多江にも既に塩スプレーをぶちまけて迷惑をかけた。これ以上何かしたら、どんな目に遭わせられるか。

 ぶる……っと身震いする新の顔を、波多江がのぞき込んでくる。

「香納、そんな怯えた顔すんなよ」
「か、顔? あ!」

 自分がどんな表情をしていたかわからず問い返すと、メガネを奪われた。波多江は新のメガネを自分の頭に乗せ、とんでもないことを言い放つ。

「せっかくカワイイ顔してんだから」

「へ……?」

「だからぁ、おまえ顔はカワイイじゃん? 中身はまだよく知らねぇけど」

 笑いながら繰り返す波多江に黙り込む。

 聞き間違いではなかった。
 確かに波多江は自分の顔を「カワイイ」と表現している。
 さすがに幼少期は両親や祖父母に可愛いと言われて育ったが、それも小学生まで。いまさら顔を誉められると思っていなかった新は、波多江の目を疑った。

 眼科に行け、と。

 しかし、そんなことを言ったら波多江の機嫌を損ねそうだ。

「スマホは? 連絡先、交換しとこうぜ」

 なぜか気分がよさそうな波多江に困惑しながらスマホを差し出すと、彼は手早く自分のメッセージアカウントを新のアプリに登録してしまった。

「できたできた。じゃ、よろしくな」

 なぜ素直にスマホを渡してしまったのか、といまさらのように頭を抱える新から波多江は手を離す。もう自分が逃げることを危惧していないのかもしれない。

 ちらっと横に座ったままの波多江に視線を向けると、彼は新のメガネをそっと返してくれた。

 新の耳にメガネをかけ直す波多江の手つきは優しくて、思わずドキッとしてしまう。ぼやけた視界が鮮明になり、彼の顔が間近に見えてハッとした。

 波多江のイメージは「ヤンキーで怖い」というところで止まっていたので、その顔が想像以上に整っていて驚いたのだ。

(キレイな顔してるんだ、波多江くん。あ……髪)

 波多江の金髪が、しっとりと濡れていることに気が付いた。間違いなく塩スプレーの水気だ。新は良心が痛むことに耐えられず、持っていたタオルハンカチを波多江に渡した。

「なんだよ」

「塩スプレーで攻撃してごめんなさい。あの……せめて、これ使ってください。返さなくていいです」

 しゅんっとしながら謝る新の何がおかしかったのか。ぷはっと波多江が噴き出す。

「ははっ、香納っておもしれぇんだな」

「面白い……?」

 そんなことを言われたのは初めてなので、意味がよくわからない。首を傾げている新の手からハンカチを受け取った波多江は、それで金髪を拭いながら笑っている。

「じゃあ、僕は帰りますね」

「あ、ちょい待て」

「ぅわあ!」

 そそくさと帰ろうとする新の手を、波多江が強引に掴んできた。飛び上がりそうになるほど驚く新に、彼も一瞬驚いたように目を丸くする。
 しかし、すぐに波多江は笑顔になり恐ろしいことを口にした。

「明日も敬語だったら、足腰立たねぇようにしてやるから」

「し、失礼します!」

 いきなり暴力的なことを言われ、相手が〝あの〟波多江満生だったことを思い出した新はダッシュで階段を下りていく。そのまま学校の通用門まで走って戻ると、荒くなった呼吸を整えながら校舎を見上げた。

 月に照らされた屋上に、もう人魂は現れない。

(波多江くん、人魂は見たのかな……)

 恐怖のあまりパニックになったせいで、肝心の人魂のこともすっかり忘れていた。
 とりあえず病欠の後輩には「真偽不明」と報告することにしよう。