いじらしい人



それからまたしばらくヒダカは忙しそうだった。平日は朝から晩まで働き、帰ってくると台本を読みあげる。小声で練習していたがこちらが内容を覚えるには十分な声量だった。
夜はあんなに声が小さいのにと邪な考えがよぎるが今日は金曜日ではなかったと頭を振る。
「公演まであとどれくらいなんですか」
「三週間きっている。練習もそうだけど改めて告知とか会場の確認をしなきゃいけないんだよな」
「席は埋まりそうですか」
「ぼちぼち」
 閑古鳥が鳴くような状況ではなさそうで安心する。しかしそれでも厳しいのだから劇団の運営とは本当に大変なのだろう。
「分かりました。何か手伝えることがあればおっしゃってください」
「気遣いどうも。でもアサガオさんの手を煩わせるわけにはいかない」
 そう話すとヒダカは再び駆け回る日々を続けた。そうなるとこちらは手持ち無沙汰になる。ライターとしての仕事は掛け持ちしているので原稿作成はあるが、進捗管理はできているので特段焦る必要もない。時折ジムに通うが意図的にヒダカに近寄るような事はしなかった。契約を持ち掛けたのはこちらからでそれを公にするつもりもないからだ。
 そんなある日、ヒダカが思いつめた表情をして帰ってきた。こちらから声をかければすぐに明るい表情に切り替えたが何かあったようだ。
「どうされましたか」
「どうしたってなんだよ。今日は新規入会のお客さんが多くて忙しかったんだよな」
 聞いてもいないのにペラペラと話す。何かを隠している。
「悩みがあるなら気軽に相談してくださいね。こう見えて口は堅いんです」
「悩みって……はは、舞台が近いから緊張しているのかな」
 はぐらかされているのは分かる。だが話したくない以上無理に踏み込むべきではない。
「何回も出演されているのに緊張するんですか」
「当たり前だろ。舞台って生き物だからその時の状況が全部反映されるんだ。例えば風邪でもひいたら元も子もない」
「じゃあ体調管理はしっかりされないといけませんね。生姜湯でも作りましょうか」
「ありがとう。でも今日はいいや」
 ヒダカは寝室に向かって荷物を置くとそのまま台所に向かう。早く帰ってきた時は共に夕食の支度をするようになっていた。
「アサガオさんって好き嫌いないのか」
「ああ、椎茸は苦手です」
「そうだったんだ。どの調理法でも駄目なのか」
「何故か飾り切りした椎茸が昔から駄目なんです」
「飾り切りってあの十字に切れ目入れるやつか」
 こちらにこれ以上質問されたくないのかヒダカは矢継ぎ早に質問をする。
「味が嫌いなわけでもないので自分でも理解できない好き嫌いです」
「そんなもんだよ。相手に押し付けなければ別にいいと思う」
 一通り会話が終了すると彼は黙々と野菜を切る。普段は手早く済ませるのに今は一回ずつ確認するように刻んでいる。
「ヒダカさん、今日は私が作りましょうか」
「何言っているんだよ。居候は家事をすべきだろう」
「そのペースだといつ夕食を始められるか分からないので」
 指摘されてようやくヒダカはいつも以上にペースが遅いことに気が付く。このまま続けさせていたら指でも切りそうだった。
「ごめん、すぐやるよ」
「……こちらこそ嫌味に聞こえたら申し訳ありません」
 それからヒダカは手早く野菜を刻むと鍋に入れて煮込む。こちらも下処理を済ませておいた魚を焼いたところで炊飯完了を知らせる音が響いた。
 テーブルに筑前煮と焼き魚を並べて夕食にありつくがヒダカは普段以上に明るく振舞っていた。明らかに無理をしている。相談してほしいがそれほどの関係に至っているのだろうか。そう考えながらその日は終わった。