*
物音で目覚める。真横に置いてある時計を確認すると六時半前だった。物音の方に顔を向けると筋肉質の男がタオルケットを畳んでいる。
「おはようございます、潮見さん。早いですね」
「ああ、すみません。起こしてしまいましたか」
「構いません。それより昨日は眠れましたか」
「おかげさまで。本当に助かりました」
目の下のクマは無くなっている。一晩で治るとは大した回復力だ。
「今日はどうされるんですか」
「まずは鍵を返しに行きます。それからシフトが入っているので夕方まで働いていきます、それから」
男は次の言葉を言うか迷っている。視線は泳ぎ、一度こちらを見るがすぐに逸らす。しかし腹をくくったようにこちらの名前を呼んできた。
「菅野さん」
「はい」
「昨日の話は有効ですか」
少し考える。当然覚えているがまさか彼から確認されるとは思わなかった。
「私があなたを抱く話ですか」
「もう少しぼかして言え……」
小声で文句を言われるが事実なのだからしょうがない。
「有効ですよ。ただ本当にいいのですか」
「聞かないでください。決心が揺らぐ」
「抱きたいのは本当ですがあなたに乱暴をしたい訳ではない。こちらが有利な状況も理解しています。だからこそ、よく考えてほしいんです」
「だから……」
「ではこうしましょう。夜十時になったら私のベッドの上に座ってください。そうしたら契約成立と言うことでそのまま行為に入ります」
「ちょ……」
「もちろんそれまでに契約書は作っておきます。先にメールで送るので問題が無ければ帰宅してからサインしてください」
話してから契約成立条件が契約書とベッドの上に座る事の二種類ある事に気が付いたが今はスルーしておこう。
「早い、早い」
「早いですか?覚悟を決められたのに」
「だから何回も確認されると揺らぐんですよ」
「優しくするので安心してください」
「言い方」
昨日より会話のテンポがいい。完全回復ではないだろうが元気を取り戻したようだ。
「それより朝食はいかがですか。パンと卵くらいならありますよ」
「いえ、悪いですよ。泊まらせてもらっているのに」
「遠慮しないでください。それとも和食派でしたか」
立ち上がって台所に向かうと冷蔵庫から卵を取り出す。作り置きのゆで卵なのでそのまま皿の上に乗せ、トースターでパンを焼く。
「インスタントですけどコーヒーはいりますか」
「……ほしいです」
この男は多少強引に聞かないと遠慮して要求してこない。ほんの数時間ともに行動しただけだがすぐに分かる。謙虚とも言えるが、どこか自己評価が低いようにも見える。果たして何が彼をそうさせてしまったのだろうか。
間もなく小麦の焼ける香りが部屋に漂い皿にのせる。ほぼ同時に湯も沸いたためカップに入れるとローテーブルの上に出す。
「簡単ですけど、どうぞ」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
男は手を合わせてから卵を手に取る。机の端でヒビを入れてから殻を剥く姿さえ愛らしく見えるのは重症だろうか。
「あの、食べ方に問題ありましたか」
「どうしてそう思うんですか」
「ずっと見ているので」
「人が食べている姿ってじっと見たくなりませんか」
男は考えるそぶりを見せる。そして心当たりがあったのか、ばつが悪そうな表情を浮かべた。
「……分からなくはないです。ただ気まずいのであんまり見ないでください」
「善処します」
見ているのは楽しいが不快にさせてしまうのも悪い。そのまま食事を済ませ、間もなく男は出かける時間になった。
「……行ってきます」
「いってらっしゃい」
この言葉を発したのはいつぶりだろうか。彼の背中が見えなくなるまで見送ってから扉を閉めた。そして部屋に戻るとパソコンを開き、白い文書と対峙する。
今夜十時までに契約書を仕上げねば。いや、それより前に送ると話したから実質昼頃には完成させないといけないか。そうなると後四、五時間しか時間がない。
幸い執筆業の方は仕上げているので契約書に集中出来る。だが今後に関わる重要な書類なので適当に作る訳にもいかない。とりあえず思いついた事を箇条書きで打ち込んでいく。
まずは同居の定義だ。住居を提供すると言ったが、どこまで支援するのか明確にしておかねばならない。家賃、水道光熱費はこちら持ちで良いが食費に関しては折半にしておこう。本当は食費も持って良いが、至れり尽せりだと彼が遠慮し過ぎて主張できない可能性が出てくる。
後は契約の周期だ。これは週一回で良いだろう。多過ぎず少な過ぎずだ。ただし体調不良や外せない予定があれば同週内、もしくは翌週までに振り替える事も可能である。契約に柔軟性も必要だ。
そう言えば先程契約成立条件が二種類ある事に気が付かず話してしまった。口頭なので蒸し返さなければ気が付かれていないような気もするが一応書いておこう。契約書については生活条件の合意、ベッドの上に座って貰うのは準備完了の合図だ。嫌なら嫌と言ってくれれば良いが果たしてどうだろう。
今の彼はなんでも鵜呑みにする傾向が見られるのでこちらが注意しないといけない。だがボランティアでもないので見返りを求める事は譲らない。
契約の解消条件についても記載する。
契約の未履行が二週以上続く場合は、条件を見直す。どちらかが解消を申し出た場合は、退去日と清算について速やかに協議する。
最後は退去猶予を入れるか。二週間もあれば充分だろう。もしその間に次が決まらないのであれば、その時改めて協議すればいい。
大まかな骨組みが出来たところで一息を吐く。そういえば未だに彼の名字しか知らない。それなのにこんなにも惹きつけられる。ふと玄関を見て扉が開くのではないかと観察してしまう。そこで初めてあの男がこの家に帰ってくると思い込んでいる事に気がつく。
大分浮かれているようだ。
気を取り直して契約書作成作業に戻った。
先程の内容に加えて第三者の無断入室、合鍵の複製、仕事道具への接触は禁止を追加した。彼がそういうことをするとは思わないが書いておいて損はないだろう。
予定通り昼頃には完成しメールを送る事が出来た。その後もベッドを整えたり、足りない備品を調達したりしているうちに夕方になっていた。
冷蔵庫を開けて中を確認する。卵や味噌に豆腐、野菜の切れ端があった。冷凍庫も確認すると肉が保存されている。これで夕食は足りそうだ。そこで二人分作ろうとしていた事に気付く。そういえば夜はどうするのか聞いていなかったが、不要なら明日の朝食に回せば良いだけだ。
二人分の夕食を作っているとインターホンを鳴らす音が聞こえた。玄関に向かい扉を開けると男が立っていた。僅かに緊張しているが昨日より顔色は良い。
「おかえりなさい」
「……ただいま、でしょうか」
合っているか分からないと言った面持ちで挨拶を返してくる。
「合っていますよ。どこかで食事されましたか」
「いえ、まだ……いい匂い」
男は匂いの元を探ろうとしている。
「もう少しで出来るので夕飯にしましょう」
「いや、それより契約書の件なんですが」
「空腹では頭も回りませんよ。先に食事です」
半ば強引に寝室へ連れて行きソファに座らせると食事を出す。味噌汁、肉野菜炒め、豆腐、白米とシンプルな献立だ。
「……うまそう」
目を輝かせているのが分かる。そんなに喜んでもらえるなら毎日作るのにと考えながら箸を渡す。
「口に合えばいいのですが」
「匂いだけでうまいのが分かります。いただきます」
男は手を合わせてから食事を開始する。何気ない行動だがちゃんと感謝する人間は好きだ。
「どうぞ召し上がれ」
こちらも食事を口に運ぶ。自分好みの最低限の味付けをした品物だ。もう何度も食べた。だが目の前の男が黙々と咀嚼し、時には笑みを浮かべる姿を見たら悪くはなかったのかと思う。
「潮見さんは何が好みとかあるのですか」
「好き嫌いはないです。明らかなゲテモノはさすがに食べないですけど……せっかく作ってくれたものに不味いとか言ったら失礼じゃないですか」
「おや、私の料理は不味かったですか?」
意地悪を言ってみる。他意はない。ただ揶揄いたくなっただけだ。予想通り男はせき込みこちらを睨む。
「なんでそんな悪い方に受け取れるんだ……!」
自分もそうだろうと言い返してもいいが、そこまで回復していない可能性もある。
「気を悪くされたら申し訳ありません。一心不乱に食事をされている姿が可愛らしくて」
「……おっさんに言う言葉じゃないだろう」
「そういえばおいくつなんですか」
「三十八だよ」
大体予想通りだ。身体は鍛えて、髭も無いため多少若くは見えるが。
「そういうあんたは何歳なんだ」
いつの間にか敬語が取れている。正直そちらの方が話しやすい。
「いくつに見えます?」
「意外と面倒くさいタイプだな……三十ちょうどか」
笑って誤魔化す。
「もしかして上か?でも四十超えているようには見えないな……」
再び笑う。曖昧にしておいた方が面白味があるものだ。
「分からない、答えを教えてくれ」
「想像のままに。成人済みとだけは教えておきますね」
「おい」
軽口を叩けるようになったなら幸いだ。空いた皿を持って台所に向かうと男は後をついてくる。
「皿は俺が洗う。使っていいスポンジはあるか」
「食器用はオレンジです。緑はシンクを洗う用なので注意してください」
なんだこれは。まるで同棲ではないか。好みの男だからと浮かれてはならない。ならないのだが浮かれてしまう。だって好みなのだ。我ながら頭の悪い思考回路である。
「ところで契約書の件ですが」
男は皿を洗いながら話しかける。契約という言葉に頬のゆるみを正す。
「全部読みました。あれでいいと思います」
「本当に読んだのですか。少しでも不利だと思うことがあれば修正すべきです」
「いや、だいぶ譲歩してもらっていると思います。体調不良の事とか書いてあるし、契約解消の猶予も二週間用意してくれている」
また敬語に戻った事に気が付く。距離ができるから砕けた話し方にしてもらいたいがそう上手くいかないようだ。こちらが常に敬語だからかとも考えるが、誰にでも敬語だから許してほしい所はある。
「確認するとすれば、嫌だと言えばやめられるような文言があったんですけど本気ですか」
「本気も何も必要でしょう。無理強いする趣味はありません」
「そう、ですか」
男は一瞬驚いた表情を浮かべる。そして洗い終わった皿を水切り籠に並べるとこちらに向き直る。
「じゃあ後は大丈夫です。契約書にサインします」
そんな簡単にサインしていいのかと思うが、確認したい事がない以上直しようがない。印刷した契約書を二部取り出しテーブルの上に置く。
「サインしてください。そうすれば契約成立です」
契約書の末尾に契約者名を入れる場所が二箇所あるが片方は予めこちらの名前を入れておいた。おそらくその箇所を読んだのだろう。
「菅野……シュンさんですか」
そこには「菅野蕣」と表記されていた。読めないのも無理はない。
「スガノアサガオです。一般的な名前ではないですが本名です」
「アサガオさんって言うんですね。なんか、これからやる事やるのに今更感ありますね」
照れ隠しなのか男は名前を書いていく。「潮見飛鷹」と記入されていた。
「飛ぶ鷹……ひ、たかでしょうか」
「ヒダカです。名字っぽいってよく言われます」
「ヒダカさんですか。いいお名前です。これからそう呼ばせて貰います。私の事もアサガオとお呼びください」
これくらいなら距離を詰めてみても良いだろう。
「……アサガオ、さん。よろしくお願いします」
男はサインした書類を一部こちらに渡す。
「受け取りました。これからよろしくお願いします、ヒダカさん」
契約書をファイルに収めると、部屋の空気が変わり先程までの軽口が嘘のように静かになった。
ヒダカはソファに座り台本のようなものを読み込んでいるがページは一向に進まない。こちらはこちらで次のネタ出しをしようとパソコンを開くも右下の時計ばかり見て作業は捗らない。
「シャワーお先にどうぞ」
話しかけるとヒダカはようやく視線を向ける。しかしその表情は強張っている。
「……ありがとうございます」
それだけ告げるとそそくさと風呂場に向かう。耳が赤くなっていた。大分意識しているようである。それはこちらもだが、どちらかと言えば彼の緊張にあてられていると言った方が正しい。
水を流す音が聞こえる。この家に自分以外がいる証拠だ。しばらく生活音を聞いていたが間も無くシャワーの音が止まり扉を開ける音がした。
「お湯頂きました」
そこには半袖Tシャツに短パンとラフな格好で立っているヒダカがいた。話し方はどこかぎこちない。約束の時刻が近づいてきているからだろうか。
「緊張していますか」
「……別に」
嘘なのは一目瞭然だった。
「では私もシャワーを浴びてきます」
タオルを持って脱衣所に向かうとまだ男の残り香がある。使用したシャンプーは同じものなのに別のものに感じた。風呂場に入るとその香りは一層強くなる。普段は自分一人でしか使わないから風呂場が温かい事自体新鮮だった。
シャワーのハンドルを回して冷水を頭からかぶる。わざとだ。浮かれた頭を冷ますためである。氷水のように冷えろと念じるが仕様上そこまでは下がらない。
今日の自分はなんだ。完全に気が緩んでいる。彼の意思を尊重しなければと思うのに次の瞬間には欲まみれの考えに移っている。久しぶりに好みの男に出会って舞い上がっているのだ。
温まるどころか完全に身体を冷やして風呂場を出る。もうこれで良い。服を着てから時計を見ると九時五十分を指していた。ヒダカは事務所の椅子に座ってまだ同じページを読んでいる。
「ヒダカさん、台本は進んでいますか」
男は肩をびくりと動かす。
「うわ、脅かすな」
「普通に声をかけただけですよ」
「……そうか」
時計に目を向けたのでつられて見ると後五分である事が分かる。
「本当に良いんですか」
「何を今更」
男は台本を置いてしばらくすると立ち上がりそのまま寝室に向かった。そしてシングルベッドにどかりと座りこちらを見上げた。
「約束は守る」
時計は十時を指していた。
「もう遠慮しませんよ」
頬に触れると指先からは熱が伝わる。男は再び肩を震わせた。てっきり緊張しているのかと思ったが違ったらしい。
「冷っ」
風呂場で身体を冷やしすぎてしまったようだ。
「シャワー浴びてきたんじゃないのか」
「冷水をかぶってきたので」
「なんで」
「暴走しないため」
顔を近付けてもヒダカは逃げない。
「キスしても良いですか」
「遠慮しないのに確認はするんだな」
「嫌がる事をしたくないので」
「……ふん」
男は小さく鼻を鳴らして目を閉じた。
「可愛い人」
「おい、可愛いは……っ」
口を開いた所で唇を重ねる。やはり彼は温かい。舌を差し込めば全身を震わせるが拒まなかった。上顎を撫でれば更に身体を震わせる。
満足するまで口内を貪り離れると口端から糸を引いた。ヒダカの頬は紅潮している。
「服を脱がせても良いですか」
「……聞くな」
顔を逸らされる。了解の意味に受け取って服を捲ると鍛えられた腹筋が見えた。溝を指でなぞれば男は身を引く。
「……やっぱり自分で脱ぐ」
思い切りがいいなと考えながらその姿を観察する。服の上から鍛えられた肉体であるとは思っていたが想像以上だ。かの古代ローマで美丈夫の彫刻が大量に残されている事も納得である。
「引き締まっていますね」
「どこ見てんだよ」
「全身くまなくでしょうか」
「……」
呆れてものも言えないと言った所だろうか。睨みつける訳でもなく怪訝な顔でこちらを見つめる。そして何を言っても無駄だと言うように溜息をつくと自らのズボンに手をかけ下着ごと下ろした。
「……何か言えよ」
目の前の光景に絶句していた。何もかも好みだと思っていたがここまでとは。何が彼をここまでさせるのか。眼鏡を外して至近距離で確認する。後ずさりしようとした男は体勢を崩し、ベッドに倒れ込む形になった。
「おい」
「綺麗ですね」
上から見下ろす。寝室には最低限の灯りしかつけていない。首筋から鎖骨まで指で撫で下ろすと男は小さく反応する。その指をへそまで下ろせば、男は堪えるような表情を浮かべた。
「嫌なら嫌と言ってください」
ベッド横の棚から瓶を取り出して液体を身体にかけると男はびくりと反応する。
「すみません、冷たかったですね」
指で塗りこめれば粘着質な音が響く。冷えていたはずの液体はすぐに熱を持つ。そしてその熱はこちらにも移ってきた。
「……暑い」
上を脱いで上半身裸になる。続けてズボンも脱ぎ捨てればヒダカは小さく悲鳴を上げた。何に怯えているのだろう。
「怖がらないでください。これからいい所に連れていってあげます」
最初から苦痛だ、我慢しろなんて言ったら怯えるに決まっている。心地のいい褒美をちらつかせた方が精神的にも楽というものだ。
「大好きですよ、ヒダカさん」
身体を傾けるとヒダカは全身を強張らせる。落ち着くよう撫でれば少しだけ緊張がほどけた。
このペースでいけばいい。
そう考えた直後、冷静な頭が違和感に気が付く。ヒダカの手がシーツを強く握りしめていた。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫」
掠れた声で答えるが息が荒い。もう一度尋ねると同じ答えが返ってきた。
これは良くない。
「え?……ぁ」
「今日はここまでにしましょう」
身体を離すと風呂場に向かう。
「……なんで、まだ」
「私はあなたを傷つけたい訳ではありません」
冷水を浴びて全身の熱を冷ます。それから衣服を身に着けると濡れタオルを用意して寝室に戻った。
「何して……」
「身体を拭いているんです。べたつくでしょう」
「自分でできる」
「指一本動かすのも大変なのに無理しないでください」
全身くまなくふき取ってからタオルケットを上にかける。
「服はすぐそばに置いているので動けるようになったら着てください。私はソファで寝ます」
「……どうして。契約は」
「履行済みとみなします。続きは来週の楽しみということで」
男は未だ戸惑った表情を浮かべる。そんな彼の額に唇を落としてから床についた。

