いじらしい人

第五話

 舞台初日の朝、ヒダカは日が昇る前に起きていた。さすがに早いだろうと思うが、大舞台を目前に控えていたらそうは言ってられないのかもしれない。
「おはようございます、ヒダカさん」
「悪い、起こしたか」
「いいえ、それより朝食はいりますか。簡単なものなら作れます」
「ありがとう、お言葉に甘えるよ」
まだ頼られているという感覚に安堵を覚えて自己嫌悪に陥る。それを払拭するように台所に立ち、炊飯器からご飯をよそる。思い込みかもしれないが同じ白米でも茶碗から食べるより、おにぎりにして食べた方が食欲が湧くのは何故だろう。
玉子焼きとおにぎりを机の上に並べると二人で食事を始める。彼と食事をするのはいつぶりだろう。そう考えているとヒダカが口を開いた。
「……アサガオさんって西の出身なのか」
「何故そう思うのですか」
「三角形じゃないからさ。偏見かもしれないけどそうかなと思って」
目の前にはどちらかと言えば楕円形のおにぎりがある。
「おにぎりをちゃんと握った事ないんです。見よう見まねでいけると思っていたのですが、難しいですね」
「アサガオさんってなんでも完璧にこなせそうなのに意外だな」
「買い被りすぎですよ」
その笑顔を自分だけのものにしたいと言ったら迷惑になる事は分かっている。だから出来るだけ視線を合わせないようにした。
「それより今日はいよいよ本番ですね。緊張していますか」
「聞くな。緊張しているんだから」
分かりやすく緊張しているヒダカを見て思わず吹き出す。
「笑うな」
「可愛らしいので」
「いい年したおっさんに言う事じゃないだろう……」
「ヒダカさんってご自身が思われているほどおじさんじゃないですよ」
「どこが」
「人生百年あるのに気を若く持たないでどうするんですか」
実際ヒダカは実年齢の割に若い。相応の努力の賜物で他の演者と遜色ない。
「……アサガオさんって時々年寄りっぽい事言うよな」
「そうでしょうか」
「そういう役貰ったら参考にさせて貰おう」
「今日は年寄りの役じゃないでしょう」
「そうだな。今日の俺はテンペルだ」
「そうですよ、頑張らないと」
「だから緊張させるな」
楽しい。この時間がこれからも続けばいいのにと虚しい願望が湧き起こる。
「……そろそろ時間じゃないですか。片付けはしておくので出かける準備をした方が良いと思います」
「本当だ。アサガオさん、悪い。助かる」
ヒダカは慌てたように洗面所に向かうと身支度を整える。五分もしないうちに出てくると鞄の中身を確認していた。
「スマホ、台本、入館証、タオル、財布、鍵……全部ある」
「良ければこちらもどうぞ」
常温に戻しておいたペットボトルを差し出す。
「ありがとう……」
ヒダカが何か言いたそうにしている。黙って見ていると彼は首を振った。
「なんでもない、行ってきます」
「いってらっしゃい。頑張ってください」
「ああ」
背中が見えなくなるまで見送る。後何回彼の背中を見られるのだろうと思いながら鍵を閉めた。
確か開演は午後五時からだっただろうか。仕事を始める前にSNSを開き会場の状況を確認してみる。
『コメット・リンクス』の関連グッズが会場で販売されているようで、多くのファンは朝早くから並んでいるらしい。グッズはキャラクターのマスコットやキーホルダーが多数を占めていたが、その中に何故かペンライトが混ざっていた。こういう物はアイドルのコンサートに使用するものだと思っていたが、近年では舞台でも用いるのだろうか。しかしヒダカは教えてくれない。こちらから尋ねてもいないので詳細は分からなかった。
スマートフォンを置き、パソコンを開く。昨日送った一本目のエッセイに早くも編集から返信があり校正を入れられていた。普段より多いが許容範囲だ。
編集の書き込みを見ながら誤字脱字を修正していく。普段は語尾を『〜た』、『〜である』など毎回変えるようにしているのだが、途中から『〜です』と固定されてしまっている。それを良い具合にバラしていくがすんなりいかなかった。修正を終わらせた頃には昼になっていた。
食事が面倒くさい。そのくせ腹は空く。
仕方ないので栄養食品を謳うクッキーを口に放り込む。以前ヒダカからたまにはいいが食べ過ぎると糖分摂り過ぎになると注意された事を思い出す。やはり身体づくりに細心の注意を払う人間は違う。
五分もしないうちに食べ終わるとSNSを開く。そこにはグッズが売り切れて嘆いているものや、反対に会場を背景に購入品を掲げるファンの写真が飛び交っていた。楽しそうな雰囲気は伝わってくる。
行ってしまおうか?
そんな考えが頭をよぎるが振り払う。行ったところでチケットは完売している。グッズもほとんどない。第一女性ファンが多い状況の中に大柄な男が入れば悪目立ちしてしまう。行くにはデメリットが多い。そう自分に言い聞かせてSNSを閉じる。
時計を見ると十三時になっていた。三十分程SNSを見ていたのか。原稿だけでは身体が鈍ってしまうのでジムに向かう事にした。
そこにヒダカの姿はない。当然である。彼は会場にいるのだから。今までだってジムの中でまともに会話した事はないのに何を期待しているのだろう。
軽い準備運動後、トレーニングマシンを一巡する。その後トレッドミルの速さを調整し走り始めた。走ると頭の中を空にできるからいい。しばらくは無心で走っていたが、ふと前を走っている人物が見ているテレビが目に入る。
ワイドショーか何かだろうか。ざわめく会場の側でインタビューをしている様子が映し出されていた。気になって自身も目の前の機器を操作しつけてみる。
すると画面には一面『コメット・リンクス』の原作イメージボードが表示された。その直後、会場前の映像に戻りファンがインタビューを受けている様子が映し出される。
「初舞台楽しみです」
「今日のために準備してきました」
気合いの入った装いのファンが笑顔で話している。後ろにいるファンもそのキャラクターのイメージカラーであろうメッシュを入れたり、缶バッジをいくつも並べて重そうなバッグに仕立て上げたりと様々な形で熱量を表現していた。
その直後スタジオに戻り推し活市場の今という題目でコメンテーターが意見を交わしている。
確かに話題のゲームが原作だとは聞いていたがテレビで取り上げる程すごいのだろうか。走っているのにこのままではまた考えで頭が埋まりそうだ。
早々にトレーニングを切り上げて街に繰り出す事にした。繁華街はたまに来ると楽しい。刺激があり、何より活気に溢れている。通り過ぎる人や店のディスプレイを眺めているだけでトレンドが分かるのもいい。
これは自分だけかもしれないが街中の広告を見ながら歩くのも楽しい。頻繁に入れ替わる、時には街の景観を度外視した色合いには視線を奪われる。そんな時一つの広告が目に入った。
『コメット・リンクス』だ。
駅前の大型ビジョンにそれはあった。生憎ミュージカルではなく原作ゲームの広告だったが特に目を奪われた理由はテンペルが一人で紹介されていたからだ。内容は新キャラ登場、アプリをダウンロードしてほしいというよく見かけるものだった。しかしそれはテンペルが誘引力の可能性を秘めている証拠であり、それだけ期待されているキャラであるという事だった。
ヒダカは想像以上の大役を任されているのだ。
周囲を確認すると他のキャラクターの単独イラストや集合広告も別の場所に掲げられている。しかし自分はテンペルにばかり目がいっていた。
何気なく時計を見ると間もなく開演時間になろうとしていた。しかしヒダカの凄さを知るのは十分である。もうSNSを見る気にもなれず帰路に就いた。
薄暗い部屋に戻ると明かりをつける。ヒダカは帰ってきていない。当然だ。まさに今公演中なのだから。
洗面台に向かってコップを手に取る。その時隣のヒダカの歯ブラシが目に入った。ブラシの先が広がり始めている。そろそろ替え時か。そう思ったところで次があるのかという疑問が浮かぶ。
また鬱々とした気分になってしまった。思考を切り替えるために先に風呂に入ることにする。シャンプーの容器がひっくり返されていた。中身が少ない時にヒダカはよくこうする。そういえば詰め替えを買っていただろうか。一通り洗い終えると半裸のまま買い置きを探す。普段なら風邪をひくと言われるが今日は注意する者もいない。
そこまで考えてずっとヒダカの事しか考えていない事に気が付く。時計を見ると七時を過ぎており、既に公演の半分を過ぎていることになる。確か八時に終演でそれから後始末があるだろうから帰りは十時を過ぎるだろう。夜食は次の日に響くから公演中は食べないと言っていたな。
夕食を手早く済ませるとパソコンの前に座る。仕事の原稿ばかりでは飽きるのでポッドキャストの案を検討することにした。ただし直近の仕事がエッセイなので被らないように注意しなければならない。
『宣伝、広告、マネタイズ、企業戦略』
一体何を書きたいのだ。一儲けでもする気か。気を取り直してネタ出しをする。
『オカルト、家の怖い場所、人が集まる所、舞台』
そこまで書き出してやはり離れる事は出来ないのかと痛感する。間も無く八時だ。予定通りなら舞台は終演を迎える。成功したのか気になるもSNSを開く気になれない。こんな事なら趣味の一つでも持つべきだった。そんな時ある広告が脳裏をよぎり、スマートフォンを手に取る。
パスワードを打つとホーム画面に新しいアイコンが読み込まれる。『コメット・リンクス』だ。
今更だがどんな話なのだろう。舞台のあらすじで大まかな雰囲気は把握しているがどういう理由で人気なのか見てみたかった。
アプリを開くと運営会社と制作会社と思しき社名が表示される。そしてオープニング映像の後チュートリアルに入った。分かった事は基本的にノベルゲームだが戦いが主軸となるため育成要素も含まれている事だった。そしてこの話がとても面白い。女性向けを謳うのでてっきり恋愛がメインかと思っていたが何故星が侵略されそうなのかに始まり、ご都合主義などまるでないハードな世界観の中でも戦い抜く予想以上に重厚なストーリーだった。
 気が付くとチュートリアルを終わらせ、一話を読破していた。なかなかの文量が何十話もあるらしいので一晩ではとても読み切れない。テンペルが出てくるまで先は長いが話を進める手は止まらない。
 それからどれくらい経っただろう。さすがに目が疲れてきた頃、画面上部にポップアップが表示された。
『初日公演終わりました。打ち合わせもあったので今から帰ります。遅くなるので先に寝ていてください』
 ヒダカからだ。ゲームを終了するとメッセージ画面を開く。
『お疲れ様です。こちらの事は気にせずゆっくり休んでください』
『ありがとう』
 本当は楽しかった、とか客の反応はどうだった、とかいろいろ聞いてみたかった。だが見に行こうともしていないのに尋ねるのも気が引けてそれ以上は返信できなかった。そのまま横になって目を閉じた。
それからヒダカの帰宅はさらに遅くなった。
初日は短い連絡だけだったが、二日目には「今日も無事終わりました」とだけ届き、三日目にはスタンプだけが送られてきた。
一方SNSでは舞台公式アカウントで連日舞台写真や日替わりのキャストコメントが上がっていた。今日はヒダカがコメントの回だった。
『船頭のみなさまに支えられて舞台も後半を迎えました。最後まで駆け抜けたいと思うので応援してくれると嬉しいです』
 船頭とは『コメット・リンクス』内でのプレイヤーの呼称だ。相変わらず短いコメントだがヒダカとテンペルどちらが発言しているようにも見える。そうやって現実と仮想が混ざり合っていくのだろう。
 そのままファンの感想を見に行く。
『テンペルの色気すごい』
『衣装の再現度高すぎない?』
『舞台からハマってテンペルのレベルマックスにしちゃった』
 他のキャラクターも褒められているがどうしてもテンペルの評判ばかり見てしまう。ファン達はテンペルを見ているのだろうか。それともヒダカを見ているのだろうか。
 再びよくない考えに陥りそうだったので『コメット・リンクス』のアプリを開く。ひとまずのゴールはテンペルを手に入れる事だった。彼は現在開催中のイベントをクリアしないと加入しない仕様になっている。少しでもゲームを進めていたプレイヤーなら難なく入手できるが、ここ数日で始めたプレイヤーは少々手こずる難易度だった。
 しかし幸い時間はあったので原稿を進めつつゲームを進めていった。気が付くとすぐ夜になるので食事はありもので済ませる。何を作って何を食べたかも覚えていない。ヒダカがいないとどんどん食事が疎かになっていった。以前までこんなことはなかった。
 それだけヒダカの事に対して本気だったことに今更気が付く。
 そして急に視界が開けたような感覚になった。パソコンを開いて『コメット・リンクス』のサイトに繋ぐ。配信情報のページからチケット販売サイトに飛び、クレジットカード情報を入力すると視聴用URLが添付されたメールが届いた。
 十分もしないうちにチケットが手に入ってしまった。あんなに悩んでいたのが嘘のようだ。その日も起きている間にヒダカは帰ってこなかった。
 起きるとヒダカは既に出かける直前だった。
「いってらっしゃい。いよいよ千秋楽ですね」
「……ああ。いってきます」
 初日の時も緊張していたが今はそれ以上だ。配信を買ったことは伝えなかった。緊張させては酷だし、そもそも見てほしくないかもしれないと思ったからだ。
 ヒダカが出かけた後、いつものようにパソコンの前に座るが何も手がつかなかった。先日届いたメールと時計を何度も往復しているだけでいつの間にか千秋楽開演の時間になっていた。
 メールのリンクをクリックしてページを開くと場内アナウンスが流れている画面が映し出された。間もなく公演が始まるようだ。
 それからすぐに一人の人物が舞台の真ん中に現れた。チュートリアルでも最初に出てきたキャラクターだ。既に物語は始まっているらしく響き渡る声で状況を説明する。そこから次々とメインキャラクターが現れ、最後にテンペルが登場してきた。
 動く彼を見るのは初めてだ。長い髪を優雅に動かし、今回のメインとなる赤子を守る作戦について語る。そして目的の赤子を見つけた瞬間襲撃に遭い戦闘シーンに移った。盛り上がる場面なのか音楽が流れ始め、一人一人のアクションと共に紹介がされる。
各キャラクターの武器は異なり、銃や剣を使用していたがテンペルは長剣を扱っていた。他の者より武器が大きい分小回りの利いた動きはできなかったが、ダイナミックな演技で敵を圧倒していた。
 そこからは物語の本筋に入り、コメディを挟みつつそもそも赤子は何者なのかという話に進んでいく。話は原作をやりこんでいない者にも分かりやすくまとめられており、それでいて一枚岩ではない複雑な構造になっていた。簡単に言うととても面白い。一刻も早く続きが見たくなる構造であっという間に舞台は終盤に差し掛かった。
 最終決戦前の一幕でそれは起こった。何度も敵と遭遇し、赤子を守っていた一行は廃墟に潜伏している。そんな時赤子がぐずって泣き出しそうになり彗士達は慌てふためくが、テンペルだけは落ち着いて赤子を抱き上げた。そして膝を軽く曲げながら微笑んで優しくあやしていた。
 その姿を見てヒダカが父親だったことを思い出す。
赤子と言っても本物ではなく張りぼてだ。だが彼は本当の子供を相手するように泣き止むまで優しい笑みを浮かべていた。
 そこから泣き声を聞きつけた敵相手に最終決戦となり、白熱した戦闘シーンが繰り広げられた。テンペルだけは赤子を抱えていて舞台の端に駆け出す。敵を倒すのが目的ではなく赤子を守る事が目的なのだ。
 他の彗士達が廃墟内の乱闘を繰り広げた場面から暗転すると、テンペルがボスと一騎打ちする場面に変わっていた。ボスは赤子さえ渡せば命は助けると提案するが当然受け入れるわけもなく、派手な殺陣を繰り広げる。
 そこで事件が起こった。ボスの目的はあくまでも赤子の抹殺である。テンペルが僅かに隙を見せた瞬間を狙い、赤子ごとテンペルを貫いたのだ。客席から息をのむ声が聞こえる。しばらく静寂の間が広がった。
「……騙されてくれたな」
 直後銃声が響きテンペルを刺したボスは倒れる。舞台袖から他の彗士達が駆け寄ってきた。彼らの腕の中にもおくるみが抱えられていた。
 実はテンペルは囮で赤子は途中で安全な場所に隠しており、偽の赤子を抱えながら戦っていたのだ。味方に心配されるテンペルだが大したことが無いと話す。そのまま舞台は後日談に移り、エンドロールを迎えた。
 王道だが非常に面白かった。見て正解だった。ふと時計を見るとまだ一時間半程しか経っていない事に気が付く。公演時間は三時間あったはずだ。画面の中のアナウンスも十五分休憩に入ると告げている。これから何が起こるのだろうか。
 十五分後、画面を見ていると暗かった客席に色とりどりの明かりが灯されている事に気が付く。よく見るとペンライトだ。物販でペンライトがあったのはこのためかと気が付くが、どう使うかまでは想像がつかなかった。そこに歓声が上がる。彗士達が舞台に戻ってきたのだ。しかしその格好は先ほどまでの制服のような規律のある格好とは違い、イメージカラーは残しつつも華やかな衣装を身にまとっていた。何が起こったのだ。
 こちらの動揺も気にせず舞台は進んでいく。司会役のキャラクターの説明によるとどうやら『コメット・リンクス』の舞台は二部構成になっており前半は舞台パート、後半はライブパートと呼ばれているらしい。先ほどまでの重苦しい雰囲気とは異なりキャラクターは全員満面の笑みで客席に手を振っている。当然テンペルも手を振っていた。家で見るのと同じくらい、いや、むしろそれよりいい笑顔でファンサービスを行っていた。
 各キャラクターにはソロ曲があるらしくそれぞれのイメージに基づいた楽曲が披露されたが、テンペルは何故かディスコナンバーだった。昨今では聞かないくらいノリのいい低音と共にテンペルはこれでもかというくらい会場を盛り上げる。こういう魅力もあるのかと考えているうちにあっという間にライブパートが終わり最後の挨拶になっていた。皆笑顔で、時には泣きながら思い思いの感謝の言葉を述べる。そしていよいよテンペルの番になった。
「今日はお越しいただきありがとうございます。船頭の皆さん、そして今日まで支えてくれた人たちのおかげで最後まで走りきることができました。本当に、本当にありがとうございます」
 テンペルと言うよりヒダカらしい言葉だった。口調で勘違いしそうだが彼は謙虚で相手を気遣う。それが多くの人に知られてしまった。これからも多くの人を虜にさせるに違いない。
 カーテンが閉まっていよいよ舞台が終わる。
 彼を契約に縛り付けておくのはもったいない。しまっておいた契約書を引き出しから取り出す。内容は覚えているが改めて読み直す。
 週に一回の関係を対価に家賃、水道光熱費の免除。食費は折半。関係が未履行の場合は解約の検討も可能……。今のヒダカなら資金問題も間もなく解決するだろう。こんな家じゃなくてもどこでも住める。わざわざ契約に従う必要もなくなるのだ。
 だが彼は遠慮する節があるから自分からは言えないだろう。だったらこちらから提案するのがせめてもの情けではないだろうか。パソコンを開くと新しい文書を作る。内容は契約終了同意書だ。これにサインさえすればこれまでの契約は終了し、ヒダカは晴れて自由になれる。
『この同意書への署名をもって、契約の未履行の有無にかかわらず前契約は終了するものとする』
 短い、それでいて分かりやすい文書だ。企業の正式な契約書でもないしこれくらいで十分だろう。
 夕食を食べてシャワーを浴びる。きっと千秋楽後に打ち上げがあるからヒダカは普段より更に遅い時間に帰ってくる。そして十分休ませてから同意書を見せよう。そう考えながら床に就こうとすると鍵を開ける音が響いた。驚いて玄関に向かうとそこにはヒダカが立っていた。
「ヒダカさん?」
 時計を見ると二十二時半だった。打ち上げをしていた割には早い。
「ただいま、アサガオさん」
 ヒダカはいつもと変わらない様子で挨拶をした。
「打ち上げがあったんじゃないですか」
「少しだけ顔を出したけど早めに上がったんだ」
 彼は靴を脱いでこちらに近づいてくる。
「眠る直前に帰ってきて、ごめんな」
「いえ、お疲れではないですか」
「なんだろう、身体は疲れているはずだけど高揚感のせいか不思議と頭は冴えているよ」
 そう話す彼の瞳は輝きを隠しきれない。望んでいた場所にようやく立てたのだから当然だろう。
「……それに今日は早く帰ってきたかったんだ」
ヒダカは荷物を置いて目の前に立つ。視線が合うと微笑んでくれた。だがもうこの笑顔を独占してはいけない。
「……ヒダカさん、お話があります」
「改まってなんだよ」
 椅子に座ると引き出しから先ほど作成した合意書を取り出す。ヒダカは今更何故契約書を取り出すのかという表情を浮かべていたが、内容を見て固まった。
「え、なんで」
「サインしてくだされば晴れて自由の身です」
「邪魔になったのか」
「違います。あなたには広い世界の方が似合っている」
 目の前にこちらのサイン済みの同意書を差し出す。
「こちらにサインをしても今日の明日で出ていく訳ではありませんのでご安心を」
「待て、待て。どうしてそんな話になっているんだ。毎日帰りが深夜近いのが迷惑だったのか」
「だから言っているでしょう。あなたは私無しでも生きていける」
 話している先から胸が締め付けられる。
「だからどうしてそうなるんだ」
「だって舞台を見てほしいって言ってくれなかったじゃないですか」
 とうとう言ってしまった。ヒダカはしばらくぽかんとあっけにとられていたが、考えをまとめたのか真剣な表情で見つめる。
「……本当はアサガオさんに舞台を見てほしかった」
 じゃあなんで一言も言ってくれなかったんだ。これ以上弱みを見せたくなくてその言葉は言えなかった。
「でも同時に迷惑なんじゃないかと思った。アサガオさんは応援してくれているけど舞台に興味なさそうだし、誘ったら隠せなくなりそうで」
「何を隠すんですか」
「それは……」
 ヒダカは目を伏せる。そして覚悟を決めたのか改めてこちらを見つめる。
「俺はアサガオさんが好きだよ」
 持っていた合意書を落とす。紙はひらりとテーブルの下に消えていった。
「ずっと言えなかった。アサガオさんは優しいけど、多分俺の好意とは違う」
「……どうして」
「性欲処理のために抱かれていると思っていたからさ。最初はそれでもいいと思っていたんだよ。本当に家がなくなるところだったし、見返りを提供できるならそれでもよかった」
 そんな風に思われていたのか。
「ただ回数を重ねていくうちに、抱きしめてもらうのが心地よくなってきたんだ。一度離婚して相手を幸せにする資格はないのにどんどん感情が溜まってきて、好きになってきたんだ」
 ヒダカは視線を逸らす。
「ただそれが良くなかったのかもな。アサガオさんを特別視してからは劇団に誘えなくなった。人が入っていない会場を見られるのは嫌だったんだ。見栄っ張りだよな」
 苦笑しながらヒダカは椅子の傍に座り込んだ。
「そこから『コメット・リンクス』の大型ミュージカルの話が入ってきた時、今度こそアサガオさんに見せられるって思ったんだ。でもすぐに別の問題にぶつかった。アサガオさんは俺の事どう思っているんだろうってさ」
 ヒダカはこちらの膝に頭を預ける。
「実は関係者席のチケットを二枚貰っていたんだ。誰に渡そうって考えた時、三人が頭に浮かんだ。日和、元妻、アサガオさんだ。でも関係者席を使う場合、関係性を予め説明しておかないといけない。日和と元妻は説明できるけどアサガオさんはなんだ?付き合っているのかって考えた時に答えを出せなくて、そのまま渡すことができなかった」
 ヒダカは小さく「ごめんな」と呟いた。
「アサガオさんが何も言わない事を良いことに甘えていたのかもしれない。でもあんな合意書を作るなら最後に一言ぐらい伝えてもいいんじゃないかと思ったんだ」
 ヒダカは何回か深呼吸をすると言葉を続ける。
「それに知らなかったわけじゃない」
「何をですか」
「アサガオさんが俺のことをどう思っているかって事」
 急速に鼓動が早くなる。
「……アサガオさん、原稿中に寝落ちしている事あっただろう」
 あったが返事をできなかった。
「タオルケット掛けようとした時に画面が見えたんだ。ごめん、見るつもりじゃなかった」
 恥ずかしくて今すぐ穴があったら入りたい。
「俺の名前が書いてあった時、嬉しかったんだ。でも本当にいいのかっていう思いが出てきて気がついたら名前のところだけ消していた」
 ヒダカはもう一度謝罪する。恥ずかしかったが彼もきっとそうだろう。手を伸ばして彼の髪に触れようとする。しかし思うところがあり手を引いた。
「……私は性欲処理のためだけにあんな契約書を書きません」
「他にどんな理由が?」
 彼は顔を上げないまま尋ねる。
「確かに最初は抱きたいという思いが強かったと思います」
「直球だな」
「でもどんどん魅力的になっていくヒダカさんを見ていると独り占めしたくなりました。良くないと分かっているのでそんなことは言いませんでしたけど。あなたは人気で多くの人々に周知されていきます。それでも驕り高ぶらず謙虚でいました」
 ヒダカは黙って話を聞いている。
「私はあなたの邪魔をしたくなかった。だから身を引くべきだと考えたんです。ですが……」
 足りない。彼が本心を曝したのにこちらも曝さなくてどうする。ヒダカの髪に触れると口を開く。
「私もヒダカさんが好きです」
 ヒダカと視線が合う。顔中に血流が駆け巡るのが分かった。それはヒダカも同じようだ。重力に従うように椅子から降りるとようやく同じ視線になる。
「……ヒダカさん」
「……なんだよ」
「キスしてもいいですか」
「……いいぜ」
 ゆっくり顔を近づける。ヒダカは瞼を閉じて待っていた。そのまま唇は重なり、熱を交わした。