第四話
ヒダカの帰宅は、日を追うごとに遅くなっていった。最初は夕飯を温め直せば済んだが次第に夕飯を食べる時間そのものが日付を越えるようになった。
「悪い、稽古が押した」
「構いません。夕食は食べられますか」
「遅いから少しだけ」
そう話しながら箸を持つ彼の目は疲れているのに光っていた。出会った当初とは大違いの輝きが嬉しい。だが同時にその輝きが自分に向けられていない事が疎ましく思えてしまった。
忙しさに伴って契約日のズレが目立つようになってきた。もちろん無理強いをするつもりはない。むしろ休ませるべきだと分かっている。だから可能な限り彼の体力を削らない形で契約関係を続けた。
そんなある日の夜、夕食の時間が久しぶりにかぶったので食事をしているとヒダカがぽつりと呟いた。
「明日情報解禁するんだ」
「いよいよヒダカさんが何の作品に参加されるか分かるんですね」
「ああ、そうだな」
普段なら話したいのを堪えつつも目を輝かせているが今はどこかよそよそしい。なんというか気まずそうというか、恥ずかしがっているようにも見える。
「その、ビジュアルも解禁されるけど笑うなよ」
「笑うってどういう事ですか」
「……明日までの楽しみにしておけ」
ヒダカは左耳のピアスをいじる。これ以上は明日を待つしかない。舞台の会話はそれまでにして食事を終わらせた。
翌日正午、既に稽古に出かけたヒダカからリンク付きのメッセージが送られてきた。URLをクリックすると凝ったサイトに繋がる。舞台の公式サイトだ。
タイトルは『コメット・リンクス』だった。女性向けスマートフォンゲームが原作の二・五次元ミュージカルらしい。簡単なあらすじの下にキャラクター紹介があり、その隣にキャストコメントがある。
まずはあらすじを確認してみた。簡単にいうと星の名を持つ彗士、つまりプレイヤーに仕える戦士が世界の侵略を目論む敵と戦うという話だ。今回は未来を救う為に後の英雄になる赤子を守りながら戦うという舞台オリジナルストーリーらしい。
各キャラクターにはおそらく彗星の名前が付けられており華やかで人目を引く見た目をしていた。上から順番に一人ずつ確認する。例えば元気が売りのキャラクターなら今にも飛び上がりそうな躍動感と笑顔の写真が掲載されている。逆に知的なキャラクターであれば眼鏡を押し上げ、相手を観察するようなポーズが掲載されていた。紹介文を読まなくてもそのキャラクターのイメージが掴める。しかしどちらもヒダカではない。どこにヒダカがいるのか確認した時、六人目のメインキャラクターのところで指が止まった。
彗士テンペル。
今までの登場人物と異なり落ち着きを纏っていた。長い髪を一つにまとめかき上げるようなポーズをとっている。しかし本当に目を引いたのはそこではない。
シャツは大きく開かれ胸が強調されていた。わざわざ谷間に挟まるようにネックレスがぶら下げられ、明らかな視線誘導を狙っている。そしてこの大胸筋には見覚えがあった。
ヒダカだ。
キャストコメントに進むとヒダカの宣材写真と共に短いコメントが載せられていた。
『彗士テンペルとして参加します。皆様の期待に応える活躍をしたいと思います』
相変わらず短い紹介文だ。もっとアピールすれば良いのにと思いながら改めてキャラクター紹介画面に戻る。
濃い舞台メイクのせいか普段より若く見える。しかし若作りといった感じではなく、他の十代、二十代の出演者達に混じっても違和感がない。それなのに他にはない落ち着きと余裕を纏っていて成熟した色気がある。それにこれだけ胸元を強調しているのに下品には見えない。体格が衣装に負けていないからだろう。
見せたくない。
それが最初の感想だった。しかしすぐに自己嫌悪に陥る。最低だ。これはヒダカが望んだ場所なのに。
無意識のうちにSNSを開く。そして公式投稿への反応を見てしまった。
『テンペルのビジュアル良すぎる』
『潮見飛鷹って誰?』
『胸元の再現度エロい』
『新キャラ一番気になる』
知らない人たちが次々とヒダカを見つけていく。それは喜ぶべきことなのだ。だが胸の奥がざわついてしょうがなかった。
ざわめきを消す為にスマートフォンの画面を消して原稿に向き合う。しかし頭の中ではテンペルの画像は消えてくれなかった。
エッセイの題材は実質何でも良いと言われている。だから思った事を書けば良い。つらつらと思いついたまま文章を打ち込んで読み返してみる。
『よく本当は教えたくない名店という触れ込みで紹介される店がありますが本当に教えたくないなら教えない方がいいんです。だって独占出来ないから』
いくらなんでも駄目だ。私情が入り過ぎている。文章を消して書き直した。しかしいずれも私情が入り込みまともな文は出来上がらない。そしていつの間にか夜になっていた。
「アサガオさん、ただいま……うわ、暗っ」
ヒダカが帰ってくる。そんなに遅い時間だっただろうかと確認すると午後七時を過ぎていた。電気のスイッチを押されて部屋が明るくなる。
「おかえりなさい。今日は早めですね」
「毎日深夜近くだとさすがに体力保たないから最低でも週に一回は必ず早めにあがるようにする決まりがあるんだ」
ヒダカは荷物を置きながら言葉を続ける。
「それよりアサガオさんは大丈夫か?部屋の明かりもつけないなんて相当煮詰まっているんじゃないか」
煮詰まっているのは事実だが、彼が原因とは口が裂けても言えない。
「刺身買ってきたんだけど良ければ一緒に食べないか。半額だったから大量だぞ」
ヒダカはスーパーの袋からパックのお造りを取り出す。確かに二人前以上はありそうだ。
「ではお言葉に甘えて。もう面倒なのでパックのまま食べちゃいましょう」
「いいな、洗い物も減って効率がいい」
他愛無い話が楽しい。この時間がずっと続けばいいのに。
「ついでに味噌汁もインスタントにしますか」
「お、アサガオさんの原稿もいよいよ修羅場か」
「なんで喜んでいるんですか」
「なんでだろうな」
その笑顔すら愛しい。なんでこの笑顔を独り占め出来ないんだ。炊飯器からご飯をよそり、湯を注いだ味噌汁を並べて夕食に入る。
ヒダカはマグロから食べ始めたので、こちらは鯛から食べ始めた。しばらく食事をしていると自然に今日の情報解禁の話になった。
「その……どうだった。笑えたか?」
「笑えませんでした」
咄嗟に答え、しまったと思う。ヒダカの顔が僅かに引き攣っていた。
「……すみません、言い方を間違えました。似合い過ぎて笑えませんでした。本当にゲームから飛び出してきたような美貌でしたよ」
「あ、そうか……ふうん」
ヒダカは表情を戻すと目を逸らしながらピアスをいじる。
「テンペルっていわゆる追加キャラクターなんだけどもともとシルエットだけは公開されていたんだよ。それが舞台と連動してゲーム内でも初公開になったから結構不安でさ」
他のキャラクターは先に原作イラストが存在するから役者はそこに近づければいい。しかしテンペルは違う。
今日初めて見た姿がファンにとってのテンペルになる。つまりヒダカは既存のイメージに寄せるだけでは済まない。
テンペルというキャラクターの第一印象そのものを背負わされているのだ。
「私からすればヒダカさんのテンペルは既に成功していますよ。SNSの評判は上々です」
「ああ、見たのか。もともとあんまり見ないのに、否定的な意見を見るのが嫌で全く触ってないんだよな」
「それはそれで正解だと思います。情熱を削がれたらたまったもんじゃないですからね」
「いいコメントがあったら教えてくれ。悪いコメントは無しで」
「はいはい」
食事中だが自宅だから許せと考えながらスマートフォンを取り出す。そして画面を操作してSNSを開いていくつかコメント読み上げる。
「『テンペルのビジュアル良すぎる』、『潮見飛鷹って誰?』」
ヒダカは笑みを堪えているのか口元を抑える。
「『新キャラ一番気になる』……ヒダカって格好いい」
途中から画面を動かすことをやめた。
「すごく面白そう、舞台観たい、チケット当たるといいな、応援しています……だそうですよ」
「読んでくれてありがとう、アサガオさん」
途中から自分の言葉だった。素直に言えばいいのに言えない。我ながら天邪鬼だ。
「いえ、構いません……チケットはかなり取りづらそうですね」
「……原作ファンもいるからな」
ヒダカは箸を置き、鞄の方へ目をやった。同じく鞄に目を向けると口が少しだけ開いていて白い封筒の端が見えた。一瞬だったが何かを思い出したように見える。
「ヒダカさん?」
「ああ……」
ヒダカは何かを言おうと口を開くが結局閉じられた。何を話そうとしたのだろう。
「ごめん、なんでもない」
こちらも聞く勇気がなかった。その後食事を済ませてシャワーを浴びるとヒダカは泥のように眠った。元気に振る舞っていたがやはり疲労が溜まっていたのだろう。
彼を起こさないように注意しながらもう一度舞台の公式サイトを開いた。チケット情報の欄には一般販売分完売の文字が並んでいる。リセールもあるようだが抽選のようだ。つまり今から客席に座るのはほとんど不可能に近い。劇団の時も誘われなかった。今回もきっとそうなのだろう。
彼が見せたい相手の中に私はいない。
分かっていたじゃないか。形が違うだけで所詮は大家と借主の関係だ。それなのに浮かれて、呼ばれる側だと思うなんて勘違いも甚だしい。
「アサガオさん」
名前を呼ばれ勢いよく振り返る。ヒダカはまだ瞼を閉じており寝言だと分かった。
「……布団かけないと風邪ひきますよ」
タオルケットを剥いでいたので、細心の注意を払いながら掛け直す。この鍛えられた肉体をこれから多くの人に見られるのか。この美貌にこれから多くの人が惹きつけられるのか。このいじらしい人を自分以外の人が知ってしまうのか。
「ヒダカさん」
気がつくと唇を重ねようとしていた。湿った息が唇を濡らす。
「……っ」
寸前のところで身を引く。
最低だ。
寝込みを襲うなんて外道のする事だ。
逃げるように寝室を出てパソコンに向かう。原稿に打ち込めばこの澱んだ感情は消えるはずだ。キーボードを叩いて思考を吐き出してみる。
『ヒダカさんには私だけを見てほしい。私を好きになってほしい』
馬鹿か。己の愚かさに天を仰ぐしかない。バックスペースキーを押して文章を削除する。書いては消しを繰り返し何度も原稿を白紙にした。
どんどん思考は混ざり頭の中はゴミ箱のようになっていた。
「……ん?」
気がつくと日がさしていた。いつの間にか眠っていたらしい。ゲーミングチェアの背もたれを限界まで倒していたが、身体中ギシギシと悲鳴をあげる。背伸びをしようとした時、タオルケットがかけられている事に気がついた。
「ヒダカさん?」
周囲を見回すも既に彼の姿はない。時計を確認すると十時を過ぎている。もう出かけている時間だ。視線をパソコンに向けるとモニターは暗くなっている。消した記憶は無いのでおそらくスリープモードになったのだろう。そこまで考えて急速に目が覚める。
椅子を倒す勢いで飛び起きるとモニターの電源を入れる。パスワードを入れてロックを解除すると原稿の画面が開かれた。
原稿には書いた覚えのない一文が残っていた。
『には私だけを見てほしい。私を好きになってほしい』
初めて血の気が引く音を聞いた。ヒダカの部分は消えていたが明らかな告白文だ。
見られたのか。いや、画面が消えていたのなら見られてないはずだ。だが見られていたらどうする。
「っ」
不意に着信音が鳴る。ヒダカかと思って相手も確認せず電話に出た。
「菅野さん、おはようございます。この前のエッセイの件なんですけど、初回の方向性を相談したくてお電話しました。近いうちにお時間もらえません?」
しかしその陽気な声はヒダカのものではなかった。
「ああ、編集さん……おはようございます。相変わらず元気ですね」
「あはは、社会の歯車から外れないよう必死なだけですよぅ」
多分こいつは外れても自力で回転し続けるだろう。
「それで可能であれば早めに打ち合わせできればと思うんですけど、いつ頃空いてます?」
このまま一人でいても良くない事だけは分かる。
「今日でもいいですよ」
「ええ、いいんですか。ありがとうございます。それではお時間はいつ頃がいいか教えて頂ければその時間にいつもの喫茶店で……」
「今からでも構いません」
「は、えっ?乗り気なのはありがたいですけど、そこまで早くなくても大丈夫ですよ」
「本当に構いません」
電話越しでも編集の慌てる様子が分かる。後ろで何か倒す音がしたり、紙をめくる音が聞こえたりする。
「わ、分かりました。誘ったのはこちらですし。それでは午後二時に喫茶店で待ち合わせはどうですか。先にお伝えしますけど経費は一人二千円までしか落とせないんですからね。この前みたいにたくさん頼まないでくださいよ」
「おや、この前は自腹を切って頂いていたのですか」
「ギリギリでしたよ。こっちはアイスコーヒーだけだったから少し足が出るくらいで済みましたけど」
「それは申し訳ない」
一応口では反省しておく。
「菅野さんは大食い企画やっても面白そうですね」
「経費で落とせるなら構いませんよ」
「編集長と相談してきます」
そこで電話は切れた。部屋には静けさが戻る。今はかろうじてこの静けさに耐えられそうだった。
それから約束の時間まで自堕落に時を過ごし、予定より早く喫茶店に着くと編集はまだ来ていなかった。先にアイスコーヒーだけ頼んで席に座る。ほどなくして編集がやってきて同じようにアイスコーヒーを頼んだ。
「こんにちは、菅野さん。打ち合わせに乗り気で本当に助かります。ここだけの話、作家さんによっては打ち合わせは嫌いだー、なんて言って方向性不明のまま原稿を受け取る事があるんでなかなか博打なんですよ」
「書かせなきゃ良いでしょう」
「あはは、それが出来たら苦労してませんって」
編集はリュックからタブレットを取り出すと机の上に立てかける。
「それで今日はweb連載の相談なんですけどね、まずは概要から説明しようと思って。このまま始めても大丈夫ですか」
「お願いします」
「ありがとうございます。と言っても前に説明したのとあまり変わっていなくて、月二回隔週掲載、文字数は大体三千字程度予定しています。最初に数本、具体的に言うと二本くらいですかね。ストックを作ってから隔週で提出いただく形になります」
無理なペースではなかったのでそのまま話を聞く事にした。
「肝心の内容なんですけどオカルトライターから見た日常というテーマにしたいんですよ。怪異を毎回入れるという話でもなく本当に菅野さんが見たままの景色を書いてもらうって感じですね」
「少々曖昧ですね」
「イメージはポッドキャスト上での雑談ですかね。同じ物事でも視点が違うと結構面白いんですよ。菅野さんって切り口が違うので毎回新鮮なんです」
「切り口ですか……」
「そう、なので今気になっている事とかありませんか。今日のご飯とか最近気になる店とか本当になんでもいいんです」
「……舞台を見たいです」
「おお、いいですね。どんな舞台ですか」
「ミュージカルです」
「オペラじゃなくてミュージカル?どれですか、もう公演されています?」
「これです」
スマートフォンを差し出し編集に見せる。
「『コメット・リンクス』……これ最近話題のゲームですよ。ミュージカルになっていたんですね」
編集は画面をスクロールして情報を確認する。
「うわ、もうチケット完売している。人気だとは思っていたけどここまでとは……あ、でも配信ならまだあるみたいですよ」
「そうですね」
「買わないんですか」
「……迷っています」
「その気持ち分かりますよ。案外高いですもんね」
「そういう訳ではないのですが」
「ああ、会場特有の空気を味わいたい感じですか?それも分かります。コールアンドレスポンスがあった時の一体感は現場ならではですからね」
以前あまり観劇をしていないような発言をしていたがどう見ても現地で見る本気の人間だろう。
「ところでなぜ『コメット・リンクス』を?このゲームの話題なんて一度も出て来なかったですが」
「……同居人が出演するんです」
編集は椅子から転げ落ちる。そんな漫画みたいな転び方をする人間が本当にいるのだと思った。
「すごいじゃないですか。どの方ですか」
今更だがここまで言ってよかったのかと思い黙る。しかし編集は気にする様子もなくキャラクター紹介画面を何度もスクロールする。
「いえこちらで当てます。ここに紹介されていないキャラクターの可能性もありますが今までの菅野さんの話からすると……この人が同居人ですね!」
画面にはヒダカが表示されていた。今更否定する気にもなれない。
「当たりです。よく分かりましたね」
「ふふん、今日の菅野さん分かりやすいですからね。このテンペルが表示されている時だけ凝視していましたもん」
「……そんなに見ていましたか」
「普段の菅野さんに比べたらだいぶ分かりやすかったですよ。もしかして何かありました?」
相変わらずズカズカと踏み込んでくるやつだ。氷がほとんど溶けたアイスコーヒーを口につける。
「……菅野さん、大丈夫ですか?」
「何がですか」
「いや、本当に元気がないというか、気に障った発言をしていたら申し訳ないというか」
「何も変わっていませんよ。顔色も悪くないでしょう」
「見た目じゃないんですよね。なんというか雰囲気?」
他者から見て分かるほど自分は憔悴しているのか。それがショックだった。
「もしかしてお腹空きました?サンドイッチくらいなら経費に収まるので頼んでいいですよ」
「……いえ、いいです。打ち合わせを続けましょう」
「そうですか?……正直に申し上げると菅野さんには本当に助けられています。締切前に原稿を上げてくれるし無理かもしれない量を執筆してくれるし」
無理だと思っている量を渡していたのかと内心毒づく。
「だから無理はしてほしくないんです。矛盾しているかもしれないけど、これからもウチで執筆を続けて欲しいんです。今回のエッセイが難しそうなら断ってください。無理して断筆されたらそっちの方が大変です」
普段は図々しいがこういう時は優秀な編集だと思う。
「お気遣いありがとうございます。今の所エッセイの仕事は受けるつもりです。締切はいつですか」
「……まずはストック用の二本が欲しいので一本目を一週間後、方向性を確認した上で二本目をもう一週間後にいただければと思います」
「分かりました。出来上がり次第メールで送ります」
「……途中で無理そうだと思ったら言ってください。いくらでも対策立てられるんで」
珍しく静かな話し方をする。ムードメーカーのような編集にまで気を使われたらたまったものではない。退散するのが正解だ。
「今日はありがとうございました。用があるので今日は帰ります」
本当は用などない。だがこれ以上平静を装うことが出来なさそうだった。
喫茶店を出ると青空が広がっていた。自分の気分も晴らしてはくれないかと考えるがそう都合よくもいかない。先ほどの編集との会話を反芻する。と言ってもエッセイの方ではなくミュージカルのチケットの方だ。
見たいのは本当だ。
だが見る資格がないという考えが払拭できない。チケットを渡して欲しいとは言わないが、ヒダカはなぜか舞台を見てほしいとは言わないのだ。簡単に五桁超えるチケット代を払わせるのが申し訳ないからか?守秘義務が絡んで情報開示された時点でチケット完売の状況はしょうがない。しかし見てほしいだけなら言ってもいいのではないか。酷評する人間にでも見えているのだろうか。
本当は解決方法は分かっている。直接聞けばいい。見てほしくないならそう言ってもらえれば潔く諦める。所詮大家と借主だと腹を括れる。
だがそうするにはあまりにも自分は弱くなってしまった。本当に見てほしくないほど嫌われていたらどうしよう。立ち直れないかもしれない。
気がつくと家に着いていた。ここまでの道のりは覚えていない。そのまま流れるようにパソコンの前に座る。画面を開くと昨夜の文章が未だ残っている。
ヒダカはこれを見たのか、見ていないのか。見ていないならそれでいいが、見ていたらどう反応すればいい。文章を消してエッセイを書き始める。
『今日は舞台について話していきたいと思います。皆さんは今までどれくらい観劇をされたことがありますか。私は映像で拝見することはよくあるのですが生で見ることはほとんどなくて昨今のチケット購入方法を見ると浦島太郎の気分になります……』
面白いかはさておき昨晩のような悲惨な文章ではなくなっている。この勢いで行くしかないと考えながら文字を打ち込んでいるとあっという間に時間が過ぎた。よく考えたら朝も昼もまともに食べていなかった。さすがに今日は夕飯をちゃんと作ろうと思いながら冷蔵庫を開けると干からびた野菜しか入っていない。出鼻を挫かれたと考えながら買い物のために外に出ると夜の冷えた空気が肌を通っていった。そういえば最後にヒダカと買い物をしたのはいつだろう。もしかして履歴書の切手を買いに行った時だろうか。
スーパーに入ると二丁分の豆腐を手に取った。しかし今日はヒダカの帰りが遅いことを思いだし一つを棚に戻す。だがもしかしたら彼は腹を空かせて帰ってくるかもしれない。結局また豆腐を手に取るとカゴの中に入れて通路を歩く。何をしているのだろう。
適当に旬の食材をカゴにいれながらレジに進む。その時スマートフォンが鳴ったため画面を見るとヒダカからメッセージが入っていた。
『今日は遅くなります。夕飯は外で食べます。多分零時過ぎるので先に寝ていてください』
スマートフォンがカゴの中に落ちる。分かっていたのに指先から力が抜けたい。彼は前に進んでいる。今も厳しい稽古に耐えて舞台に立つ準備をしているのだ。
もう支えなくてもいいのでは?
そんな考えが浮かんだ直後レジの順番が回る。無理やり考えを切り替えようとするが不安は膨らんでいくばかりだった。
家に帰ると食材を並べる。しかしそれに手間をかける気がさらさら起きなかった。もしもヒダカが帰ってくるなら麻婆豆腐にしてもいいし、揚げ出し豆腐にしてもいい。それから肉を焼いて野菜多めのポトフでも作ろうかとも考えたが、自分のためにそこまでする気になれない。結局湯豆腐と称して鍋にあり物を全て突っ込んだ料理を作った。ポン酢をつければ大抵どうにかなる。
料理が疎かになっている自覚はあった。だが栄養さえ摂れればいいという考えに至る。味はほとんど気にせず咀嚼を終えるとSNSを開く。ヒダカはアカウントを持っているもののほとんど動かさないため、見にいくのは『コメット・リンクス』の公式アカウントだ。そこには出演するメインキャストの投稿が引用され時には写真がアップされていた。反応はどれもかなり多い。その中で一つの写真に目が止まる。
そこにはメインキャスト六人が練習する姿が映し出されていた。全員運動着でメイクもしていない。写真を撮ったであろう手前の人物は主人公格のキャラクターを演じている人物だ。本当にムードメーカーなのだろう。その後ろで残りの五人がおり、気がついている者はポーズをとり、気がついていない者は他の者に肩を組まれて驚いた様子が写っていた。その中にヒダカはいた。水分補給中を撮られたのだろう。ペットボトルを片手に空いている手でピースをしている。
いつも通り控えめな彼がそこに写っていた。だが雨に打たれていたあの頃と違い、いきいきとしている。まるで住む場所が違う人間に見えた。本当に元気な今の彼に私は必要なのだろうか。
らしくない不安を胸に横になる。そしていよいよ本番を迎えることになった。

