いじらしい人


第三話

劇団を終わらせたと聞いた数日後、思ったよりヒダカは元気だった。時折寂しそうな表情を浮かべることもあったが、最近見たドラマの話で盛り上がるなど以前より明るく見えた。というより本来の彼はこれくらい明るかったのかもしれない。
「今日は夕方には帰れると思う。アサガオさんはジムに来るか?」
「生憎原稿が遅れてきているので今日は集中しようと思います」
「珍しいな。ペース配分完璧だと思っていたのに」
「さすがに仕事を受けすぎましたね」
「今更だけどアサガオさんって売れっ子ライターなのか」
「売れているか分かりませんがライター業で食べてはいけます」
「フリーなのに凄すぎるだろう」
「そうでしょうか」
 褒められて悪い気分ではない。
「忙しいなら俺が夕飯作るよ。何がいい」
「……カレー」
「本当に珍しいな。どっちかと言えば和食派だと思っていた」
「スパイスは脳にいいので。正直に言うと久しぶりに原稿を落としそうなので作り置きできるものがありがたいです」
「了解。今日は原稿頑張ってくれ」
 ヒダカは皿を片づけるとそのまま出かける。その姿を見送ってからパソコンの前に座り白い原稿を見つめた。
 ここしばらく浮かれすぎて執筆作業に身が入らなかった。我ながらたるんでいる。だがこの状況は悪くない。淡々と仕事をこなすのも悪くなかったが、幸福を凝縮しているというか、メリハリのある生活が心地いい。最近頭が冷静さを欠いている気がする。
 それよりも原稿だ。キーボードを叩き文章を入力する。しかし油断すると頭の中にはヒダカが浮かんでいた。好きそうな店が近場にできたとか、服を買いに行かないかなど彼が興味ありそうな話題ばかり探してしまう。また脱線してしまった。
 いい加減原稿を進めないと本当に締切を過ぎてしまう。気合を入れて作業を進めているといつの間にかヒダカが帰ってくる時間になっていた。
「ただいま。原稿は進んだか」
「どうにか。まだ一本残っていますけど」
「本当に仕事受けすぎだな」
 ヒダカは笑いながら台所に向かう。野菜を切る音が聞こえたかと思えば玉ねぎを炒める良い匂いがしてきた。間もなくたんぱく質を焼く香りが広がり、最後は煮込む音が聞こえる。
「後は米が炊けるまで待つだけだな——っと」
 不意にヒダカのスマートフォンが鳴る。何かしらのメッセージを受け取ったようでしばらく読んでいたが一瞬目を見開くと何かを取りに寝室へ戻ってしまった。気にはなるがこちらも仕事を終わらせないといけない。
 それから一時間ほど経っただろうか。カレーの匂いと共に炊飯器の炊ける音が鳴って夕食が完成しかけている事に気が付く。幸いこちらの原稿も仕上がりそうだ。
「ヒダカさん、手伝います」
「原稿終わったのか」
「比較的軽いものだったので片づけました」
「文章にも重い軽いがあるんだな」
 こちらがサラダを盛りつけている間にヒダカはカレーをよそるとテーブルに並べた。
「それでは、いただきます」
「いただきます」
 同じ材料を使っているはずだが彼のカレーは何か違う。自分が作るよりまろやかに感じる。
「隠し味に何か入れているんですか」
「よく分かったな。チョコレートを入れているんだ」
「チョコですか」
「完全に溶かしているから分からないだろう」
 それにしたって同じルーを使っているのにここまで味が変わるだろうか。具材を改めて確認すると違いに気が付く。
「そういえばじゃがいもが入っていませんね」
「じゃがいもは水分があって傷みが早くなるからな。作り置きするなら抜いたほうがいいと思って」
「お気遣い感謝します」
 カレーを食べながらヒダカは何かに気が付く。
「あれ、でも原稿終わらせたなら忙しくなくなったって事か?」
「ああ、予定より遅れている原稿を終わらせただけで予定通りの原稿はまだ残っています」
「どれだけ仕事抱えているんだよ……」
 ヒダカは若干引いていた。比較したことはないがライターとはこんなものではないかと考えている。
「話は変わるんだけど、ちょっといいか」
 スプーンを置くとヒダカは改めてこちらに向き直る。真面目な話が始まりそうな雰囲気にこちらも姿勢を正す。
「実はオーディションを受けようと思う」
「何のオーディションですか」
「作品名は言えないけど、今までと規模が違う。まずはエントリーシートを送ろうと考えている」
「いいじゃないですか。ご自身で見つけたんですか」
「喜多見……劇団仲間の一人から連絡があった」
「前に聞いたアーサーという方ですか」
「アーサーとは別人だ。喜多見の知り合いに舞台制作会社の人がいたらしくて、欠員が出たから急遽探すことになったらしい」
 劇団を続けたかったのはヒダカだけではなかっただろうか?
「喜多見さんが受けてほしいと言ったのですか」
「喜多見だけじゃなくてアーサーも電話で言ってくれたよ。大舞台の方が得意なんじゃないかってさ」
「お二人はヒダカさんの事を信じているんですね」
ヒダカは照れくさそうに笑う。その顔をこちらに向けてほしいと思うのは我儘だろうか。
「そこでお願いなんだけど、食べ終わったらアサガオさんにエントリーシートを見てほしい。忙しいのは分かっているけど、文章を書くのが得意ならどう書いたら良いか知っているだろうと思って」
「私の記事はだいぶマイナーですし、そもそもエントリーシートなんて書いた事ありません」
「じゃあせめて誤字脱字だけでも」
正直頼られて悪い気はしない。
「……分かりました。それくらいなら確認できます。食後書類を見せてください」
「ありがとう、アサガオさん」
笑顔のヒダカを見て胸の内が軽くなる。いつの間に自分はこんなにチョロくなってしまったのか。
そのまま食事を済ませ彼の選考書類を見せてもらう事になった。そこにはヒダカの個人情報が詰め込まれていた。
「体重、私とほとんど同じなんですね」
「アサガオさんと十センチも違うのに?痩せ過ぎじゃないのか」
「私はガリガリではないですよ」
「知っているよ。それより誤字はないか」
「今のところないです。ただ……」
ヒダカは次の言葉に身構えている。
「ただ?」
「なんですか、この略歴は。ご自身を売り込む気はあるんですか」
 片づけたテーブルの上に履歴書を置く。
「ちゃんと書いてあるだろう」
「『劇団を運営していました。舞台、朗読劇など出演経験あります。趣味は筋トレ。体力には自信があります』——受かるわけないでしょう」
「どうしてだよ。事実だ」
「まず劇団を何年運営したか書きなさい。一年もしないうちに解散したのか、何十年もしてから解散したのかで印象が異なります。次に公演した舞台は可能な限り公演日とタイトルを書きだしてください」
「小劇団だし数はこなしていたけど、大した内容じゃ」
「いいですか。劇団を運営するなんて普通はできないんです。資金、人脈、場所の確保、宣伝、全部こなすのは至難の業です。それをやり遂げていたということは根気があるってことです」
「そ、そうか」
「筋トレもこれだけじゃ弱いです。毎日欠かさずトレーニングを行っているのでしょう。長時間稽古に耐えることも可能な方向にアピールすればもっと売り込めます」
 ヒダカは左耳のピアスに触れる。
「あと朗読劇ももう少し強くアピールしてください。ヒダカさんの声は張りがあって通るので強みになります」
「……なんか色々見てくれているんだな」
「この紙一枚でヒダカさんの人生が変わるなら、ちゃんと見なきゃ駄目でしょう」
「ふうん……」
 その後も改善点を多数指摘した。モノクロだったエントリーシートは赤ペンで真っ赤になっていた。
「……こんなところですかね。これをもとに書き直してください」
「忙しいのに本当にありがとう。誤字脱字だけ見てもらうはずだったのに添削までしてくれて」
「お役に立てたなら光栄です。審査通るといいですね」
「これなら通るよ」
 ヒダカは白紙の履歴書を取り出すと、ヨレヨレになった履歴書を見ながら文章を書き写す。
「それでは先にシャワーを浴びます。ここで書きづらければ私の作業机で書いてもいいですよ」
「ありがとう、アサガオさんが寝る前までには書き上げておくから」
 そう話すとヒダカは再びエントリーシートに向き直る。邪魔をしては悪いと思いそのまま風呂場に向かった。普段はそこまで長い時間をかけないが、集中するためには一人の時間が必要だろう。髪をわざわざ二度洗って外に出たら好き勝手に暴れている癖毛が更に爆発してしまった。
 部屋に戻るとヒダカは作業机に移動していた。既に履歴書を書き終え読み直し作業に入っている。
「進捗いかがですか」
「書き終わった。誤字脱字も多分ない。でも、本当にこれでいいのか悩んできた」
「見せてもらってもいいですか」
 紙を渡され内容を確認する。指摘した場所は全て修正され、更に書き加えられていた。総じて高評価だ。
「すごくいいと思います」
「そうか?」
「締切が過ぎる前に早く提出しましょう。切手はありますか。なければコンビニに行きましょう」
「気が早いな」
「原稿もそうですが書き上げることが終わりではなく、提出するところまでが終わりです。最後まで気を引き締めるように」
「分かったよ、すぐ買いに行く」
「私も行きます」
「いや、アサガオさんもう風呂に入っただろ。欲しいものがあるならついでに買ってくるから」
「歴史的瞬間を目撃したくて」
「……大袈裟だな」
 ヒダカは呆れたように笑う。そして身支度を整えるとそのまま二人で外に出かけた。
 そろそろ夏になってきたが夜は涼しく歩きやすかった。歩きながらヒダカは何回も封筒の宛先を確認している。
「ながら歩きは危ないですよ」
「住所間違っているんじゃないかと不安で」
「何回も確認したでしょう」
「見落としがあるかもしれないじゃないか」
 ヒダカは緊張で前を全く見ていなかった。転んで怪我でもされたらたまったもんじゃない。
「……え」
 許可なく彼の左手を握った。反射的に振り払おうとされたので強く握り返す。
「や、やめろ。こんな人通りのあるところで」
「誰もいないですよ。それに不注意でつまずいて、怪我でもされたら困ります」
 男は眉を下げ困ったような表情を浮かべる。少し調子に乗って指の間にこちらの指を滑り込ませ握りしめる。
「緊張されていますか。手汗がすごいですね」
「……誰のせいで」
 今度は振り払われない。ヒダカは鞄に封筒をしまうとまっすぐ前を見て歩く。コンビニまで誰にも会わなかったのでそのまま繋いでいた。
 中に入って欠伸を堪えている店員から切手を購入しそのままポストに向かう。ヒダカは切手の値段ってこんなに上がったのかとか話しながら封筒を何度も眺めていた。
「出すぞ」
 いよいよポストに辿り着き封筒を出すだけになった。切手も宛先も中身も完璧だ。ヒダカは手を離し、封筒は赤い箱の中に滑り落ちていく。
「歴史的瞬間おめでとうございます」
「落ちたら笑ってくれ」
「笑いませんよ」
「じゃあ慰めてくれ」
「気のすむまでご一緒します」
「頼もしい限りだ」
 それから自宅に着くまでの間、手を繋いで歩いた。契約外の触れ合いだがヒダカは拒まない。期待していいのだろうか。いけない、また浮かれている。そう何度も思考を巡らせながら帰路に就いた。
「……もういいだろう」
 玄関まで辿り着くとヒダカは緩く手を揺らす。その頬は僅かに赤い。
「そうですね」
 本当はもっと触れたい。だが今日は契約日ではない。名残惜しいのを隠して手を離した。