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金曜日の朝、ヒダカはいつもより早い時間に起きた。
「騒がしくしてごめん。今日は帰り遅くなると思う」
「本番ですからね。頑張ってください」
やはり誘われない。見ていいか尋ねることもできない。
「行ってきます」
彼は朝食も食べず出かける。そんなに早いなら昨日作り置きしておけばよかった。そう考えながら台所に向かう。
いつも通り食事をして、午前中は原稿をして、午後は外出して、帰って夕飯を作って寝る。今までずっとやってきたことだ。しかしどこか空虚感があった。原因は分かっている。
スマートフォンを取り出して検索をかける。目的はヒダカの劇団だ。相変わらず公式サイトは形が崩れ見づらい。更新も三か月前から途絶えている。SNSへのリンクがあったのでそこを押すとアプリに飛ぶ。サイトと違い、昨日更新されていた。
内容は本日の開演が十八時で三十分前から入場可能である事、場所、舞台の題材、当日券がまだある旨が記載されていた。
まだ席は残っているのか。
胸の内に靄がかかる。空席は一つでも無くした方がいいのではないか。時間もチケット代もあるのに何故誘ってくれない。
しかし一方で冷静な頭が別の思考を差し出す。ヒダカとはあくまで身体のみの関係で舞い上がっているのは自分だけだ。彼にとって自分は住居を提供する大家でしかない。わざわざ誘う理由もない。
また良くない思考に入ってしまった。こういう時は仕事に没頭した方がいい。
スマートフォンを置いてパソコンに向かうと原稿用紙を開く。何時間経っただろうか。既に日は暮れ、部屋は暗くなりつつあった。書いては消しを繰り返し目の前には白い原稿だけがある。全く集中が出来なかった。
再びスマートフォンを取り出しSNSを開く。ヒダカの劇団アカウントに更新があった。
『間もなく開演です。最後まで頑張りますので皆さま是非楽しみにしてお待ちください』
写真も何もない簡潔な文章だった。画面右上の時計を見てもうそんな時間かと思う。結局チケットを買うことも、現地に向かうこともできなかった。時間はあったのに招かれないと行ってはいけないような気がして行けなかった。
理由は分からない。
ただ刻一刻と時間は流れ再びアカウントが更新されたのは午後八時を回っていた。
『皆様本日はお忙しい中お越しいただきありがとうございました』
それだけだ。この時間まで自分は何をしていたのだろう。無駄な一日を過ごしてしまった。気分を切り替えるために台所に立つが食欲が湧かなかった。だがヒダカに叱っておいて自分が食べないのもおかしい。夜には合わないかもしれないがサンドイッチを作る事にした。薄焼き卵を焼いて食パンに挟むシンプルなものだ。以前ヒダカに振舞ったときは初めて見たと言われたが、そんなに珍しいものだろうか。癖で二人前作ってしまったが、残した分は明日に回せばいい。
食事を済ませてシャワーを浴び終わった頃には十時を回っていた。少し早いが横になろうと思ったとき、鍵の回る音が聞こえた。
「ヒダカさん?」
そこにはヒダカが立っていた。出かけた時と同じ格好でこちらを見つめている。どこか様子がおかしい。
「思ったより早いお帰りですね」
立ち上がって彼の前に立つとヒダカはこちらの胸に顔を埋めてきた。腕はだらりと下がり、行き先がない。その手を拾って、指を絡ませると生暖かい呼吸が胸元を湿らせる。
「俺さ、やったよ」
「何をですか」
答えはない。五回くらい呼吸した所でヒダカは言葉を続ける。
「劇団を解散させたんだ」
「え」
思わず間の抜けた声が出てしまう。
「何故、思い入れがあったんじゃ」
「あるよ、今だってある。でも終わらせた」
「……喧嘩ですか」
「そうじゃない。本当はみんなとっくに終わらせるべきだと思っていたのに俺だけがそう考えられなかったんだ」
「……ヒダカさん」
先程まで力の無かったヒダカの手が握り返される。
「抱いてほしい……出来れば激しく」
「自傷行為には加担しませんよ」
「……忘れさせてほしいだけだ」
「何を忘れたいんですか」
「……寂しさ、かなぁ」
短髪の男は乾いた声で笑う。
「アサガオさん、お願いだよ。俺は劇団のために泣きたくないんだ。笑っていたいんだ。だから今すぐ抱いてくれ」
鼻も啜り、肩も震え始めている。なんと純粋で不器用な人なのだろう。
「……いじらしい人」
後頭部を撫でながらベッドに連れ込む。その日はとびきり優しく彼を抱いた。

