いじらしい人

第一話

その日は土砂降りの雨だった。度々眼鏡に水滴が当たる。午後九時を過ぎた街は人通りも少なく、閉じたシャッターとコンビニの明かりだけが雨に滲んでいる。編集者との食事を終え、少し酒の入った身体で歩いていたせいだろうか。
前方に人が立っていることに気づくのが遅れた。
距離にして数メートルもなかった。背中を向けているが背丈からして男性だろう。道のど真ん中で傘もささず立ち尽くしており、どう見てもまともな状況ではない。
幸い道幅は軽自動車二台程通れそうな広さがある。端に寄って歩けば万が一があっても逃げ出せるだろう。そう考えながら早歩きで通り過ごそうとした時、ちらりと横目で男の顔を見た。短い髪に筋の通った鼻筋を持っており薄暗いながらも端正な顔立ちである事がわかる。しかし目元には疲れが浮かび若者でもなかった。そしてその顔に覚えがあり、気がついた時には話しかけていた。
「大丈夫ですか」
「……あなたは」
「通りすがりのジム利用者です。駅前店で働いている潮見さんですよね」
男は呆然とした顔でこちらを見る。虚ろな目だった。
「私は菅野、一ヶ月程前に入会した者です。覚えていらっしゃるか分かりませんがトレーニング機器の使い方を何回か教えて貰いました」
男はそこまで聞いてようやく表情を動かす。
「菅野さん……ああ、お世話になっています。すごく背が高かったので覚えていますよ」
無理矢理笑みを作った事が分かる。口角の上がり方が不自然だったからだ。
「何かあったんですか」
「……色々あって。お恥ずかしい所をお見せしました。気にしないでください」
この状態で気にしない方が無理だ。放っておけば最悪な道を選ぶかもしれない。傘を手前に出し男の頭上に傾ける。
「少なくとも傘に入ってください。このままでは風邪をひく」
「……頭を冷やそうと思ったので大丈夫です」
困ったような笑みに腹の奥底からじわりとした欲が湧く。ああ、駄目だ。いつもの悪い癖だ。振り払うように口を開く。
「熱にうなされたら冷えるものも冷えません」
男はしばらく黙っていたが、こちらも引く気がないのを悟ったのか口を開く。
「肩が濡れていますよ」
「あなたよりマシです」
ようやく男は一歩進み傘の中に入る。黒い大振りの長傘だが大の男二人が並んで入るには狭い。肩を寄せ合うと触れた所から雨水が染みてくる。一体どれだけこの雨に打たれていたのだろう。
「どこまで帰られますか。駅まででもご一緒しますよ」
男は動かない。
「……やっぱりいいです」
「どうしてですか」
少し間が出来る。彼が瞼を伏せると睫毛には雨なのか水滴が垂れた。
「帰る家がないんです」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味です。今まで住んでいたアパートを出ることになって。次がまだ」
最後は尻すぼみになっていた。
「退去日はいつですか」
「……今日、でした。最後の荷物を出してそれきりですが」
その言い方で少しだけ状況を理解した。何もせずにいた訳ではなさそうだ。
「……頼れる方はいないんですか」
男は首を振る。消そうとしているのにふつふつと良くない感情が湧き上がる。
「では私の家に来てください。どうせ真っ直ぐ帰るつもりもないのでしょう」
「何言っているんですか」
我ながら本当にそう思う。
「このままでは本当に路頭に迷いますよ。今日は私の家に泊まって身体を休めてください。そこで改めて考えましょう」
「……どうしてそこまでしてくれるんですか」
「簡単ですよ」
下心が芽生え始めてしまっている。とてもそんな事は言えなかった。
「ここで無視したら夢見が悪くなるからです」
ようやく男は笑う。ほんの僅かに息を漏らす程度だったが少し余裕が出来たらしい。一歩進んでみるとちゃんとついてくる。
「ここから十分もかかりません。着替えはありますか。なければそこのコンビニで下着だけでも買っておきましょう」
 男は鞄の中にあると話したが、中身はずぶぬれだろう。風呂に入っている間に乾かせばいいかと判断し、そのまま家に向かった。
「……ここが自宅ですか」
 そう尋ねるのも無理はない。そこは五階建ての雑居ビルだった。看板やポストからテナントが入っている様子もなく、廊下は薄暗く照らされているだけである。荒れている訳ではないが一見廃ビルに間違えられてもおかしくはない。
「事務所も兼ねているんです。三階なので階段を使ってあがりましょう」
 こちらが先に階段を上がる様子を見て、男は覚悟を決めたように鞄を抱えなおし階段を上る。
「このビルって他に誰か住んでいるんですか」
「前はいましたよ。今はご覧の通りです」
階段では蛍光灯がチカチカと点滅している。そろそろ替え時か。
「じゃあ一人で?」
「そうなりますね」
三階まで登り廊下を歩く。人感センサーが働き明かりが点る。しかし古いので大分遅れてから点灯した。
「こちらが私の家です。靴はそこのマットの上で脱いでください」
 扉を開けた真下に玄関マットを置いている。床は白いタイル材で濡れた靴では滑りやすい。
「右手側に扉が見えるでしょう。そこがシャワー室です。小さいですが脱衣所もあるのでまずは身体を温めてください」
 手近にあったタオルを渡すと男は素直に受け取る。
「こんな事を聞くのも恐縮ですが……濡れたものはどちらに置けばいいですか」
「床に置いてもらって構いません。それより中を見てもいいですか」
「どうしてですか」
「着替えがその中に入っているのでしょう。見たところずぶ濡れです。先に乾かしておかないと」
 男は今更気が付いたとでも言うように中身を見る。そしてただでさえ青白い顔を更に白くする。
「……その通りでした」
「取り急ぎ下着だけでも乾かすので貸してください」
 手を差し出し、服を出すよう促す。
「いや、ちょっとそれは」
「早くしてください。全裸で歩き回りたいのなら話は別ですが」
「それはそうだけども」
先ほどまで空虚で流されるままだったが抵抗することを思い出したようで安心する。
「分かりました。着替えと一緒にドライヤーも置いておくのでその時一緒に乾かしてください」
 妥協案を出され安心したのか男はようやく頷く。脱衣所に入り扉を閉めたところで息を吐きだした。
「危なかった」
 思わずつぶやいてしまう。それほど危険だった。あと一息で手を出してしまうところだった。
 風呂場からシャワーを流す音が聞こえる。身長は百八十と見たところだろうか。体格もそれなりにいい。それなのに先ほどの雨に打たれる姿は守りたくなるほど危うかった。
 玄関に入ってすぐ近くに置かれているゲーミングチェアに座り天井を見上げる。
 彼と言葉を交わしたのは今日を除くと数回だけだ。簡単なジムの案内やトレーニング機器の使い方など当たり障りのない会話である。しかし彼の様子は時々観察していた。精悍な顔立ちや比較的大柄な体格もあって目立っていたからかもしれない。
 彼はジムのスタッフとして働く傍ら、常に周囲に気を配り率先して機器のメンテナンスを行っていた。そして慣れない利用者を見かければ声をかけ困らないようサポートしていた。
 仕事と言えばそれまでだ。だがそれ以上に愛想がいいというか、どこか興味を持ちたくなる雰囲気を纏っていた。
「シャワー、ありがとうございました」
 声をかけられ背中を思い切り倒す。そうすると上下反転している男の顔が映った。貸したワイシャツを羽織り、肩にはタオルをかけている。
「ご気分はいかがですか」
「お陰様で少し落ち着けました。本当にありがとうございます」
「礼を言うのは早いですよ。これからどうするか考えたのですか」
 椅子を戻し立ち上がると男の前に立つ。目線をやや下に向けると視線が合うがすぐに逸らされる。
「……やっぱりでかいですね」
「おや、話を逸らされましたか」
「いえ、そういう訳では。ただ自分より背が高い人が珍しくて威圧感が……何センチあるんですか」
「百九十です。立って話すのもなんですからそこの椅子で考えましょう」
 ゲーミングチェアの後ろには簡単な応接セットが置かれている。そこに台所から持ってきたコップを二つ置いて男を向かいの席に座らせた。
「確認ですが今夜帰る場所は本当にないんですね」
「鍵はまだ持っているので部屋には戻れます。ただ荷物は全部処分していて、何もありません」
 畳かフローリングか知らないが床の上に直で寝るのは厳しいだろう。分からなくはないが、それだけであそこまで追いつめられるとは思えない。
「明日までに出ると話していましたが、そもそも何故退去しなくてはならなくなったんですか」
「古いアパートに住んでいたんですけど、そこが区画整理で潰れることになったんです」
「急に決まったんですか」
「いえ、そうではないです。だからこそ情けない」
 男は自身の膝を強く握りしめる。
「次の部屋は探していたんですよね」
 視線を鞄に向ける。チャックの中からくしゃくしゃになったチラシが見える。
「はは、なんでもお見通しですね。確かに探しました。でも条件が合わなかったんです」
「家賃ですか」
 一番可能性があるものを提示するが男は頷かない。
「それとも場所ですか」
 やはり頷かない。他の要因は何かあったかと思考を巡らせていると男は口を開く。
「……両方です」
「おや」
 まさかの二つともか。しかし余程の理由がないとこの状況にはならないだろう。
「ジムへ通われるのに遠方だと不都合なのですか」
「ジムだけじゃないです……ここまで来てしまったので話してしまうんですが、実は劇団を運営しているんです」
「劇団ですか。どちらに所属されているんですか」
 名前を教えてもらったのでスマートフォンを取り出し検索をかけてみる。トップページには乗らなかったが何個か下に目的の劇団名が表示された。リンクを押してみるとバランスの崩れた写真と文字が表示される。パソコン向けのページなのだろう。気にせず内容を確認すると簡単な劇団紹介と次回公演の日程、最新情報が更新されるSNSへのリンクが記載されていた。
「最終更新日が三ヶ月前ですけどいいんですか」
「忙しいとなかなか更新できなくて」
「公演情報は簡単にはできないかもしれませんが、なんかこうあるでしょう……スタッフブログのようなものが」
 男は小さく笑うだけである。この辺りはまだ踏み込みすぎない方が良さそうだ。
「なるほど。察するに遠方になると家賃は下がるが劇団の運営が成り立たなくなるということですね」
「本当に何から何まで察していただき助かります」
 自分で言うより他人に指摘してもらう方が楽な時もある。
「一応確認ですが劇団をやめる選択はないのですか」
「それができたら苦労していません」
 何も知らないこちらからすればそれで済む話だが思い入ればかりは本人にしか分からない。
「失礼ながら他に頼れる方はいなかったのですか」
「劇団仲間はもう家族がいたり、自分の事で手一杯だったりで他人の面倒見る余裕なんてありません」
「ご家族は?」
「……十分すぎるくらい迷惑をかけてしまったので」
 八方塞がりというところか。聞けば聞くほど崖っぷちであることが伺える。次に何を確認しようか考えた時、気になる点に気が付く。
「そういえば荷物は処分されたって言っていましたけど他のものはどうされているんですか。まさかその鞄一つだけですか」
「いえ、一応ジムに小さいですけど自分専用のロッカーがあるのでそこにしまっています。といっても寝袋とタオル数枚くらいですけど。もともとあんまり物を持たないんです」
 それにしたって少ないだろうとは思うが口には出さないでおいた。
「分かりました。色々教えていただきありがとうございます。とりあえず今夜は泊まってください」
「あの、俺からも質問していいですか」
 何か気になる点でもあっただろうかと促すと男は言葉を続ける。
「菅野さんって何をされている方なんですか……?」
 おずおずと尋ねる姿を見て彼の退路を断ちたくなってしまう。いや、駄目だ。欲が反応する前に言葉を発する。
「文章を書く仕事をしています」
「ああ、ライターってやつですか。それとも小説家さんですか」
 男は後ろにある本棚を眺める。
「ライターの方です。オカルトや怪談をメインに執筆しています」
「ああ、拝読したことないですけどそういう雑誌ありますよね。すごいです。ところで机の上にしっかりしたマイクが置かれているのですが他に何かされているんですか」
「時々ラジオも配信しているので」
「自分の番組を持っているんですか」
「今どきは個人でもポッドキャスト配信ができる時代ですからね。執筆業と相談業の傍らでやっています」
「菅野さんは本当にすごいですね」
 てっきり世辞だと思っていたが、本当に称賛してくれているらしい。作り笑いではない笑みが胸を高鳴らせる。抑え込もうとするが欲は留まる事を知らない。
「今日は泊まっていいと話しましたが……明日から本当にどうされるつもりですか」
「とりあえず鍵を大家さんに返しに行きます。それからは……ネットカフェ難民でもしていい物件がないか探してみようと思います」
「それは先延ばしと変わらないのではありませんか」
 棘のある言い方だ。しかし自分は正論を振りかざすだけの人間ではない。
「そこで取引をしませんか」
 取引という言葉に戸惑った表情を浮かべる。
「あなたはこの家に住んでいい。今日だけじゃなく、明日からずっと気の済むまで」
 動揺して慌てふためく姿は可愛らしい。こちらの理性のタガを外すのが上手い男だ。
「どうしてそこまで」
「対価を頂くからです」
「……すみません、本当に金はないんです」
「知っていますよ」
 じゃあどうしてと言おうとしているのが簡単に予測できる。その前に立ち上がり言葉を続けた。
「あなたは週に一回、私の相手をしていただきます。いえ、もっとはっきり言った方がいいですね」
 こちらは善人でもなんでもない。欲にまみれた獣なのだ。
「私はあなたを抱く。応じるなら、あなたはこの家に住んでいい」
 上から見下ろすと座ったままの男は目を見開き呆然としていた。
「もちろん今夜ではありません。混乱しているあなたに返事を求める気はありませんから」
「……何を言って」
「今日はしっかり休んでください。明日鍵を返して、それでもその気があるなら続きをしましょう。断るならそれで構いません。今夜泊めた事についてのお代は不問です」
 男は明らかに怯えていた。その姿さえ愛しく思えてしまう自分に嫌悪してしまう。
「そういえば寝室の案内がまだでしたね。右手側に大きな仕切りがあるでしょう。そこが寝室兼自室になります。シングルベッドとソファがあるのですが、ソファで寝てください」
 仕切りまで歩き案内しようとするが、一度持たれた警戒はなかなか解けない。男は座ったまま視線を外さないようにしていた。
「こう見えて節操がない訳ではないんですよ」
「……」
 男は黙りこくってしまう。親切な相手かと思えば獣だったのだから当然と言えば当然の反応か。
「今日は手を出しません。それはお約束します」
「……最初からその気で呼んだんですか」
「いいえ、最初はただの親切です。顔見知りが今にも死にそうな状況になったら放っておけないじゃないですか」
「顔見知り程度なら放っておいてもいいでしょうに」
「潮見さんは薄情なんですね」
「なんとでも言ってください」
「自分はどうなってもいいの間違いでは」
「はあ、どういう意味……っ」
 男に詰め寄ると両頬に手を添える。シャワーで温まったはずの身体は既に冷えていた。
「とにかく早く休んでください。身の危険を感じて休まらないのであれば私は事務所側で寝ます」
「……本当にどうして」
「言ったでしょう。私は親切なんです」
 下心は嘘ではないが、親切も嘘ではない。これが両立してしまうのが自分なのだ。
「ソファと言いましたがソファベッドなのでちゃんと眠れますよ。タオルケットも出してくるので使ってください」
 鼻をつまんでその場を離れる。きょとんとしか言えない表情を浮かべられると良くない感情が再燃するので今日は抑えてほしい。
「あの……本当にいいんですか」
「泊まる事についてですか?だとすれば何回も言っていますがいいですよ」
「それもそうですが……いや、そうですね。ありがとうございます」
 男はようやく踏ん切りがついたらしい。椅子から立ち上がると寝室についてくる。窓際にはシングルベッド、小さなローテーブルを挟んだ向かいにソファベッドが置かれていた。
「明日は何時起床ですか。良ければ起こします」
「六時半起床ですけど、自分で起きられます。でも目覚ましが迷惑か……」
「気にしないでください。生活リズムがいい人と暮らすとこちらも良くなりそうなので」
 男は曖昧に笑う。愛想笑いだろうなと思いつつソファに寝かせると数分後に寝息を立て始めた。余程疲れていたのだろう。目の下にはクマが浮かんでいる。
「おやすみなさい」
 触れたくなるのを堪え、こちらも就寝の準備に入る。しかしすぐに眠ることはできなかったので男を観察することにした。
 年齢は三十代半ばあたりだろうか。ショートヘアの黒髪でよく見ると左耳にピアス穴が開いている。身体は筋肉質だがマッチョというよりは引き締まった身体という表現が近い。一見すると強そうな男だ。だが雨に打たれ、現実に絶望する姿はいじらしい。
 自分はいじらしい人が好みなのだ。
 過酷な状況でも頑張って耐えるというか、抗おうとする生命力とでも言おうか。そういう人間が好みだ。ただそういう人間は強いので最後まで傍にいることはない。
 夜も更けてきたので目を閉じることにした。